最近めっきり疲れやすくなった。
まだ20代なのに。明らかな運動不足だ。
このままだといずれ太り始めるような気がして、僕は通勤電車を途中下車して、二駅分を歩く事にした。
よくある地方都市の、商店が連なる幹線道路沿いの広い歩道を歩く。
いつも電車で通り過ぎてしまうだけの街を歩くのはなかなか新鮮だ。隠れ家みたいな洒落たバーの入口を見つけ、今度来てみようなどと考える。
その時、後ろから男の子の声がした。
「ジョン!ジョン!待て! ダメだよ、止まれ!ジョン!」
振り返ると、引き綱を引き摺ったまま小型犬がこちらに駆けてくる。
犬の品種はよく知らないが、コロコロと太って仔犬だという事ぐらいは分かる。
その数メートル後方を、小学校低学年ぐらいの少年が追いかけてきていた。
「すみませーん…っ、その…犬…っ、捕まえてくだ…さい…!」
少年は息を切らしながら僕に向かって叫んだ。
その必死の形相に、思わず僕は少年と一緒になって仔犬を追いかけた。
「ジョ~ン! 待て! 止まれジョン! ストップ!」
仔犬はこちらの声などまるで聞こえないように、何が嬉しいのか甲高い声で吠えながら、どんどん走って行ってしまう。
「僕…ついリード放しちゃって…やっと買ってもらったのに…お母さんに怒られちゃうよう」
一緒に追いかけながら少年は泣きそうな声で僕に訴えた。
その様子があまりに哀れだったので、僕は足を速めた。
運動不足の身にダッシュは堪えるが、これも鍛錬だと自分に言い聞かせる。
大股で追いつき、やっと引き綱の端っこを捕らえた。
仔犬は綱を引かれると、観念したように止まった。
「捕まえた!こら、ダメだぞ? 勝手に走っていっちゃ」
仔犬を抱きかかえた時、耳をつんざくようなクラクションが脳天を貫いた。
大型トラックが僕に向かって突っ込んでくる。
咄嗟に歩道の方へ横っ飛びにジャンプし、かろうじて事無きを得た。
歩道の端に転がった僕の真後ろを、巨大なタイヤが砂塵と轟音を立てて通り過ぎた。
血の気が引く思いで息を詰めて見送り、ホウッと大きく嘆息する。
何人かの通行人がこちらを案じて駆け寄ってきた。
どうやら赤信号で横断歩道の真ん中に突っ立っていたらしい。
いつの間に道路に飛び出していたんだろう。確かに歩道を走っていたのに。
我に返った僕は仔犬がいない事に気付いた。確かにしっかり抱いていたのに。
しまった。逃がしたか?
慌てて周囲を見回すと、横断歩道の向こう側に少年が仔犬を抱いて立っていた。
少年は頭の上からつま先まで血塗れの姿で、つまらなそうに口をへの字に結んでこちらを睨み、
「ちぇっ」
と呟いて、そのままスウッと霧のように掻き消えてしまった。
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一体さっきのは何だったんだろう。
察するに幽霊というものだろうか。僕は取り殺されそうになったのか。
まったく危ないところだった。
気を取り直して再び歩き始めると、また後ろから声がした。
後ろを振り返ると、品の良さそうな女性が、幼稚園の制服を着た女の子を追いかけていた。
「リカちゃん! 待ちなさい! 危ないわよ!」
母親らしいその女は、息を切らしながら僕に向かって叫んだ。
「すみません! ちょっとその子を捕まえてください!」
またか。こいつら幽霊だな。
娘を追いかけると、いつの間にか車道に飛び出していて車に轢かれるって寸法なんだ。
同じ手は食わない。僕は母親の声を無視した。
娘がキャッキャッと歓声を上げながら僕の横を走り抜けて行き、
母親はそれを追いかけて僕を追い越して行った。
「リカ! 危ないでしょ! 止まりなさい!」
娘は母親の制止をまるで聞かず、そのまま道路へ飛び出した。そこへ大型ダンプが迫ってきた。
母親は娘の名前を絶叫しながら娘の方に飛び込んだ。
耳に刺さるような金属質のブレーキ音に、肉が潰れるような湿った音が重なった。通行人が悲鳴を上げる。
急停止したトラックの少し先に、さっきの母娘が倒れていた。
手足が奇妙な方向に折れ曲がり、頭の周りに夥しい血が流れていた。
どうやら、生身の人間だったらしい。
娘の方は微動だにしなかったが、娘に覆いかぶさるように倒れていた母親は、血塗れの顔をゆっくりとこちらに向け、恐ろしい形相で僕を睨んだ。
真っ赤に鬱血した目で僕を睨みつけていたかと思うと、何か言いたそうに開いた口から大量の血反吐を吐き、ガクリと頭を落として動かなくなった。
辺りは騒然としていたが、僕はそのまま会社に向かった。
僕のせいじゃない。僕は関係ない。
その日の夜から毎晩、あの母娘が枕元に立つようになった。
母娘が二人揃って恨みがましい目で僕をじっと見つめている。
まったく、最近めっきり憑かれやすい。
作者退会会員
駄洒落かい!とツッこむ幻聴が聞こえます。
…幻聴じゃない?
真面目な話、最近めっきり疲れやすくなりました。年ですね。