盛大な拍手とともに、大きな花束が贈呈された。
今日は寿退社する後輩の送別会なのだ。その場にたくさんのお祝いの言葉がばら撒かれる。後輩は何度もお礼を言って会社をあとにした。
「あーあ、とうとう真紀ちゃんも結婚かぁ」
「ジューンブライドってやつだね~」
「あんたもそろそろなんじゃないの? 彼氏35歳だっけ?」
「どうだかねー。こっちからあんまり言うのも焦ってるみたいでイヤだし」
「でも、正直20代後半にかかってくるとちょっと考えるよ。男はいつまでも現役かもしれないけど女には子供を産める年齢ってもんがあるじゃん。それを焦ってるとか言われてもさぁ」
終業時、ロッカールームで同僚の話を小耳に挟みながら、麻衣子は事務の制服から私服へと着替えていた。
「あー、私はもうそんな心配はないでーす、って顔して聞いてるよ、麻衣子は」
同僚はいたずらっぽく笑いながらこちらに話をふる。
「やだ、そんなわけないじゃん」
「一人だけ先に結婚しちゃったもんねー」
「どうやってそこまでこぎ着けたのぉ?」
「こぎ着けるも何も……健太が結婚願望強かっただけだよ」
「そっかー、そういう男を探せばいいのかー」
「探して見つかるもんならね」
そんな話をしながら麻衣子は、結婚て本当にいいものなのかな、と考えていた。
麻衣子自身はそれほど結婚願望は強くなかった。が、仕事も今のまま、子供はすぐ作らなくていい、次男だから実家に入る必要もない、という健太の説得で23歳のときに籍を入れた。いずれ結婚するなら健太とだろうな、とおぼろげに思っていたからだ。
だが、2年もすると健太の様子が変わってきた。お互い正社員で仕事をしているので、家事は分担制、突然の残業は臨機応変に、と決めてあったのだが最近はおざなりになっている気がする。食事は惣菜や弁当が多く、洗濯物のたたみ方もいい加減。食器を洗えばまだ泡が残っている始末。
「俺はこれでも一生懸命やってるんだよ。男だからうまくできないだけじゃん。お前なんか女のくせに料理の腕も上がらないし、アイロンがけもよく忘れるだろ」
「えっ、女はできて当然なの? だったら花嫁修業した人とでも結婚すればよかったじゃない!」
麻衣子は、思わず手元にあった目覚まし時計を投げつけてしまった。
その頃からだろうか、健太の残業が増え始めたのは。今までなかった休日出勤や、1~2日の出張も入り始めた。
「それってさぁ~、浮気なんじゃないのぉ~?」
ついうっかり、よく行くスナックでグチをこぼした。カウンターの向こう側で、髭の剃りあとがうっすら青くなっているママが面白そうに言う。
「ママぁ、はっきりしないのに煽っちゃダメよぉ」
「麻衣子ちゃん、大丈夫よ。あんたが選んだ旦那さまでしょ」
自称女の子たちが口々にフォローを入れた。他に客がいないため、こぞって麻衣子の話を聞く形になっている。
「そうだけどぉ、ちょっと怪しくな~い?」
それは各々が感じていたことだったらしい。誰もが口をつぐんでしまった。
「領収書とか見た? 家計簿つけたりはしないの?」
「うち、家賃や光熱費は先に出し合うんだ。給料の差があるから、アイツの方が少し多めだけどね。それ以降の財布は別々なの」
「でも、本当に出張だったりしたら経費で落ちるわけだし、奥さんに見せる必要はないわよね」
「そうねぇ……」
麻衣子がひとつため息をつくと、グラスの中で溶けた氷がカラン、と小さく音をたてた。
少し飲みすぎたのだろうか、足元がふらふらしていた。歩いて帰るつもりだったが、タクシーを使った方がいいかもしれない。だが、駅前のタクシー乗り場まではまだ少し距離があった。麻衣子は酔いをさまそうと、駅ビルの隣に設置されたバス停のベンチに腰をおろした。
すでにバスが走っている時間ではない。通りを歩く人もまばらになってきた。
「島田さんじゃないですか?」
突然名前を呼ばれて顔を上げると、見覚えのない男が立っていた。
「え、誰……?」
紺のスーツに赤っぽいネクタイ。街灯が後ろにあるため、逆光になってよく顔が見えない。
「あぁ、この格好じゃわからないですよね。ほら、黒い作業着で配送にきてるじゃないですか。トーエイの及川です」
トーエイ株式会社といえば、麻衣子が勤めている会社の取引先だ。確かに黒い作業服に黒のキャップをかぶった人たちが出入りしている。
「えっ、ああ、あの、いつもお世話になっておりますっ」
あわてて立ち上がったときに、ぐらりと視界が揺らいだ。
「……っと……大丈夫ですか? だいぶお飲みになったようですね」
体を支えられたときに、車道を走ってきた車のライトが及川を照らした。一瞬、麻衣子はドラマでも見ているのかと思った。目の前の大きなスクリーンに俳優がアップで映る、そんな感覚。及川は呆けている麻衣子をベンチに座らせると、自分も隣に腰掛けた。
「あっ、も、申し訳ありません、ご迷惑をおかけしまして……」
「ここは会社じゃないですから、畏まった言葉使いはよしましょう」
そう言って及川は笑った。
最近テレビでよく見かけるようになった若手俳優。彼の名はなんといったか。優しそうな目元や少し厚めの下唇がよく似ている。手で掬ったらさらさらと指の間からこぼれてしまいそうな黒髪が夜風にふわりとなびき、及川は少し長めの前髪を無造作にかきあげた。
その仕草に鼓動が高鳴る。それを隠すように言葉を探した。
「き、今日はスーツなんですね。いつも帽子をかぶってらっしゃるから、わかりませんでした」
「みんな同じ顔に見えますよね。本当は、僕の部署はシステム開発なんです。でも現場の苦労も知らないと、ってことでいろんな部署のやつが交代で現場に出てるんですよ」
「そうだったんですか……」
交代でということは、いつもはいないということだ。現場に出なくなれば、この先会うことももうないのかもしれない。ちらり、と横顔を盗み見ると、きゅっと胸が締め付けられるような気分になる。
一目惚れかもしれない、と麻衣子は思った。
「最近は物騒ですよ。こんなところに女性が一人でいるのは危険です」
視線に気づいたのかそうでないのか、及川が振り向いたのであわてて顔を伏せた。
「は、はい、タクシーで帰ろうと思ったんですが、その前にちょっと酔いをさまそうと思って……」
「それはちょうどよかった。僕も帰るところなんで送りますよ」
「えっ、それは……」
「あっ、ご迷惑でなければ、ですけど……」
「そんな、迷惑だなんてとんでもない。すごく助かります」
これで終わりかと寂しく思っていたところだ。内心は小躍りしたいくらい舞い上がっていた。
及川の車が停めてある駐車場までは、駅から逆方向に歩いてすぐだった。時間で課金されていく、どこにでもある有料の駐車場だ。
「どうぞ。あまりきれいじゃないかもしれませんが……」
スマートな仕草で助手席のドアを開ける。麻衣子はドキドキしながら小さな声で礼を言い、車に乗り込んだ。車種はわからないが、大衆車とは違うちょっと高級感の漂う国産車。走り出しもとても滑らかだった。
麻衣子の住所を聞いた及川は、「その辺りなら大体わかります。うちの配送ルートですよ」と笑った。
「及川さんの家もこちらの方向なんですか?」
「いや、僕は3駅隣の川の向こう側で……」
「それじゃ反対方向じゃないですか! なのに……」
「車ならすぐですよ。それに……僕があなたと一緒にいたかったんです」
心臓が、一際大きく跳ねた。一瞬、今言われたことがどういうことかわからず及川を見る。心なしか顔が赤い。
「今日会ったのは偶然じゃないかもしれないと思って言ってしまいますが、実は初めて配送業務で伺ったときに島田さんを見かけて……」
それ以降の会話はよく覚えていない。あまりに信じられなくて、耳から入った言葉が頭に留まらないのだ。
「それじゃあ、連絡待ってます」
麻衣子をマンションの前でおろすと、及川はそう言って走り去っていった。
酔いはそれなりにさめていたが、違う意味でクラクラする。マンションのエレベーターに乗り、5のボタンを押してさっきの記憶を必死に呼び起こそうとしたがうまくいかない。握りしめた手の中には、帰りしなに渡された1枚のメモ用紙があった。
「及川……俊介……」
そこには名前と携帯番号、メールアドレスが書かれていた。
健太は相変わらず出張だ、休日出勤だといって家にいることは少ない。たまに夕食を一緒にとることがあっても会話はほとんどなく、夫婦というより同居人という方が近かった。
及川とはあれから何度か食事をしていた。常にレディーファーストで、麻衣子のことをとても大事に扱ってくれた。物知りで、時事ネタから雑学までと引き出しが多いため退屈することもなく、毎回きちんとマンションの前まで送り届けてくれ、麻衣子に手を出すようなこともしなかった。
「及川さんって紳士よね」
暗闇の中、住宅街を車で走り抜けていく。先ほどから、フロントガラスには大粒の雨がパラついていた。
「僕が?」
「だっていつもちゃんとマンションまで送ってくれるでしょ」
「そりゃあ……麻衣子さんが結婚してるのは最初から知ってたし、それでもいいから会ってほしいと言ったのも僕だし。そのせいで麻衣子さんの幸せが壊れちゃったら……」
マンションに近づくにつれ、雨足は強くなっていく。
「でも……最初は見てるだけでも満足だったのに、あのバス停で声をかけてしまったら電話したくなって、会いたくなって……どんどん僕は欲張りになってる」
もう雨は土砂降りに近くなっていて、前が見難いのか、いつもならマンション入り口に横付けするところをずいぶんと手前で停車した。ワイパーを止めると、水の流れで外がまったく見えない。きっと外からも中の様子はわからないだろう。
「最近いつも思うんだ。何でもっと早く会えなかったんだろうって。もし旦那さんより僕と会うのが早かったらって」
及川の左腕が麻衣子に伸びた。そのままぐっと引き寄せられ、きつく抱きしめられる。
「もう、ずっと触れたくて触れたくて仕方がなかった」
しばらくそうしていたが、腕の力が緩んだかと思うと突然、体を引き離された。
「これ以上は……」
離れていく及川の手が震えている。相当な意思の力で理性を保っているかのようだ。
このとき、麻衣子はついに離婚を決意した。
次にきた及川からの連絡は、麻衣子をへこませるのに十分な内容だった。半年間、沖縄に出向になったというのだ。思わずついていきたい衝動に駆られたが、その間にやることをやっておかなければならない。そうすれば、及川が帰ってきたとき晴れて堂々と一緒にいられるのだ。
『帰ったら、また連絡してもいい?』
「もちろん」
離婚しようとしてることは、まだ及川には秘密だ。半年後の驚いた顔を想像すると笑みがこぼれた。
健太は、麻衣子の突然の申し出に「わかった」と言っただけだった。そのまま簡単にことが運ぶかと思われたが、財産分与と慰謝料に関して口論になったため、結局調停をおこすはめになる。感情的に一緒に住めなくなり、麻衣子は一旦実家に帰ることにした。このマンションの名義は健太だし、別に欲しいとも思わない。何より、実家の方が及川の住んでる地域に近いのだ。
ようやく離婚が決まったのはそろそろ冬に差しかかろうとする頃、及川が沖縄に行ってから3ヵ月後のことだった。
及川からは2~3日おきくらいに連絡が入った。口では会いたいだの、顔が見たいだの言うのだが、メールには一切書かない。記録として残ってしまうことへの配慮なのだろう。
沖縄からの最後のメールは、
『今、那覇空港。これから搭乗します』
だった。
この日に合わせて3日間の有給をとった麻衣子は、及川の最寄駅の改札で待つ。サプライズだ。麻衣子は手にはぁっと息を吹きかけると、通路沿いにある窓の外を見た。まだ陽が高いというのに今日はずいぶんと冷え込む。もしかすると雪になるのかもしれない、などと考えながら改札付近に視線を戻すと、人ごみの中、寒そうに肩をすくめて歩いてくる彼の姿が見えた。
スマホ片手にうつむいて歩いている。大方、麻衣子にメールを送るため、今駅に着いたとでも打ち込んでいるのだろう。
及川は聞きなれたメールの着信音にふと顔を上げた。そこには、恋焦がれた人の笑顔があった。
「びっくりした?」
「ど……して……? まだ仕事の時間じゃ……」
「今日から3日間、有給を取りました。さ、行こ」
「有給……え、行くって、どこへ?」
「及川さんち。ね、連れてって」
驚きから徐々に喜びがこみあげてきて、笑顔になりかけた及川だったが、それを聞いてまた表情が戻る。
「ダ、ダメでしょ、それは。万が一のことがあったら、君が不利になる」
「大丈夫。いいから早く」
麻衣子に押し切られ、2人は及川のマンションへと向かった。駅からほど近い、まだ新しい14階建てのマンション。その最上階のワンフロアすべて、が及川の自宅だった。
「……!」
今度は麻衣子があんぐりと口を開ける番だった。
勧められるままにリビングのソファーに座る。
「及川さんって……お金持ちだったんだ……」
「父親がね。僕はいたって普通のサラリーマンだよ……コーヒーでいい?」
麻衣子がうなづくと、及川はカウンターキッチンの向こうで食器を出し始めた。
「そんなことより、本当に大丈夫? 部屋に入ってしまったら、本当に何もなくても信じちゃもらえないよ。今すぐ帰るのならまだ間に合うけど」
ごりごりとミルで豆を挽く音と香りに誘われて、麻衣子が及川の隣に並ぶ。
「私ね、離婚が成立したの。今は独身だよ」
及川の手が止まった。
「安心して。及川さんのせいじゃないから。もうとっくにダメだったんだよね、うち。だから思い切って私から離婚を言い出したの」
「じゃ、じゃあ……」
「今だから言うけど……あの日バス停で会ったときから、私も及川さんのこと……」
そこまで言えたかどうか、あとのセリフは及川の腕の中で小さく消えた。
麻衣子は有給休暇中、ずっと及川のマンションで過ごした。2人は今までの抑制状況から一気に箍が外れたように愛し合った。一緒に食事を作り、一緒に洗濯物を干し、一緒に風呂に入って同じベッドで眠った。及川は家事の一通りをこなせたが、麻衣子ができなくても「初めからできる人なんていないよ」と笑っていた。
そして帰る間際に言われたこと。
「僕、考えたんだけど……ここで一緒に暮らさない?」
「ホントに?」
「うん。僕のあげられるものなら何でもあげる。このマンションでも車でも。だから……僕に君をください……僕は君だけいれば、それでいい」
1ヵ月後、引越しをすべて終えた麻衣子は片付いた部屋を見回して満足げにうなづいた。
「コーヒー淹れたよー」
リビングから声がかかったので、エプロンを外して洗濯機に放り込む。
「ありがとう、俊介」
「それと、これね。僕の方はもう書いてあるから」
それは婚姻届だった。茶色い枠線の中に、きれいな文字が並んでいる。すでに押印もされていた。麻衣子もペンを持ってきて記入していく。女性は離婚後半年間は再婚できないので、今書いたからといってすぐ提出できるわけではないのだが、及川の希望で先に書いておくことになった。
「これでよし、っと」
旧姓の印鑑を押して及川に手渡す。
「そんなに急いで書かなくても、私は逃げないのに」
そう言ってくすくすと笑った。家は最上階。広いし眺めも最高だ。旦那さまは三男で芸能人かと思うほどのイケメン。通いのお手伝いさんもいてお金に不自由することもない。何より自分のことをお姫様かのように扱ってくれる。これ以上の幸せがあるはずがない。
「うん、僕がもう逃がさないからね」
麻衣子はコーヒーを一口飲むと、ふふふ、と幸せそうに笑った。
「じゃあ、そろそろ始めようか」
「え?」
リビングの中央にダイニングテーブルのいすを移動させると、ここに座って、と及川は言った。言うとおりにすると、あっという間に麻衣子の手足は結束バンドでいすに括りつけられた。
「な、何……? どうするの……?」
「君を僕だけのものにするんだよ」
キッチンの引き出しから取り出してきたものは……。
「君は僕と出会って旦那さんを捨てたよね」
「そ、それは……」
「また誰か好みの男がいれば、ついて行ってしまうかもしれないだろう?」
どっと冷や汗が流れてきた。背中に一筋、冷たいものが流れるのがわかる。
「あ、あと2ヶ月もすれば婚姻届が出せるじゃない! それで私は俊介のものでしょう!?」
「もちろんそれは提出するよ。けど、あんな紙切れにそこまでの拘束力がないってこと、もうわかってるよね?」
及川が微笑みながら近づいてくる。右手にアイスピックを持って。
「最後に僕の姿を目に焼き付けて。忘れないで」
「……ひっ……!」
及川が麻衣子のひざの上に片足をのせる。そのままアゴを掴み、麻衣子の顔を上に向かせた。
「大丈夫、そのきれいな顔には傷をつけないから」
「ああああぁぁぁ……」
眼前に迫ってくるアイスピックから目が離せない。
「他の男を映すくらいなら、もうその目はいらない」
きつく瞼を閉じるが、そこに筋肉はない。隙間からグジュリ、と音をたてて何かが刺しこまれた。
「僕がずっと守ってあげるからね」
作者絵ノ森 亨
どうもどこかに不備があるような気がしてならない…(-˝˝-)
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