冬堂美子は、夜が更けて客足の途絶えた六花のカウンターを眺めていた。
「そろそろ店を閉めようかしら。」
彼女は立ち上がり、カウンターの電気を消して外に出た。
三月とはいえ、まだ夜は冷える。手をさすりさすり、看板の表示をcloseに変える。
「よ、奥さん。」
美子が振り返ると、煙草を咥えた深山がひらひらと手を振っていた。
「何の用?今日はもう店仕舞いよ。」
冷たく美子が言い放つと、深山はへらっと笑って彼女の肩に手を掛けた。
「そう言わずにさ。水でいいから出してくれよ。今日、行き付けの居酒屋が休みなんだ。」
なっ、頼むよ、と拝む彼を見て、美子は溜め息をついた。
「仕方ないわね…。入って。」
カウンターの灯りが再び灯ったのは、そのすぐ後の事である。
ー
「はい、さっさと飲んで帰って頂戴。」
ことりと音を立てて、カウンターにコーヒーが置かれる。
「んっ、水で良かったのに。」
「喫茶店やってるのに、常連客に出すのがお水だけ、なんて駄目よ。コーヒーくらい出すわ。」
ほう、と深山は頷いた。
「なるほどな。でも、どうせならぐっすり眠れるホットミルクが良かったな。」
「あら、文句あるなら飲まなくていいわよ?」
美子がカップを下げようとすると、深山は慌ててその手を押し留めた。
「や、待て、冗談だ。ありがたく頂くよ。」
彼はコーヒーを啜り、一息ついた。
「…なぁ、奥さん。」
「何よ?」
「ちぃっとばか頼みがあるんだが、いいか?」
美子は洗い物をする手を止め、深山に目をやった。
「…何、変な事は嫌よ?」
「俺を何だと思ってんだよ。」
「セクハラ刑事。」
「あのな…。」
言われて当然の言葉に苦笑しながら、深山は咳払いをした。
「話を戻すぞ。奥さん、もし良ければ今週の土日に娘と旅行に行ってくれないか?」
「え、律子ちゃんと?」
「ああ。」
美子は少し考えてから、申し訳無さそうに言った。
「ごめんなさい、お店急に閉める訳にはいかないのよ。先生に頼んでみたら?あの人ならいつでも暇よ。」
すると、深山の顔色が変わった。
「冗談じゃねぇ!娘を野郎と二人きりで旅行に出すなんて出来るかよ!」
その様子を見て、美子はくすりと笑った。
「あらあら、律子ちゃんの事になると潔癖なのねぇ。そもそも、どうしてそんな話を?」
彼女が尋ねると、深山は困ったように溜め息をついた。
「実はな。こないだのピアノの事件体験してから、あいつ民俗学者になるって言って聞かなくなっちまってよ。手始めに、座敷わらし伝説のある宿を調査しに行くらしいんだ。カミさんがついていくつもりだったんだが、急な用で行けなくなってな。俺は休むとまたジョーのヤツがうるさいから行けねぇ。それで、保護者がいなくなっちまったんだ。」
「なるほどね…。」
確かに、中学二年の娘に一人で外泊はさせられないだろう。
「でも、私は無理よ。ここのお店は私一人だし、やっぱり先生に頼んだらどうかしら?」
深山は深々と溜め息をつき、立ち上がった。
「分かったよ。明日、あいつの所に行ってくる。いくら何でも、刑事の娘をどうこうしようとするほどあいつも馬鹿じゃないだろう。」
カウンターにコーヒー代を置き、去りかけた彼を美子は呼び止めた。
「何だ?」
「お代。今回は要らないわよ。どうせ営業時間外だし、サービス。」
深山はにやりと笑った。
「おいおい、俺は妻子持ちだぜ?」
「何勘違いしてるの、プライベートのお客さんからお金取るほど私意地汚くないわよ。」
「はは、すまんすまん。」
呆れたような美子の声を背にして、深山は店を出ていった。
ー
「…で、なんで俺んとこに来るわけ?」
晴明は、珍しく弱りきった表情の深山に向かってぶっきらぼうに訊いた。
「俺、その子と会った事もないんだぜ?女将の言う通り、おっさんに頼みゃいいじゃん。」
「それが断られちまって。何でも締め切りが迫ってるとか…。」
「ふーん、おっさんにも締め切りとかそーゆー概念あるんだ。経凛々は?」
「経凛々?ああ、言の葉な。あいつは駄目だ、娘のボディーガードしてくれって頼んだら、荒事は好かないとか抜かしやがった。」
全く、気障な野郎だぜ…と、深山が溜め息混じりに呟いたのを聞いて、晴明は呆れたようにかぶりを振った。
「そりゃ頼み方が悪いぜ。もっと上手く誤魔化さねぇと。中学二年の可愛い女の子と二人きりで宿に一泊できますよーとか言ったら良かったのに。」
半笑いで言った晴明に、深山は顔を真赤にして詰め寄った。
「なっ…何だとぉ、貴様何考えて…!」
「おっと、ここでキレんなよ?ここ一応ペットショップだからな、営業妨害になるぜ。」
「く…!」
握り拳を解き、深山は溜め息をついた。
「…とにかく、お前の硬派な所見込んで頼んでんだ。」
「こ、硬派…。」
晴明の脳裏を美子の顔が過る。
確かに自分は年下に興味はない。だが、硬派というほど女性に興味が無いわけではないのだ。
どこをどう見込まれて自分が硬派である事になったのかは分からないが、付き合いの長い深山が言うのだからそう見えるのだろう。
まあ、高校を卒業してからずっと暇だったし、何よりタダで旅行に行けるときた。
「しゃーねーなあ、その仕事引き受けてやるよ。」
晴明が少し威張ったように言うと、深山はぱっと表情を明るくした。
「ほ、ほんとか!?…んーっ、晴明ぃ!」
深山に抱きつかれ、晴明は慌てて身を捩った。
ー
その週末はよく晴れた。
待ち合わせ場所のバス停で、晴明は大荷物を抱えて立っていた。
これから二日間、初対面で年下の女の子と外泊だ。興味はないが、緊張はする。
しかし、深山の娘だ。どうせ目つきも悪くて眉毛太くて髪の毛ボッサボサで煙草臭くて…。などと考えていた彼の鼻腔を、爽やかなシャンプーの香りがくすぐった。
「あの…。」
来たか。
晴明は振り返り、そして言葉を失った。
…全っ然あのジジィに似てない。カケラもあのジジィの要素がない。要するに、可愛い。
「安倍さん、ですか?」
「えっ?あ、ああ。」
声をかけられ、我に返った晴明はかくかくと頷いた。
律子は晴明を値踏みするように見て、言った。
「へぇー、元ヤンて聞いてたからピアスとか開けてるかと思ったけど、そういうのないんだ。意外とケンゼンなんだねー。」
「…。」
そこで直感した。こいつ、可愛いの見た目だけだ。多少はイラッとしたが、そこで怒るほど子供ではない。
「それじゃ…行こうか。」
「はーい、よろしくお願いしまーす。」
にっこり笑って、律子は晴明に荷物を押し付けた。
ー
バスに揺られること小一時間。窓の外の景色はいつの間にか、住宅街から緑深い山の中になっていた。
律子は晴明の隣で船を漕いでいる。朝早かったので、まだ眠いのだろう。
目的地に着くまで、まだしばらくかかりそうだ。晴明はバスに乗る前に渡された旅館のパンフレットを開いた。
『座敷わらしに会える宿、童谷温泉。』
キャッチコピーと共に、宣伝写真が沢山載っている。露天風呂の写真や、マスコットキャラクターのイラスト。土産物の饅頭など、座敷わらしを存分に宣伝に使っている。
晴明は訝しげに首を捻った。
「…怪しい。」
「何がですか?」
「わっ‼」
隣を見ると、律子がパンフレットを覗き込んでいた。
「起きてたの?」
「さっき起きたばっかです。」
「ふうん…。」
小さく欠伸をして、晴明が目を閉じると、律子がその肩を揺さぶった。
「駄目ですよ!もう少しで着くんだから、そろそろ準備しないと。」
「あ、そう。」
ガタン、と音を立て、バスが停車した。
二人は席を立ち、大量の荷物を抱えてバスを降りた。
ー
大きな鞄を引き摺って(といってもほとんどの荷物を持っているのは晴明だ)、二人は険しい山道を歩いていた。
「ねぇ、律子ちゃん。本当にこっちで合ってるのか?」
「合ってます!安倍さん心配しすぎです、私を何だと思ってるんですか?」
「深山の娘。」
「あのね…。」
律子はふうと溜め息をついた。
「それは確かにそうですけど。もうちょっと言い方あるでしょ、もう…。安倍さんて気の利いた事言えないタイプですか?」
「…っせーな、ほっとけよ。」
「うわー、口悪ーい。そうやってずっとむすっとしてると嫌われちゃいますよー?」
「だーかーら、ほっとけって!」
やれやれ。流石はクワガタジジィの娘、手こずらせやがる。先行きが不安になってきたぜ。晴明は溜め息をついた。
暫く歩くと、そこらじゅうに生えていた木はいつの間にか数を減らし、丈の高い草ばかりがぼうぼうと生えているような場所に出た。
「なあ、本当に…。」
「合ってます‼…多分。」
「…おい多分て何だよ」
「もーっ、合ってるったら合ってるんですーっ!どうしてそんなイジワル言うんですか?」
「別にそんなつもりはねぇよ。」
律子は晴明の言葉を遮るように溜め息をついた。
「あーあ、やっぱ元ヤンだなぁー。怖い怖い。」
「おま…!」
人を聞いた話だけで判断すんな、と怒鳴りかけて、晴明は辛うじて言葉を飲み込んだ。
ー
「着きましたぁ!」
律子が指差した建物を見て、晴明は目を疑った。
「なあ…。ほんとにここ?」
「そうですよ。ほら、看板出てるし。」
「でもさ。パンフの写真と全然違くない…?」
そう言って彼が取り出したパンフレットには、小綺麗な古民家風の建物が載っている。
しかし、今目の前に建っている建物は何だ。ほとんど潰れかけたようなボロ家じゃないか。
「え?そうですか?」
律子は首を傾げて、パンフレットと建物を見比べている。。
貴様の目は節穴か。これが女の子じゃなければぶん殴っているところだ。
「とりあえず、早く入りましょーよ。あたしお腹すいちゃって。」
彼女はさっさと建物に入っていく。
「お、おいちょっと待てって!」
晴明は慌ててその後を追った。
ー
「ようこそおいでくださいました。」
旅館の入り口で、優男風の男性に柔らかな微笑みで出迎えられた。どうやらこの旅館の若旦那のようだ。
「本当、若い方が来てくださるなんて珍しくて。どうぞ、ゆっくりしていらしてくださいね。」
「はーい、ありがとうございまーす♪」
律子が甘ったるい声を出しているのを見て、晴明は呆れた。いい男にはデレデレって訳か。
襖を開けると、井草の香りがつんと鼻をついた。
通されたのは広々とした和室で、窓からは小さな池に金魚が泳いでいるのがよく見える。
律子は畳に転がり、大きく伸びをした。
「ひろーい!これなら二人寝ても余裕ですね!」
「え?二人…って、別の部屋じゃないの、俺達。」
「えっ、何言ってるんですか?同じに決まってるでしょ、部屋一つしかとれてないんですから。」
その言葉を聞いて、晴明は絶句した。
「それ…。よくあのジジィ、いやお父さんが許したな!」
「そういえばそうですね。でも、あたし全然安倍さんの事好みじゃないんで大丈夫ですよ?むしろ嫌いなタイプです。布団は離して敷いてもらおっかな。」
「はあはあ、さいですか。」
今更何を言われても驚くものか。晴明は律子の口から飛び出す毒に眉ひとつ動かさず、相槌を打った。
しかし、こいつにはデリカシーというものがないのだろうか。まあ、そういうところも父親譲りか。
律子は畳の上にあぐらをかき、スマートフォンを取り出した。
「あたし、どちらかというと線の細い醤油顔が好きなんですよ。…ほら!」
アイドルの写真でも見せられるのか、軽く流そうと適当に頷きながらその画面を覗きこんだ晴明は思わず声を上げそうになった。
そこに映っていたのは、不意を突かれたような様子で強張った表情をカメラに向けている経凛々だったのだ。
「き、君、この人…。」
「あ、知り合いですか?」
はあ、と律子は溜め息をついてスマートフォンを撫でた。
「ちょっと表情が乏しいとこありますけど、そこがまたいいんですよね…。何か普通の人じゃないみたいだけど、もしそうならなんかロマンチック…。人間の女の子とイケメン吸血鬼の禁断の恋、みたいな感じで。」
「アマアマの洋画の見すぎだろ。」
「何よ、そんなにバッサリ切り捨てることないじゃない。」
「いい年ぶっこいてガムシロ並みの妄想にドップリなのがムカつくだけだ。」
大体あいつは日本の妖怪だ。バンパイアなんて洒落たもんじゃない。しかし、それをわざわざ言うこともない。
大きな欠伸をして、晴明は畳に寝転んだ。
「ほら、探索はいいのか?座敷わらしの調査に来たんだろ。」
「あ、そうでした!」
律子は鞄からノートとペンを取り出し、晴明の体を揺さぶった。
「ほら、行きますよ!」
「え、俺も?」
律子はさも当たり前かのように頷いた。
「当たり前田のクラッカー!そうでないと安倍さんが来た意味ありませんよ?」
「ちょ、当たり前田って…。幾つだよ!」
晴明は引きずられるようにして、律子と共に建物内の探索へと乗り出した。
ー
廊下は長く、奥の方は暗くなっていて見えなかった。外から見た時は、そこまで広くは見えなかったが。
「まずは旅館の人に取材ですよ!仲居さんとか、その辺にいないかな?」
暫く辺りを探索してみたが、人の気配はしない。
「変だな、さっきまで沢山いたのに。」
「休憩時間にでも入ったんじゃねぇのか?」
興味なさげに言った晴明を、律子はムッとしたように見た。
「安倍さんも真面目に探してくださいよ。ちゃんと探せば誰かいるかも知れないじゃないですか。」
「探してんのに見つからねぇから困ってんだろ?」
「だから、もっとしっかり隅々まで!…全く、やる気あんの?」
その強い語気にカチンときたのか、晴明は口調を荒げた。
「あのなぁ、俺は別にこの宿の伝説なんて興味ねーし、来たくて来た訳でもねぇんだよ。深山のクソジジィが金も出すって言うから、やりたくもねぇちびっこのお守りしてやってんだよ。言っちまえばこれはワガママお嬢サマの世話焼きのバイトだ。なるべく楽に終わらせてぇんだよ。そこんとこ分かってんのか、このクソガキが!」
言ってしまってから、はっとした。
しまった、半グレ時代の悪い癖が…。
悪ぶって心にも無いことを口走る、厄介な癖が。
恐る恐る律子に目を遣ると、唇を噛み締めて溢れそうな何かを必死で堪える彼女の横顔が目に入った。
「…あ、その…。」
弁解しかけた晴明の頬を、痺れるような痛みが走った。
「…何もそこまで言わなくても」
晴明の頬を思い切り張った右手を拭い、律子は長い廊下の奥へ駆けていった。
「や…やっちまった…!」
殴られた事なら幾らでもあるが、こんなに響いた事は滅多にない。
やけに痛む頬を擦りながら、彼は律子を追って走り始めた。
ー
「おーい、律子ちゃん!どこ行ったんだよ、全く…。」
晴明は頭を掻いた。
しかし、だ。
館内はそう広くないはずなのにやけに歩かせる。入った時は沢山いた仲居などの姿もなく、気味の悪い静けさが漂っている。
とても座敷わらしがいるとは思えない、というのが正直な感想だ。
「…ん」
廊下の端に小さな手帳が落ちているのを見つけて、晴明はしゃがみこんだ。
…見覚えのある、律子の手帳だ。
「どうしてこんなところに」
少し躊躇ったが、彼はその手帳を開いた。
「なになに、『童谷温泉の座敷わらしを追え‼』…。無邪気なもんだなー、オコサマってのは。」
でかでかと書かれた見出しを見て、彼は呟いた。
「『同行者は安倍ハルマキとかいうおいしそうな名前の元ヤン男。全っ然タイプじゃないし、どうせなら経凛々さんが良かったなぁ…。何であの人呼んでくれないのかな、恨むぞお父さん!』…。あいつこんなこと考えてやがったのか。」
名前の間違え方も珍しいし、と、逆に感心しながら読み進める。
「『旅館には無事着いたけど、ハルマキ男がめっちゃブアイソでヤなヤツであることが判明!あたし一人で調査を決行することにします。あー、経凛々さんの顔見たーい。せめてあのハルマキがあの人みたいな醤油顔だったらなー。』。…あんにゃろ」
濃くて悪かったな、と一人呟き、彼はページをめくる。
「『着いた時より人が少ない気がする。女将さんも、仲居さんもいない…。ちょっぴりこわいかも。』。やっぱりか…。」
次のページをめくる。
「『旅館の若旦那さん発見!どストライクとまではいかないけど、結構イイと思ってたんだー。しかも道案内してくれるっていうので、ついていくことにします。ラッキー♪』。」
…。次のページ。
「『なんか、周りが暗くて湿っぽい感じになってきました。まだそんなに遅くないはずなのにな…。それにさっきから、』。…。」
おかしな途切れ方をした文章を見た晴明の背筋を、冷たいものが走った。
「おいおい…。あいつ、変な事に巻き込まれていやしねぇだろうな?」
その時、彼の耳に奇妙な音が入った。
しゃっ、しゃっという何かを擦るような音。
例えるなら…。そうだ。
昔話によくある、山姥が包丁を研ぐ音。
無意識のうちに神経が研ぎ澄まされ、どこかで時を刻む時計の音、自分の鼓動がはっきりと聞こえる。
その中に微かに混じる人の声を耳に留め、彼は更に耳を澄ませた。
聞こえたのは、少女の啜り泣く声。
「…律子ちゃんか?」
彼は足音を忍ばせて、長い廊下を奥へ奥へと進んでいった。
ー
やがて、晴明は一つの部屋の前で立ち止まった。
奇妙な音と少女の啜り泣きがはっきりと聞こえる。間違いない、律子の声だ。
「やめて…。帰して、お願い…!」
涙声で必死に訴える声がする。
一体何が行われているんだ、この襖の向こうで…。
晴明は僅かに襖を開き、その中を覗き込んだ。
見えたものは、2つ。
1つは、真赤な着物を着せられた律子が後ろ手に縛られている様。
それと、渋い緑の羽織りを着た優男…。ここに来た時出迎えてくれた若旦那が上品な笑みを浮かべながら出刃包丁を研いでいる様だ。
「すみませんねぇ、こうでもしないとお客が来ないもんで…。」
やっている事と言葉が噛み合っていない。
(こいつはヤバいぞ…。)
状況は分からないが、律子が危ない事は確かだ。
晴明は勢い良く襖を開け放った。
「何やってんだこの変態バカ旦那ぁーっ‼」
彼が怒鳴りつけると、刃物を研ぐ音が止まった。
「っ、ハルマキ男!?」
驚く律子を一瞥して、晴明は動きを止めた若旦那に歩み寄った。
「どういう事だ、説明しろ!」
若旦那はすっと顔を上げ、そして恥ずかしげに微笑んだ。
「や、これはお客様。見ておられたのですねぇ。」
いやはやお恥ずかしい、などとずれた言動をする彼に、晴明は些かたじろいだ。
「な、何だてめぇ、ふざけてんのか?」
「そんな、滅相もない!」
彼は尚も人懐っこい笑顔を浮かべたまま言った。
「実はここ童谷温泉の座敷わらし騒ぎは、実は2年前からぱったりと止んでしまっていまして。お客も減り、私達従業員一同は途方に暮れておりました。しかし、半年程前にやってきた女性のお客様によって、この旅館の運命は大きく変わったのです…。」
ー
「へぇ、占い師を?」
驚いたように尋ねた若旦那に、女は頷いた。
「ええ。良かったら見てあげましょうか?サービスするわ。」
「はは、それはありがたい。それではお言葉に甘えさせていただきます。」
手相ですか、カードですかと尋ねる彼を見て、女は笑った。
「いいえ、違うわ。」
そして彼女は若旦那の瞳の奥深くを覗き込んだ。
「私のはこうするだけでいいの…。人の目という水晶を使って、透視する…。」
「はぁ…。」
暫く彼の目を見続けた後、女は眉をひそめた。
「うーん…。確かにこのままだと、この旅館は危ないわ。座敷わらし伝説のなくなった弱小旅館に来る物好きはいないってわけね。」
「はぁ…。」
「でも、立て直す方法がない訳でもないわ。」
「えっ?」
それは一体、とすがり付く若旦那を女は押し止めた。
「ふふ、慌てない慌てない。いい、なくなったならまた作ればいい。座敷わらしは子供の霊よ。要するに、またここに子供の霊が出るようにすればいいのよ。」
彼女は鞄から出刃包丁を取り出した。
「この出刃包丁で殺された人間は、必ず地縛霊になる。死んだ場所に留まる霊になるのよ。後は…分かるわね?」
「…。」
彼は何者かに操られたかのように出刃包丁を手にした。
「これで…。この旅館が助かると?」
「ええ。お値段はまあまあ張るけどね。」
若旦那はごくりと生唾を飲み込んだ。
「…お幾らですか?」
「包丁本体、砥石、そして今ならおまけにもう1セットついて、10万円カッコ税別。」
「…買います」
女は妖しく微笑んだ。
「毎度あり。」
ー
「ふふ、10万円出した甲斐がありました。何せ切れ味は抜群、魚を捌くのには最適です。だからおまけのもう一本は板前に使わせています。」
晴明はうっと唸った。料理を食う前で良かったぜ。そんなワケわからん包丁で作った刺身なんておっかねぇもん食えるか。
若旦那は包丁を胸に抱いた。
「私はこの旅館の主…。ここを守る義務がある。新しい『座敷わらし伝説』と共に、いつまでもここで生きたいんですよ。」
「て、てめぇ…!」
晴明は素早く腰から下げたウォレットチェーンに手を伸ばし、勢い良く抜いた。
チェーンは大きく弧を描き、若旦那の頬を打つ。
彼が怯んだ隙に、晴明は律子を抱き抱えて部屋から逃げ出した。
ー
「…どうしてよ」
晴明の腕に抱かれたまま、律子がぼそりと呟いた。
「どうして助けに来たの?安倍さん、あたしのことキライでしょ?」
弱々しく言った律子を見て、晴明は呆れたように言った。
「はぁ?何言ってんだてめー、馬鹿か?」
「え?」
「別に俺、お前の事好き嫌いで考えてねぇし。ただ、おかしい事はおかしいって、間違ってる事は間違ってるってケジメつけときたいだけだ。」
律子は恥ずかしそうに目を伏せた。
後ろからはがりがりと異常な音が聞こえる。
振り向くと、壁に包丁の刃を擦りながら大股で歩いてくる若旦那の姿が見えた。その表情は穏やかなもので、逆に狂気を感じる。
「くそ…。」
道が入り組んでいるために、どこへ逃げたらよいか見当がつかない。
おまけに着物で走れない律子を抱えているので、思うようにスピードが出せない。
「…やべっ」
走り込んだ曲がり角、その先は行き止まりだった。
「お客様、そちらは行き止まりとなっておりますが。」
若旦那は何故か少し申し訳なさそうに言った。
「…高校生じゃ大人すぎるんですよね。本当はもう少し若い年代がいいのですが、中々泊まりに来てくださらなくて。拐ってきたら誘拐罪ですし…。」
「人を殺すのも立派な犯罪だ!てかそっちの方がダメだろ。」
間違いない、こいつはヤバい奴だ。
晴明は若旦那を睨み付けるが、彼は困ったように微笑んでいるだけであった。
「…仕方ないですね、それじゃ二人いっぺんにいきますか。」
彼は包丁を振り上げた。
律子がぎゅっと晴明の服を掴む。晴明ははっとして、それからにやりと笑った。
「それでは…。よい冥土の旅を!」
包丁の刃先が、空気を切り裂いた。
ー
「これで…。この旅館が助かる…。」
前方に包丁を突き出した体勢のまま、若旦那は微笑んでいた。
「さて、手を洗わないと…。」
ゆっくりと顔を上げた彼は絶句した。
包丁が貫いていたのは、黒いライダージャケット一枚だったのだ。
「何を刺したつもり、若旦那さん。」
背後からの声に振り向くと、白ワイシャツ一枚の晴明が律子を抱えたまま背を向けて立っていた。
「そんな…。どうやってかわした!?」
若旦那は狼狽して包丁を取り落とした。
その隙を突き、晴明は包丁を踏みつける。
「ふん…。律子の親父に言わせりゃ俺は『式神の安倍ハルアキ』様さ。そんな相手と包丁一本でやり合おうなんて、ナメた真似するよ、あんたも。」
律子を傍らに下ろし、部屋へ行くように指示する。しかし、彼女は晴明の側を離れようとしない。無理もないだろう、一人で行動して怖い目に遭ったのだ。
晴明はその場にへたりこんでいる若旦那を見下ろし、諭すように言った。
「俺はあんたの立場を完璧には理解できない。だからあんまり偉そうな事は言えないけど…、これだけは言えるよ。若旦那、あんたのしようとしてた事は間違ってる。でも、間違った事をしてでもここを守ろうとした、そこまでここの事を大切に思ってんなら、座敷わらしなんかに頼らずに旅館を流行らせてみせろよ。ここの主は座敷わらしじゃない、ほかでもないあんただ。」
彼の言葉を聞いていた若旦那ははっとしたように顔を上げ、それから気が抜けたようにその場に倒れた。
「やれやれ、荷物が増えちまった…。」
晴明は気を失っている若旦那を肩に担ぎ上げ、踵を返した。
そして足がすくんでしまっている律子を振り返り、手を差し出した。
「…どうした、行くぞ。」
「…うん」
律子の手が晴明の手に重なる。
「全く、ひでぇ目に遭ったぜ。宿泊代くらいタダにしてもらわねぇと釣り合わねーなぁ…。」
ぼやきながら手を引く晴明の横顔を、律子は父親のそれと重ねていた。
ー
何となくぎくしゃくしたまま一泊して、二人は帰りのバスに揺られていた。
晴明は行きと何ら変わらない様子だったが、律子はまるで別人のように大人しくなっていた。
宿泊代は結局タダになった。倒れた若旦那を介抱してやったことになっているからだ。
若旦那は自分のしたことを何も覚えていなかった。それどころか、ここ半年の記憶があやふやなようだ。まるで何かに取り憑かれていたかのように。
俺の言った事は覚えているかな。
晴明は思う。
もしあいつが俺の言った事を覚えているなら、その時はきっとあの旅館を流行らせて欲しい。
「…安倍さん」
ふと律子が口を開いた。
「何?」
「…さっき、どさくさに紛れてあたしの名前呼び捨てにしたでしょ」
「はあ?そんなの覚えてねーよ。」
「絶対した。あたし聞いてたもん。」
「めんどくせーなあ…。」
晴明は目を閉じ、欠伸をした。
「だったら、お前もすればいいじゃん。」
「え?何を?」
「呼び捨て。晴明でいいよ。」
律子は少し躊躇ってから、照れたように言った。
「…ハルマキ」
「ハルアキだ」
「ハルマキ!」
律子の顔は真赤だ。
「あー、もういいや、ハルマキでもダシマキでも。」
晴明が折れ、暫しの沈黙が流れる。
「ねぇハルマキ。」
その沈黙を、律子の声が破る。
「…何」
「あの若旦那さんに、色々とえらそーに説教してたときのハルマキ、お父さんそっくりだった。」
はぁ、と晴明は素っ頓狂な声を上げた。
「あのクワガタジジイに?冗談じゃねー、やめてくれよ!」
「違うよ、いつものお父さんじゃなくて刑事モード全開のときの。」
「何だそれー。ま、どちらにせよクワガタジジイそっくりなんてゴメンだぜ。」
「…そ」
妙にしゅんとして言った律子の真意など、晴明には分かる訳もなく。
ふたつの若い魂を乗せたバスは、街に向けてのんびりと走っていった。
作者コノハズク
今回、本作の主人公である木菟が全く出てきません。題名も変えた方がいいのでは?というほどですね。
変な若旦那が若干木菟とキャラが被っているような。