music:7
良く降る雨だ、と、私は思った。
傘を差した帰り路、私の他には誰もいない。のどかな山道を、私は歩く。
「えみ」
私の名前を、呼ぶ声がする。繁みが揺れて、声が近づく。
「えみ」
sound:3
「駄目。びしょぬれじゃない」
「……えみぃ」
泣きそうな声になった、私の名前を呼ぶ声。仕方ない、という顔を作って、傘をそっと差し向ける。
「傘には入れてあげるから、ね?」
「うん」
とたん、元気が出たらしい、声。ぞわりと、私のすぐそばにやってきた、『それ』。
白い。
目が痛くなるほど、白い。
にっこりと笑った口、その奥の舌だけが、赫い。
白。ぷかりと、その文字だけが、頭の中を泳いでいく。
何時まで経っても、それには慣れない。
「えみ」
私の名前を嬉しそうに呼ぶ、この白い何か。人の形、をかろうじて保っただけのそれは、雨に濡れながらぺちぺちと動いている。関節全てを回転させるような奇特すぎる動きには慣れたが、妙に綺麗で真っ白な彼の顔立ちが、浮き過ぎていて恐怖でしかない。
そんなものに傘を貸す私も相当だが、ともかく『これ』は、私に害を加えることは絶対にない。
それが分かっているから、私は取り合えず、『これ』になんとか接している。
「そろそろ、ちゃんと歩く練習する?」
「うん。する」
素直に頷いて、それまで脚も手もぐるんぐるんまわしながら這いずってた『それ』は、一応立ち上がって二足歩行を始めた。踵とつま先の向きと、膝関節の向きをまた間違えているので、帰ったら教えなくてはならない。
「ただいま」
郊外の住宅地。自然も近いそこに立つ、とある家。表札には、『荒木』と『田中』の二つの名字。
ぺたぺた歩く『それ』と共に、玄関をくぐる。雨にまみれたように見える『それ』だけど、玄関には染みの一つもできやしない。
「おかえり、恵美」
母さんが笑いかけてきて、私も笑う。『それ』は嬉しそうに、かくかくと首を左右に揺らしている。
この、『これ』は、母さんには見えていない。真っ白の、人間の形をかろうじて保つ何かが、首を揺らしている様など、見えてはいない。
これは私の妄想なのではないか。
これは私の空想なのではないか。
そう思ったことは何度もあって、でもどうやら違うのだと、思っている自分も居て。
ともかく。
謎ばかりの『それ』との縁が出来てしまったのは、夏休みの始めのことだった。
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music:1
田中恵美という平凡な名前をもつ私は、中堅社員として日夜頑張る父親と、週三日のパート勤めに出る母親の間に生まれた。
そこそこ栄えた田舎の、安めの土地に建てられた一軒屋に、父方の祖父母と一緒に暮らしている。運動部が県大会常連という位しか特徴のない、良くある高校が私の在籍する学校だ。
平凡で、平均で、だからこそ幸せな日常。
けれど誰にでも、そんな日常を手放しかねないことが起きてしまう可能性が、何処にだって潜んでいる。
「お母さんの実家?」
夏休みの初日。両親は、どこか緊張した面持ちで、私に問いかけた。
「恵美が生まれてすぐの時から、なかなか行ってなかったんだけど……とうとう、催促の電話が来たんだ」
そりゃ当然かもなぁ、と言いたげな父さん。確かに、今年で高校三年生の私は、もう18年も母方の祖父母に会ってないことになる。けれど、そこで疑問が生じた。
確かに、母方の祖父母には会いに行ったことはない。生まれてから行ってないなら、当然だ。だけど、どうして、今なのだろう。もっと早くに、行ってもよかったはずだ。
催促だって、毎年来てもよかったはずだ。
「催促って?」
私が訪ねると、母さんがいつになく真剣に、私に言った。
「恵美には、お母さんの前の名字、教えてあったっけ?」
「……聞いたことはない、かな」
言われて、気がついた。
母さんはどこか意を決したように、口を開く。
「八塚」
「やつか?」
「八つの塚と書いて、やつかと読むの。それが、お母さんの、前の名字」
耳慣れない名字だと思った。母さんが、その言葉を口にするのを、どこか恐れている様子なのが気になった。
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急に、不安になる。
「すごく遠いとか? あ、それとも、仲悪いの?」
「隣の町にあるの。聞き覚えないかしら、八塚って地名」
しばらく考えて、私ははたと気がつく。そうだ、確かに隣の町に八塚という地名がある。県の文化財に指定されてるとかいう、名家の屋敷があるはずだ。
名前はたしか……。
「もしかして、八塚屋敷のこと?」
「そう。お母さんは、その家の生まれなの」
ぎこちなく笑った母さんに、やっぱり実家との因縁があるのだと、気付かざるを得ない。父さんも、いつになく真剣だ。
「母さんと父さんは、その、駆け落ちも同然でな。それもあって、母さんの実家には近づきにくかったんだ」
「……そうだったんだ。でも、駆け落ちなんて凄いね」
にんまり笑った私だが、両親は笑いすらしない。
なんだろう。
よほど、母さんの実家には、行きたくないのだろうか。
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「ね、ねぇ、母さん。父さん。そんなに行きにくいなら、今回は都合悪いとかって断っても良いんじゃないかな? そりゃ、せっかくの機会だとは思うけどさ」
「違うのよ」
母さんが、苦しそうに言う。
「違うの」
それはまるで、懺悔の様で。
「恵美。八塚は、母さんの実家は、ね」
その時だった。
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ちょっと古風な、我が家の電話のベル。それが鳴り響いて、私達をどきりとさせる。
「私、出てくるね」
条件反射。すぐさま受話器をとった私に、ものすごい勢いで母さんが迫る。ばっと受話器を取り上げて、母さんが私の代わりに電話へと出た。
「はい、もしもし。……お母さん」
母さんの声が、どこかほっとしたものに変わる。お母さん、つまり、私のおばあちゃん?
「ええ、はい。……顔だけ出して、すぐ帰るようにします。だって、お母さんに、一族全員敵に回すような真似させるわけにはいかないわ。大丈夫よ、いくらなんでも、八塚の名字を持たない子を、参加させるようなことしないでしょう?」
会話の内容は半分も分からないけれど、私に関わっている話だと分かる。がちゃり、と受話器を置いてから、母さんは私にしっかりと頷いて見せた。
「恵美。明日半日だけ、母さんの実家に行きましょう」
「え、ああ、うん。いいよ」
しどろもどろに応えると、母さんの顔が曇る。私は慌てて、首を横に振った。
「あ、あのね! 今までお母さんのお父さんとお母さん、死んじゃってるんだと思ってたから、ちょっとびっくりしただけ」
「……そう、そうよね。今まで、母さんの家の事、何も話してこなかったものね」
ふわりと、母さんが笑う。
それから母さんは、ある程度のところまで、母さんの家のことを話してくれた。
母さんの実家は、八塚という。
八塚家は、滅茶苦茶お金持ちだ。ありとあらゆる産業で成功し、実はかなりの大財閥らしい。金あるところが偉いの真理、元々名家と呼ばれていた血筋もあってその歴史は800年では下らない。
母さんはそんな一族の、先代当主の五番目の娘になると言う。
そんな一族の本家の血筋を引く娘となれば、例え五番目に生まれていても、大切にされる。
しかも末の娘というわけで、先代当主で……私の祖父にあたる母さんのお父さんは、母さんを目に入れても痛くないほど可愛がっていたらしい。だからこそ、お父さんとの結婚も許されたんだろう。
滅茶苦茶いいとこ生まれの母さんと父さんの結婚が成立したのは、母さんが父さんに一目ぼれで、猛烈なアタックを繰り返したせいだ。そうじゃなかったら、実家は半農家でサラリーマンな父さんは、結婚はおろかお付き合い、友達にすらなれなかっただろう。
それから、父さんと結婚したことで、母さんは完全に八塚の家とは別物って扱いになっている。例え血を分けた親子でも、八塚の姓を名乗っていない以上は、八塚家では無いらしい。でも、それでも、親子の情は確かにある。
「でもね、この八塚家の姓を返した者は、八塚家にもう一度入ることは普通、ありえないの」
私にはいまいちぴんとこないが、どうも結婚して家を出た子供が実家に帰ることは、八塚家では普通じゃないらしい。八塚家の分家になれば話は別なのだけど、相手の家に嫁入りしたり婿入りしたりすれば、その時点で実家に帰る権利を失うという。
なのに。
それなのに。
どう言う訳か、私と母さんと父さんは、夏の初めにある行事に招待されたのだ。
「ええとさ、つまり」
「普通は、しちゃいけないって決まっていることなの。でも、春姉さん。私の姉さんがね、どうぞいらっしゃってって、手紙を送ってきたのよ」
はじめは母さんも、この“しきたり”にのっとって、断っていたらしい。それでも、母さんのお姉さんは喰い下がり、とうとう母さんの両親まで話が広がったという。どう言う意味の“しきたり”なのかは、私には分からない。けれど“しきたり”よりも、お姉さんは自分の意見を押し通したらしい。
最終的には、多数決で押し負けたのだと、母さんが言った。
「だから、御免なさい。明日半日だけ、八塚の家に行きましょう」
「……行かなかったら、お爺ちゃん達が危ないんだよね」
「危ないってわけじゃない、とは、思う。でも……」
母さんの顔が曇る。
分からないけれど、私が行って事が収まるなら、行ってしまえばいい話だろう。
「大丈夫だよ」
何の根拠もなく私は笑って見せた。
次の日には、それを後悔するとも知らないで……。
つづく
作者六角
はじめましてこんにちは。
「いけにえを捧げて富を得ていた家に憑いてる蟲みたいなやつが、特定の個人に憑いてっちゃった」という話になる予定です。ホラーなのかな。
#gp2015