波の音が聞こえる。
いや、此れは波ではない。竹林が夜風に騒いでいるのだ。
誰彼の啜り泣きが聞こえる。
いや、此れは啜り泣きではない。
ならば此れは何か。
此れは・・・此れは・・・・・・。
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~~~
照り付ける日差しに眉をしかめ、僕はバス停の、今にも崩れ落ちそうな庇の下に逃げ込んだ。
次のバスが来るまで、あと二十分。
田舎のバスは運行する本数自体が少なく、待ち時間が異常に長い。
前にバスが来たのは一時間と十分前。
いやはや全く・・・・・・閉口してしまう。
僕は溜め息を吐きつつ、持っていたタオルで流れ出る汗を拭った。
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~~~
夏になると、涼しさを求めて兄の家に行く事が多い。
バイト先の古書店は、夏でも冷房が付いていないので(本の劣化を防ぐ為らしいが)酷く往生する。
友人の家に世話になる事も多いが、そう毎日厄介になる訳にもいかない。
自宅に居ても良いのだが、両親が共働きの為、暇で仕方無い。
よくよく考えてみれば、此の夏に僕は数える程しか自宅で寝起きをしていない。
・・・・・・まぁ、だからどうしたと言う話だとも思うが。
そんな事を考えていると、バスが停まった。
さて、降りねば。
僕は冷房の効いた車内との別れを惜しみながら料金を払い、バスから降りた。
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~~~
暑さと戦いながら十分程道を進むと、ワサワサとした竹林が現れる。
此れこそ兄の家の敷地の大部分を占めている竹林であり、此れが目に入ったと言う事は即ち兄の家が近いと言う事に他ならない。
僕は熱で陽炎の出ているアスファルトの道を歩くのはもう懲り懲りだったので、一気に嬉しくなった。
道の上の方が足に負担は掛からないが、竹林の方が涼しそうだ。
試しに足を踏み入れると、積み重なった落ち葉の感触が足に優しい。
案外、足への負担も此方の方が少ないのかも知れない。
僕はゆっくりと竹林の中を進み始めた。
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・・・・・・・・・。
竹林を渡る風は軽い湿り気を帯びている。
強い風は特に、甘い土と水の匂いがして心地が良い。
波の様な音が聞こえる。
上の方で葉や枝が擦れて出る音だ。
啜り泣きの様な音もだ。
此れは。此れは・・・・・・?
気付くまでは何とも思わなかったが、一度気付いてしまうと気になって仕方が無い。
此れは一体、何の音なのだろう。
上を見上げると、一瞬だけ赤い何かが見えた様な気がした。
赤い・・・・・・?
竹林に赤い物は無い筈だ。
ゴミか何かが引っ掛かっていたのだろうか。
然し、射し込む木漏れ日に目を射られながらもう一度じっくりと上の方を見ても、あの赤い何かはもう影も形も残っていなかった。
僕は首を捻りながらも、また歩き出した。
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・・・・・・・・・。
兄は小さな畑に水を撒いていた。
「来たね。」
僕は何も言わずに頷いた。
蛇口を捻り、水を止め、畑の脇に置いて有った笊を持ち上げる。
笊の中には、歪ながらも赤く色付いたトマトや、色が濃く大きな茄子等が山の様に盛られていた。
「お帰り。少し早いが、夕飯の支度をしよう。」
兄は、僕の横を通り過ぎて家へと向かって行った。
僕は小さく
「ただいま。」と呟き、兄の後を付いて行った。
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・・・・・・・・・。
取れた野菜で作ったカレーを食べ終えると、兄が何処からか西瓜を持って来た。
「お裾分けの品何だけどね。」
大きさは大玉の四分の一程の大きさがあった。
ザクリと半分に切り、無理矢理僕に渡して来る。
「毎年恒例、先輩からの嫌がらせだよ。此れはノルマだからね。ちゃんと食べなよ。」
一口囓ってみると、おおよそ甘味と言う物が無い。
塩を振っても塩と西瓜独特の風味しかしない。
其れはそうだ。元から引き立てる甘味が存在しないのだから。
「・・・もちにあげても」
「駄目。塩振っただろ?其れに、水分量が多過ぎる。」
因みに、《もち》と言うのは飼っている兎の名である。
兄が口許に苦笑いを浮かべた。
「・・・・・・其れにしても、本当に甘くないな。此の西瓜は。」
余りの甘味の無さに、兄の発言も思わず倒置法だ。
其れきり、二人の間に沈黙が漂う。
聞こえるのはシャクシャク、シャクシャクと西瓜を囓る音、其れともちが床を跳ねる音だけだ。
・・・テーブルに向かい合って座り、西瓜を持て余しながら食べている野郎が二人。床には兎が一匹。しかも、西瓜は全く甘くない。
何と詰まらない絵面であろうか。
「ええい!!」
僕は憤然として立ち上がった。
兄が怪訝そうな顔で此方を見る。
「どうしたんだい。何だか楽しそうだね。」
「此れではいけません!!」
「何が?」
兄が怪訝そうな顔をキープしたまま、首を傾げた。
僕は西瓜を片手に、引き戸を大きく開け放った。
「縁側へ行きましょう!!」
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~~~
さて、此の家には縁側が二つ有る。
一つ目は、庭に面している。
・・・・・・が然し、基本的には背の低い植物しか植えられていない。
何せ、一番高い木で、僕より数センチ高い程度なのだ。
なので暗くなると、何が何だか全く見えなくなってしまう。
対して、もう一つの方の縁側。
此方は竹林に面している。
僕は其の、竹林に面している方の縁側に兄を引き摺って行った。
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~~~
竹林を渡る風は、夜になると僅かに涼しさを増す。
吹いている間は涼しいが、風が止むと一気に蒸し暑くなる。
空気は湿り気を帯びたままで気温を上げ、喉の奥の水分を一気に奪って行く。
冷たく冷えた果肉が喉に心地好い。甘さが無いのも、却ってスッキリとして好感が持てる。
僕はまた一口、西瓜を囓り、しみじみと思った。
縁側に来ただけで、此の満足感。自分と言う人間は、思ったより単純らしい。
隣の兄が呆れた様な口調で言う。
「単純だね。君は。」
・・・・・・言われずとも分かっている。と言うか、正に今、其の事を考えていたのだ。
・・・何だかんだで、兄弟だと言う事だろうか。
此の兄と僕が?何と不愉快な。
僕は少しだけむくれた。
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~~~
西瓜を食べ終えると、兄はポイと西瓜の皮を外へ投げ捨てた。
「・・・・・・○○さん。」
「此処は自宅だし、あの竹林も自宅だ。気にする事は無いさ。」
そして、大きな欠伸を一つして、首の後ろの方をボリボリと掻く。
僕は諫めようと口を開き掛けたが、結局何も言わずに、三分の一程が残っている西瓜をまた一口だけ囓った。
兄は一瞬詰まらなそうに此方を見たが、僕は日中の移動で疲れたのだ。あからさまな挑発に付き合う様な気力は残っていない。
一際強い風が吹く。
竹林が夜風で波の音を立てた。
眼球が乾いてしまわないように目を伏せる。
「今日はよく風が吹く。」
兄がポツリと呟いた。此方に向かって言っている風でも無いし、独り言だろう。
もちはーーー外からの風が入って来たからだろう、鼻を上げてフンフンと匂いを嗅いでいる。
「香の匂いがするね。」
兄が言う。
鼻で大きく息をしてみると、確かに甘い様な苦い様な香りが空気に混ざっている。
「・・・○○さんが焚いている訳では」
「無いよ。匂いが来ているのは竹林の方からだし、抑、私は此処に居るじゃないか。」
ならば、此の香りは一体何なのだろう。
花か何かだろうか。竹の花は六十年に一度しか開かないそうだが・・・。
・・・花。
あの赤い物は、竹の花だったのかも知れない。
僕は何気無く昼間の事を思い出し、口を開いた。
「そう言えば今日、此処に来る時に此の竹林を突っ切って来たんですけど・・・
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~~~
僕が話を終えると、兄は口をへの字にして考え込んでしまった。
「ふむ・・・・・・。」
常時チェシャ猫の如くニヤニヤ笑いを浮かべている兄にしては、珍しい表情だ。
何か知らんが面白い。
「どうしたんですか?」
僕が訪ねると、兄は竹林を指差した。
「突っ切ったって、彼処をだろう?」
何か不味い事をしてしまったのだろうか。
僕は少し縮こまりながら小さく頷いた。
兄が僕に問い掛ける。
「来る途中、小さな祠と二体の地蔵を見なかったかい?」
祠と・・・・・・地蔵?
そんな物は見なかった気がするが・・・。
「祠と地蔵・・・。大きさは?」
「そうだね・・・・・・。祠は鳥籠位で、地蔵は・・・・・・其の祠にギリギリ収まらない位の大きさだよ。」
「・・・・・・小さいですね。きっと、見ないで通り過ぎちゃったんだと思います。」
何か大切な物だったのだろうか。僕が《見ていない》と答えると、兄は何故か困った様な顔をした。
「・・・もしかして僕、何かやらかしました?」
「否・・・・・・やらかしたのでは無いかな。」
そうは言う物の、言葉の歯切れが悪い。
兄が決まり悪そうに頬を掻く。
「何なんですか、一体。」
ハッキリしない兄は気持ちが悪い。
多少苛立ちながら兄を見ると、口元に困った様な笑みを浮かべていた。
「・・・・・・。」
何かを言いたげな顔をするが、結局何も言わずにまた口を閉じる。
何かを隠しているのだろうか。僕は何をしてしまったのだろうか。兄は何を知っているのだろうか。
・・・・・・苛つく。
僕が不機嫌そうになったのが分かったのだろう。
兄がまた何かを言い掛けた・・・が、今度も口を噤んでしまう。
「何が言いたいんですか。」
「聞いても面白い事じゃないよ。それに、今日は此処に泊まるのだろう?だとすれば尚更だ。あまり面倒は好きでは無いし、話す必要性も無いからね。君が怖がってしまうのも意地悪をしている様で気分が悪い。」
兄がヒラヒラと右手を振る。
・・・昔、散々僕に嫌がらせを仕掛けて置いてよくも抜け抜けと。
「昔の事があったからこそ、だよ。私も其処まで恥知らずでは無いさ。」
僕の表情に気付いたらしき兄が、何でも無い様に言った。
そして、大きくニヤリと笑う。
「・・・・・・然し、こう仏頂面をされると気も変わるなぁ。」
「え?」
僕が聞き返すと、兄は何時の間にか普段からのニヤけ顔に戻っていた。
「話してあげようじゃないか。」
「・・・・・・何を、ですか?」
「おや、自分で聞いておいて其れは無いな。君が見たモノの正体、だろうに。」
竹林から風が吹く。
波の音が聞こえる。
混じる啜り泣きの音もだ。
「今日は風が強いから、聞こえるね。」
兄は平然としている。
聞こえるって、まさか・・・・・・。
波の音に耳を澄ます。
「あ。」
聞こえた。
昼間と同じ、あの音が。
慌てて兄の方を見る。
「やっぱり何か知って・・・!」
「だから、今から其れを話すと言っているだろうに。あまり軽い話では無いんだ。少しだけ大人しくして居てくれたまえ。機嫌を損ねない為にもね。」
「機嫌って誰の」
「次に何か言ったら話すのは止めにする。」
何時に無く厳しい口調に、渋々と口を閉じる。
兄が竹林の方を見遣る。
風が止み、何時の間にか辺りは静まり返っていた。
何時も騒がしい程の、蛙の鳴き声も聞こえない。
近所の犬の遠吠え。道路を車が走る音。
全ての音が、まるで何かに吸い取られたかの様に消えてしまっていた。
自分の心音すら、聞こえない。
耳が痛くなる様な静寂だった。
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「さぁ、話をしようか。」
いきなり耳へと入って来た音に驚く。
目の前の兄は少しだけ笑った。
静寂はまだ、部屋の中に居座っている。
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~~~
「さて・・・・・・・・・と。」
兄が人差し指で、自分が付けている面を弾いた。
静かな部屋の中、コン、と乾いた音が響いた。
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・・・そう。此処までは敢えて書かなかったが、兄は其の顔を猿の面で隠している。
何か見せられない理由が有るのか、単に顔面にコンプレックスが有るだけなのか。
学生時代は普通に顔を出していたそうなのだが・・・・・・。
兄は商売で付けているのだと言っていたが、其れならば何故に仕事の無いプライベートな時間でも付けたままで居るのか、全く以て謎である。
兄曰く、僕や一部の友人達以外の人物に会う時は面を外しているし、買い物に行く時等、公衆の面前に出なければならない場合は、ちゃんと素顔で行っている・・・・・・のだそうだが。
そんな事を得意気に言われても、当然だとしか言い様が無い。人前で四六時中面を装着している男等、世間一般から見れば不審者以外の何者でもないのだから、極々当たり前なのである。
更に言うならば、兄は僕と行動を共にする時は面を付けていなければならないそうなので、僕は兄と買い物に行く事が出来ない。(一部の店舗を除いて)
此れもまた可笑しな話だ。
まぁ、其処まで一緒に買い物に行きたいとは全く思っていないので、生活には一ミリも支障は無いのだが。
・・・話が逸れてしまった。
とどのつまり、僕が何が言いたいのかと言うと《兄は何時も猿を模した木彫りの面を付けている》と言う事なのだ。
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さて、話を元に戻そう。
兄は面を指で弾き、こう言った。
「此れからする話は、猿の面が関係している話だ。抑、此れから話す其の猿の面の話が有った故に、御先祖は此の家を買ったのだからね。」
「さて、今よりずっと昔の話だよーーーーーーー
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~~~
「さて、今よりずっと昔の話だよ。
此の家・・・とは言っても、増築や改装を繰り返し、もう面影も残ってはいないがね。此処には元々、一人の女性が住んでいた。
・・・いや、此れでは語弊が有るな。独り暮らしでは無いよ。数人の下男下女と共に暮らしていたんだ。仕事はしていなかったらしいけどね。
豪農の一人娘で、彼女は此の家から一歩も出た事が無かったらしい。」
「大切にされていたんですね。」
「否、一概にそうとも言えないさ。」
「何故に?」
「両親は違う豪邸に住んでいたそうだからね。しかも、彼女は此の家から絶対に出られない様にされていたらしい。此の家と庭、そしてあの竹林が有った場所だけが彼女の知っている《世界》だった訳だ。」
「・・・竹林は、其の頃は無かったのですか?」
「ああ。無かった。更地だったのとも違かったらしいが・・・・・・今となってはもう知る術は無いよ。有ったとしても、知った所で何がどうする事も無い。其れに此の竹林は・・・・・・まぁ、此の話は後にしよう。何事も順序が大切だ。」
「はい。」
「よし。・・・で、其の女性は《箱入り娘》と言えば聞こえは良いが、言ってしまえば一種の軟禁状態で育てられていた。正に籠の鳥って訳だ。」
「彼女は何時も面で顔を覆っていたそうだよ。漆塗りの真っ赤な猿の面でね。」
「其れは一体どういう・・・?」
「どう言うもこう言うも、其のままの意味だよ。彼女は面を付けていた。其れも、人前では決して外さなかったそうだ。」
「顔に傷でも有ったとか?」
「否・・・・・・ううん。分かっていないんだ。傷痕等は無かったと効いているが・・・。あまり判断が付かない状態だったらしいからなぁ。」
「判断?」
「・・・・・・・・・ちゃんと後で話すよ。今話したら詰まらないからね。」
「・・・・・・はい。」
「食事や風呂、寝る時さえも面を外さなかったと言うのだから、いやはや感心するばかりだ。私にはとても真似出来ない。」
「○○さんも大概外さないじゃないですか。」
「私はほら、専用の物に付け替えているだろう?其の彼女はずっと同じ面を顔に引っ付けていたそうだからね。格が違う。」
「ずっと同じ面・・・・・・。何だか不衛生ですね。」
「そうハッキリと言ってやるな。彼女にも拘りが有ったのだろうさ。」
「其れにしたって妙な話ですけどね。」
「だからこそ、親に避けられ、他人には忌まれたのだろう。・・・・・・元々、少しだけ人とは違うと言うか・・・他と比べると・・・精神面での成長が遅いと言うか・・・。」
「其れは詰まり、知的障害を持っていた、と言う事ですか。」
「・・・まぁ、端的に表現するならば、そうだった・・・・・・と言われていたのさ。親が別居し、此の家に彼女を閉じ込めていたのも、其れが一番大きな原因だろう。」
「何せ、昔の話だ・・・・・・。殺されなかっただけ、マシなのかも知れない。」
「飼い殺し、ですけどね。」
「・・・・・・嗚呼。そうだね。」
「其れでも、彼女は生かされていた。」
「そう。生かされていた。」
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~~~
其処まで話すと、兄は急に黙り込んでしまった。
単に焦らしているだけかとも思ったが、様子を見るにそうでも無いらしい。
互いに何も言わず、只、ひっそりと沈黙する。
夏だと言うのに、入って来る外気は鳥肌の立つ程に冷たい。
開いた毛穴から、其の冷気と静けさが染み込む様な気がして、僕は兄を急かした。
「話の続きは?此れでおしまいな訳ではないでしょう?」
兄は口元に手を当て、尻込みをした。
「・・・・・・・・・今更になってはしまうんだけど、聞きたいかい?」
「本当に今更ですね。」
「胸糞の悪い話だよ。」
「構いません。此れまでだって、散々そんな話を聞かせてきたじゃないですか。」
「確かにそうだが・・・・・・。此の話は、此の家で起きた事だからね。」
そして、またゴニョゴニョと口籠る。
「だから、僕が怖がって屋敷に来なくなると、そう言いたいんですか?」
思わず吐き出した言葉は、予想より刺々しい物になった。
兄はコクリと頷いた。
「うん。」
「やけにあっさりと白状しましたね。」
余りにあっさりとしていたので、僕は拍子抜けしてしまった。
兄が口元を尖らせる。
「だってグダグダと伸ばしたら君、機嫌が悪くなるじゃないか。」
僕は片眉を潜め、兄に催促をした。
「ええ。だから早く話してください。来なくなったりしませんから。」
「・・・・・・・・・仕方無いな。」
ブツブツと呟く兄。
誰に似たのかと言われれば、母に似たのだとしか言い様が無いのだが・・・。
「そんなに嫌そうな顔をしているのに、どうして続きを聞きたがるのね・・・。」
独り言なのだろう。兄が首を傾げながらそう言った。
「嫌そう?」
「・・・・・・ん。嫌そうと言うより怯えている様に見える・・・ね。」
・・・怯えている?僕が?
頬に手を遣ると、自分でも驚く程に強張っていた。
兄は困っている様な表情で此方を見ている。
成る程。さっきから妙に苛々したのは其の所為か。
「・・・・・・我ながら阿呆らしい。」
「誰が阿呆だ。」
「誰も○○さんが阿呆だとは言ってませんよ。」
「でも、さっき確かに・・・」
「言ってませんてば。いいから続き。早く。」
「本当に怖く・・・」
「怖いですよ。だからこそ、話の全てを聞かなくてはならないんです。」
キッパリと言い切ると、兄は何やら怪訝そうな顔をしながら頷いた。
兄の顔を見ているのにも厭き、足を伸ばして竹林の方を向く。
相も変わらず、周囲からは虫の音一つ聞こえない。
暗いが、本当の暗闇ではない。
遠くの街灯の光が漏れているからだ。
薄闇の中で、竹だけが浮かび上がって見える。
地面と垂直な線が幾つも空に伸びていく様は、何だか自分が檻の中に入れられた様な錯覚を起こさせた。
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~~~
彼女は、外に出られない事を、籠の鳥である事を、意外にも悲観していなかった。
庭には沢山の花が咲き乱れていた。
家の使用人は皆優しかった。
何より彼女は、外の事を何も知らなかった。
いや、例え知っていたとしても、出たいとは思わなかっただろう。
彼女は異常な程に欲が無かった。
唯一執着している面以外には、其れこそ生命を維持する事にすら無頓着だった。
彼女は、此れからも屋敷から出る事無く、何れは老いて死んでいくのだろう。
そう、両親が、使用人達が、誰もが思っていた。
思っていた・・・・・・が、そうはならなかった。
彼女が、一人の男に恋をしたからだ。
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~~~
「恋?だって彼女は・・・・・・」
僕が問い掛けると、兄は小さく肩を竦めた。
「うん。極端に欲が無かった・・・・・・筈だったんだけどねぇ。此れには両親も吃驚したってさ。」
「吃驚したって・・・!」
「生命の維持すら疎かだった・・・何て周囲からは思われていた彼女が、あろう事か《恋》だなんてね。」
フン、と鼻を鳴らして言う。
「恋の相手は使用人だったそうだ。彼女の身の回りの世話をしていた青年でね。まぁ、一つ屋根の下で共同生活だったそうだから?そんな感情が沸き起こっても?不思議では無いのだよ?」
妙に機嫌が良くなっている。
「・・・何だか楽しそ・・・・・・あ。」
兄が何かのグラスを持っていた。
横には水差しと硝子瓶。
「・・・何ですか其れ。」
「山崎!」
「銘柄を聞いた訳じゃないですよ。何をしているんですか。ドヤ顔止めろ。全く・・・・・・。」
大袈裟に溜め息を吐いて見せると、兄は少しだけ不満気に口を尖らせた。
「何をって、此処は私の家じゃないか。何を飲もうと私の勝手だね!」
そして、此方にもまた違う硝子瓶を差し出す。
「ほら、君も。さっきの西瓜の口直しだ。」
透明で凹凸のある瓶。
「・・・・・・ラムネ?」
「そう。ほら、早く取りなよ。」
「・・・・・・・・・どうも。」
中にビー玉が入っている。
「下世話な話は呑みながらが一番、てね。」
小さく息を吐き、兄がグラスを口に運ぶ。
「両親は考えてもみなかったのだろう。」
「何を?」
「娘が恋をする可能性を、だよ。」
楽し気に、然し、何処か吐き捨てる様な調子で、兄は言った。
「いや、私が聞いた話では、其れこそ彼女に心がある事さえも分かっていなかった様に思えた。馬鹿げた話だ。全くね。」
馬鹿げているのだろうか。
どうなのだろう。
親にとっては子供は何時までも子供だと言う。
ならば、心の有無は兎も角として、自分の子供が恋をする事を忘れている親は居て然るべきではないのだろうか。
・・・・・・だが、酔いどれ愚兄の相手をするのも馬鹿馬鹿しいので、僕は適当に数回頷いておく事にした。
「まぁ、今となってはどうしようも無い事か。話を続けよう。」
兄はクスリと笑い、話を再開した。
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~~~
そして彼女は、其の男の子供を孕んだのさ。
「話が急過ぎます。」
・・・・・・そう言われても、本当にそうなのだから仕方が無いね。
使用人と御令嬢の禁断の愛?
まさか。そんな訳無いよ。
少なくとも男の方にそんな感情は無かった。
彼女は、無理矢理子供を作らせたのだそうだ。
睡眠薬だか催淫薬だか知らないが。使用したって話だよ。
・・・とは言え、個人的には此処の部分は信じていないんだが。
だってそうだろう?
薬を手に入れる手段が無いよ。
彼女は完全な籠の鳥だったのだからね。
其れに、家中を探しても其の薬物は見付からなかったそうだからね。
「じゃあどうして、男性は彼女を拒まなかったんですか?」
簡単な話だよ。
・・・・・・ほら、彼女は豪農の娘だ。
此の家だって、当時は今より二回り程大きかったと聞いている。
既成事実を作り、入り婿となれば、使用人から豪農の跡取りへと大躍進だ。
いや、跡取りにはなれずとも《相手に薬を飲まされ無理矢理云々》としておけば、揺すって金をせしめる事位は出来るだろう・・・・・・。
大方、そんな所では無いかな。
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・・・・・・・・・。
「腐ってるね。」
兄はそう吐き捨て、また一口水割りを啜った。
「まぁ、結果としてそうはならなかったのだから、様を見ろと言った所か。」
アルコールの所為で、何時もより少しばかり饒舌になっているらしい。
「両親の猛反発に遭ったのさ。」
ニヤリと兄の口元が歪んだ。
「《気違いの血を遺してはならない》ってね。障害を持っている娘の為に田舎に屋敷を建て、落ち着いて穏やかに日々を過ごせる様にーー・・・何て抜かして、御涙頂戴の芝居をしていた両親の化けの皮も、一瞬にして剥がれたって訳だ。」
そろそろ、酔いを醒まさせるべきでは無かろうか。
僕は手の内の、半分程残っていたラムネをじっと見詰めた。
「此れを頭に掛ければ・・・・・・。」
いや、掃除が面倒そうだ。止めておこう。
そんな僕に構わず、兄は続ける。
「結局、子供は無理矢理に堕胎されて、女性は庭の木で首吊りだってさ。だから、もう首を吊れぬ様、此処等は竹林に、植える木は彼女の身長より低くしなければ駄目なんだ。」
「じゃあ、さっき言っていた祠と地蔵ってのは・・・・・・。」
兄はゆっくりと頷いた。
「ああ。祠は女性を、地蔵は子供と男を慰める為の物さ。祠には鳥居が有ったろう?色々とごちゃ混ぜになっているのさ。適当な事だ。」
夜風が吹いた。しかし竹は鳴らない。
自分の目が大きく見開かれるのが分かった。
「男・・・・・・。男も、彼処で死んでいたんですか?」
兄が此方を向く。
ニヤケ顔を顔に張り付かせたままだ。
面を付けている様に見えた。
「彼女の遺体は鬱血して、面を外しても猿の様に見えたそうだ。」
いや、面は付けている。猿の面を。
ならば、其処に重ねて付けている面とは?
「竹を植えたのはさ、首を吊らせない様にする為では無いんだ。首を吊ったとしても、其れを見ずに済む様にする為なのさ。ほら、竹は枝が高くに有るからね。上を見なければいいのだから。」
口元はニヤニヤと崩れる様な笑みだ。
唇が赤い。紅が注してあるからだ。
いや、此れは兄の口ではない。
ならば、誰の?
「そんな回りくどい事をせず、低い木だけを植えれば良いって?其れが、そうもいかない。ちゃんと首を吊る場所を用意してあげなければ、家の中で首を吊ってしまうからね。」
いや、よくよく見れば、此の赤は紅ではない。
血が滴っているのだ。
違う。面の赤が照り返しているからだ。
・・・・・・赤。
兄の猿面は赤では無い筈だ。
では、誰の物?
「あ、そうそう。男はね、気が触れてしまったよ。そして、やはり此の竹林で首を括って死んだ。あの祠と地蔵はね、自分達もそうなってしまう事を恐れた両親が置いた物だよ。」
目眩がする。
辺りはまだ静寂を保っている。
僕は目の前の人間一人ですら判断が危うくなって、思わず目を閉じた。
一度目を閉じてしまうと愈、自分が何処に居て誰と話をしているのか解らなくなる。
ゆらゆらと揺れる様な感覚。揺り籠に揺すられている様な・・・・・・。
いや、違う。
揺り籠よりもっと不安定で、足がぶらぶらと宙に浮くのだ。
そうか。
僕は首を括ったのか。
甘い香りがした。
目の前には、面を着けた、兄ではない、赤い猿面の誰彼が居る。
僕と同じに揺れながら、口元を手で覆っている。
啜り泣いて・・・・・・・・・いや、違う。
此れは・・・・・・・・・
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カラン、という音が聞こえた。
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~~~
其処で僕は目を覚ました。
「ほら、言わんこっちゃない。」
兄が厳しい顔で此方を見ている。
僕は数回瞬きをして、辺りを見回した。
視界の端に飲み掛けの水割りが見えた。
小さな氷が滑り降り落ち、グラスの其処に当たって音を立てる。
カラン
どうやら、僕を起こしてくれたのは此の音だった様だ。
風が吹いた。竹が鳴る。
エンジン音がして、家の前の道路を車が通り過ぎて行った。
色々な音が、戻っていた。
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~~~
何やら喋っている兄に向かい、聞いてみる。
「祠を建てられ、彼女は・・・・・・?」
兄は一瞬怪訝そうな顔をしたが、軈て、フン、と鼻を鳴らして答えた。
「何、救われる事等有るまいよ。キリスト教では無いけどね。《信じる者は救われる》だ。逆に言ってしまうとね、こうだよ。《信じない者は救われない》。彼女は、信じる信じない以前に全てを知らなかった。あの祠と地蔵が何を意味するかも当然知らないだろうさ。其れが、死んでいきなり其の全てを理解する筈が無いじゃないか。
彼女は欲しかった物の全てを手にして、今でも・・・。」
竹林の方を一瞥する。
「女性の両親は、女性の死んだキッカリ三年後に二人とも死んだんだよ。そして此の家は売りに出された。」
そして、溜め息を一つ。
「・・・・・・猿面繋がりとは言え、御先祖もどうしてこんな屋敷を買ったかな。」
其の様子が全く何時もの兄で、僕は少しだけ安心した。
「ほら、そろそろ寝よう。あまり夜風に当たり過ぎると夏風邪を引く。何処かの狐野郎に馬鹿呼ばわりされるのは癪だ。」
兄はそう言って僕を部屋の中に引き摺り込み、硝子戸を閉めようとした。
強い風が吹く。
「うわっ。」
兄が小さく声を上げた。
硝子戸が風で重くなったからだろう。
風で竹が身体を揺する。
硝子戸の向こうに、赤い物が見えた気がした。
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波の音が聞こえる。
いや、此れは波ではない。竹林が夜風に騒いでいるのだ。
誰彼の啜り泣きが聞こえる。
いや、此れは啜り泣きではない。
ならば此れは何か。
此れは・・・此れは・・・・・・。
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全てを手に入れた女の、笑う声。
作者紺野-2
どうも。
紺野です。
偶にはまともな怪談を書こうと思ったのですが、ピザポの家で聞いた話では上手く出来ないと思い、急遽、兄・・・・・・基、某お面の人との話を書きました。
結果として大失敗に終わりましたが・・・。
其の日も、もちたろうがとても可愛かったのですが、怖さが消えてしまう気がしたので敢えて書きませんでした。
季節は夏です。
お騒がせして申し訳ありません。
次回からはまた本編へと戻ります。
最後に二言。
のり姉はハロウィンを何か根本的に間違って認識しているに違いない。
ピザポのクソボケナスビ。
話はまだまだ続きます。
宜しければ、お付き合いください。