かつて日本と呼ばれた国の。
ある親子の寝室で。
「ママ〜、ねむれないから、えほん、よんで〜。」
「あらあら、仕方ないわね〜。じゃあ、今日はこの絵本を読むね。」
「ありがとう、ママ。」
「えーっと…、古い古い、昔の話…」
…
…
…
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
古い古い、昔の話。
剣の武力と奇跡の威光が国を支えていた時代。
世界には魔物が溢れ、人を襲う時代。
我が身を守る為に人は集まり社会を設け、
街を作り王国を成しました。
…
ある王国に、一人の若い勇者がいました。
王国に選ばれ、巨悪の討伐を託されるという崇高なる使命を帯びた勇気ある者。
そういう者が勇者と呼ばれました。
その勇者には、兄がいました。
歳の離れた兄です。
勇者が幼い頃、兄は、王国に使える騎士でした。
兄は国家を支え、数々の伝説を残し、幾多もの栄誉を得た、英雄でした。
勇者にとって、兄は誇りであり、目標ででした。
兄のようになりたい。
そう思い、幼い勇者は修練に励みました。
ある日、兄は、幼い勇者に聞きました。
「なぜ、力を求める?」と。
幼い勇者は、無邪気に答えました。
「僕は、いつか兄さんを越えて、世界を救うような立派な勇者になる」と。
…
ですが、ある日、その兄が突然、姿を消しました。
兄はどこに行ってしまったのか。
王国の偉い人に兄の行方を訪ねましたが、教えてはくれませんでした。
もしかしたら…。
兄は、何処かで人知れず、重要な秘密の任務をこなしているのかもしれない。
幼い勇者の中の兄は、いまでも偉大な騎士であり、英雄でした。
いつか兄と再開した時に、兄に誇れる自分でありたい。
そう決意し、幼い勇者は、更なる鍛錬を続けました。
それから数年後。
大人になり逞しく成長した彼は、王国に認められ、使命を託された勇者となりました。
使命の内容は、魔物の討伐です。
勇者は、喜びに打ち震えました。
これで、尊敬する兄に一歩近づけた、と。
…
…
勇者の使命。
魔物の討伐。その内容は…。
王国の中で、ある病が発生していました。
一度病に罹れば、身体は次第に痩せ細ろえ、知能は退行し、意思を失い、
まるで生ける屍…ゾンビのようになってしまいます。
そして、人を襲うのです。
その病は、国家の外にいる魔物が原因だと言われていました。
病の発生当初は、貧民層である奴隷だけが罹る病気であり、然程問題視されていませんでした。
奴隷なんて、いくらでもいますし、年間何人もの行方不明が出ていますが、誰も気にしません。
けれど近年、裕福層の中にも、少なくない人数の感染者が発生していました。
国家直属の神殿が運営する研究院は、病を分析し、こう述べました。
「これは、まるで、呪いである」と。
ですが近年、研究院の成果で、この病を癒す術が開発されました。
感染した国民は、神殿に集まり、癒しを求めました。
その癒しの術は、神殿の神官や聖女のみが行使できる秘技とされ、裕福層の国民は多額の寄付金を神殿に捧げ、病を癒しました。
そのおかげで、国家の安寧は変わらず保たれていました。
ですが、病の根源を明かし撲滅を望む声と、外界にいる病を振りまく怪物を駆逐すべきだという声は後を絶ちません。
その声が、勇者の使命に繋がるのです。
病の発症の地が、王国の近隣にある廃村である事が数年前に発表されました。
そこに住む魔物が、病を生み出している、というのです。
過去数回、その村の魔物を滅ぼすために討伐隊が組まれましたが、討伐隊が帰還することはなく、病がなりを潜めることもありませんでした。
みな、失敗したのです。
勇者は、この廃村に巣食う魔物を討伐する事を使命として選ばれたのです。
国家の宿屋で旅の支度を整えながら、勇者は、一人呟きました。
「見ててください。兄さん。僕は兄さんのように、立派に国の危機を救ってみせます。」と。
…
…
…
月の光に照らされた高台で、幼馴染である二人の子供が語り合っています。
「あなたの夢は、なあに?」
「…夢なんて、考えたことも無いなぁ。君には夢があるのかい?」
「うん。私の夢は、困っている人を助けること。」
「そうか…。じゃあ、俺の夢は、君の夢を護る事、かな。」
「なによそれ。うふふ。でも、ありがとう。約束だよ。」
「ああ。約束だ。俺は、強くなる。」
…
…
〜国家に病が発生する数年前〜
「まったく、貴女は才能の欠片も無いわね!」
中年に差し掛かる女性指導官の金切り声が、神殿の鍛錬場に響きました。
「す、すいません! 次は頑張ります!」
聖女を目指す若い女性は、指導官に頭を下げました。
「その言葉はもう何度も聞いたわ。言い訳を唱えるぐらいなら、まともな魔法が使えるように成果を見せなさい!」
今日の指導官は、頗る機嫌が悪いらしく、ネチネチとした嫌味を、床に小さく蹲る女性に浴びせ続けました。
「…貴女は、王国の神殿に属する女性神官の最高峰の称号である、奇跡使い『聖女』の称号を持つ身なのですよ。
それなのに、貴女ときたら、今だに満足に奇跡を使うこともできないなんて…。
そんなだから貴女は『落ちこぼれ』なんですよ!」
「は、はい…。」
女性はますます小さくりました。
それでも指導官の叱咤は続きます。
「入門試験の時、あなたは歴代最高の奇跡を生み出しました。
それが認められ、『聖女』の称号が冠されたのに…。
あの試験の時のあなたは、まさに奇跡だったのかしらね…。」
「…。」
俯く女性。
「ある聖女は、太陽のように暖かい光を生み出し、
ある聖女は、雷を操り巨悪を撃ち抜き、
ある聖女は、魔物を防ぐ防護壁を作り出す。
それなのに、貴女ときたら…。
奇跡の力を使えない聖女は必要ありません。
だから貴女は、落ちこぼれなんです。
その事を胸に刻んで、修練を積んで下さい!」
そう言って、指導官は鍛錬場から出て行きます。
「落ちこぼれ…。」
一人残された女性は、鍛錬場の冷たく硬い床に座り込みながら、指導官の言葉を心の中で反芻していました。
…
鍛錬場から寄宿舎へ向かう女性。
陽は沈み、辺りは既に薄暗い。
石畳の通路を、彼女は一人歩いています。
と、そこへ、
「…やあ。」
聞き慣れた男性の声が聞こえました。
「あ、久しぶりだね。」
声の主は、彼女の幼馴染である王国の騎士でした。
「修行の調子はどうだい?」
幼馴染の騎士の質問に、彼女は、
「う、うん。まあまあだよ。」
と、笑顔で答えます。
胸の痛みを悟られないように。
「そうか。『人の役に立てる聖女になる』、それが、君の夢だったものな。」
「う、うん。…あなたはどう? 忙しいみたいだけど…。」
「…ああ。先日、古い坑道に住み着いていたドラゴンを退治した。」
幼馴染の手柄を聞き、彼女は微笑みました。
「凄いじゃない!」
だが、喜ぶ彼女に対して、幼馴染の騎士の表情は優れません。
「…どうしたの?」
「…ちょっと気になることがあってな…。」
「気になること?」
彼女は、幼馴染の騎士に視線を向けます。
幼馴染の騎士は、まるでその視線から逃れるように、彼女から顔を背けました。
「ドラゴンの、目が…。」
「目が…?」
「いや。なんでもない。」
騎士は、会話を途中で止めます。
「…大丈夫?」
心配する女性。
「ああ。大丈夫だ。…明日は早いから、もう行くよ。竜退治の勲章授与式があるんだ。」
そう言って、騎士は彼女に背を向け歩き始めました。
まるで、逃げ出すかのように。
「ねえ。」
彼女は去りゆく騎士の背に向かって叫びました。
「あなたは強くなった。だから、自信を持って!」
彼女の声が届いたのか、
月明かりの中、力無く歩く騎士は彼女に背を向けながら、小さく手を振りました。
…
…
ある日、彼女は、神殿の最高責任者である大神官に呼び出され、執務室に向かいました。
…大神官が、私に何の様なのだろうか。
…まさか、解雇?
いやいや、せっかく聖女になったのに、それはないだろう。
でも、まさか…。
彼女は不安に駆られながら、執務室の扉に手をかけました。
「…失礼します。」
執務室の奥の机で、大神官は文官風の人物と会話をしていました。
不安に慄く彼女の声は小さく、大神官は彼女が部屋に入って来たことに気付いていないようで、会話を続けていました。
「そう。国民の声に応えるために、犠牲が必要なんです。まだ噂の段階ですが、今のうちから手を打った方が国民感情を揺さぶらなくて済みますので…。」
「ふむ、ていの良い生贄というわけですな。用済みの役立たずなら、丁度いい奴がいますので、ご安心ください。」
「ありがとうございます。この件が成立したあかつきには、神殿には多額の寄付金を…、」
と、そこで始めて、大神官と文官風の男の二人は、部屋にいる彼女の存在に気付きました。
「き、きみ! 来ていたのかね!」
狼狽する大神官。
「で、では先ほどの件、よろしくお願いします。」
文官風の男は、逃げるように執務室を後にします。
一体二人は、何を話していたのだろうか。
断片的にしか聞いていなかった彼女には、二人の会話の意味は解りませんでした。。
「オ、オホン。実は、聖女である君に、とある使命を託したい。」
「え!」
意外な提案に、彼女は驚きました。
「まだ内密の話なのだがね。王国の近隣に、とある廃村があるのだが、そこに『呪い』が発生している、とうのだ。」
「は、はい。」
「まだその兆しは小さいのだが、今の内にその呪いを防ぎたい。」
「は、はあ。」
「そこでだ。君の聖女の力を使って、その『呪い』を除去してきて欲しいのだ。」
「は、はい…って、え?」
彼女は、使命の内容に驚く。
「そ、そんな大役、私には無理です。だいたい私は奇跡の力だって満足に使えないし…。
落ちこぼれで、役立たずだし…。」
聖女の言葉を意に返さず、大神官は話を続けます。
「神官の研究によれば、その『呪い』は、間も無く都市を脅かし始める。
多くの人が死ぬかもしれない。」
「人が…。死ぬ…。」
聖女の表情が曇る。
「そうだ。だから、もし君が『呪い』を除去できれば、君は、多くの国民を助けたことになるんだ。」
「私が、人を、助けられる…。」
「そうだ。君は人から感謝され、喜ばれる存在になる。まさしく『真の聖女』だ。」
「真の…聖女…。」
多くの者を助ける為に、聖女になる。
それは、まさしく彼女の夢だった。
「そう。君は、『聖女』になるんだ。」
「…。」
彼女は俯く。
だがその口は固く結ばれ、目は意思を宿していた。
彼女の表情を感じ取り、大神官は、彼女に悟られないように、笑みを浮かべる。
「そう。君は、その廃村に『行くだけ』でいいんだ。
その行為が、国家を救うことに繋がるんだ。
そして、君は、聖女になれるんだ。」
大神官の言葉で、…彼女は悟りました。
そして、決意しました。
自らが、生贄に捧げられるのだということを。
そうしなければ、私のような役立たずは、人の助けになどなれないのだということを。
…
…
都市の夜道を、彼女は真剣な表情を浮かべ、歩いています。
命を賭す理由はある。
聖女の使命でもある。
決意もした。
…だが、
勇気が、足りない。
そう。彼女は怖かったのです。
命を捧げることが。
彼女は、ふと空を見上げました。
空には、美しい月が浮かんでいます。
そのまま視線を下げると、高台に、男の影がありました。
それが誰だか、彼女は遠くからでも解ります。
幼馴染の騎士が、そこにいました。
彼女は、幼馴染の騎士の元に足を向けました。
高台に腰掛けた騎士の手元には、酒瓶が下げられています。
彼女の姿を見て、騎士は、
「よう。」
と、陽気に手を振ります。
「酔っ払ってるの? 珍しいね。」
「ああ。」
彼女は、騎士の胸元に立派な勲章が下げられている事に気付きました。
「立派な勲章だね。」
「竜退治の勲章だ。」
竜退治の勲章は、大変な栄誉です。
ですが、それを言葉にする騎士の表情は、暗いままです。
「こんなものに、何の価値もない。」
「え?」
騎士は、勲章を胸元からもぎ取り、地面に叩きつけました。
「ど、どうしたの?」
彼女の言葉に、騎士は堰を切ったように話し始めました。
「…両の羽を巨大な杭で貫かれ、身動きの取れないドラゴンの首を切る瞬間。
あいつは、俺を見た。ドラゴンは、泣いていた。
まるで、殺さないでくれと言っているようだった。
ドラゴンは怪物だ。魔物だ。
滅びさなきゃいけない奴らなんだ。」
まるで懺悔をするかのように、騎士の言葉は続きます。
「だから殺した。
今までたくさんの魔物を殺した。
これからも殺す。それが、俺の使命だ。」
「…。」
彼女は、黙って騎士の話に耳を傾けます。
「ドラゴンを倒した後、国王直属の騎士達は、ドラゴンを解体した。
まるで、土木工事をするかのように腹を割き、臓物を引きづりだし、心臓を抉り取った。爪を剥ぎ、眼球を穿り出した。」
「なんで、そんなことを…。」
「金になるからだ。」
彼女の疑問に、騎士は呆気なく返事を返す。
騎士の告白は続く。
「ドラゴンが居た坑道の奥には、ドラゴンの巣があった。
卵があった。
産まれたばかりのドラゴンもいた。30センチぐいらいだ。まるで鳥の雛だった。
俺は、ドラゴンが『殺さないでくれ』と言っていた理由が解った。」
「…。」
「同行していた文官が俺に言った。『こいつらも殺せ』と。
『殺さなければ竜退治は成らない』と。
俺は、自身の大剣を構えた。だが、躊躇った。嫌だった。殺したくなかった。
だけど、俺の後ろから声が聞こえる。
『殺せ』『殺せ』『殺せ』と。俺は、大剣を振り下ろした。
斬るなんてものじゃない。ただ、力任せに、無慈悲に、振り下ろした。」
「…。」
「今でも、あいつらの声が、頭から、消えない…。
俺は、罪を犯したんだ。弱いものを、無慈悲な暴力で、叩き壊したんだ。
俺は、罰せられるべきだ。償うべきだ。
だが、どうやって償えばいいのか、わからないんだ…。」
騎士の言葉の最後は、か細く小さく、
世界でただ一人、今、騎士の隣にいる彼女にしか、その懺悔の言葉は聞こえなかった事でしょう。
「許してくれ…、許してくれ…、許して…。」
膝を折り、両手を地面に突きながら、騎士は、悔恨と懺悔の言葉を呟き続けます。
その騎士の傍で。
彼女は、
いや。
聖女は、
唇を噛み締め、両の拳を強く握り締め、
そして、深く、深く呼吸をしました。
そして、
両の拳を解くと、胸の前で組み。
視線を騎士に向けます。
彼女のその表情から、強張りは消え、優しく美しい微笑みが浮かんでいます。
「…あなたを、許します。」
「…え?」
騎士の悔恨の声を遮るその声は、凛々しく、真っ直ぐで、そして眩しかった。
「あなたを、許します。」
声の主…聖女は、もう一度、騎士に告げました。
「あなたは、罪を犯しました。解り合うこともせず、無慈悲な殺戮を行い、弱き者を駆逐しました。」
「…。」
「でも、あなたは、その事を、心から後悔している。
その後悔は、あなたを一生苦しませる。
それは死ぬことよりも苦しいこと。
あなたが抱くあなたの罪を、他人の私が拭い去ることはできません。
でも、あなたがその罪を心から受け入れ贖罪に励めるよう、あなたの心の枷を取り払うことはできます。
あなたは強い人。
あなたが罪に縛られ、その身を自ら滅ぼし、強い人が持つべき責任から逃げ出すことは、さらなる罪です。
だから、あなたが後悔の炎で身を焦がさぬように、
心の枷を少しでも取り去って、
あなたの強さを、責任を、贖罪を、
あなたが全うできるように、
誰かがあなたの罪を許さなければなりません。
だから私は、あなたの罪を、
…許します。」
騎士は、彼女を見上げる。
「…君は、一体…。」
「忘れたの? 私は『聖女』。
全ての人に幸福をもたらすために我が身を捧げる存在、だよ。
だから。
私が、あなたを、『聖女』の名を持って、許します。」
「…ありがとう。」
そう言って、騎士は、かつての幼馴染の聖女の足元で、感謝を示す。
…
彼女は、自らの心に誓う。
そう。私は、『聖女』。
もう、逃げない。
と。
…
…
旅立ちの日。
聖女は、大神官から、研究院に寄るように申しつけられていました。
研究院とは、国家の指示で奇跡の力を人為的に生み出す事を目的に、実験や開発、はたまた魔物の解析など、日夜研究が進められている場所です。
奴隷を用いて人体実験をしているという噂もありました。
研究院は、外界に向かって流れる川を跨ぐように建っているのですが、実験に使われた薬品や老廃物などをそのまま川に垂れ流しにしているなどの問題も取り上げられたこともありました。
現在は、王国からの「都市には影響がない」という発表により、この問題は不問となっていましたが。
研究院に着くと、そこの研究員から、袋を渡されました。
なんでも、旅に必要な傷薬などが入っているそうです。
生贄に捧げたことに対しての、大神官なりの心遣いなのでしょうか。
はたまた逃げ出さないようにするための縛りでしょうか。
聖女は、町の外れに向かいます。
見送りに、無骨な鎧に身を包んだ国王直属の騎士が付いてきました。
いえ。
見送りではなく、逃亡を防止し、確かに「旅立った」という事実を確認するための使いなのでしょう。
騎士達は、言葉一つ発することもありません。
聖女が壁を過ぎ外界に向かう姿を確認すると、そのまま立ち去りました。
聖女の後ろには、街の出口たる門。
横には、街から下流に向かって流れる川。
目的地の廃村は、この川を辿った先にあります。
連れはいない。
送り出す者も、いないに等しい。
たった一人の、旅です。
もしかしたら、目的地に着く前に、魔物に殺されてしまうかもしれません。
…まあ、大神官達にとっては、どうでもいい問題なのだろうけど。
そう思う聖女には、恐怖はありませんでした。
なぜかは解りません。
けど、目的地に着く前に命を失うことは、絶対にない。
そう感じ取った理由はわからないが、聖女は、そう確信していました。
…
「おい。」
王国が遠くに望める程歩いた辺りで、突然声が聞こえました。
その声は、聖女の目前に聳える巨木の根元から聞こえます。
そこには、巨木を背にして体を預け寄りかかる、幼馴染みの騎士の姿がありました。
騎士が聖女に話しかけます。
「俺は、君が外界に出された理由を知っている。」
「そう。」
「わかっているのか。君は王国に生贄にされたんだぞ。」
「わかってるよ。」
騎士の表情は硬く、その眼差しは、聖女の全ての動作や表情、そして感情を観察しているようでした。
対して、聖女は騎士に微笑みを浮かべたまま、微動だにしませず、騎士の視線を、堂々と受け入れていました。
「なら、なぜ?」
「…夢、だから。
そして、私は、…聖女だから。」
「君は、そんな理由で、命をかけるのか?」
「そう。おかしいかな?」
聖女の表情は変わらりません。
「そうか。ならば…。」
騎士は、自身の背にある大剣に手を伸ばし、大剣の鋒を聖女に向けました。
それでもなお、聖女は、震え一つ、生じさせてはいません。
解っていたからです。
その直後、騎士は、大剣の鋒を大地に突き刺し、聖女に告げました。
「今より私は、聖女に仕える騎士となり、御身に降りかかる災禍の全てを退ける為の剣となり盾となる事を、誓います。」
騎士の誓いに、聖女は微笑みを絶やす事無く、
「ありがとう。」
と返事を伝えます。
「でも、本当に、いいの?」
「ああ。…俺の夢は、君がいないと叶えられないんだ。」
こうして、聖女は、最強の騎士と共に、目的地の廃村を目指します。
…
村に近付くにつれ、騎士と聖女の二人は、異変に気付きました。
空気が淀んでいる。
凄まじい悪臭が、鼻を突く。
その匂いは、村に向かって流れる川から発せられていました。
その悪臭は、生物が腐ったような匂いではなく、薬品から生じるような刺激臭を混ぜ合わしたような、自然では生じないような匂いでした。
二人は、村に到着しました。
その村は、村というより、まるで遺跡のような作りでした。
村全体が谷のようになっており、その谷の壁面には、石造りの建物が彫り込まれるように並び立ち、簡素な木の橋がその建物同士を繋げています。
谷の奥底は見えず、まるで奈落に繋がるかのように深く暗い。
村に人の気配はなく、二人は、谷の入り口に建つ簡素な建物で疲れた体を休めることにしました。
大神官の言っていた『呪い』とは、この村のどこにあるのだろうか。
聖女は、旅に疲れた体を休めながら、考えを巡らしました。
…
その夜。二人が泊まる建物に近付く者達がいます。
建物の入り口で、番をしていた騎士は、一早く異常に気付きましたが、すでに建物は十数体の怪物に囲まれていました。
その怪物の姿を見て、騎士は息を飲みました。
怪物の姿形は、人間に近いものでした。
だが、四肢は痩せ細り、衣服も着ておらず、その表情に知性は感じ取れません。
騎士は、怪物を退治すべく、大剣を構えます。
ジリジリと近付く怪物の群れ。騎士の額に汗が浮かびます。
騎士が怪物の群れに向かって、一歩踏み出そうとしたその瞬間。
「待って下さい。」
聖女の凛とした声が、闇夜に響きました。
「なぜだ。」
「彼らは、人間です。私には、解ります。」
「人間…だと?」
「耳を澄ましてみて下さい。」
聖女に促され、騎士は、耳を澄まします。
「…助けて…」
「痛い…」
「苦しい…」
「助けて…」
目の前の怪物たちは、そう呟いていました。
「彼らは、救いを求めてます。おそらく、彼らをこんな姿にしたものが、『呪い』です。」
…
夜が明けます。
騎士と聖女は、太陽の明かりもので、彼らの声を聞き、症状の診断を行いました。
そして、彼らの声に耳を傾け続け、この村に生じた災厄が朧げながら理解できました。
まず、彼らは、この村に古くから住まう住人だということ。
この呪いは突然村の中に発生し、まるで流行病のように瞬く間に人から人へ伝染した事。
村人全員が、この症状に罹り、多くの者は動くことも、死ぬこともできず、体が朽ちる苦しみや痛みに耐えながら床に伏していること。
二人が村につき、その事に気付いた住人が、救いを求めて二人の泊まる家屋に近づいたこと。そして、驚かしてしまったことを詫びました。
彼らの知性は、確かに衰えつつある。
だが、意識も心もある。
その事を、二人は痛感しました。
聖女は、村人の看病を始めました。
聖女と言っても、実のところ、今の彼女は無力です。
けれど、苦しむ人々を見て、放っておくこともできません。
聖女は、村中から薬を集め、布を包帯代わりにし、少しでも苦痛が和らぐように必死に努めました。
汚れた包帯を交換し、井戸から汲んだ水で体を拭い、薬を塗りました。
毎日。村人全員に。
ちなみに、王国を出る時に渡された傷薬は、騎士の忠告で、既に捨てていました。
毒物だったからです。
騎士は、村に迫る怪物の討伐や、物資の調達、水汲みの傍ら、『呪い』の原因の究明に努めました。
…
数日後、聖女は疲労で倒れました。
一人で村人全員の看病をしようなど、土台無理な話だったのです。
聖女本人も、それが無理であり、悲しいことに無駄な行為であることを理解していました。
けれど、今の彼女には、そうするしかなかったのです。
過労に倒れ、自らも病に罹る一歩手前の中で、聖女は、神に祈りました。
いや。自身の可能性に祈りました。
そして、奇跡は起こりました。
神殿神官や聖女が行っていた人心掌握や金儲けの為に誇張していた奇跡ではなく。
人を救う聖女こそが起こせる、本当の『奇跡』でした。
彼女の奇跡の力は、自らを蝕んでいた病を打ち消し、村人の病の進行を抑えたのです。
聖女の奇跡に力によって病の苦しみから解放された村人は、人間だった頃の、病に罹る前の頃の、意思と知恵を取り戻しました。
姿こそ戻りませんでしたが、人の尊厳を取り戻した村人は、彼女を、『聖女』と崇めました。
だが、その奇跡の力を行使する聖女を見て、騎士に一つの懸念が生まれました。
旅立つ前の騎士は、有能な王国騎士でした。
だからこそ、国家と関係の深い神殿内部事情などの情報は、自然と耳に入ってきます。
そして、騎士にとって、もっとも興味があったのは、当然、彼女の事でした。
伝え聞くところによると、彼女が奇跡の力を発動したのは、神殿へ初めて足を踏み入れた時でした。
そして、その時の発動が、彼女の神殿での日々において、最初で最後の奇跡でした。
彼女が試験で起こした能力は、奇跡の最高峰である、『生物の命を操る』力でした。
ある生物の命のエネルギーを、他の生物に移し替える能力。
その能力を、彼女は偶然、神殿内で起こった事故による怪我人に向けて発動し、多くの怪我人の怪我を癒しました。
その直後、彼女は倒れ、数日間眠り続けたそうです。
『生命移し』
それが、彼女の起こした奇跡に名付けられた名称でした。
当初、神殿の神官たちは戦慄しました。
究極の奇跡、真の奇跡を起こせる人材を手にしたのだからです。
けれど、彼女が再びその能力を再び起こせることはありませんでした。
まさに、神の気まぐれだったのか。
神官たちは、彼女に失望し、「落ちこぼれ」の烙印を押し、役立たずとして、国家の安定のための生贄にしたのでした。
だが、今、騎士にとっての不安は、彼女のその不遇な経緯ではありません。
不安の原因は、彼女の奇跡の力『生命移し』という能力の特性にありました、
『生命移し』の力は、例えるなら、健康なAという人物の命を、死にかけのBという人物に移し替え、死にかけのBを救う能力です。
つまり、彼女は、病に苦しむ村人の為に、「誰か」の命のエネルギーを分け与えていることになる。そして、その「誰か」とは、おそらく…。
程なくして、彼女は再び倒れました。
やはり彼女は、『生命移し』の力を用いて、自らの生命を削って、病を癒しているのでした。騎士の不安は、的中したのです。
生命力は、いつか回復する。
だが回復すれば、彼女は、また自らの生命を削り、治療に励む。
その繰り返しの結果がもたらす未来は…彼女の死である。
騎士は、悩みました。
彼女の死を防ぐ手段は、三つある。
一つは、彼女に、救いの行為をやめさせる事。
…彼女の性格を、いや、決意を考えれば、まず無理である。
二つ目は、病の根幹を滅する事。
騎士は、この呪いが、いや、病が発生した理由を突き止めていました。
だが、それを成すには、時間が必要であり、恐らく騎士自身が命を失う事になります。
自分がいなくなれば、聖女を護る人間はいなくなる。
それではダメだ。却下だ。
騎士は、三つ目の選択肢を選びました。
騎士は、聖女の能力の、もう一つの特性に気付いていました。
それは、
聖女に病を癒されたものは、聖女の『生命移し』の力を断片的に得ることができる。
というものです。
それは、聖女の能力全てを得るわけではありません。
けど、聖女に救われた村人が『他人の生命のエネルギーをその身に宿すことができる』能力を得ることが解ったのです。
つまりそれは、生命のエネルギーの運搬役が出来る、ということでした。
騎士は、ある時、聖女を崇拝する村人に囁きました。
「君達が、人間を襲って、その生命のエネルギーを身にまとい、聖女に捧げれば、村人は救われる。聖女が死ぬこともない」と。
この事を、聖女に知らせる必要はない。
聖女を信奉する者達が、自らの意思で聖女に奇跡の代償を払うだけ、なのだから。
…
こうして、人の姿からかけ離れた魔物のような村人が、聖女の奇跡を保つため、病を振りまきながら王国の人間を襲う、という図式が出来上がったのでした。
…
数年後。
村の魔物と感染する呪いに脅威を感じた王国は、村の魔物の討伐のために、討伐隊を送り込みました。
迎え撃つは、聖女の騎士。
最強の騎士。
討伐隊は無残に壊滅しました。
追っ手を恐れた聖女と騎士は、村の谷底の、さらに奥地に広がる沼地に住み着きました。
そこでも彼女は奇跡を起こし続けます。
癒された村人が狩り続け捧げられる魂のエネルギーを使いながら。
王国はそれからも何度か討伐隊を村に向かわせました。
そのたびに、騎士は聖女を護る為に討伐隊の前に立ちはだかり、殲滅を繰り返しました。
聖女と騎士は、さらに村の奥まで居を移しました。
沼地の更なる奥には、太古の民が築いた巨大な遺跡が広がっています。
同時にそこは、呪いと言う名の病が生み出された場所でもありました。
もう既に、気付いている人間はいるでしょう。
呪いとは、王国が、その繁栄の裏で吐き出してきた不浄なもの、死体や汚染物、排泄物、廃棄物、そして実験に使われた数々の薬品が川に捨てられ、その汚染が辿り付き、蓄積した結果、生じたものなのだということを。
その汚染物の流れ着く終着点が、この遺跡なのです。
この汚染を無くすには、王国を滅ぼすしかありません。
それが以前、騎士が躊躇った、聖女を救う二つ目の手段でした。
それに、もう王国を滅ぼす必要も、価値も無い。
村の最下層の遺跡に居を移した騎士は、この現状に満足していました。
ここには、外界の情報は一切入ってこない。
聖女は、生命という供物を受けて、病に罹る人々を癒し続ける。
それはつまり、聖女の『目の前にある』世界は救われ続ける、ということです。
…彼女がどんなに望もうが、世界中の人々を救うことなどできない。
彼女は、王国の犠牲にされた。
殺されたも同然だ。
そんな王国を守る必要など、どこにもない。
だが、彼女の『目の前にある』世界だけは、護り通してみせる。
遺跡の底にあった暗銀の鎧に身を包んだ聖女の騎士は、人知れず、誓いました。
…
…
…
…
…
…
…
…
…
新たな若い勇者が王国に選ばれ、使命を託されました。
…
僕は、勇者だ。
尊敬する兄に憧れて、勇者になった。
僕は、王国から、使命を託された。
王国の近隣にある廃村に行き、魔物を討伐すること。
僕の兄は、国家から、数々の栄誉を受けた。大剣を携え、人を脅かす数々の怪物を屠ってきた。
数少ない『竜退治』の名誉を得た騎士。まさに英雄だ。
この任務を達成すれば、僕も英雄の称号を得れるかもしれない。
「見ててください。兄さん。僕は、英雄になります。」
僕は、旅支度を整えながら、一人そう呟いた。
…
村に旅立つ前日。
勇者は、国王から研究院に寄るように申し付けられていました。
研究院で研究員から傷薬を受け取った勇者に、新たな任務が追加されました。
その任務とは、『村に住む<病を癒す魔物>を消せ』。
勇者は混乱しました。
この都市を脅かしている病を癒せるのなら、それは国家にとって有益なことではないのか、と。
だが、研究院の人間は、語りました。
この病を癒すには、『生命移し』の奇跡が必要である、と。
そして、研究院は近年、その『生命移し』の奇跡を、機械的に行える術を確立した、と。
その術は、神殿、つまり国家で管理したい、と。
だから、村に住む『病を癒す魔物を殺せ』ということだったのでした。
勇者は、研究員の話を聞くうちに理解しました。
この病を治すために、多額の献金を患者やその家族に敷いていることを。
それが、国家を支える財源の一つになっている、ということを。
…『生命移し』の奇跡。
それが存在していることを、勇者は幼い頃、兄から聞いたことがありました。
…たしか、その術を行うのは『他人の生命』が必要なはずだ。
勇者は朧げな記憶を頼りに、研究員にその事を質問しました。
勇者の質問に驚いたのか、研究員は『生命を取り出す技法』を勇者に解説しました。
知識のない勇者には、その説明のほとんどの意味が解りません。
ですが掻い摘んで説明すれば、こういうことです。
生命エネルギーは、肉体に最も奥に宿る。そして、最も儚いエネルギーである。
それを抽出する行程は、水の濾過に似ている。
何度も何度も、細かい網を通し続け、真水になるまでその工程繰り返す。
汚れや不純物は削ぎ落とされ、その工程を行う内に、汚水は濾過され、目的である真水となる。
その工程を、人の体を用いて行う。
それが、生命エネルギーの抽出作業である。
では、その「網」にかけられる人間は誰なのか。
…奴隷である。
そして、生命エネルギーを抽出された後の肉体はどうなるかというと、…研究院に隣する川に廃棄物として捨てられる、そうでした。
研究員の話を聞いた後、勇者は酷い嘔気に襲われました。
信じる国家の裏事情を知ったからか。
消えたの奴隷の末路を知ったからか。
それは勇者自身にも解りませんでした。
けれど、悩んだ末の結論は、覚えています。
国家に属さなければ、英雄にも、勇者にもなれない。
そして、僕の夢は、兄の様な英雄になること。
だから、昨日の話は、忘れよう。そして、『腐れ村の魔物の討伐』という使命を全うしよう。そう決意し、勇者は腐れ村に向かいました。
…
勇者が村に足を踏み入れると、申し合わせたかのように怪物が襲ってきました。
人間の姿に似てはいるが、四肢は痩せ細ろえ、だがその殺意は確かに勇者に向いていました。
怪物は巧みに槍を使い、勇者を村の端に追い詰めます。
だが、勇者は負けません。
迫り来る槍を弾くと、怪物の懐に飛び込み、その無防備は腹部に致命の一撃を叩き込みました。
突き刺したショートソードの刃を引き抜き、迫り来るもう一体の怪物を薙ぎ払います。
技量で勝る勇者にとって、村に救う怪物は、障害にはなり得ません。
幾多の怪物を打ち倒し、勇者は、谷の底の沼地にたどり着きました。
そこには、鎧を纏った怪物達が数多く待ち構えていました。
鎧を着た怪物を屠る最中、なぜか、怪物達の着ている鎧が、王国兵の物に似ているような気がしました。
…気のせいだ。
勇者は、考えを振り払い、無慈悲に怪物の群れを薙ぎ払います。
怪物の群れを駆逐しを、勇者はついに村の最深部に辿り着きました。
最新部は巨大な遺跡になっているようでした。
遺跡の壁は湿り滑りながらも黄金色に輝いており、だがその反面、遺跡の底には赤黒くドロリとした液体が汚らしく溜まっており、美しさとグロテスクさが混ぜ合わされたかのような、異様な雰囲気の空間が広がっていました。
遺跡に続く道や崖には、道中で屠ってきたものと同様の怪物がいました。
だが、怪物どもは、勇者の侵入に意を介する事もなく、遺跡の最奥に向けて膝を付き頭を垂れ続けています。
化け物どものその姿は、まるで再奥にある存在に祈りを捧げているかのようでした。
勇者の勘が告げる。
この遺跡の奥に、病の元凶がいるのだということを。
…
勇者からは見えない位置にある遺跡の最奥で、一つの影がユラリと動き、立ち上がりました。
その影は、傍らの地面に突き刺した自らの大剣を軽々と抜き放ち肩に携えます。
影の主が、遺跡の壁の明かりに照らされその姿を現しました。
全身を強固な暗銀の甲冑に身を包み大剣を携えるその者は…、聖女の騎士。
長らく病の根源である毒素に触れ続けた彼の身体は、毒に蝕まれ、醜く爛れていました。
だが、聖女の騎士は、その身を重厚な鎧で多い尽くし、幾多の討伐者を自らの力で討ち果たし続けてきました。
聖女を護る。
その為にだけ、騎士は存在する。
彼は、その体も心も、文字通りの、聖女の騎士と成り果てているのでした。
「…行くのですね。」
無言で赤黒い汚水の溜まる地底湖の中を歩き出す幼馴染みの騎士の背に向かって、女性の声が響きます。
白いフードを被り、汚水に足を浸しながら岸辺に座る女性は、騎士の幼馴染みの聖女。
聖女もまた、病を癒し続けた影響で毒素に蝕まれ、その身体を異形なものへと変貌させていました。
聖女の上半身はまだ人の形を保っていましたが、汚水に浸る下半身は醜く皺がれ、樹木のようなものへ成り代わってます。
毒素に触れ続けた彼女の身体は、むしろ毒素無しでは身を保てない程となっていたのです。
聖女は、再び騎士に声をかけます。
「すみません…。」
その声は、そのグロテスクな見た目に似付かわしくない程、澄んでおり、以前と変わらぬ憂いを含んでいました。
騎士は、聖女の声に振り向く事はありません。
ただ、いつも通り、後ろ向きなまま、彼女に手を振るのでした。
…
遺跡の最奥に繋がる崖の道で。
若き勇者と、聖女の騎士は、対峙しました。
勇者は、仮面を被り表情の伺えぬ暗銀の甲冑の騎士の姿を一眼見て、その実力を、強大さを、実感しました。
騎士の持つ大剣が仮に自分の身を人擦りするだけで、我が身が脆く砕け散る事を、勇者は、互いの刃を交える前から、感じ取ります。
勇者が、暗銀の騎士に合間見えて感じた感情は、死への恐怖であり、強大なる者への畏怖でした。
だが、暗銀の騎士は違いました。
対峙する若き勇者の姿を見て、
勇気ある者の強き眼差しが宿るその顔を確認した時に感じた感情は、
…恐怖でも畏怖でもありませんでした。
騎士がその身に感じた感情は…、迷いでした。
…聖女の騎士は自問します。
『どちらが、大切か』を。
騎士がその迷いに費やした時間は、ものの数秒でした。
だが、騎士の心の中に流れる時間では、時間という数値では表せないほどの時を費やし、逡巡を繰り返していました。
そして、騎士は決断します。
今まで何度も何度も、数限りないほどの回数決断してきたことと同じ決断を、自らの心に下しました。
『俺は聖女の騎士。
聖女の夢を守り、聖女の世界を護る事がその使命。
だから、目の前の侵入者が誰であろうとも、
…殺す』と。
…
…
…
騎士が決断を下したその瞬間。若き勇者の刃が煌き、騎士を襲いました。
騎士はその刃を大剣の腹に受け、そのまま刃を弾く。
だが、弾かれた瞬間の衝撃を受け流し、勇者はもう一本の刃を騎士に向ける。
奇襲にも似たその動きを、騎士は動じることなく視野に収め、自らの肩を勇者の懐に向けて打ち放つ。
勇者の刃は騎士の頬を掠め、騎士の肩打は勇者の脇腹を掠める。
一瞬の攻防の後、二人の戦士は再び距離を空ける。
騎士は感じる。
若き勇者の、恐怖を乗り越え、希望を込めた勇気満ちる斬撃を。
勇者は感じる。
一切の感情を込めない、敵を打ち滅ぼすことにしか力を注ぐことのないその一撃を。
ここに至り、両者の力は、完全に拮抗していました。
その拮抗を崩すことがあるとすれば、二人も持つ気迫…魂の在り方だけなのかもしれない。
…
「立ち去れ。」
騎士が、勇者に語りかけます。
「ここは、聖女の住まう場所。聖女が病に苦しむ人間を救う場所。
俺は、その聖女の騎士。」
騎士の声に、言葉に、勇者は息を飲みます。
騎士は語り続けます。
「若き勇者よ。お前は解っているのだろう。
この村に蔓延る病は、王国の脅威になる呪いは、全てはお前たちが今まで垂れ流し続けてきた不浄によるものだということ。
お前は、それでも、世界を救う勇者でいられるのか?」
勇者は、一言も喋りません。
勇者の表情は硬く、強く唇を噛み締めています。
手は震え、今にもその両の手に握る二振りの刃を掌から取りこぼしそうです。
「若き勇者よ。
愚かな勇者よ。
お前のやっていることは、
…無意味だ。」
「…。」
無言の勇者の口元から、血が流れる。
唇を噛みしめる歯が、皮膚を破ったのだ。
「お前の勇気に、意味はない。
お前の護るものに、価値はない。
…だから、今ここで、死ね。
この谷で、腐り朽ちよ。」
…
「…なんでだよ。」
勇者が血に濡れた口を開き、言葉を発っします。
だが、その内容は、騎士の発する言葉への回答ではありません。
「なんで、あんたが…。」
騎士は、勇者の声に黙って耳を傾けます。
…対峙した瞬間から、騎士は覚悟していたのですから。
勇者は、騎士に向かって叫びました。
「なんであんたが、そこにいる! 兄さん!」
王国に属する全ての騎士の憧れであり、
偉大な英雄であり、
幼い勇者が生涯目指すべき者だと憧れ続けてきた、
兄である偉大な騎士に向かい、
勇者の悲痛な叫びが、
遺跡の中にこだましました。
…
遺跡の最奥で
フードの隙間から
涙が一つ
零れ落ちた。
…
「お前の目指す英雄は、もういない。俺は、聖女の騎士だ。俺は、お前を滅ぼすことを、躊躇わない。」
騎士の無慈悲な声が響きます。
勇者はピクリとも動きません。
動きたくとも動けませんでした。
騎士が勇者の目前に迫ります。
勇者は、俯いたままです。
騎士は自らの大剣を、高々と抱え上げます。
自身の、弟を、殺すために。
勇者は…弟は、大剣を抱える兄の姿を見つめました。
弟の視線の先で、兄は、大剣を振り下ろします。
…
その刹那。勇者の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇りました。
『…ある日、兄は、幼い勇者に聞きました。「なぜ、力を求める?」と。
…幼い弟は、無邪気に答えます。
「僕は、いつか兄さんを越えるような、立派な勇者になる」と。』
それは、生存本能だったのかもしれません。
死に直面した時の走馬灯だったのかもしれません。
だが、勇者は、確かに心に宿る意志の力で持って、頭上に振り下ろされた騎士の大剣を、両の手に握る二振りの刃で防いだのです。
驚く騎士は、勇者から距離を置きました。
勇者は、騎士に語りかけます。
その眼差しには、決意が宿っていました。
「兄さん。あんたは間違っている。」
「…なんだと?」
「兄さんこそ、わかっているんだろ?
あなたが護る聖女は、人間の命を使って、病を癒す。
そして、この腐れ村の住人は、病を癒すために人間を襲い、命を狩り、聖女に捧げる。
あんたの世界は、あんたの聖女は、それで救われるかもしれない。
だけど、その世界は、他の他人の命の犠牲で成り立っていることを!
それが、本当に、あんたの聖女の望みなのか?」
聖女の騎士は、勇者の言葉を黙って聞きます。
「あんたの世界は、
…矛盾している!」
勇者の叫びを聞き、騎士は、自らの兜に手を掛け、取り払いました。
醜く爛れた顔が、兜の下から現れます。
「…そんなこと、最初から、解ってる。
だが、それでも、俺には護りたい世界があるんだ!」
music:6
騎士は、迷いを振り払うかのように、大剣の鋒を勇者に向け、その身を突進させます。
身を翻し鋒を避ける勇者の目前を、大剣が掠めます。
大剣の風圧だけで、頬が焼け焦げそうでした。
騎士は叫びます。
「お前の矛盾と、俺の矛盾。
どちらが正しいか、決着をつけよう!
来い! 若き勇者よ!」
「うるさい!」
勇者の刃が、騎士の顔に迫ります。
騎士は、その身に纏う甲冑の重さを意に介する事なく刃を交わしました。
そして大剣を下方から上段に向かって薙ぎ払い、勇者の首を切り飛ばそうとします。
だが勇者はそ、の大剣の腹に足を当て、そのまま勢いに乗り空中に身を交わします。
空中では身をかわせない。騎士は空中から舞い降りる勇者に剣先を向けます。
串刺しにするつもりでした。
その動きを察知した勇者は、空中で自らの剣を投げ付け、騎士の刃を軌道から反らします。
「あんたは僕の憧れだった!」
地に足を付けた勇者は、両の足で大地を踏みしめ、剣先を騎士に向けます。
騎士は一歩身を引き、勇者の動きを見切り、カウンターに大剣を振るいます。
「あんたみたいに、なりたかった!」
勇者の剣は大剣に打ち据えられ、真上に弾かれました。
「あんたは、僕の居場所だった!」
騎士の大剣が勇者を袈裟斬りに捉えます。
だが、勇者はその動きを読んでいました。
先程の剣は、囮だったのです。
「あんたは、僕の夢だった!」
勇者のもう一本の剣は、騎士の大剣を交わしながら、騎士の重厚な胸の甲冑に突き刺ささります。
勇者の一撃で、騎士の胸の甲冑が砕け散ります。
同時に、勇者の剣も砕けました。
「あんたは…、僕の…。」
…流れる涙と嗚咽で、勇者の声は、言葉になりません。
勇者は、先の攻防で宙に投げられた剣を手にし、身構えました。
騎士も、大剣を掲げ、最後の一撃に賭けます。
「だから、…僕は!」
「ならば、俺を越えていけ!」
刹那の後。
二人の影が交差しました。
…
…
music:5
…
一人の男が、聖女の居る遺跡の再奥に向かっています。
その足取りは重く、赤黒い血液が男の歩いた後を点々と染め上げていました。
血に染まる剣を持つ男の、頬を大きく切り裂かれ、首筋を血が染めています。
男が血に染まる首を回し、後ろを振り返ります。
男の視界の先の血溜まりの中で、もう一人の男が倒れていました。
血溜まりの中に倒れる男は動きません。
貫かれた胸元から流れる血が、男を赤く染め上げています。
聖女の騎士は、散りました。
弟の手で、殺されました。
…
ついに勇者は、病の元凶である存在…聖女の元に辿り着きました。
「…あなたがここに来たということは…。
彼は、死んだのですね…。」
勇者は頷く。
「ごめんなさい。」
「…謝らないで下さい。」
聖女の言葉に、勇者は小さく返事を返します。
聖女の傍に辿り着いた勇者の足元には、赤黒い血溜まりが広がりつつありました。
絶命には至りませんでしたが、騎士の最後の致命の一撃は、勇者の背を大きく切り裂いていました。
そして、その傷は、間も無く勇者の命の火を、奪おうとしています。
「私は聖女。
この呪いの村の聖女。
そして、王国に害する呪いの元凶。」
…この人は、自分のやっていたことを、理解していたのか…。
おそらく兄も、それを解っていた…。
混濁する意識の中で、勇者は聖女の言葉に耳を傾けます。
これが、この人が、兄が護った世界。
兄が護りたかった聖女…。
「私の夢は、苦しむ人々を助けること。
けれど、私の夢は、多くの人々を不幸にした…。
私に生きる資格は、無い。」
…それは、違う…。
そう言おうとした勇者の口は、もう動きませんでした。
「あなたの偉大な兄は、私の愚かで小さな夢を叶えるために、命を賭してくれた。」
勇者は、聖女の目前で倒れこみます。
勇者の手に握られていた血塗りの剣が、カシャンと音を立てて、地に落ちます。
勇者の命は、今まさに尽きようとしています。
横たわる勇者を見つめながら、聖女は、地に落ちた剣を拾い上げました。
そして、頭上に振り上げます。
「…勇者。
あなたは、何を望みますか?
あなたの夢は、なんですか?」
…僕の、夢。僕の、願い…。
勇者は、目を閉じます。
勇者の目の前を闇が覆う瞬間。
聖女が、
自身の胸に、
自らの愛した騎士の血で染まる刃を深々と突き立てる光景が、
見えた。
…
…
…
…
…
…
music:1
…
…
…
それから数年後。
病の元凶が滅ぼされた村は、王国の兵士の手により焼き払われました。
人の姿に似た魔物の群れも一匹残らず駆逐され、
世に平穏が戻りました。
…
ただ唯一残念な事は、
呪いの癒しで得ていた収入が無くなった事で、
王国の総資産が2%程、減額してしまった事です。
それ以外は、なんの問題も無く、世界は平和なままでした。
…
慈しみの感情に振り回されて苦しんだ愚か者達の話は、
これにて、お終いです。
めでたしめでたし。
…
…
…
…
…
…
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「はい。今夜の絵本は、これでお終い。
もう寝ましょうね?」
「ねえ、ママ。」
「なあに?」
「『いつくしみ』って、なあに?」
「他人の為に自分を犠牲にすることよ。」
「なんで、みんな、しんじゃったの?」
「他人の事ばかり気にしてると、ろくでもない目に合う、という事よ。」
「へー。」
あなたは、こんな大人にならないように、自分の事を一番に考えなきゃだめよ。」
「はーい。おやすみなさい、ママ。」
「うん。お休みなさい…。」
作者yuki
締めに至るまでの前振りが長いです。
それでも読んで頂ければ、嬉しいです。