私の家は旅館を大正時代から
営んでおりました。
6月になると雨が付き物で、旅館には番傘が
何時も備え付けてありました。
その傘は奇麗で、お客さんによっては土産物に
する人も多く見受けられ
私の旅館では、常時10本以上が土産物用に番傘を
用意しました。
小さな旅館ですから、土産物のスペースは無く
番頭さんの居る玄関先の部屋に見えるように
並べて販売しておりました。
その傘を作る職人さんは、この温泉街にも少なくなり
一人細々と作る職人さんがいるだけになりました。
そんな中、私はその職人さんの家に週二,三回家で作った
おかずやご飯を運んでおりました。
もう70近くなり頭は禿げあがり曲がった背を起こしては、
私が行くと色々な傘にまつわる話をしてくれました。
老人には親せきがおらず、家族も居ない一人暮らしで
内のおばあさんや母は、いつも気遣ってました。
私が行くと、自慢の一本を見せて「先代が私に託した傘だ。
この傘は日本中捜しても1本しかない
名刀で言うと正宗だ。」と言い
「私が死んだ時は、この傘を抱いて死にたい。」と口癖のように言ってました。
親も生活が大変だろうと売れた傘の代金は、すべて老人に渡してました。
そんなある日、老人が傘を届けに来なくなりました.
お婆さんや両親は心配して、見に行くように私に言いつけました。
私は急いでおじいさんのところに行きましたが
おじいさんは家に居ませんでした。
あの自慢の傘が1本無くなっており
おじいさんが持ち出したのだなーと思い私は家に戻りました。
そしてその夜。
もう一度おじいさんの家を訪れると
おじいさんが、仕事場で仕事をしておりました。
しかし様子がおかしい。
私が声をかけても一向に返答がない。
私はおじいさんの前に回り、下を向いている顔を見た。
目がくぼみ、くぼみの中の瞳が無かった。
私は驚きのけぞって逃げた。
玄関先まで来るともう一度戻り確かめようと思った。
その時私は「おじいさんは死んでいる」と直感した。
しかし私の目の前で動き、傘を作っている。
どういうことなのか理解できなかった。
しばらく、ジーと私は、おじいさんの脇で眺めていた。
おじいさんは私の見てる前で、傘の骨をくみおわった。
そして、組み終わった骨を私に渡して
その場で崩れるように倒れた。
私は救急車を呼んだ。そのあと家に電話して家族が駆け付けた。
しかし、おじいさんは死んでいた。
私に傘を渡すまでは生きていたのにと思うと涙が出てきた。
救急隊員が来たが、もう亡くなっていることを確認すると
最寄りの病院に連絡して帰っていった。
おじいさんを寝かせて、家族で拝んだ。
医者が駆け付けてきて、おじいさんの体を診察して驚いた。
「死後硬直からすると、3日は立っている。
本当に先ほど亡くなったのか?」と聞き返してきた。
父は「息子が来て未だ2時間しか経ってない。それまで傘を作っていた」と証言した。
何も言わず、医者は書類を書いて「親族に渡して下さい」と言うと帰っていった。
身寄りのいないことがわかっていたので、父が封筒を開き読んだ。
死因(心筋梗塞。死後3日)と書いてあった。
「どうして3日」と私が詰め寄ると
お婆さんは「お前に最後の傘を預けたかったんだよ」
と言うと母は泣きだして呆然としている私を抱き寄せた。
おじいさんの遺体のそばには、あの大切にしていた傘が二つ並べられた。
火葬する時には、その傘も一緒に燃やした。
今旅館には、天井からつるした、骨組だけの傘が飾られている。
おじいさんが戻ってくるところを教える為に。
作者退会会員
不思議な話です。
死んでから3日間生きていた
話です。
信じられませんが本当にあった話です。