午前1時。あたしは時計を見て溜息をついた。
テーブルに並べられた料理は、湯気はおろか、作りたての彩りすら薄れている。
たっくん、遅いなぁ。あたしは頬杖をついて、まだ見て間もない時計の針をもう一度見つめる。
アルバイトはもう、とうにはけている時間だ。いつもたっくんは9時ごろにはバイトを終え、ああ、お腹が空いたと言ってあたしの部屋に帰ってくるのだ。半分同棲の様な生活だった。
たっくんとの出会いは1年前、あたしの勤めている会社に配送のアルバイトで、毎日配達や集荷に来るので、顔なじみになったのだ。たっくんは、ガリガリに痩せていて、あたしは心配になり、たっくんに訊ねたのだ。
「ちゃんと、ご飯、食べてるんですか?」
「んー、食べたり食べなかったりっスね。一人暮らしで、作るのかったるいし、たいていコンビニのでサンドイッチとかで済ませちゃうんですよね。」
そう、照れくさそうに頭を掻いたのだ。
あたしは、そんなたっくんがかわいくて、母性本能をくすぐられた。
「ホント、たまにはあったかい手料理とか、憧れちゃいます。誰かが待っててくれて、あったかいご飯が出てくるって最高ですよね?」
「彼女とかいないんですか?」
「いないっすよ。俺、モテませんから。」
たっくんは、恥ずかしそうに笑った。胸がときめいた。
「ご飯、食べに来る?」
あたしは、自分が何を言ったのかわからなかった。自分でも信じられなかった。
恥ずかしさで、赤面がバレないように、髪の毛で耳を隠した。
こんなこと言ったら、ドン引きされるよね、きっと。あたしはすぐに後悔した。
だけど意外な言葉が返ってきた。
「マジっすか?食べに行っていいの?やったあ!」
たっくんは子供のように屈託の無い笑顔で答えたのだ。
その日、ケイバンとメアドを交換し、あたしのアパートの住所を伝え、本当にたっくんはあたしの部屋に来たのだ。自分の大胆な行動に、その日は自分でも驚いてしまった。
たっくんは、おいしそうに、あたしの作った料理を全部ぺろりとたいらげた。
「藤本さん、めっちゃ料理上手っすね。すげー美味かった。ご馳走様です。俺、久しぶりに飯らしい飯食った。」
そう言ってたっくんはいたく感激してくれたのだ。あたしも、料理を褒められて嬉しかったし、何よりもたっくんがあたしの部屋に来てこれたことが嬉しくて、その日は高揚してなかなか眠れなかった。
その日から、たっくんは時々あたしの部屋にご飯を食べにくるようになり、最初は会社の名札しか見ていなかったので、藤本さんって呼んでいたけど、いつの間にか、下の名前で菜摘さんって呼ぶようになり、男女の仲になってからは、あたしを菜摘と呼び捨てにするようになった。
たっくんは今では配達のアルバイトは辞め、チェーン店の飲食店でアルバイトをしている。
「まかないとか一応出るんだけどさ、やっぱ菜摘の料理の方がだんぜん美味いな。」
そう言って、ご飯をたくさん食べてくれるたっくんがたまらなく愛しい。たっくんは、ほとんど自分の部屋には帰らず、まっすぐにあたしの部屋に帰ってきて、週のほとんどはあたしの部屋に泊まった。
ところが、バイト先を変わって1ヶ月経ったころ、だんだんと帰りが遅くなっていった。最近、帰りが遅いね、と言うとたっくんは、答えた。
「そうなんだよ。ホント、人使いが荒いバイト先だよ。人が休んだら、すぐ連勤させるからな。残業だよ。まあそれだけ俺が慣れて信頼されてるってことなんだけどな。」
お仕事頑張ってるんだね、たっくん。お疲れ様。今日もあたし、寝ずにたっくんを待ってるからね。
その日、たっくんは帰ってこなかった。ここ最近、料理が余って仕方ない。週の半分以上帰ってきていたたっくんは、週に3日、しばらくすると、2日、最終的には週に1回しか帰ってこなくなった。
よくよく考えてみれば、たっくんとあたしは別に同棲しようとか約束したわけでもなく、なんとなく一緒に居ただけなのだ。それであたしは幸せだった。たっくんに会えない時間がどうしようもなく、あたしを不安にさせた。たっくんからは、バイト先には恥ずかしいから絶対に来ないように言われていたのだけど、あたしはついに約束を破ってしまった。たっくんがバイトがはける時間を待って、あたしはバイト先の前で待っていたのだ。社員の通用口からたっくんが出てきた。今日は早く終わったのね。あたしはたっくんに駆け寄ろうとした。驚かせようと思ったのだ。
たっくんが通用口から出てきたそのすぐ後に、女性が出てきた。年はだいぶ若い感じで学生さんみたい。するとその女はたっくんの腕に絡みついた。あたしは信じられなかった。その女はたっくんの腕を引き寄せると、背伸びをして、たっくんにキスをしたのだ。
「バカ、やめろよ、こんなところで。」
「えー、いいじゃーん。じゃあどこでならいいのぉ?」
女は上目遣いにたっくんを見る。目の周りが真っ黒で、悪魔みたいなメイクをして、唇は油でもすすったのか、というくらいにテラテラといやらしく光っていた。
やめろ。くっつくな。あたしのたっくんを誘惑して。許さない。たっくん、迷惑よね?そんな女。ほら、腕を振りほどきなさいよ。そんな知性のかけらもないような女、嫌いでしょ?
「バカ!」
そう言いながら、たっくんは女のおでこをぺチンと叩いた。
何よ、それ。まるで恋人同士みたいじゃない。
「ねえ、あたしのこと、好き?」
女が、たっくんに甘えるようにしがみつく。
好きなわけないだろう、バカ女。
「好きだよ。」
たっくんはそう言いながら女にキスした。
「さっき、自分ではこんなところでやめろって言ったくせに。」
女はたっくんを茶化した。
二人は腕を組んで、ホテル街のほうに歩いて行った。
あたしは、頭の中がガンガンした。嘘よ、全部嘘。たっくん、一時の気の迷いよね?たっくんが、そんな頭が軽い女、好きなはずないもの。
「好きだよ。」
たっくんの言葉を思い浮かべた。
あたし、たっくんに一度も言われたことない。
でも、たっくんは、あたしの部屋に入り浸りだった。
毎日いっしょにご飯を食べて、夜だって。
あれ?たっくんって、あたしにキスしたことあったっけ?
いつもあたしから、キスしてた。
あの女には、自分から好きだよと言い、キスをした。
でも、違うよね?あれは、女を騙すための手なんでしょう?
本当に好きな女には、軽々しく好きとは言えないものでしょう?
たっくんは、照れ屋さんだからね。あたし、知ってる。
あたしには、好きとか自分からキスとか、本当に好きだからできないんでしょう?
きっとそう。
あたしは、部屋に帰ると、いつものように料理を作り始めた。テーブルいっぱいのご馳走を並べた。
いつたっくんが帰ってきてもいいように。一度の浮気くらい、許してあげる。たっくんだって、男の子だものね。
待ってるよ。ずっと、待ってる。
***************
「荷物、取りにいかなくちゃな。」
「え?荷物?」
「ああ。あいつの部屋に。」
たくみは、ベッドでタバコを吹かしている。
とたんに隣の女が不機嫌になる。
「まだ、あの女と切れてないの?信じられない!」
「怒るなよ、俺、あの女のこと、別に好きじゃねえし。愛してるのはお前だけだよ。」
そう言うとたくみは女を抱き寄せようとしたが、女は裸のまま、たくみの腕をするりと抜けた。
さっさと服を身につけだした女にたくみは慌てて言い訳をする。
「ホントだって。あんな年増、俺が好きになると思う?28だぜ、あいつ?飯食わせてくれるから、行ってただけなんだよ、マジだってば!」
女は服を身につけ、鏡の前で髪をとかしながら振り向いた。
「飯炊きおばさん?」
そう言うとくすりと笑った。
「そそ、飯炊きおばさん。料理が上手いのだけが取り得。」
そう言うと、たくみは立ち上がり、後ろから女を抱きしめた。
女はそれを振りほどき、たくみを睨みつけて言った。
「だーめっ!ちゃんとケリつけなきゃ、もう抱かせないからねっ。そうだ!今から荷物取りに行こうよ。あたし、一緒に行ってあげる。あんたは飯炊きおばさんよってのを思い知らせてやるわ。」
さすがのたくみも難色を示したが、押し切られるように一緒にホテルを出た。
まあ、これで腐れ縁が切れるのもいいか、その程度に思っていた。
しかし、これからの修羅場を考えると、気分は重く足取りも重かった。
部屋のチャイムを鳴らした。何度鳴らしても、菜摘は出てこなかった。意地になった女はチャイムを連打した。
「バカ、やめろよ。苦情が来るだろ。」
「いいじゃない。言われるのは、この女なんだから!」
仕方なくたくみは、合鍵でドアを開けた。その瞬間、女は部屋にずんずんと先に入って行った。
「よ、よせっ!」
たくみは止めようとしたが女は聞かなかった。
「こんばんはぁ、たくみの荷物を取りにきましたよぉ~。」
女はふざけた声で、奥のリビングへの扉を開いた。
「ひぃっ!」
女の喉から変な悲鳴が出た。
ローテーブルの上には、豪華な食事が所狭しと並んでいた。
そしてその上に、天井板を外した梁からロープを垂らし、ぐったりした菜摘の体がぶらさがっていたのだ。
「うわぁぁぁぁああぁぁ!」
たくみは腰を抜かして後ろに転倒した。
おかえり、たっくん。お仕事、ご苦労様。
今日もご馳走だよ。
たくさん食べてね。
テーブルの上には1枚の置手紙が添えられていた。
作者よもつひらさか