その人の名前は「芦田 賢人」(あしだ けんと)と言った。
お兄ちゃんに生き写しの青年は、他人の空似。
その青年は、教祖の甥っ子だというのだから、本当に他人の空似なのだろう。
しかし、どこから見ても、お兄ちゃんにしか見えない。
長身で細身、仕草など、お兄ちゃんとそっくりだった。
たった一つ、違う所があるとすれば、表情。
賢人は、表情が乏しく、ほぼ無表情で話をする。
だいいち、お兄ちゃんの中身は違うかもしれないのに。
私は危険にさらされるかもしれないのにも関わらず、思わず声をかけてしまったのだ。
信じたくない。私の中であの出来事は悪夢であってほしい。そういう願いがあったのかもしれない。
私は、あれっきりあのセミナーに行かないと心に決めたにも関わらず、ゆいに誘われるまま、ついていってしまった。
どうやら、ゆいは、賢人に心を奪われてしまったらしい。
「賢人さん、かっこいいよね!」
ゆいは暇さえあれば賢人の話をした。
気功セミナー後の講義も、これといった危険な思想ではなく、どちらかといえば、啓発セミナーのような内容だったので、問題は無いと思ったのだ。
私も賢人に会いたかったのかもしれない。
お兄ちゃんの面影、そのものの賢人に。
賢人は、教祖の助手のようなことをしていて、言われたことを訥々とこなして行く。
無表情、言われるがままに仕事をする様は、まるでロボットのようだ。
ゆいに言わせれば、無表情はクールなのだそうだ。恋は盲目だ。
何度目かのセミナーの参加のさいに、私は賢人さんに、特別なセミナーに参加してみないかと、誘われた。
ゆいは誘われてないようだ。何故私だけなのだろう。不思議に思い、ゆいと一緒ではダメなのかと問いかけてみた。
「君は、聡明な人だから、きっと我々の本当の教義を理解してくれるはず。芦田教祖じきじき、君に参加して欲しいとのことなんだ。」
私は、戸惑った。確かにゆいは今、セミナーは二の次で、賢人さん目当て来ているようなものだけど。
私が特に、このセミナーに理解があるとはわからないだろう。
可もなく不可もなく。私も、ある意味、賢人さんと会いたいからここに来ている。
ただし、ゆいのように恋愛感情ではなく、家族だったお兄ちゃんを賢人さんに見ている。
ずっと、家族を失い、寂しかったのだ。何だか、お兄ちゃんが帰ってきたような気がして。
訝しげに思いながらも、お兄ちゃんが私にだけ声をかけてくれた。
そんな幼稚な優越感から、私は頷いてしまった。
その日は、いつもの講堂とは違う所に、招待された参加者が集められた。
建物に地下があるとは、知らなかった。
私の隣には、賢人さんが座った。
長いテーブルが縦にいくつも並べられ、列をなし、それぞれが席に着いた。
すると、何かがテーブルに運ばれてきた。
銀の丸い蓋に覆われた皿が、それぞれのテーブルに運ばれ、蓋を開けて行く。
そして、私の目の前の料理と思しき皿の上の蓋も開けられた。
その皿の上には、禍々しい赤いものが乗っていた。
悪臭に私は、思わず鼻を押さえた、
血の匂い。
なにこれ。
そこには、明らかに、生の肉と思しきものが乗せられていた。
「さあ、みなさん、どうぞ。お召し上がりください。」
テーブルには、ナイフもフォークも用意されていない。
私が戸惑っていると、隣の賢人さんが、それを手づかみで口に運び、咀嚼した。
私は、驚いて賢人さんを見た。口の周りは血塗られており、初めて賢人さんが笑ったのだ。
私は恐怖で、席を立ち上がった。
そして、出口に向かって小走りに逃げようとした。
「どこに行かれるのですか?」
出口で信者と思われる男性に引き止められた。
すると、いつの間にか賢人さんが、すぐ後ろに居て、私の手を引いた。
「さあ、席に戻って。かおり。」
私は、賢人さんには、今までずっと苗字で呼ばれていた。
もしかして・・・。
「お兄ちゃん?」
「かおり、心配かけてごめんね。僕は指名手配されているから、言い出せなかったんだ。」
私の腕が強く握られた。お兄ちゃんが口だけで笑った。
【続く】
作者よもつひらさか