私は、両親の顔を知らない。
身寄りのなかった私は、養護施設で育った。
施設には、様々な事情で入所している子ども達がいて、みんな同じ学校だったから、特に寂しさを感じることなく生活していた。
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義務教育を終えると同時に施設を出て、小さな病院で住み込みで働きながら、看護師の資格を取得した。自分にとって、生きていることは、決して当たり前の事ではなかったから、人の命に関わる仕事を選んだのかも知れない。
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勤務先の院長先生には、子どもが1人いた。名前をハルカといい、近所でも有名な秀才だった。大学の医学部へストレートで合格、国家試験も余裕で受かり、大学病院で5年の修行を経て、実家を手伝うようになった。
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ハルカは、私よりも6歳年下だった。4階建ての病院の3階が住み込み寮、4階が院長先生一家の居住スペースであった為、ハルカが小学生の頃は私が宿題を見てあげることもあった。もっとも、ハルカは誰かに見てもらわなくても出来る子であったけれど。
姉の様に慕ってくれているのか、それとも、自分が生まれてまもなく亡くなった母親の代わりと思っているのか、ハルカは私によく懐いていた。
ハルカが中学に上がると、さすがに挨拶程度の交流しかなくなったが、私を見るハルカの眼差しは常に好意的であったと思う。
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「一緒に暮らそう」
ハルカが実家の病院で働き始めて間もなく、ハルカは突然私にそう言った。あまりに突然過ぎて、直ぐには言葉が返せなかった。何故なら、私達は、結婚の約束をしているわけでもなく、ましてや付き合ってさえもいなかったのだから。
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その頃、老朽化した病院の建て替えと共に、看護師見習いの住み込みを取り止める等、跡継ぎの戻った病院内は何かと慌しい時期だった。病院の規模自体も縮小される為、ハルカは、このタイミングで私に仕事を辞めて家庭に入って欲しがった。
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「君が必要なんだ。必ず君を幸せにする」
ありきたりな言葉が、心に沁みた。
施設を出てからの私は、とにかくがむしゃらに学び、働いた。生きる為に、必死だったのだ。
誰かに必要とされるとか、誰かに寄りかかるとか、そんなこと考えたことさえなかった。
ハルカが私を選んだ理由がわからなかった。だけど、ハルカは私を求めている。この人に、私の人生を賭けてみようと思った。
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周囲の噂話を避ける為、私は本当の理由は伏せて、長年お世話になった職場に退職届を出した。ハルカは、実の父親である院長先生にも、私の事は話さなかった。
「もういい歳なんだし、自分で決めた事に色々言われたくないから」
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2人きりの家族は、昔からどこかよそよそしかったので、私は、
「ハルカの好きなようにしていいよ」
とだけ言った。
そして、私達は、誰にも知られることなく、新築のマンションを購入し、そこで一緒に暮らし始めた。
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30代半ばにして初めて手にした我が家は、1LDKと決して広くはなかったけれど、ベランダからは東京タワーが小さく見えた。
ハルカは、仕事が多忙を極めていた為、家具や家電は私の好きに選ぶようにと言った。
私達のお城。スプーンの1本から、全てを私の自由に揃えることが出来る。何て夢のようなのだろう。
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私はそれまで、とても堅実に生きてきた。頼る場所を持たない私に、失敗は許されなかったからである。
ハルカとの新しい生活は、人生初の賭博の様なものだった。自分で決断したとは言え、私の心の中には、常に不安がつきまとっていた。
ハルカが、私との生活をつまらないと感じてしまったらどうしよう?ハルカが、もっと若くて素敵な人に心変わりしたらどうしよう?
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だから、私は私達の生活を幸福に満ちたものにする為に、最善を尽くした。
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「ねぇ、ハルカ、見て。このカーテンの色、どうかしら?」
「あぁ、素敵だね」
「窓の方角を考えると、この色が良いらしいの」
「へぇ…」
「それとね、窓辺に観葉植物を置くと良いみたい。買ってもいい?」
「あぁ、もちろんいいよ」
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私は、2人のより良い暮らしの為に、適切な方角、適切な色を調べ、私達の城を作り上げていった。
そして、1日の仕事を終え帰宅したハルカに、私は、その日購入した物はどのような意味があり、どのような幸せをもたらしてくれるのかを丁寧に説明した。
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最初は、ハルカは笑顔で話を聞いてくれていた。しかし、次第に、表情は暗くなり、返事のない事も増えてきた。
ハルカは疲れている。跡継ぎとしての立場や責任を背負うには、ハルカはまだ若い。私の想像以上に、仕事が大変なのだろう。
私は、そんなハルカが安らげる空間を作ることに、より一層夢中になった。
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そして、あの日。
我が家に、大きな緑色の冷蔵庫がやって来た日。
ハルカは、日付の変わる直前に、憔悴しきった様子で帰宅した。
「おかえりなさい、お疲れ様」
私は満面の笑みで、ハルカを迎え入れた。
「今日もね、ハルカの好きな料理、たくさん作って待ってたよ」
無言で廊下を進むハルカの背中に、話しかける。
ハルカは、廊下の先の扉を開け、その場に立ち尽くした。
「…どうしたの?入らないの?」
ハルカの顔を覗き込むと、その視線は、緑色の冷蔵庫に向けられている。
「あ、冷蔵庫はね、緑色が…」
言い終わらぬうちに、ハルカの両手が私の首を締め上げた。
作者ゆきの
以下の作品もお読み頂くと、話が繋がります(^-^)
①或る二人の話⇩
http://kowabana.jp/stories/26001
②或る二人の形⇩
http://kowabana.jp/stories/26004
③或る二人の記⇩
http://kowabana.jp/stories/26011
あまり怖くないです。すみませんm(_ _)m