10月というのに、額に薄ら汗をかいて僕は、ジャケットを片手に路面電車を待っている。ここ最近の温暖化は、僕の昔の記憶を随分と狂わせて、まるで僕だけが時代に取り残されたような格好で佇んでいた。長崎って、こんなに暑かったっけ?僕は十数年ぶりに、長崎の地を踏んでいた。スマホを片手に、オープンキャンパスの日程を確認する。まだ十分時間はある。大丈夫だ。
僕の一番古い記憶は、父と母に手を引かれ歩いた広い公園。たぶん、平和記念公園だろう。ちょうどこのくらいの季節だったと思う。僕は、ある不思議な虫に心惹かれた。目の前を誘うように飛んでは、先で止まり、近づけばまた、飛んでいってしまう。その虫は自然界には在り得ないような鮮やかな青をしていた。
「ハンミョウっていう虫だよ。」
父がそう教えてくれた。
「ハンミョウはね、別名、道教えって言うんだ。ほら、道を教えてくれるみたいに、飛んで先で僕らを待ってるだろう?」
僕が触れようとすると、その虫はヒラヒラと飛んで行ってしまい、僕は何故か寂しく思ったのだ。
それからしばらくして、僕は物心つけば母と二人暮らしになっていた。あの頃の僕は、どうして父と母が別れてしまったのかなど、理由を知ることもできないくらい幼かったのだ。
母は僕を育てるために、夜の仕事を選んだ。僕は、いつも狭いアパートでテレビを相手に一人で食事をしていた記憶がある。とてつもなく寂しかったが、夜中になれば、母の帰ってくる気配がして、安堵して眠りにつく毎日。母はキャバレーに勤めていて、家には派手なドレスがあり、とりわけ、ケバケバしい青いドレスがお気に入りだった。
「お母さん、これ、まるでハンミョウみたいだね。」
僕がそう言うと母は笑った。
「本当だ。アンタ、うまいこと言うね。」
「でも、綺麗だよ、お母さん。」
「ありがとう!」
そう言うと母は僕の頭をくしゃくしゃと撫でて抱きしめてくれた。
僕らはそれなりに幸せに暮らしていたと思う。ところが、母はだんだんと生活に疲れて行ってしまった。
だんだんと、不安定になって、やせ細って行ったのだ。そしてある日、母は帰ってこなかった。僕はその夜、眠れずに朝を待っても母は帰ってこなかったのだ。僕は泣きながら、アパートを後にして母を呼びながら思案橋のあたりを歩いた。心優しい誰かに声をかけられても、それは母ではない。うろ覚えの母の勤めているキャバレーに足は向かっていた。
お母さん!
僕は目の前に母を見つけて駆け出そうとしたが、足が凍り付いてしまった。
母は見知らぬ男の人にしなだれかかって、唇を寄せていたのだ。母が僕に気付いた時の、あの目を忘れられない。いまいましく、憎しみのこもった目を。何故お前がそこに居るのだと語りかけていた。
その日、母は僕に朝帰りの理由も何も言わなかった。その日は一言も言葉を交わさなかったのだ。僕は激しく傷ついていた。僕にだって、それくらいはわかる年だった。
ー 僕は、お母さんのお荷物なのだ。ー
それからまもなく母は死んだ。一生分の涙はその時に使い果たした。
そして僕は、親戚の山口の叔父の家に引き取られていったのだ。山口は長崎の喧騒と違い、のどかなところだったが、山口には、ハンミョウは居なかった。叔父も叔母も優しくて、僕に不憫な思いをさせまいと、懸命に僕の世話を焼いてくれた。その優しさが、僕には時々痛かったのだ。
年頃になれば、僕も一人前に恋をした。初恋は、近所に住む、高校生のお姉さんだった。髪の毛は金髪、いつも半裸のような服を着て歩いていた。中学生で、多感な僕には刺激的だった。彼女はいつも僕に優しくしてくれた。そして、ある日、お姉さんのほうから花火を見に行かないかと誘われ、僕は天にも昇る気分だった。
二人待ち合わせて、花火を見た帰り道、彼女は僕を誘った。彼女に手を引かれ、神社の裏に連れて行かれて、キスをされた。
「ユウジくんは、かわいいから、Hしたげてもいいよ?」
そう言うと、彼女の手が僕の下半身に伸びてきた。僕は言いようの無い不快感を覚えたのだ。
僕がそんなことを走馬灯のようにぼんやりと思い出しているうちに、鉄のきしむ音がして、路面電車のドアがあいた。僕は乗り込んですぐに正面の座席に腰掛けた。大丈夫、大丈夫だ。もう誰に裏切られても、僕は傷つかない。強い人間になる。そう決めたんだ。僕を育ててくれた、叔父と叔母にきっと恩返しをする。
その翌年、僕は長崎の大学に合格して、大学生活を送ることになった。長崎に帰ってきたのは、やはり母と暮らした街だからなのか。叔父と叔母には少し申し訳なく思った。アルバイトをしながら、なるべく負担をかけないようにしようと思った。
そして、僕はまた性懲りもなく、恋をしていた。
ド派手なスカイブルーの肩むき出しのカットソーに超ミニスカート、髪は赤く、唇はヌラヌラと光って、目の周りは派手なつけまつげに縁取られている。
「お前、女の趣味悪いな。」
友人にはいつもそう言われた。僕の好きになるタイプはどこか共通点がある。
ずっと自分でも不思議に思っていたのだけど、ようやく今になって思い至る。
ハンミョウ。
そう、僕はハンミョウのように、毒々しい女の子が好きなのだ。
例外にもなく、そういう女の子達は、必ず僕を傷つけ、裏切る。
僕の目には、いつまでも、母さんのあの憎しみに満ちた目が焼きついているのだ。
そして、今、彼女は僕が見ていることも知らずに、僕の友人にぴったりと体を押し付けて、膝に手を乗せている。僕の胸を、真っ黒な夜の海のような不安が満たす。きっと僕は、いつもこの結末を知っているのだ。それでもなお僕は、ハンミョウに惹かれてしまうのは、母の面影を追うからなのだろうか。
僕はもう、何もかも疲れてしまった。僕はその日の午後、車をレンタルし、稲佐山に車を走らせていた。ここから見る夜景は格別だ。そう言えば、彼女ともここに来たのだっけ。でも、もうそんなことはどうでもいい。
僕が居なければ、母は苦労せずに幸せに暮らせたのだろうか。僕が幸せだと感じていた時に、果たして母もそう感じていたのだろうか。車のライトに、たくさんの虫が群れている。
「ハンミョウ?」
僕は手を広げると一つをそっと握った。そして、ぐしゃりと握りつぶす。
胸に苦いものが押し寄せる。そうだ。あの日もこんな風に。
母は酔いつぶれて帰って来た。見知らぬ男に抱えられて。
「なんだよ、ガキが居るなんて聞いてねえぜ?」
そう男は不快感を露にし、母を玄関先に討ち捨てた。
「待って、待ってよ。」
母はそう言うと、男にすがったが、ドアが強く閉められ、母はよろめいて後ろにしりもちをついた。
そして、憎しみに満ちた目で僕に言ったのだ。
「お前さえいなければ。お前さえ。」
そう言うと、おええとえづいてトイレの前で吐しゃして、突っ伏してしまった。
すえた吐しゃ物のにおいが部屋中に充満して、だらしなく投げ出した母の細い腕の静脈が浮き出ていて、綺麗だった。僕は、おもむろに母の鏡台の引き出しから、あるものを取り出した。
母は僕が何も知らないと思っていた。否が応でも母の不在をもてあましていれば、家の隅々まで知るのは当たり前だ。僕は、母がするのを真似して、白い粉を水に溶かした。そして注射器でその液体を吸い上げ、先の空気を抜くために、少しだけ液を噴射してから、この鋭くとがった先っぽを静脈に注射する。お母さんは、この注射をするときだけ、幸せそうな顔になる。僕は母に、笑って欲しかったのだ。お母さん、もう一度、僕を見て、笑って。針を突き刺しても母は起きてこないほど泥酔していた。
まさか、あの日、二度と帰ってこれなくなっちゃうなんてね。知らなかったんだよ、母さん。
そして、もう一匹、僕の手にハンミョウが止まる。捕まえようとすると、するりと僕の手を抜けた。
「待てよ。」
僕は、ふらふらとハンミョウを追って山道を歩いた。
そうだよ、お前は。思わせぶりに、いつも僕を誘っておいて。
僕、知っていたんだ。お姉さんが誰とでも寝るんだって。
あの日も僕を神社の裏に誘って。僕も他の誰かと同じなんだろう?
女の人の首って、あんなに細くてか弱いものなんだ。僕の手にあのやわらかな感触が蘇る。
ダイエットのしすぎで、ガリガリでよかったよ。あの頃まだ貧弱だった僕にすら軽がると持ち上げられるほどお姉さんは軽かった、今も、あの神社の敷地で眠ってるんだろうか。封してある井戸を開けるのには苦労したよ。きちんと蓋は元に戻しておいたから、あれから誰も気付かないでいる。
僕を裏切るから悪いんだよ。ヒラヒラと飛ぶハンミョウを捕らえて、僕はまたぐしゃりと握りつぶす。
僕は、車に引き返して、おもむろにトランクを開く。ビニールシートと毛布でぐるぐる巻きにした女を引きずり出して、地面にどさりと放り投げた。そして、山の斜面に向けて思いっきり蹴りこんだ。ゴロゴロと面白いように転がっていく。僕と友人を両てんびんにかけてたことくらいわかっている。僕はいつも、何も知らないフリをする。傷ついたところで、それは全て、自分が蒔いた種だ。
ハンミョウに惹かれてしまう、自分が悪い。
道を教えてくれるような気がして。
「バカね。」
風に乗って、声がした。
「母さん。」
僕は呟いた。
ふっと目の前に母が現れたのだ。
母さん、笑って。笑ってよ。僕に笑って。
急に足元が軽くなった。
僕の体が、宙に浮いた。
目の前にハンミョウが、いくつも羽を広げて飛び交っている。
綺麗だ、綺麗だよ、母さん。
僕の体は、深く深く谷に吸い込まれていった。
作者よもつひらさか