ああ、また来たな。
俺は、ちらりとそれを確認すると、無視して竿先に視線を移した。
ほぼ毎日、その子はやってくる。俺が波止場で釣りを始めると、しばらくしてその子は現れるのだ。
まあ、ほぼ毎日、釣りをしている俺も暇人なのだけど。ようやく俺は、こうして毎日、好きな釣りに明け暮れる平和な日々を送れるようになったのだ。
少し前までの俺は、仕事に追われていた。毎晩毎晩、遅くまで残業を強いられ、精神的にも肉体的にも限界を感じていたのだ。そして、今は、こうして毎日夢のような釣り三昧の日々を送っている。自分の時間なんて皆無だった少し前の自分が嘘のようだ。
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ところが、ここ1ヶ月くらい前から、俺が釣りを始めると、必ず男の子が波止場に現れ、遠くから俺をずっと見ているのだ。年の頃は、小学3・4年生くらいだろうか。別に、男の子が見ているのは不思議ではない。俺が不可解に思っているのは、その時間帯だ。ちょうどこの時間帯なら、子供は学校に行っているのではないだろうか。しかも、その男の子は、毎日同じ服を着ている。
服など、最初は気にならなかった。ところが、ほぼ毎日俺を遠くから見ているので、気になりだしたら、服がまったく変わっていないことに気付いたのだ。服というのは、ずっと同じものを着ていれば薄汚れていくはずだが、その子の服は、まったく薄汚れることはなかった。
正直、薄気味が悪かった。学校にも行かず、ただ毎日俺を遠くから見つめているだけ。しかも、毎日同じ服で。そんなことを考えていたら、なんだか、その子の様子も、青白く不健康に見えて、これってまるで。
-幽霊のようではないかー
そう考えると、俺はだんだんと気持ちが悪くなってきて、今日は釣りをする場所を変えたのだ。すると、男の子は現れなかった。俺は、ほっと胸をなでおろした。ようやく心置きなく釣りができる。やはり遠くからずっと見つめているだけの存在は気味が悪いし、だいいち子供があまり好きではない。
ところが、そのあくる日、男の子は現れた。俺は、心臓がつかまれるほど驚いた。何故?どうして俺についてくるんだよ。そんなことを考えていると、その男の子はこちらに向かって歩いてきた。俺の心臓は早鐘のように鳴った。こっちに来る!
「おじさん、こんなところで何してんの?」
ついに、俺は話しかけられてしまった。
俺はしばらくして、答えた。
「釣りだよ。見ての通り。」
ドキドキしていた。この子は本当に人間なのだろうか。
「ふーん、何か釣れた?」
男の子は海を覗き込んだ。
「いいや、まだ何も。君は、学校に行かなくていいの?」
俺は男の子に問いかけた。
男の子は悲しそうな顔をした。
「学校・・・行けないの。」
一言そう言うと、口をつぐんでしまった。
「・・・どうして?」
俺はその先を聞いてはならないような気がしたが、つい口をついて出てしまった。
男の子は生気のない、真っ黒な瞳で俺を見つめた。
井戸の底を見たような、真っ黒な空洞のような瞳。
俺は、全身が薄ら寒くなった。
「ヒロト!」
遠くから、女の声がした。
青い顔をした、俺と同じくらいの年の女が慌ててこちらに走ってきた。
すると、男の子は振り向いて女の方を見た。
「ヒロト!ダメじゃない!勝手に外に出かけちゃ。心配するでしょ?」
幽霊ではなかった。
俺は、一気に脱力した。なんだ、脅かすなよ。俺がこの一ヶ月くらい抱えた不安はなんなんだよ。
でも、この子は何故、学校に行ってないのだろう。病気には見えない。
今、巷で問題になっている、不登校ってやつか。
服も同じなのはどういうことなんだろう。ただ単に、こだわりがあるってやつか。
そういう精神の病も聞いたことがあるような気がする。
俺は今度は、男の子に対する、同情の念が沸いてきた。
俺にもそんな時期があったな。出社したくない。出社拒否症とまでは行かなかったが。
「おじさんと、話してたの。」
男の子は女に、おそらく母親であろう女にそう話した。
俺は、不審者と思われるのは嫌なので、一応竿を置いて、ぺこりと頭を下げて挨拶をした。
俺は怪しいものではありませんよ。ただ、ここで釣りをしているだけ。
お宅の息子さんは、今日どころか毎日俺のところに来ていたよ。
世の中、物騒だからちゃんと注意しておくれ。
「おじさん?そんな人どこにも居ないじゃない。」
母親はそう言った。
「おじさんね、毎日釣りしてるんだけどさ。何にも釣れないの。釣れないのに、毎日毎日釣糸垂らしてんの。へんなの、このおじさん。」
悪かったな、毎日ボウズで。
「また、この子はそんなこと言って。」
母親は泣きそうな顔をした。
「ホントだよ。ここに居るじゃない。お母さん、このおじさんが見えないの?」
今度は母親は青ざめた。
「ここは、危ないのよ。ほら見て、はいってはいけません、って書いてあるでしょ?ここは人がたくさん落ちて亡くなってる場所なのよ?」
そうだぞ、坊や。ここは、お前の来る場所じゃないんだ。
俺は2ヶ月前を思い出していた。精神的にも肉体的にもボロボロになった俺は、吸い寄せられるように、この海辺にやってきたのだ。
ここから飛び降りれば、俺は楽になれる。俺は、もうこの世界から解放されたかったのだ。毎日毎日、怒鳴り散らす上司。仕事を頼めばすぐに嫌な顔をする部下。仕事もできないくせに、一人前に権利だけは主張する、今時の若者。いわゆる中間管理職の俺は、もう人生にウンザリしていた。恋人もなく、両親もとっくに他界し、俺は一人だった。誰も相談する相手もいない。もう、全てが限界だったのだ。
「いるんだよ、本当に。そこに、おじさんが居るの。お母さん、信じて。」
男の子は母親に手を引かれ、帰って行った。
俺はほっと溜息をついた。明日からあの子は、もう来ないだろう。
俺にはやっとまた明日から、あの肉体から解放された平和な日々が訪れるだろう。
作者よもつひらさか