昨日までの五月晴れが嘘のようにどんよりと低く垂れ込めた雲から、まるで絞った雑巾からしたたり落ちるように、薄汚れた雨が降っていた。そう感じるのは、この隣に居る、ひんやりとした風が吹く午後にもかかわらず、体中から湯気が出そうなほど汗をかいた男から流れてくる空気がそう思わせるのかもしれない。
男は曇った眼鏡のせいで、表情はまったく伺えない。傘はまったく意味を効しておらず、その巨体の肩や背中は汗と雨とでぐっしょりと濡れていた。
「見た目はちょっと古いんですけどね。中は綺麗ですよ?」
口角を釣り上げたので、おそらく笑っているのだろう。
「じゃあ、参りましょうか。」
男に促されて、黙って錆付いた階段を一段ずつ昇り、男の後ろを歩いた。
「すべるので気をつけてくださいねー。」
男は一応私を気遣っているようだ。
こんなはずでは無かった。
私はまだ、そんなことを考えていた。女も20代後半ともなると、焦りを隠せなかった。ついこの間までの私は、幸せの絶頂だった。
「できちゃった。」
私は、少し不安を滲ませて、彼にそう伝えた。彼は一瞬驚き、振り向いて私を見た。
「そっかあ。じゃあ、急がなくちゃなあ。いろいろ準備しないとな。」
そう言って微笑んだのだ。妊娠2ヶ月だった。
それからの私は幸せそのものだった。式場や新居探しにと忙しい毎日だったけど、間違いなく私の人生のピークだったのだ。私の両親はすでに他界しており、私は彼の両親に挨拶をしたいと彼に申し出たのだ。すると、彼は何となく態度がおかしくなった。そのうちと言いながらもなかなか、私を両親に紹介しようとしないのだ。そして、ついに私はその理由を知ることも無く、忽然と彼は消えた。
結婚するつもりでいたから、式場のお金や、新居に入居するさいに必要な敷金などもすべて彼を信用して預けていたのだ。そのお金と共に、彼は綺麗さっぱりその存在を消してしまったのだ。自分のアパートも引き払い、契約したはずの新居も解約されていた。全てを失った。私のお腹の中の子供を除いて全て。
シングルマザーで子供を育てることも考えたが、あまりにも私には荷が重すぎた。結局のところ、苦渋の決断で子供を堕ろしたのだ。罪悪感はもちろんある。だがきっと私は子供を幸せにすることなどできない。折角授かった命を奪うことは本当に辛かった。だけどどうにもならないのだ。
全ての財産を失い、会社も辞めてしまったので、今まで住んでいたアパートの家賃を払うことができなくなってしまった。当面アルバイトをしながら、次の職を探さなければならず、もっと家賃の安い物件を探さざるを得なくなってしまったのだ。
錆びた階段を昇って、二番目のドアに前を行く不動産屋の男がガチャガチャと鍵を差し込む。中からかび臭い臭いがした。前の住人が置いて行ったであろう、貧相なヒモで引っ張るタイプの薄汚れた照明器具が目に入る。センスのかけらもない。私は小さく溜息をついた。それを察したのか、不動産屋の男は慌てて取り繕う。
「この物件は、リノベーション物件でしてね。自由に改造してくださってかまいませんよ?」
満面の笑みをたたえたその脂ぎったおでこに、べったりと髪の毛が張り付いていた。このボロ屋をリノベーションするにはどれだけの費用がかかるのだろう。私にそんな余裕があるはずもない。私はふと、このアパートを概観から見て気付いていた疑問を口にした。
「あの、このドアは何のためについているドアなんですか?」
小さなキッチンが玄関を入ってすぐにあり、その隣がトイレ付きのユニットバス、奥に六畳一間という間取りなのだが、何故かその部屋の窓の横に、明らかに無用と思われるドアがついているのだ。外から見ると、そのドアの下は軒になっており、ベランダなどは無いので、明らかにそのドアは無用のドアなのだ。
「さあ?なんなんでしょうねえ。ああ、でもご心配なく。このドアはしっかりと施錠されており、鍵も無いので、ここから侵入することはできませんよ。開かずのドアですよ。」
まったく答えになってない答えが返ってきた。
私が黙っていると、男はその沈黙が気になるのかベラベラとしゃべり始めた。
「あ、知ってます?こういう何のためにあるかわからないような無用の長物のような建築物のことを、「トマソン」って言うんですよ。語源は、プロ野球・読売ジャイアンツ元選手のゲーリー・トマソンに由来するらしいです。トマソンは、元大リーガーとして移籍後1年目はそこそこの活躍を見せたものの、2年目は全くの不発でありながら四番打者の位置に据えられ続けた。その、空振りを見せるために四番に据えられ続けているかのような姿が、ちょうどこういう芸術のような無用の長物を指し示すのにぴったりだったためそう呼ばれるようになったんですな。」
芸術とはよく言ったものだ。
「このへんはこう見えて、割と治安はいいんですよ。お客様のような、若くてかわいらしい女性が安心してお住まいになれる場所ですよ、ここは。」
ふんという鼻息が肩にかかるほど距離が近く、男の舐めるようないやらしい視線に反吐が出そうだった。だが背に腹は変えられない。私はこの部屋を契約することにした。
私の地獄のような日々が始まった。一応、隣の住人くらいには挨拶をしなければと思い、隣のチャイムを鳴らした。すると30代後半くらいの女性がドアを開けて出てきた。正直女性なので、ほっとした。幸の薄そうな痩せて小柄な女性だった。どうやら一人暮らしらしい。チラリと部屋の様子が見え、やはりこの部屋にも無用の長物、開かずのドアが奥にあった。だが、私の部屋と違い、そのドアの前には小さなテーブルがあり、位牌と思しきものとお花が供えてあった。誰かが亡くなってるのか。立ち入ったことは聞けないので、私はそれを見なかったことにし、挨拶と粗品を渡して早々に立ち去った。
女も30前ともなると、なかなか職にありつけない。アルバイト生活からなかなか抜け出せなかった。このままでは、ここの家賃もままならなくなる。どうして私がこんな目に遭わなければならないのだろう。考えまいとしても、どうしてもそういうことを考えてしまう。考えたって何にもならないのにね。今の私には泣く余裕すらない。
今日も掛け持ちのアルバイトを終え、ドロドロに疲れた体を日に焼けた畳に横たえた。そのままウトウトと眠ってしまったのだ。夜中に体の冷えで目が覚めた。そっか、あのまま布団も敷かずに寝てしまったのか。シャワーを浴びなくては。そう思いながらノロノロと頭を持ち上げた。
「コンコン・・・」
ドアを叩く音がした。私は玄関かと思い、耳を澄ましたがどうやら方向は玄関ではないらしい。まさか・・・。
私は音のした方向を見た。そのタイミングでまたドアが叩かれた。
「コンコン・・・」
私は飛び上がりそうになった。嘘でしょう?あの無用の長物のドアがノックされている。ど、泥棒?私は体を固くした。
ガチャッ、ガチャガチャガチャ・・・。ドアノブが回されたような音がした。私の体全身がざわざわと音を立てるように総毛立った。
「だっ、誰っ?」
私は勇気を出して、声にした。すると、そのドアノブを回す音が止まった。
「このドアは開かずのドアですよ。」
そう言った男の不気味な笑顔を思い出していた。まさか、あのデブ。そう思うと、今度は怒りが沸々と沸きあがってきて、思わず窓を開け、叫んでいた。
「なにやってんの?ふざけないで!」
ドアの外の軒にあの太ったいやらしい不動産屋の男がいるのだと思った。
だが、そこには誰もいなかった。だいたい、あんな巨漢がこの脆弱な軒を歩けば壊れてしまうだろう。
それでなくても、大人が歩けば一発で曲がってしまうような、やわなトタンで出来た軒である。
在り得ない。
そう思った瞬間に、震えが止まらなくなった。シャワーを浴びるのすら怖くなり、タオルケットを頭からかぶって朝を待った。泣きたかった。私にはもう、他の家に引っ越す余裕などない。だいいちまだ、契約期間なので引っ越すことはできないのだ。
「きっと聞き間違いよ。」
それが、私を無理やり理解させる、精一杯の妥協だった。
疲れているんだわ、私。
そう考えればぜんぜん平気。構えてしまえば何ということはない。
そう言い聞かせながら、私はあくる日、眠りについた。
夜中、ガチャガチャという音が、私の期待を裏切る、あるいは予想通りに聞こえてきた。
聞き間違いなんかじゃない?聞き間違い。何度も自問自答する。
「ガチャリ」
心臓が止まりそうになった。今までとは明らかに違う音だ。
開いたのだ。
そのとたんに私の恐怖が急加速して行く。見たくはないけど、目はドアを見てしまう。薄くドアが開いた。
隙間から、人の顔が見えた。小さな男の子の顔だ。私はあまりの恐怖に、その場で気を失ってしまったのだ。
朝日がカーテンの隙間から私の目を刺した。眩しさに手をかざし、私は、はっと我に返り、あのドアを見た。そのドアは何事も無かったかのように、きちんと閉まっていた。私はたまらず、あの不動産屋に駆け込んだ。
「あの部屋、なんかあるでしょう?どうしていわくつきだと言ってくれなかったんですか!」
私が怒鳴り込むと、巨漢は困惑した顔をした。
「そんなことは無いはずなんですけど。今まで借りられた方からも、何も聞いてないですし。何かあったんですか?」
本当に知らないのか、それとも惚けているのか。
私は最近降りかかってきた怖い体験を、その男に話した。
「あり得ませんよ。あそこは鍵は開かないはずです。弊社も合鍵などは持っていませんし。夢でも見られたのでは?」
そう言われて、まったく相手にされなかった。
そう言われてしまえば、夢だったのだろうか。巨漢は私を明らかに不審者を見るような目で見てきた。
お前、頭は大丈夫なのか?と言わんばかりに。
夢にしてはリアルすぎる。
夜が来るのが怖かった。私は、あのドアを箪笥で潰した。箪笥を置いておけばあのドアを見なくて済む。
気のせいよ、気のせい。気にすればきりがない。見えなくしておけば、もう大丈夫よ。女手一人で家具を移動するのは疲れたけど、ようやく私は安眠することができる。私はその日、すぐに眠りに落ちた。
「ガチャ、ガチャガチャガチャ・・・。」
夜中にドアノブを回す音で目が覚めた。
「どうして?」
私は恐怖で泣いていた。部屋の電気をつけ、部屋の隅っこでタオルケットを頭から被った。
来ないで、来ないで、来ないで。必死に唱え続ける。お経のように。
「ガチャガチャガチャ。ガチャリ。」
開錠する音がした。なんなのよ、もう。私が何をしたって言うの?
「ドンッ!」
ドアが箪笥の裏にぶつかる音がする。
「ドンッ、ドンドンッ。ドガドガドガドガガガガガ。」
執拗に開けられようとするドア。
「もうっ!やめてええええええ!」
私は耳を塞いで叫んだ。
そして、小さな子供の声が聞こえた。
「お母さん・・・開けて。」
私は部屋を飛び出し、その日は公園のベンチで朝を迎えた。
朝日が昇る頃、私はようやく自分の部屋に戻ることにした。どうしたって、私の帰る場所はあそこしかないのだ。夏とはいえ、夜は外は冷える。冷え切った体で、部屋に帰ろうとすると、隣のドアが開いて、あの小柄な女性が顔を出した。
「申し訳ありません。」
何故か女性に謝られて、キョトンとしてしまった。
「実は、うちの子が、間違えてあなたの部屋に行ってしまったようで。」
彼女は私にお茶を勧めながら、位牌の置いてある小さなテーブルのほうを見た。
何でも、毎年、彼女の亡くなった息子さんがあのドアから帰ってくるというのだ。
「貴方は私と同じ匂いがします。」
そう言われて初めて気付いたのだが、彼女は私と同じ香りの香水をつけていた。
私のつけている香水は、唯一彼からプレゼントされたもの。未練がましい自分が情けなかった。
そうか。忙しさで日にちもわからない毎日を送っていて気付かなかったけど、もうお盆なのだ。
「これがうちの息子なんですよ。」
そう言って、亡くなった息子さんの写真を見せてくれた。
私はその写真を見て、呆然としてしまった。
「違う・・・。」
思わずそう呟いた。
彼女は不思議そうな顔で、私を見つめた。
そう、あのドアから覗いた男の子は、こんな顔ではなかったのだ。
はっきりと目に焼きついているあの顔は、なんだか私に似ている。
「お母さん。」
窓のカーテンを風が揺らした。
きっと私は大切なことを忘れている。
作者よもつひらさか