※この話は、「親切なトミ子さん」の続編になります。
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昨日はエライものを見てしまった。
女の子が線路に落ちて電車に轢かれたのだ。
吹っ飛んだ手足、飛び散る血しぶき、今でも脳裡に焼き付いている。
嫌なものを見た。
人身事故は珍しくもないが、あれは自殺じゃなかった。
その前に中年のオバハンと揉みあっていたのを覚えている。
その後、目撃者という事で俺はオバハンと一緒に事情聴取を受けた。
そんな大層なものじゃない。
事件性はなく、事故だったと証明するために、俺は見たままを話しただけだ。
女の子がオバハンを突き飛ばそうとでもしたのか、そこら辺ははっきりしないけど、
とにかく女の子がオバハンと揉みあいになって、オバハンが避けた拍子に女の子が線路に落ちた。
そこへ快速電車が入ってきた。それだけだ。
あの女の子が何故そんな事をしようとしたかなんて、俺には分からないし興味もない。
人にはそれぞれ事情ってもんがあるんだろう。
だけど今日、件の駅のホームで昨日のオバハンが声を掛けてきた。
なんか証言のお礼がしたいとか言って。
そんな大層な事じゃないのに。なんだかエラくフレンドリーなオバハンだった。
人の事を気安く“りょう君”とか呼びだして。
まあ別にいいけど。どこにでもいる世話好きのオバハンって感じだった。
焼き肉に誘われてちょっと気持ちが揺らいだけど、(もう半年ほど肉を食ってない俺は貧乏バイト学生だ)
さすがに初対面のオバハンと焼き肉とか言われても引く。
丁重にお断りした。
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今日はびっくりした。
あのオバハンが俺の大学の前で待っていた。どうして分かったんだろう。
まさか後つけたりした? まさかね。オバハンのストーカーなんてゾッとしない。
奢るから夕飯を食いに行こうという。
何だ、このオバハン。なんでこんなに俺に懐く。
しかし、人当たりがいいのか、羽振りが良さそうに見えるのか、
“焼き肉”の一言に、一緒にいた友人たちが色めきたった。
そこへオバハンが「お友達も一緒に」なんて言うもんだから、
俺が否という前に、友人どもがオバハンの提案に乗ってしまった。
まあ、たまにはいいか。こういうオバハンはいるもんだ。
とにかく若いヤツに肉を食わせたがる。
バイト先のオヤジ店長も、太っ腹アピールなのか、たまに飯を奢ってくれたりする。
俺は友人と一緒に、オバハンに連れられてミナミの焼肉屋に行った。
そこで、遠慮知らずの友人に便乗して、しこたま肉を食らう。
どうせなら、オバハンが俺らを誘った事を後悔するぐらい食ってやれ、と思ったが、オバハンは、俺らが飢えたケダモノみたいに肉と白米をかっ込むのを、ニコニコと嬉しそうに見ていた。
それどころか、焼き肉奉行というか、肉や野菜を焼いては、せっせと俺らの皿に盛ってくれる。
がっつく俺らを嬉しそうに見ながら、オバハンはいろいろ聞いてきた。
一人暮らしなのかとか、出身はどこだとか、飯はどうしているのだとか、だけど特に俺にばかり聞いてきたような気がする。
というか、俺の答えを聞くまで話題を変えなかった。
会計の時にオバハンが出したカードは金色だった。金持ちオバハンの道楽ってやつかね。
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それから数日後、俺は所用があって一人でナンパ橋界隈を歩いていると、オバハンに出くわした。
この広い街の人込みの中、オバハンに会う確率なんて…すごい偶然だ。
まさか本当にストーカーされてんじゃねえだろうな、と俺はちょっと不気味に思った。
そんな俺の気も知らず、オバハンはものすごく嬉しそうにデカい声で
“あっらー! りょう君やないのー! いや、嬉しぃー! 偶然やねえ”と叫んだ。
どうしてこうオバハンというのは、公衆の面前でデカい声で喋れるのか。
周囲の人の視線を感じつつ、俺はちょこっと会釈した。
普通ならそこで“じゃあ、また”とか別れるもんだが、オバハンは俺に並んで歩いてきた。
おいおいオバハン、自分の用事はいいのかよ。
俺は構わず目的の店を目指した。
前から目をつけていたアクセサリーショップに入ると、店内は若いチャラチャラした女性客ばっかりだった。
少し気後れしつつも店の奥に進むと、オバハンは明らかに場違いなのも構わず、俺の後ろからついてきた。
「なあ、なに買うん? こんな店、女の子の来る店やろ?」とやかましい。
周囲の目も気になって、俺はオバハンを無視した。店の奥のショーケースの中に目当ての品を見つけ、店員にラッピングを頼む。
その間もオバハンは何かと詮索してくる。さすがにちょっと鬱陶しい。
「なに、りょう君、そんなん買うて。もしかして彼女? 彼女にあげるん?」
「はあ、まあ」
朋美の誕生日が近いので、俺は事前にリサーチして朋美の欲しがっている限定物のブレスレットに目星をつけておいたのだった。
朋美というのは、高校時代からの俺の彼女だ。
向こうから告白されて付き合いだしたが、何度かの危機を乗り越えて付き合いを深める内に、俺にとって誰よりも大切な存在になった。
もちろん、俺の清い体を捧げた(笑)初めての女でもある。(それは朋美も同じだったらしい)
店員が小さな包みを持って出てくる。濃紺の包装紙に、フランス語のショップ名が入った銀色のリボン。朋美が好きそうなセンスだ。
俺は、箱を開けた時の朋美のリアクションを想像しながら、その小さな包みを懐にしまって店を出た。
オバハンは、当然のような顔で俺と並んで歩き出した。
「へええ、りょう君、彼女いてるんやあ。ええなあ、彼女さん、幸せやなあ。こんなシャレたプレゼントもらえて。優しい彼氏やねえ、りょう君」
まあ、オバハンの反応はこんなもんだろう。俺はこういうのに少しは慣れていた。親戚のオバサンにもこんな感じの人がいるからだ。
やたら人の事に首を突っ込みたがって、世話を焼きたがって、何でも知りたがって、若いヤツに上から目線で物を言う。
きっと淋しいんだろうな。
そう言えば、こないだ焼き肉をご馳走になった時も、こっちが聞きもしないのに、自分からいろいろ語っていたっけ。
死んだ息子は生きていたら俺と同い年だとか、旦那も死んで、今はその保険金で食ってるとか。
要するに、“ぼっち”になった世話好きのオバハンが、誰かに構いたい、構ってもらいたいって事なんだろうな。
そう考えたらちょっと気の毒な気もするけど、それは俺の役目じゃない。
オバハンはオバハンらしく演歌歌手の追っかけでもしてりゃ、友達の一人も出来るだろうに。
まあ、若いヤツに構いたがるのはオバちゃんのレゾンデートルみたいなもんで、殆どは一過性で終わる。その内、飽きてまた違うオモチャを見つけるだろう。
そうタカを括っていた俺だったが、そんなに甘くなかった。
オバハンは日々、俺の周辺に出没し、挙句の果てに俺んちの近くに越してきた。
俺が住んでいるアパートの裏手にある中古マンションのベランダから手を振ってるのを見た時にはちょっとビビった。
オバハンの3階ベランダから、ウチの2階玄関が丸見え。
俺はもちろん、友達や彼女が出入りするのもオバハンには筒抜けって訳だ。
もちろん、どこに住もうと自由だし、オバハンが引っ越してきたのは他に事情があるんだろうけど、
詮索とお節介が好きなオバハンが自宅の近くに越してきたとなると、さすがにちょっと不安がよぎる。
果たして、その不安は的中した。
オバハンは、何度かベランダからウチの玄関を覗いていたようだ。
朋美が訪ねてきた時、双眼鏡らしいものを構えていたのを見た事もある。俺が視線を向けると、慌てて後ろに隠して手を振ったりしていたが、ミエミエだっつーの。
俺はちょっと嫌な気持ちになって、朋美にしばらくウチには来ないように言った。
合鍵はそのまま渡しておくが、くれぐれも気を付けてくれと言って、朋美を駅まで送った。
俺のビクついた様子に朋美はきょとんとして苦笑いしながら首を傾げていたが、俺だって何に気を付けろと言いたいのか分からない。だけど何か嫌な予感がする。
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それからまた数日経った。
アパートへの帰り道でオバハンがマンションの駐車場から車を出すところに出くわした。
かなり年式の古い、白のブルーバード。ボンネットが思いきり凹んでいる。オバハンは、フロントガラスから覗き込むようにして俺に手を振り、そのまま走り去った。
オバハンが車を持っていた事に驚きつつ、俺は自分の部屋のドアを開け、異変に気付いた。
どう考えても部屋が掃除されている。
玄関を入ってすぐ横に3畳ちょっとのダイニングキッチン、その奥に6畳間が二間続いていて、俺は部屋を隔てる襖を取っ払ってワンルームのように使っていた。
その12畳分の部屋が、明らかにすっきりと片付いているのだ。
散らかっていた雑誌はきちんと揃えて本棚に押し込まれ、脱ぎ散らかした服はすべて畳んであり、埃っぽさも払われて全体に整然としていた。
まるで実家で、母親が勝手に部屋に入って掃除した後みたいだ。
マットレスの隙間に隠してあったエロ本が机の上にきちんと積まれていたのを見た時みたいな、ものすごい後味の悪さがある。
一瞬、朋美かと思ったが、朋美には来ないように言ってあるし…大体、朋美はここまで嫌味な掃除の仕方はしない。
脱ぎ散らかした服も、読みかけの雑誌も、俺のクセを考えて片付けてくれる。何もかもきっちりと仕舞い込んだりしない。
一体、誰がこの部屋に入ったのか。
いや、そもそも鍵はかけてあったし、確認したけど窓の鍵も壊されていない。大体、空き巣なら掃除をしていく意味がない。
俺は、ダイニングキッチンの方も点検してみて、そこで愕然とした。
コンロに鍋が置いてある。鍋の蓋を開けてみると、芋の煮っ転がしが入っていた。
これは朋美の仕業じゃない。朋美ならシチューとかカレーだ。元より作って置いていくような真似はしない。一緒に食べる。
俺の頭にオバハンの顔がよぎった。
まさか…いや、しかし。
俺は鍵を玄関まわりに隠したりしない。植木鉢の底とか、メーターの上とか、不用心だと朋美に言われて、俺は鍵を自分で持つようにした。
だから向かいのベランダから玄関を覗かれても別に気にしていなかった。
合鍵を持っているのは朋美だけ。どういう事だろう…。
考え込んでいると、いきなり携帯が鳴った。着信は朋美の携帯になっていたが、電話をかけてきたのは朋美の女友達だった。俺も何度か朋美といる時に顔を合わせた事がある、ヨシミという女だ。
ヨシミは震える涙声で、とぎれとぎれに告げた。朋美が死んだと。
俺は耳を疑った。嘘だ。なんで。何が起きた。目の前が真っ暗になる。
こないだ誕生日の祝いで、レストランで食事をして、ブレスレットを贈ったばかりなのに。
俺が贈ったそれを手首に通した時の朋美の笑顔。キラキラ輝いて本当に可愛かった。愛しいと思った。
俺は、朋美が運ばれたという病院に急いだ。
救急救命室の周りにはすでに朋美の両親や、朋美の女友達が集まっていて、みんな肩を抱きあったり、顔を伏せて涙を流していた。
俺はヨシミを見つけて駆け寄った。
「ヨシミちゃん! 朋美は…朋美は?!」
ヨシミは泣きはらした真っ赤な目で、鼻をグズグズ言わせながら俺を見た。
死んだと報を受けたが、何かの間違いであって欲しい、早とちりであって欲しいという俺の一縷の望みは、ヨシミの答えで木端微塵に打ち砕かれた。
「亮平君…朋美…朋美が、死んじゃった…」
それだけ言うと、ヨシミはまたハンカチの中に顔を埋めて泣き出した。
俺はただ呆然としながら、肩を抱き合って泣いている朋美の両親の方へふらふらと近寄った。
朋美の両親は俺の顔を知らないので、俺を見て怪訝そうな顔をした。
俺は軽く頭を下げて、朋美と交際していた事を告げた。そして、どうして死んだかを教えてもらった。
朋美は轢き逃げに遭った。
嘘だろ…。あの用心深い朋美がそんな。しかも、一度轢いた後また戻ってきて、もう一度轢いた痕跡があるらしい。つまり、明確な殺意を持って轢いたらしいと。
病院には警察も来ていて、詳しい状況を両親に説明している。
漏れ聞こえた所では、目撃者が殆どいなくて、遠目に白い車だとしか分からないと言った。現場に残ったタイヤ痕や塗料などの遺留物から捜査を進めていくとの事で、両親は警察の説明にただただ頷くだけだった。
今は轢き逃げなんて殆ど逃げ切れないはずだ。犯人が車を修理屋に持ち込むとかして大体は足がつく。だけど、犯人が捕まった所で朋美は帰ってこない。
俺は手を震わせながら、朋美の顔にかけられた白い布を取った。朋美は眠っているみたいだった。
だけど、朋美の綺麗な顔に刻まれた赤黒い痣や傷が痛々しくて、俺は殆ど正視できないまま顔を背けた。
握った拳の爪が掌に食い込み、どうしようもない怒りと悲しみで、全身がブルブルと震えた。
嗚咽が上がりそうになるのを下唇を噛んで耐えたけど、涙が溢れて止まらなかった。
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2日後に告別式が執り行われた。
白装束で白木の棺に収まった朋美は、まるで知らない人みたいだった。
俺の知ってる朋美は、もっとオシャレで、可愛くて、明るくて…。
朋美は、百合や菊の花に埋もれて、黒い車に乗せられて葬儀場から出て行った。
帰ってきた時は、小さな箱の中に納まって、朋美の母親の胸に抱かれていた。
俺の朋美はもうどこにもいない。
心の中で生きてる? そんなの欺瞞だ。いくら心の中にいたって、抱き締める事もキスする事もできない。あの柔らかくて温かい肌に触れる事もできない。
坊主が読経する間も、遺族が焼香する間も、俺はずっと涙が止まらなかった。朋美の友達も大勢来ていて、肩を寄せ合って泣いていた。
告別式が終わって数日後、俺は朋美の実家に行って線香を上げさせてもらい、朋美の持ち物を見せてもらった。
事故現場に落ちていた朋美のバッグの中に、俺の部屋の合い鍵はなかった。
朋美の好きなダッフィーのストラップがついた、銀色の小さな鍵。
そして、俺が最後に贈ったブレスレット。今となっては朋美の形見と言ってもいい。
俺はどうしてもそれを見つけたかった。両親が俺の気持ちを汲んでか、朋美の部屋も見せてくれた。
両親と同居だった朋美の部屋に入ったのは、高校時代に数回あるだけだ。俺が一人暮らしを始めてからは、もっぱら俺の部屋で会う事が多くなった。
久しぶりに入った朋美の部屋は、懐かしい匂いがした。朋美の使っていた化粧品とかコロンの匂いだ。
化粧台の近くにアクセサリーをしまってある小棚があって、そこには、俺が初めて贈った誕生日プレゼントが大事そうに飾られていた。
当時、高校生だった俺は金がなくて、ガキんちょ向け雑貨屋の安いネックレスしか買えなかったけど、朋美はすごく喜んでくれた。
まだ持っててくれたんだ…。
俺は感慨に耽りつつ、最後の贈り物になったブレスレットを探したが、見当たらなかった。
机の上には、俺とのツーショット写真が飾られていた。俺の隣で満面の笑顔を浮かべる朋美。ディズニー・シーに行った時のだ。あの時、ダッフィーのストラップ買ったんだっけ。
俺はそのまま何気なく机の引き出しを開けてみた。きちんと整頓された中に、一冊の日記が入っていた。
朋美の日記。読むべきではないと思いつつ、つい頁を繰る。
友達との他愛ない出来事、大学での事、そして俺と過ごした時間の事が朋美らしい文体で記されている。特に先日の誕生日については朋美の喜びが素直に綴られていた。
―――前から欲しかったブレスレット、どうして分かったんだろう。亮平には何でも分かっちゃうんだ。亮平は優しい。最高の彼氏。大好きだよ♡ ずっと一緒にいようね。
俺は、その一文を読んで、目頭が熱くなった。俺だってずっと一緒にいたかったよ。
そのままページをぱらぱらと捲り、斜め読みで流していると、気になる文章が目に飛び込んできた。
―――○月○日 合い鍵が見つからない。亮平の部屋の鍵。大事な物なのに、気を付けろって言われてたのに、失くしたなんて亮平に言えない。
どう考えても、あの時からだ。今日、見知らぬオバサンとぶつかって、バッグの中身をぶっちゃけてしまった。
おばさんは平身低頭で中身を拾ってくれたけど、失くしたとしたらあの時以外に考えられない。
拾い損ねたかと思ってあの場所を探してみたけど、やっぱりなかった。
大体、ダッフィーのストラップついてんだもん、そんな簡単に見失うとは思えない。どうしよう。
―――○月○日 昨日のオバサンが家の近くで待ち伏せしてた。
車の窓が開いたと思ったら、昨日のオバサンがダッフィーのついた鍵をぶらぶら見せてきて、思わず手を伸ばして取り返そうとしたら、オバサンは意地悪するみたいに寸前で引っ込めた。
なんか感じ悪かった。やっぱり、あの時オバサンが盗ったんだ。
おまけに、返して欲しかったら明日の夜10時に一人で埠頭に来いだって。
どういうつもりなんだろう。あのオバサンは誰なんだろう。なんか気持ち悪い。
どうしよう。亮平に相談しようか。だけど、亮平の部屋の鍵をあんなオバサンに取られたなんて、何だか言いづらい。
警察に言おうかな。でも、どういう罪状になるんだろ、これ。刑法に触れなきゃ警察は動いてくれないよね。
とにかく、明日の晩、埠頭に行ってみよう。行けばきっと何か分かる。
オバサンがきっと何か交換条件とか言い出すんだ。どういうつもりか知らないけど、まずはオバサンに会って、話を聞いて、その上で誰かに相談してみよう。
亮平にはなるべく心配かけたくない。ヘンな事にも巻き込みたくないし。
―――――
日記はそこで終わっていた。
俺は確信した。朋美を轢いたのは、あのオバハンだ。
これを警察に見せれば、きっと警察もオバハンの車を調べる。俺はひとまずその日記をバックパックにしまいこんで、朋美の家を後にした。
このまま警察に…などと考えながら自宅アパートの前を通ると、俺の部屋の灯りがついていた。
オバハンだ。朋美から奪った合鍵で、また俺の部屋に入ってるんだ。そう思った俺は一瞬でカッとなって、2階まで一気に駆け上がった。オバハンが逃げる前に捕まえてやる。
警察に通報する前に、オバハンに一矢報いてやりたい気持ちがあったのかもしれない。
息を切らして自分の部屋の前に立ち、様子を窺いながらそうっとドアを開ける。鍵は開いていた。
自分の部屋だ。コソコソする事はない。
オバハンの言い訳を聞いてみたい気もして、俺は何食わぬ顔でドアを開けた。玄関横の台所で、オバハンは料理をしていた。
「あ、おかえり~。りょう君、お腹空いたやろ? オバちゃん、夕飯作っといたったでえ」
オバハンは、俺を見ても慌てもせず、まるで帰りを待つ母親みたいな顔して、俺を迎え入れた。
俺はなるべく表情を変えず、必死に冷静さを保ちながら聞いた。
「なんでここにいんの? どうやって俺の部屋に入ったの?」
「へ?はなっから開いとったで? 不用心やで~りょう君。ちゃんと鍵しめとかな」
オバハンは、しゃあしゃあと言ってのける。俺は無言のまま部屋に上がって、座卓の上に置いてあるオバハンのハンドバッグを開けた。ダッフィーの頭が見えたような気がした。その瞬間、オバハンが慌てて飛んできて、俺の手からハンドバッグをひったくった。
「ちょっ、何すんのん、りょう君! ちょっとイヤやわあ、レデエのバッグの中身、勝手に見るもんちゃうで」
俺はしっかりハンドバッグを掴んでいたが、オバハンのひったくる力は強くて、その勢いでバッグはオバハンの頭上を越えて吹っ飛んだ。後ろの壁に当たって落ちたハンドバッグの中身がばらばらとこぼれた。
その中に見覚えのあるクマのついた鍵と、そして、あのブレスレットが。
俺はそれを見た瞬間、カッとなってオバハンに詰め寄った。
「おいババア!なんでお前がこれ持ってんだよ!朋美に何をしたんだ!え?お前が殺したんだろ!お前が朋美を轢き殺したんだろ!」
押し殺していた感情が堰を切ったように溢れ出て、俺は半泣きで叫んでいた。
オバハンは慌てて散らばった物を掻き集めてカバンにめちゃくちゃに放り込むと、俺に向き直って取り繕うように笑った。
「ちょ、なんやのん、りょう君、いきなり。何言うてんのか、オバちゃん全然分からへんわ。ちょっと落ち着きいな」
そのふてぶてしい様子に、俺はなおさら腹が立った。
「その鍵!ブレスレット!朋美のだろ!なんでお前が持ってんだよ!」
俺の勢いに気圧されていた様子のオバハンは、突然、開き直ったように高らかに笑い声を上げた。
「あははははは、いややわあ、りょう君、何言い出すんかと思たら。これはオバちゃんが最初から持ってるヤツやで。娘の形見やねん。前に話したやろ、オバちゃんの娘、死んだて」
「息子じゃなかったのかよ」
俺はなるべく冷静に返した。
もう騙されない。このオバハンは、こうやって生きてきたんだ。他人の生活に土足で踏み込んで、自己満足を押し付けて、何もかもその場しのぎの嘘で塗り固めて、邪魔なものを消して。
オバハンは、しどろもどろになって、さらに言い繕おうとしていた。
「そやったかな。オバちゃん言うてなかったかな。オバちゃん、娘もおってん。息子も死んだけど、娘も亡くしてるんやわ、ホンマ、ホンマやで」
デマカセ丸出しの言い分に俺は心底うんざりして溜息をつくと、バックパックの中から朋美の日記を出した。そしてオバハンの前で件の箇所を読み上げる。鍵を取られた事、埠頭に呼び出された事。オバハンの顔色がはっきりと変わるのが分かった。
それでもオバハンは引き下がらなかった。
「え、なに、りょう君、彼女、亡くならはったん? 残念やなあ…かいらし(可愛い)娘さんやったのに」
「…なんで朋美の顔、知ってんだよ」
今まで朋美を紹介した事なんぞ終ぞないし、写真すら見せた事もない。3階のベランダから覗いていたのは気付いているが、オバハンは俺が気付いているという事も知らないはずだ。
しかし、オバハンは笑顔を引き攣らせながらも、空々しく言い繕った。
「あー、なんや、ほれ、それはやな、りょう君の彼女やったらきっと別嬪さんやろなあと思て、オバちゃん、想像で言うただけやねんて」
そして、少し体を捻って上目遣いになり、やけに鼻にかかった声を出した。
「何やの、りょう君、一体どないしたん? そない怖い顔でオバちゃんの事睨まんとってや。りょう君はエエ子やろ?優しい子やったやろ?」
怒りが沸々と湧き上がる。呼気が荒くなって肩が上下する。きつく握った拳が怒りで震え、今すぐブチ殺したい衝動に駆られる。
だが、ここで感情的に殺しちゃダメだ。きっと朋美なら俺を止めるだろう。
法学部で検事を目指していた朋美なら、私怨で殺すのではなく、法の裁きを…と言うだろう。
朋美がどうして死ななきゃならなかったのか、白日の下に晒して、オバハンを社会的に抹殺する。
耐えろ俺。朋美のために耐えろ。
俺の内心の葛藤も知らず、弁解を続けるオバハンの媚びた声が、耳に絡みついてきた。
「なあ、りょう君、オバちゃんの気持ちも察してえな。オバちゃんはただ、りょう君が心配なだけやねん。親御さんから離れて淋しいやろ?不安やろ?オバちゃん、りょう君みたいな子、放っとかれへんねん」
ババアの猫撫で声が俺の怒りに油を注ぐ。くそっ…ぶっ殺したい…いやダメだ、耐えるんだ俺。
だけど、警察を呼ぶ前に一発ぐらい殴っても許されるんじゃないか?
そんな衝動に駆られ、怒りに引き攣る顔をあげた俺は、オバハンを見てさらに引き攣った。
オバハンは上に着ていた服を脱いで、おまけに下着も外そうとしていた。
おいオバハン、なんで脱ぐ。何をする気だ。
ベージュの丼みたいにデカいブラジャーがはらりと落ちて、オバハンの乳がボロンと垂れ下がった。青白い血管の浮いた、萎んだ水風船みたいな乳房の先に、やけにデカくて色の薄い乳輪が下を向いて張り付いている。
ゲッと顔を歪めて臆した俺に、オバハンがいきなり飛びついてきた。だるんだるんの乳を揺らして。
狭い部屋では、ほんのちょっと突進しただけで相手に体当たりできる。
俺は避け損ねて尻もちをつき、後ろの壁で後頭部を思いっきりぶつけた。軽く眩暈がする。咄嗟に立ち上がれない。
オバハンはそんな俺の上に乗って、俺の頭を胸元に抱き寄せた。オバハンの乳が顔に押し付けられる。
「ええねんで、りょう君。やせ我慢する事ないんやで。淋しいんやろ? オバちゃんの事、お母ちゃんやと思て甘えてくれてええねんで」
尻もちをついた俺の上に乗っかったオバハンの体重は、見た目通りの重さだった。俺はあまりの衝撃と恐ろしさに硬直してしまい、頭の中が真っ白になった。
「ほれ、乳吸いや、りょう君。お母ちゃんのオッパイ、恋しいやろ。乳吸うてええよ」
オバハンは気持ち悪いぐらいの猫撫で声で、自分の片乳を持ち上げ、俺の口元に押し付けてきた。
俺は貝よりも硬く唇を噤んで、ギュッと目を瞑った。安っぽい白粉の匂いがババアの体臭と交じって俺の鼻孔を満たす。吐き気がこみあげてきた。
助けてくれ、朋美。このクソババアを俺から引っぺがしてくれ。誰か助けて。
だるだるとは言え、それなりのボリュームがある乳房を鼻と口に押し付けられて、俺は息が苦しくなってきた。
死ぬ。殺される。ババアのたるんだ乳で窒息死。
恥ずかしい話だが、俺はその時、死の恐怖と気持ち悪さとで失禁してしまった。股間の生温かさに気付いたオバハンが体を引いて、俺の股間を窺い見る。
「あらあら~なんやの、りょう君、おもらししてしもたん? よちよち、おばちゃんがキレイキレしたろなー」
オバハンは、えらく相好を崩して、ちょろっと舌舐めずりをし、俺のズボンのベルトを外しにかかった。
ズボンを脱がす気だ。俺は恐ろしさのあまり、渾身の力でオバハンを蹴り飛ばした。オバハンの体は吹っ飛んで、食器棚の下段の出っ張った角の部分に、強かに頭をぶつけた。
ものすごい音がして、オバハンはそれきり動かなくなった。食器棚にもたれ、尻を床にぺったりとつけて座った体勢のまま、ずるずると横に倒れた。後頭部の髪の毛が赤くべっちょりと濡れていた。
死んだのか? 俺は恐る恐るオバハンに近づいた。
ホラー映画だと、ここでオバハンがいきなり蘇って襲いかかってくる。だけど、オバハンはピクリともしなかった。
俺はとりあえず警察を呼んだ。怪我人がいると伝えたので、救急車も来るだろう。怪我人と言っても多分、死んでると思うけど。
オバハンがそこで倒れているのを何度も確認しながら(いきなり蘇ってこないように)急いでズボンと下着を取り換えた。
そこへちょうど警察が来て、ドアを叩いた。俺はのろのろと腰を上げてドアを開けに行く。腰がひどく痛む。頭も痛い。怪我人は俺か。
俺は警官に事情を話し、部屋に入ってもらった。またしてもホラー映画の王道だと、ここで死体が消えているパターンだ。しかし、俺の部屋の台所の隅で、オバハンは倒れたままだった。
救急隊員がどやどやと上り込んできてオバハンを運び出し、俺はとりあえず警察署に同行して事情を説明する事になった。
オバハンとの関係の説明に苦労した。どうやって説明すればいいのか。偶然、知り合っただけの他人が、やたらと身辺に出没してきて…ストーカーとも違う、この“小さな親切、大きなお世話”のリアルな苦悩体験を、どうやって説明すればいいのか。下手すると、ただのイイ人を、俺が邪険にして殺したようになってしまう。
そうだ。朋美の日記だ。俺は、未解決になっているだろう朋美の轢き逃げ事件について、日記を見せて説明した。これでオバハンに捜査の手が伸びるはずだ。
だけどオバハンが死んでいたら何にもならない。まあ報道ぐらいはされるかもしれないけど。
被疑者死亡で書類送検…だけでも朋美への弔いになるかなあ…。
俺は、出来る限りこれまでの顛末を細かく説明した。感情を交えず、客観的に、冷静に、事実だけを話したが、俺はやはり業務上過失致死という罪に問われるらしい。故殺でなくても、過失で人を死なせたらやっぱり罪なんだ。オバハンに乳を押し付けられて死にそうだったから突き飛ばしたら死んでしまった…では、正当防衛を主張するのは難しいらしい。
その女性が君を乳房で窒息死させる気だった、殺意があったと立証できるかね?と聞かれて、俺は黙りこんだ。
ただ、事情が事情なので執行猶予が付く可能性は高いと言っていた。それでも有罪判決が出れば前科がつく事には変わりないが、あのオバハンから解放された事を思えば、そのぐらいの代償は安いものだと思えた。
とにかく今は、あのオバハンがもう二度と現れないという事に俺は心底、安堵していた。
在宅起訴という事で俺は家に帰された。
散らかった部屋を片付ける。ダッフィー付きの合鍵も、ブレスレットも、証拠品とかいう事で警察に押収されてしまった。
食器棚の角に、オバハンの血と髪の毛がこびりついていた。俺はそれが忌まわしく汚らわしいものに思えて、キッチンペーパーを何枚も重ねて拭き取った。
すると、急にオバハンの立っていた台所までもが汚染されているような気がして、俺は取りつかれたみたいに床を擦り始めた。
バケツに雑巾を浸して絞り、ごしごしと力を込めて床を磨く。意外と汚れていたみたいで、拭いた箇所だけ色が明るくなった。こうなると、俺は部屋のすべてがオバハンに汚染されている気がしてきて、そのまま部屋の大掃除と模様替えになってしまった。
気が付いたら朝だった。
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別の日、警察に出頭すると、俺の不起訴処分が決まったと告げられた。証拠が不十分だったり、有罪に出来そうな勝算がないと、検察が起訴を渋って不起訴になる場合もあるというが、俺の場合はどういう事だろうと思って聞くと、なんとオバハンの遺体が病院から消えたらしい。
あの時、オバハンは救急隊員によって病院に運ばれ、医師によって死亡確認がされたはずだった。事件死なので、直接の死因を探るため検死に回す事になって、その手続きや準備などで、看護師や医師らがその場を少しの間、離れたらしい。時間にしてほんの数分だったと看護師は言うが、実際は分からない。遺体を寝かせてある部屋に戻ると、ベッドの上はもぬけの殻だったという。
医師は、確かに死んでいるのを確認したと言って首を傾げているらしい。
自然に蘇生したとして、いきなり動けるのも不自然だし、黙って消える理由も分からない。誰かが遺体を持ち去ったというのも無理がある。結局、死体がなければ殺人も過失致死も立件できず、俺は不起訴処分となったとか。
そんな事もあるのか。俺は、オバハンの死体が消えた事に一抹の不安を感じなくもなかったが、とりあえず、オバハンからも、お咎めからも解放された事で、清々した気分で自分の部屋に戻った。
ホラー映画ならここで…いや、やめよう。妙な妄想はやめておこう。もう忘れよう。あのオバハンの悪夢は。
それでも朋美が死んだ事実は消えないし、俺の心にぽっかり空いた穴が塞がる日が来るかどうかも分からないが、今はとにかく解放された喜びに浸りたかった。
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秋晴れの気持ちの良い日、俺は朋美の墓参りに行って線香を手向け、手を合わせた。細長く伸びた線香の煙がゆらりと溶けていく空を見上げて、俺は朋美を想った。
ありがとう、朋美。お前が俺を守ってくれたんだな。
俺はお前を守ってやれなかったのに。ごめんな。愛してるよ。
俺は、アパートに帰って引っ越しの準備を始めた。コンビニからもらってきた古ダンボール箱に、本やら衣類やらを詰めていく。
朋美との思い出も、オバハンの悪夢も、いろいろとあり過ぎた部屋は、俺には辛かった。
心機一転、違う街、違う部屋で再スタートだ。
夜も更け、俺はさすがに疲れを感じ、早々に寝る事にした。家財道具の詰まったダンボールに囲まれベッドに潜り込む。この部屋で寝るのもあと数日だ。
夜中にふと寒気を感じて目を覚ました。夜風がカーテンを揺らしていた。
え? 窓、空いてる? 俺、鍵閉めたよな。寝る前にも確認した。
胸がザワザワしてきて、冷たい汗が額に浮いた。
目を開けて布団から顔を上げると、窓の前に黒い人影が浮かんだ。
窓から差し込む淡い月明かりで、逆光になっていて顔は見えない。
俺は飛び起きて、枕元のスタンドを付けた。
あのオバハンが、オレンジ色の灯りの中に浮かび上がった。
「うわあっ」
俺は思わず叫んだ。
オバハンがだらりと下ろした腕の先で、何かがスタンドの光を反射して鈍く光った。
それは包丁だった。
オバハンは、手に包丁を持ったまま、口を真一文字に結んで無表情でベッド脇に立ち、俺を見下ろしていた。
その黒い穴ボコみたいな目に射竦められて、俺はゾワリと総毛立った。
ヤバイ。逃げろ。
頭の中で警報が鳴り響いた。身を翻してベッドから飛び降りようとしたその時、背中にドン!…と何か衝撃が走り、少し後に、熱いような痛いような感覚が背中から広がってきた。
俺は、ベッドから逃げかけた体勢のまま、凍ったみたいに硬直して動けなくなり、辛うじて首だけを回して後ろを見た。オバハンは俺の背中に包丁を突き立てていた。
「りょう君が悪いんよ。悪い子にはお仕置きせなアカンやろ」
オバハンはそう言って、俺の背中から包丁を引っこ抜く。背中から熱いものがドロリと溢れるのが分かった。全身から力が抜けていくような感覚がして、俺はそのままベッドの脇に倒れ込んだ。仰向けに転がった俺にオバハンが馬乗りになってきて、高々と掲げた包丁を振り下ろした。
「りょう君が悪いんよ」
「オバちゃんかて、こんな事しとぉてしてるワケやないんやで」
「りょう君さえ素直になってくれたら、こんな事せんで良かってん」
オバハンは、一言ごとに俺の腹や胸に包丁を突き立てた。
意識が途絶える間際に見たのは、オバハンが返り血を浴びた顔を涙で濡らして、泣きながら俺の体に包丁を振り下ろす姿だった。
「なあ、分かるやろ? りょう君が悪いねんで」
作者退会会員
すごく長くなってしまいましたが、読んでいただけると幸甚です。
無敵中年トミ子さんの快進撃?は止まりません。
ですが、関西弁のオバハンが困っているのを見かけたら助けてあげてくださいね。
大丈夫ですよ、きっとトミ子さんではないと思います。