秋雨の日が続いていた。
その日、父と中華料理店で昼食を摂り、ひとり暮らしのマンションへ帰宅すると、建物の入り口付近に佇む女性がいた。
女性は、紺色のブラウスに細身のジーンズを合わせ、丈の長いトレンチコートを羽織り、黒いスニーカーを履き、さほど大きくはない黒い旅行鞄を両手で持っていた。
その場所には屋根はなく、女性は雨に濡れていた。
気配を感じたのか、その女性はふいに顔を上げ、私の姿を認めると、途端に笑顔になった。
「お嬢‼︎」
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さくらだった。私は、やはり来たな、と思った。
ゴムで無造作に束ねられたポニーテールは、水分を存分に含み、相当重そうである。どの位、そこに居たのか。
「電話してくれれば良かったのに」
「携帯、なくて。シャワー貸して‼︎」
色々聞きたいことはあるが、とりあえず部屋へ招き入れることとした。
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ひとまず、シャワーを浴び服を着替えたさくらに、私は温かいミルクティーを出した。
「ありがとう」
リビングのソファーに座り、マグカップを両手で抱え、ミルクティーをひと口飲むと、
「はぁ〜」
と、さくらは幸せそうに声を漏らした。
「海、いいね」
ガラス張りのベランダ越しに見える雨の風景に、さくらは呟いた。
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このマンションは、20歳の誕生日のお祝いにと、父がくれたものだ。36階建て高層マンションの30階、目の前に海があり、眺めは最高だ。
父は、会社を経営している。10歳上の兄は、父の会社を手伝っていて、将来的には後を継ぐらしい。
私は、大学卒業後、就職はせずに、父から持たされているカードで日々生活している。
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お嬢、という渾名は、確かさくらが付けたように記憶している。
さくらとは、大学が一緒で、入学後のオリエンテーションの時にたまたま隣に座って以来の付き合いである。
さくらは、割と単独行動を好む子で、私はというと、家庭環境のせいか周りから浮いてしまっていたので、何だかお互い一緒にいて楽なのだ。
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さくらの義理の弟のヒロとは、以前3人で飲みに行ったことがあり、その時に連絡先を交換していた。
そのヒロから、飲み会以来初の連絡が来たのは、梅雨明け前のことだった。
さくらは、大学卒業後、昼の仕事だけでは食べて行けずにキャバ嬢のアルバイトを始め、そちらが本業となったが間もなく、指名客の1人に説得され、水商売から足を洗い、その人と暮らし始めた。
ヒロからの連絡は、まださくらがヒロと一緒に暮らしている時であったが、既にさくらの新生活を心配しており、もしさくらが頼ってきたら宜しく、というものであった。
「それはいいんだけど。もし、さくらとそのお客さんの生活が上手くいかなかったとしたら、さくらはヒロのところに戻るんじゃない?」
ヒロからの電話に、私は率直な感想を口にした。
だけど、ヒロは、
「多分、さくらは俺のところには戻らない」
と、言っていたのだ。
「そういうやつだから」
そう言われちゃうと、何だか、そんな気もしてくる。何しろ、さくらとの付き合いはヒロの方が長いわけだし。
そして、ヒロの読み通り、今、さくらはここにいる。
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「4ヶ月…もったのかな?」
さくらが黙っているので、こちらから話を切り出した。
「その位…かな?」
さくらは笑った。私もつられて笑ってしまった。
それでも、さくらの眼の下にはクマができていたし、顔色は蒼ざめて見えた。
「大変だったの?」
「大変、ていうか…。なんだろうね。よくわからない。ハルさんといると、何だか疲れやすくて。夜も寝てるし、食事も摂れているんだけど、昼間も起きていられなくて…」
そこまで話すと、さくらは、持っていたままのマグカップをテーブルに置いた。喋ることも、辛そうだ。
「さくら、しばらくここにいて良いから。元気になったら、これからの事を考えよう」
そう私が言うと、さくらは、
「ありがとう」
と、小さな声で呟いた。
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それから1週間、さくらは、食事とトイレとお風呂以外は、ひたすら眠る毎日を送った。マンションからは一歩も外に出なかった。高い塔に幽閉された何処かのお姫様みたいだな、と思った。
2週目は、掃除とか洗濯とか炊事とか、色々と手伝うようになった。それでも、テレビは疲れると言い、私がニュースをつけると、ゲストルームへ引っ込んだ。部屋を覗くと、さくらは窓からぼんやり海を眺めていた。
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3週目に、ようやくさくらは外の空気を吸った。
「何か寒くなっててビックリしたよ‼︎」
帰宅後の第一声が、それだった。駅前の本屋さんで買ってきた小説を読み、
「前に読んだ事ある本だった」
と、落ち込んでいた。
そして4週目、さくらはマンションを出て行った。
朝、私が起きた時には、もういなかった。テーブルの上に置いてあった手紙には、感謝の言葉と新しく契約したらしい携帯電話の番号が書いてあった。
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「それで?」
私からの報告をひととおり聞き終えたヒロから、そう返ってきた。
日曜日の夜。ヒロの仕事が休みだというので、うちのマンションの近くまで来てもらい、食事が美味しいと評判の居酒屋で一緒に飲む事にしたのだ。
カウンター席の隅で、スパークリングで乾杯した後、料理を何品か頼みつつ、赤ワインの良さそうなものを店の人に選んでもらってボトルでいただくことにした。
「それで、というのは?」
「さくら、急に出て行ったんだろ?それで?」
「もちろん、それから一切連絡ないよ」
「やっぱ、そうなるかぁ」
ヒロが、私の右隣で、何とも言えない顔をしている。
さくらが私のところへ転がり込んできた時、ヒロにはすぐに報告の電話を入れた。さくらは、ヒロに連絡もせずに我が家へやって来たらしく、ヒロは軽く落ち込んでいたようだったが、
「宜しくお願いします」
と、携帯越しに身内らしいセリフを吐いていた。
それから、さくらが出て行くまでは、特にお互い連絡することもなかったので、今回、いちどゆっくり会って話そうということになったのだ。
「お嬢は、さくらから、ハルさんとの生活について、何か聞いた?」
「んー、何かね、よく分からないけど、衰弱していったみたいだよ」
「衰弱?」
「日中眩暈がして、起きていられないとか。あと、いるはずのない女の人の声が耳元で聞こえたり、いるはずのない男の子が見えたり」
私がそこまで話すと、ヒロの顔色が変わった。
「その男の子ってのは、多分、さくらの兄貴だ」
「あ、そうなの?」
お兄さんがいる筈だったと、さくらからは聞いていた。
「時々、さくらの側にいるんだ」
「え、ヒロ見えてたの?」
「たまにね。さくらに言っても、本気にはしてなかったようだけど…。そっか、さくらに姿がみえたってことは、兄貴的にはハルさんとの生活は止めた方がいいよ、って事だったのかな…?」
軽い調子で、見えるなんて言われて、私はただただ驚いていた。
思わず、なみなみと注いだ赤ワインを一気に胃袋に流し込む。
「あれ?お嬢ってそんなに強かったっけ?」
「強くはない…ちょっと、シラフじゃ話について行けない気がして…」
「…じゃあ、俺も」
そう言うと、ヒロはあっという間に自分のグラスを空け、私と自分のグラスの両方に、さらにワインを注いだ。
私は何だかトロンとしてきた。首から上がアツい。
「何か、心霊現象の話になってきてるけど。私はさ、結局は、さくらとハルさんの相性が合わなかったってだけの事だと思うんだけど」
「相性の問題なの?」
「だってそうでしょ?何かさ、波長の合わない相手といると、調子悪くなったりしない?ハルさんと暮らし始めてから体調が崩れたってのは、つまりはそういうことなんじゃないの?」
私なりの解釈に、ヒロは、なる程と頷いた。
「お嬢って、やっぱり面白いやつだね。さすが、さくらの友達だ」
「やめてよ、褒められてるようには聞こえない。そもそも、あのさくらを独占しようというのが間違いじゃない?あんな奔放な子を閉じ込めたら、それだけでも調子悪くしちゃうって」
「あー、確かに。さくらって、奔放だよね」
私達は会話をしながらもどんどん飲んで、ワイン1本空けた後は、ウイスキーの水割りに移った。
「じゃあさ、お嬢は、女の声って、何だと思う?」
「わからないよ、そんなの。お兄さんが見えたのもそうだけど、弱ってて、普段見えないものが見えちゃったり、聞こえないものが聞こえちゃったりしたんじゃないの?」
ヒロは、私の答えに不満そうだ。
「でもさ、聞こえちゃったのなら、つまりは、いたんだろ?その、霊的な何かが」
「……そう、なのかな?案外、ハルさんの生き霊だったりしてね」
「だったら、いいんだけど。…俺さ、ハルさんて、会ったことないけど、何か胡散臭いんだよね。もしかして、以前にもさくらみたいに囲ってた女がいて、変な死に方してたりしないかなって」
「考え過ぎじゃない?」
「そうかなぁ…」
「まぁ、ないとは言えないけど。何せ金持ちには変態が多い」
「偏見も甚だしいな、てか、自分だって金持ちじゃん」
「だから、わかるんだよ」
そう言って笑ったら、ヒロも笑顔を見せた。その顔に不覚にもクラッときた私は、思わず、
「無駄にイケメンだな‼︎」
と、おかしな突っ込みを入れてしまった。
「何、惚れた?」
「いや、ない。それは絶対ない‼︎」
「絶対とか言うなよ〜」
わかりやすくガッカリしているヒロに、
「だって、さくらに似てるんだもん」
って言ったら、何故かヒロは満更でもなさそうな顔をした。
作者ゆきの
或る二人の記(しるし)って読みます。
シリーズ第3弾です。
或る二人の話⇩
http://kowabana.jp/stories/26001
或る二人の形⇩
http://kowabana.jp/stories/26004
怖いを押して下さったみなさん、ありがとうございますm(_ _)m
怖くなくてスミマセン(>_