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「それ」の姿はちょうどクリオネに似ていた。
小指ほどの大きさの、半透明の身体。
身体の横に、小さな羽のような薄い腕。
身体の中心にはイクラの卵のような、オレンジ色の塊。
それは、空中をまるで水の中のように頼りなげに漂い、そして――、
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日下(くさか)真理は私たちのクラスで明らかに浮いていた。
高2の私たちにとって、クラスの中で孤立しないことはイコール処世術だ。
サバンナで暮らす多くの野生動物は、群れに属することで外敵から身を守る。
集団は力だ。矛であり、盾である。
サバンナにおいて、単独の個体は否が応にも他の群れの標的になるのだ。それがルールだ。
だから、日下真理は標的にされていた。それは仕方がないことだ。
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私、大江(おおえ)奈緒はといえば、1年の時に同じクラスだった石田香子をリーダーとする群れに属し、その恩恵を受けて平穏な学園生活を送っていた。
昼食の最中、日下真理の話題が出ることもあった。
それは私たちにとって食後のデザートのようなものだった。
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「あの子、また生物準備室で一人でお弁当食べてるみたいだよ」
「準備室にあるテレビ、見ながら食べてるらしいじゃん。生物部だからって、それっていいのかって話」
「でも~、あの子が見てるのってN○Kの生物番組のビデオらしいよ。それも昆虫だかの。やばくね?そんなの見ながら食べられねぇっての」
「ひー」
「やだー」
「「あはははははっははははは」」
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よそのクラスの誰それが、サッカー部の誰々と付き合ってるとかいないとか。
芸能人のアイツとアイツが、不倫をしたとかしないとか。
好いた、離れた、くっついた。
毎日毎日飽きもせず。
私たちの食卓にのぼるのは、
「誰が嫌い」で「誰が好き」。
「何が嫌い」で「何が好き」。
交換・共有・選別・排他。
それが群れの所属の証。結束の証。
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だから私が日下真理を、実はそれほど嫌っていないことも、
ここではどうでもいい話。
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その日、私が放課後の生物準備室の前を通ったのは、ほんの偶然。
提出し忘れていた進路調査の用紙を職員室に届けて、自分の教室に戻る途中のことだった。
人気のない、静まり返った校舎の廊下。
その静寂をこっそり破って、その部屋、生物準備室から人の声と音楽が聞こえてきた。
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そっとドアを開けてみると、薄暗い部屋の中に、煌々とテレビの明かりが点いていた。
そして整然と並んだ、大きめの実験テーブルの上に仰向けに寝そべっている少女の姿。
どうやら少女はだらしない格好で教室のテレビを見ているらしい。
自分の家じゃないんだから。
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私がドアを開けて覗きこんだのを、物音で気づいたらしいその人物は、顔をテレビに向けたままこちらに話しかけてきた。
「絵里~?やっと来たの?お姉ちゃん待ちくたびれちゃったよ。早く帰って夕飯の支度を――」
そんなことを言いながら腹筋を使って上体を持ち上げた人物。
それは日下真理だった。
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私と真理はしばらく黙って見つめ合っていた。
それから真理は無表情から赤くなったり白くなったり。
百面相のごとく表情を変えて、つまり思いっきり慌てた。
私はその様子が面白くて、お腹が痛くなるほど笑った。
普段、休み時間も教室の自分の席で黙って本を読んでいるような、堅物で根暗と思っていたクラスメイトの、抜けた一面を見たことで。
私は真理に興味を持った。
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彼女はつぶれかけの生物部のただ一人の部員で、いたたまれない自分の教室よりも生物準備室を気に入っていて、ここで一人でお弁当を食べたり、放課後1年生の妹の下校を待ったりしているそうだ。
真理についての噂話は、半分は風評だったが、半分は本当だった。
群れるのが苦手な性格だが、決して根暗でも人付き合いが悪いわけでもない。意外と面白い奴だったのだ。
恋愛には興味がなく、それより生物、とくに昆虫の生態に興味が向くらしい。やっぱり変な奴だったのだ。
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その後、放課後をよく生物準備室で一緒に過ごすようになった私に、ある日真理はこんなことを語った。
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「ねえ奈緒、生物ってのは面白いね。私は特に寄生虫の生態が好き。奴らってば不思議過ぎなんだよ。
たとえばハリガネムシって水生の寄生虫はね、生まれるとヤゴやボウフラなんかに捕食されて、その生物の体内に潜むの。そしてヤゴやボウフラが成長して陸上に出られるようになると、体内から操って彼らの動きを鈍くして、より強い捕食者であるカマキリに食べられやすくするの。そして今度はカマキリの体内で成長を遂げる。
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産卵のために水辺に帰りたくなったハリガネムシは、カマキリの脳を操って、自ら水へ飛び込むようにするんだって。
わかる?こんな小さな生物が、他の生物の脳を操って自分の有利なように動かすんだよ。
こいつらは一体、いつの時点でそんな力を手に入れたのかね?
操られた生物は、一体どんな気持ちなのかね?
クラスの連中が騒ぐ恋愛話なんかより、私はこっちの方が心が躍るよ!」
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やっぱり変な奴だ、真理って。
でもグループの恋愛話にいい加減食傷気味な私にとって、真理の話はとても面白く聞こえた。
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そんな真理の様子が、ある日を境に変わった。
いつもどこでも上の空。
授業中も休み時間も放課後も。窓の外を潤んだ目で見てため息なんかついてる。
これはこれは。
甘い匂いを嗅ぎとった私は、放課後の生物準備室で真理を問い詰めた。
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「隠しても無駄だよ。さっさと吐いて楽になりな」
真理は窓際の席で分厚い生物の本を読むでもなくパラパラめくりながら、頬を染め、うつむきながらつぶやいた。
「……好きな人が、できました……」
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「おいおいおい真理さんや、頑なな生物少女のアンタをそんな乙女の顔にしちゃう男ってのは、どこの誰なわけよ?」
「こないだ、休みの日に買い物に行った帰りに寄った喫茶店、そこのマスターのお兄さん……。落ち着いてて、すごく雰囲気のいいお店で、静かにコーヒーを淹れてくれる、その姿も素敵で……。私の前に静かにカップを置いてくれて、『ごゆっくり』って。その声がまた物静かでかっこよくて……」
「ほーう?ほーう?」
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「私、買ったばかりのこの生物の本を読んでたんだけど、それを見てお兄さんが『面白そうな本を読んでますね』って言ってきてくれて、それでしばらく話して……」
「くわーー来たねーー。これは恋のキューピッド様が舞い降りちゃったねー―」
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私は茶々を入れながら、恥ずかし気に話す真理の様子をニヤニヤしながら見ていた。
恋愛には興味がないと言っていた真理の、これまた違った一面が見られて、なんだか新鮮で楽しかったのだ。
「それで、それで、それから連絡先を交換して――」
いよいよ恥ずかしさにうつむいてしまった真理の
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耳から、
――モゾモゾ
――モゾモゾモゾ
なんだろう?あれは。
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「それ」の姿はちょうどクリオネに似ていた。
小指ほどの大きさの、半透明の身体。
身体の横に、小さな羽のような薄い腕。
身体の中心にはイクラの卵のような、オレンジ色の塊。
それは、空中をまるで水の中のように頼りなげに漂い、そして――、
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空中でバランスを崩したように、真理の生物の本のページの上にボトリと堕ちた。
恥ずかしさからかジタバタしていた真理が、その分厚い本をバタンと乱暴に閉じた。
shake
――キュイッ!
小さな短い悲鳴のような音が聞こえた。
その瞬間、真理の目は恋を知らない、以前の彼女の目に戻っていた。
作者綿貫一
こんな噺を。