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恵まれていたのだと思う。母は未婚でアタシたちを産み、名前だけ大事につけてくれた。どうやら子育てはしなかったようだ。母の仲間がアタシたちを育ててくれた。食事もかわいい洋服も夏休みだってあちこち連れて行ってもらった。母はいないことが多かった。母と言うよりは帰ればそこにいる同居人のようで、かわいいことが取り柄だった。仕事でいないのか遊んでいるのか判別は難しく、母の仲間はそれを悟られないように一緒にいてくれるかのようだった。ママと呼んだこともない、授業参観も三者面談もいつも違う人で母を学校で見たことはなかった。
「お前、これ、提出したのか?」
高校生になったアタシは課題で出された作文を今日のお守り役、柳瀬ヤナセ さつきに見せた。
「課題が『家族』だった」
さつきくんは軽いため息をついてから続きを読む。家業の探偵を継ぎ、最近、お嫁さんをもらった。お嫁さんは事務所のパソコンと電話に向かって文句を垂れている。焼きたての、おやつにくれるクッキーが入ったマフィンがおいしい。
母が台所に立つのは掃除をしているからで、料理をすることはない。そういえば、掃除だけは好きみたいだ。いつだってどの部屋もきれいである。ただそれは、鼻歌を歌いながら分かりやすい幸せな母を演じているようにしか見えなかった。
母は年に一度、3月4日だけ真っ黒のワンピースを着る。一日ベランダにいて、空に向かって呟いている。理由は決して教えてはくれない。母の仲間も教えてはくれない。さすがに黒い服を着てはいないが、誰かの死を悼んでいることは分かる。会いたいのだろうか。会えるのだろうか。いつもはどれだけ盛っても足りないかのような付けまつげを、一枚もつけずにいる母の背中を見ていた。
母は見えない何かを信じる人だ。多分、この3月4日のことが信じる根っこなんだと思う。信じていれば、その死んだ誰かに会えるのだと、多重に信じているのだ。信じることを確認するための真っ黒のワンピース。
毎年の儀式にいつか潰されるのではないだろうか。
母の仲間も同じだろうか。それとも悼む母に同情しているんだろうか。母はそれをどう思うのだろうか。母に同情しているから、私に優しいのだろうか。私はかわいそうなんだろうか。去年の暮れに死んだ私の妹もかわいそうだったんだろうか。12月23日に真っ黒のワンピースを着て空を見ていれば、いつか妹に会えるのだろうか。
みんながくれる優しさは同情なんだろうか。
「夏織カオル」
「なあに、さつきくん」
実はまだ提出していない。家族って何だろうかと考えたら分からなくなった。アタシは母の仲間だけではなく、この神張カミバリハミングロード商店街の住人に育ててもらっているから、アタシの中では全部「家族」である。さすがに小学生じゃないのでそんなことは書かない。とりあえず、母のことを書き出したらこんな文になってしまった。
さつきくんがまた、お前なぁ、と言いかけたとき、さつきくんのタブレットが唸った。ふいに目付きが変わった。仕事のメールだろう。操作する手元を見つめる。
「さつきくんはさぁ、アタシのこと、好き?」
「そうだね」
今まで何回も母の仲間に聞いてきた。答えは同じ。好きでなければ、面倒なんて見てくれないだろう。お嫁さんが紅茶を淹れなおしてくれた。
「夏織ちゃん、寂しいのね」
寂しい? そうでもない。
「違うよ」
お嫁さんはふんわり笑っている。違うのに。
「夏織、幽霊、見に行くか?」
「うん、行く」
信じていないけど。見えないけど。
さつきくんは今のタブレットをバックに入れて立ち上がった。湯気が立ち上がる紅茶を残すのは忍びないけど、寂しいのねと思ってるこのお嫁さんとはいたくなかった。柳瀬探偵事務所を出てすぐに、さつきくんは謝ってきた。
「悪かったな、あいつ、あんな言い方して」
「平気、慣れてる」
シングルマザーで学校にも来ない母を持つアタシは寂しいに決まっている、と思われている。仕方ない。事実と気持ちは違うのに。
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向かった先は駅の向こう、住宅街の中だった。駅から十分も歩いていない。裏野ハイツという古いアパートだった。
「幽霊、出るの?」
「らしいよ。あ、ちょっと電話させて」
さつきくんはアタシに背中を向けてスマホを耳に当てた。さつきくんは体質だとかで幽霊や鬼が見えるらしいので、浮気調査や会社のお金を使い込んだからとかの普通のお仕事はしない。
アパートを見ると二階のドアが開いた。ドアは三つで二階建てだから六室ある。おばあちゃんだった。背中を丸めて玄関を掃いている。
「何かご用ですか? かわいらしいお嬢さん」
アタシの横に立ったおじさんは、襟が伸びたティーシャツを着ていた。でも優しそうな笑顔をしている。まさか、幽霊出ますか? とは聞けないし、そもそもさつきくんのお仕事である。邪魔にならない質問を探した。
「ここ、空き室ありますか?」
「え、ああ。あの二階の奥が空いてますよ」
二階に上がる階段はおばあちゃんが住む右側にしかなく、よって階段を上がって奥まで行ったあのドアが空き室だということだ。
「空き室とおばあちゃんの部屋の真ん中にはどんな方が住んでるんですか?」
「ああ、会ったことはないかな。一人暮らしだと思うけど。お嬢さんは、まさか一人で住む訳じゃないですよね?」
おじさんは一階で、おばあちゃんの部屋の下だと言った。
「プチ家出しようかと思って。空き室で鍵が開いてたら、入っちゃおうかなって」
「おやおや、穏やかではありませんね」
「おじさんは一人なの?」
「奥さんと一緒だよ。このアパートで一人じゃないのは、あらほら。今、出てきた103号室の高梨タカナシさんとこ。ご夫婦で、三歳の男の子がいますよ、確か、ソラくんだったかな」
おじさんが指した部屋は空き室の真下。母より若い女の人が出てきた。買い物かな。ソラくんはいない。お留守番だろうか。
「広いの?」
「中かい? リビングと洋室が一個。まあ、家族だと狭いかな」
でも駅には近いし、コンビニもこの先にある。そう言うとおじさんは、ちょっと寄って行くかい? と言った。いや、まさかそれは出来ない。高い位置で作ったツインテールは毛先をぐるぐる巻いてあり、短いヒラヒラしたスカートにボーダーのタイツと厚底の編み上げブーツ、トップには袖がない。黒が基調で一年中ハロウィンの、こんな格好していても一応の常識はある。知らないおじさんの部屋になんか行かない。
「私の部屋じゃないよ、あの二階。おばあちゃんのところだ。いつも一人だから、君の悩みくらい聞いてくれるさ。解決してくれるかもしれないよ」
商店街のおばあちゃんたちにはよくしてもらっている。代わりに長い昔話を聞かされるだけ。アタシの悩み?
「じゃあ、ちょっとだけ行こっかな」
さつきくん、と話しかけようと振り向いたらいなかった。そしてカバンをお嫁さんのとこに置いてきちゃったことを思い出す。まあ、今日の晩御飯はさつきくん家だろうから問題はない。
「ほら、手招きしている。今日は暑いから麦茶でもご馳走になるといい」
アパートを見上げる。おばあちゃんは優しさと頑固が入り交じった顔をしていた。理由はすぐ分かった。
「奇抜な格好だねえ。暑いのか寒いのか分からないじゃないか。おいで、麦茶をいれよう」
「はあぃ、お邪魔しますっ」
元気よく右手を天に伸ばして返事をした。おじさんは自分の部屋に戻っていった。階段を上がる。ギシギシと音が鳴った。
「おばあちゃん?」
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ドアから中を覗くと窓が開いているからか、爽やかな風が抜けて気持ちがよかった。ブーツのファスナーを下ろして中に入る。
「おばあちゃん」
「そこにお座り」
小さな四角いテーブルをあごで示した。おばあちゃんが座っているであろう、座布団の向かい側に座る。
「スイカ、食べるかい?」
「はい、ありがとう」
正面からおばあちゃんを見る。小さくて丸い身体。黄緑色のポロシャツだけは真新しかった。
「おしゃれね、黄緑色」
あんたも爪がおしゃれだねえ。とおばあちゃんは言った。
「どうなってるんだい?」
「絵を書いた偽物の爪を、爪に優しい接着剤で付けてあるの。昨日から夏休みだから、杏アンが、あ、お母さんがやってくれたの」
白黒シマシマ模様の八本と水玉模様が右薬指と左の親指。
「かわいいねえ、よく見せてくれるかい?」
「うん、どうぞ」
テーブルに指を開いて置いた。おばあちゃんは優しく撫でながら爪を観賞した。
「おばあちゃん、一人で住んでるの? 下のおじさんが言ってたよ」
「ああ、もう二十年になるかねえ」
「ずっと?」
「そうだよ、一人は気楽だよ」
「旦那さんいないの?」
「死んだよ、昔のことだ」
「寂しい?」
「慣れたからね、もう何ともないよ」
「子供いた?」
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「いたよ、連れて行かれちまった」
巡る考えが合っているならば、子供は死んでいる。だが外れた。少しホッとした。おばあちゃんはポロシャツの胸ポケットから紙切れを取り出した。
「写真?」
「ああ、子供と孫だよ」
「見てもいい?」
「ああ」
写真は角がボロボロであちこち折れ曲がっていた。色も褪せてしまっていて場所も分からなかった。お父さんとお母さん、小さな子供は男の子のようだった。
「ここで撮ったの?」
「いや、息子がどこかで撮ったのを貰ったんだ」
「宝物ね」
「ああ、そうだね」
おばあちゃんはそっと写真を胸ポケットにしまうとスイカをすすめてきた。かじりつくと甘くておいしかった。
「おいしい」
「ああ、よかったねえ」
シワだらけの手を見つめる。
「おばあちゃんも食べよ?」
「ああ」
一緒にスイカにかじりつく。シャリシャリという音が床に転がった。
「ほんとに寂しくないの? 子供さんとかお孫さんとか会いに来てくれる?」
寂しいって何だろう。自分で聞いておいて、こう思うのも変だけど。
「生まれてすぐだった。あの人は息子を連れて行ってしまった。あの人も帰ってこない」
「どういうこと?」
「めかけ、って分かるかい?」
「何となく」
愛人でいいんだろうか。愛人がなんなのかも何となくしか分からないけど。
「あの人と奥様の間には子供が出来なかった。代わりに産んでやったのさ。だから会いになんて来ないよ。私は母親じゃないんだよ」
「でもいつか、分かるでしょ? 分かったから写真くれたんじゃないの?」
この写真の古さからだと孫だってもう立派に成長しているだろう。もしかしたらアタシと同じくらいかもしれない。
「あんたは優しいね。大事に育ててもらって、よかったねえ」
「でもお母さんはだいたい、いないの。お料理も出来ないし、お洗濯も雑だし。今日も帰って来ないよ」
「そうかい。いいじゃないか、料理も洗濯も、あんたがやれば」
ハッとした。そういえばお手伝いってやらなかった。おばあちゃんは優しく笑った。楽しそうだ。
「じゃあ、夜ご飯を食べていくかい? なんか作ろうじゃないか」
ちょっと悩んだけど頷いた。どうせ、お家で食べるわけじゃない。
「何にするの?」
「何がいいかねえ。大したもんは出来ないよ」
「じゃあ、おばあちゃん、ハンバーグ作って」
「おう、分かった」
のんびりしてなさいと言われてアタシは足を伸ばした。下のおじさんは家族だと狭いかなと言ったが、おばあちゃんのこの部屋は広くて寂しい。物が極端に少ないのだ。
「おばあちゃん、ベランダ出てもいい?」
単に奥の洋室が見たいだけだが。おばあちゃんの部屋は畳だった。部屋の端を見ると板の間に畳をのせただけみたいだ。物入れが開いていて中には布団が積んである。少ない洋服とタオル、掃除機や扇風機がちんまりとしまわれていた。ずっとこうして生きてきた人なんだ。
ベランダに出るとだいぶ日が暮れていて、空は夕闇のオレンジと藍色が混ざっている。下から物音がした。何か割れたような。すぐさま、火がついたような泣き声が聞こえた。すぐ聞こえなくなって夕闇の静かさが戻った。
「おばあちゃん、下の高梨さん家、なんか割ったみたい」
「おや、じゃあ、また蒼空ソラが怒られてしまうね」
「泣いたみたい」
「困ったねえ。何も怒鳴ったからって元に戻ることはないのに」
アタシは怒鳴られたことがあっただろうか。
「え、ごま、入れるの?」
「ああ、特製だ」
すりごまをたっぷりとひき肉に混ぜる。玉ねぎを炒めたものと卵やパン粉を入れて豪快に練り合わせていく。
「たくさん出来そうだねえ。蒼空に持っていくかい?」
「うん、アタシ、行ってくるよ」
鉄製の重いフライパンを器用に操り、おばあちゃんはハンバーグをたくさん作ってくれた。タッパに三つ入れる。ソースはケチャップとウスターソースを混ぜて煮詰めて作る。
「いい匂いね」
「ああ」
タッパを抱えて階段を降りる。おばあちゃんのサンダルを借りた。
インターホンを押すと女の人が出てきた。
「あの? どなた?」
「上のおばあちゃんからです。アタシは橘タチバナと言います。あ、こんにちはっ。蒼空くんだよね」
顔を出した蒼空くんをざっと見る。ケガはないようだ。
「そう、ありがとうと伝えて」
「はいっ」
蒼空くんに手を振ったが、蒼空くんはサッと戸棚の向こうに隠れてしまった。お母さんもさっとドアを閉めてしまった。軽くため息をついて戻る。おじさんが顔を出した。
「どうだい、気持ちは楽になったかい?」
「うーん。まあ」
もともと悩んでいた訳じゃない。家族や寂しいってのがなんなのかを知りたいだけ。
「いい匂いだな」
「ハンバーグだよ、もらってきてあげる」
気にしないでと投げられた言葉は階段をすり抜ける。
「おばあちゃん、おじさんも食べたいって」
「そうかい、持っていきな」
タッパに二つ。奥さんがいると言っていた。
「一個でいいんだよ」
「え、奥さんいるよ」
「寝たきりだ、食事は胃に流し込むやつなんだよ」
そうだったのか。
おじさんはドアを開けたままで待っていてくれた。
「やあ、ありがとう」
「おじさん、大変?」
「おばあちゃんから聞いたのかい。まあ、大変だけど、大丈夫だよ」
優しく笑うおじさん。受け取ったハンバーグを大事そうに抱えて部屋に入っていった。
おばあちゃんと小さなテーブルを挟んで、いただきますと手を合わせた。ハンバーグと茹でたジャガイモ、ブロッコリー。ご飯、味噌汁にはオクラと豆腐が入っていた。
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月夜の下、おばあちゃんは黄緑色のポロシャツで、その手は蒼空くんが握っていた。
「おばあちゃん?」
おばあちゃんは振り向いたが止まらない。追いかけるしかない。半袖の下から生えるように伸ばされた蒼空くんの細い腕には小さな丸い火傷の痕がたくさんあった。待って、おばあちゃん。声がでない、蒼空くん、待って。
月夜の道はズンズン伸びてどこか目的があるようだった。なかなか距離が縮まらない。足が重くてたまらない。
「きゃっ」
ベタンと転んでしまった。サンダルが脱げた。履き直して二人を追いかける。月が昇るのにあわせて登り坂になった。
二人は不意に止まり、アタシを見た。
二人は地面に吸い込まれるように消えた。
「え、ウソ、やだ」
あんなに重かった足が急に軽くなり、一気に登る。
「どこ? おばあちゃん」
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ここだよ
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直接脳ミソに話しかけられたみたいに頭の中でおばあちゃんの声が響く。足首に痛みが走る。
「痛、え、いやっ、やっ」
アタシの足首は地中から伸びた細い指先にしっかり掴まれていた。ビックリした弾みで尻餅をつくと、小さな手が膝を掴んだ。
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ここだよ
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「夏織っ」
さつきくんだ。
アタシは必死に地面を掘っていた。杏に付けてもらった爪はもう剥がれていて、爪の先は血が滲んでいた。タイツも膝が破けている。泥だらけだ。
「夏織、探したぞ」
さつきくんの声がちゃんと耳から聞こえることを確認した。
「さつきくん、ここ、どこ?」
林の中だ。どうやら地面に膝をついて必死に地面を掘っていたようだ。さつきくんはスマホを耳にあてた。
「あ、もしもし。いた。ああ、大丈夫だ。あとさ、警察呼んで。骨だ」
骨。
掘っていた穴には骸骨があった。手がアタシを指しているように見えた。小さな小さな手だった。
「嘘」
「夏織、平気だよ、大丈夫」
木々の隙間を落ちてくる月明かりがさつきくんを照らす。
「さつきくん」
「ん?」
さつきくんの頬っぺたが腫れている。
「さつきくん、頬っぺ、どうしたの?」
「お前がいなくなって、探し回って、丸二日。仕事が一段落して帰ってきた杏にバレて殴られた」
「どうして?」
「どうしてって?」
「杏はいなかった、アタシよりお仕事が大事なんでしょ、それなのに、なんで、さつきくんが殴られるの? 杏はいなかったじゃんっ」
どうせ、ご飯作ってくれない、友達だからって、さつきくん家に泊まれって言う。面倒みてくれるから大丈夫よって笑う。
「夏織、そういうのを、寂しいって言うんだよ。一緒にいたいんだろ、こういう時にここにいて欲しいだろ。そういうのを、家族って言うんだ」
おじさんは動けない奥さんがいる。蒼空くんのあの火傷はタバコだ。おばあちゃんは自分の子供にも会えない。
みんな寂しいんだ。だから少しずつ優しさを持ち寄って生きていく。だからアタシにも優しさを分けてくれた。
パトカーのサイレンが近づいてくる。
「帰ろう、杏が待ってるよ。あれ、お前、何それ」
頬っぺたを腫らしたさつきくんが指差したのはサンダルだった。
「おばあちゃんの。アパート寄ってく」
さつきくんは変な顔をした。
立ち上がると急に吐き気が込み上げた。さつきくんがこっちで吐けと呼んだ。
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さつきくんは泥だらけで、吐いて臭いアタシを嫌がらずに車に乗せて、気がつくとアパートのとこまで来ていた。
「さつきくん」
「ああ、もうアパートは骨組みだけだよ、全焼だ」
降りて敷地に近づくと、アタシの足首厚底編み上げブーツが転がっていた。
「いつ?」
「二年くらい経つかな。遺体は四人分。二階の真ん中と一階の真ん中が一人ずつ。一階の階段側はご夫婦で、寝たきりの奥さんを置いて行けなかったんだろう、って言っていたよ」
「おばあちゃんは? 二階の階段側よ」
「いや、遺体はなかったよ」
「じゃあ、高梨さんは?」
「ちょうどいなかった。奥さんの実家にいた。奥さんが具合悪くて旦那が送って行ったらしい」
さつきくんを見る。
「三歳の蒼空くんはよく眠っていたから置いて行ったそうだ。実家はここから車で十分くらいかな」
「どういうこと?」
「放火の疑いがある。高梨さん夫婦に食い違いはない。ただ、蒼空くんの遺体はなかった」
小さな小さな手。あれは蒼空くんなんだ。おばあちゃんはどうしたんだろう。
このままでは帰れない。蒼空くんを置いて。おばあちゃんを置いて。おじさんだって優しかった。
「警察は高梨さんを取り調べていた。だが、とにかく蒼空くんがいない。警察だって、生きていて欲しいと願っていた。ケリがつくまでアパートもこのまま保存された。最近になって近所から噂が立った。子供の泣き声がする、何かが割れた音がする。美味しそうな匂いがするというのもあった」
ハンバーグだろうか。美味しかったな。今度、すりごまを入れて作ってみよう。
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「大事に育ててもらっているんだね、あんたもみんなを大事にするんだよ。あんたの笑顔は周りを幸せにするよ」
「おばあちゃん、サンダル、借りちゃった」
「蒼空がね、こんにちはと言われたのが嬉しかったと言ったよ。アタシゃ、見ない振りをしてしまったから。あの日、空き室から火が上がった。隣を叩き、下に降りた。全部のドアを叩いたよ。蒼空の部屋には鍵が掛かっていなかった。見ると蒼空が」
おばあちゃんは怒りと悔しさが交じった顔をした。
「死んでいたんだよ。アタシは蒼空を背負ってあの林に逃げた。埋めてやったのさ」
おばあちゃんは、それしかしてやれなかったと括った。
「アタシの孫に会ったら、友達になってやっとくれね」
「君には家族がいるんだろう、早く帰りなさい」
「おじさん」
「バイバイ」
蒼空くんだ。手を振っている。その腕にはもう火傷はなかった。
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「お前なあ、勘弁してくれよ。反対も殴られるとこだ」
さつきくんが大きなため息をついた。アパートの階段は崩れてしまってもう登れない。
「さつきくん」
「ん?」
「さっきの場所から近いとこにおばあちゃんがいると思うの」
「そうか、捜索を頼もうな」
アタシとさつきくんはもう一度、アパートを見上げてから車に乗った。
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自宅は駅前のマンションだ。さつきくんは一緒に行くと言ってくれたが断った。入り口で降ろしてもらった。
「杏にまた殴られたら大変。殴られるのはアタシだもの」
「杏にはそんなこと出来ないさ。一緒にお風呂に入ろうとか言うんだ、きっと」
くすりと笑ってしまった。そんな気がする。さつきくんに手を振って見送った。
玄関は開いていて、中から入浴剤の匂いが漏れていた。アタシの大好きなチェリーブロッサムの匂い。
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「た、だいま」
小さい声だったけど、杏は奥から飛び出してきた。
「夏織、お帰りっ、待ってたよぅ」
杏は語尾を上げて喋る。ふわりと涙が出た。
「やーん、夏織ぅ、お風呂、一緒に入ろうねぇ」
泥だらけだし吐いたから臭いし髪の毛もぐちゃぐちゃでベタベタでタイツもヒラヒラのスカートも破けてたりするのに、杏はアタシをぎゅうぎゅう抱きしめた。
「杏、爪、とれちゃった、ごめんなさい」
「いいのよぅ、また付けてあげるからぁ」
鍵をかけたことを確認してから杏とそのままお風呂に入った。膝が擦りむけている。爪の先もジンジンしている。
「明日、病院で抗生剤貰おうねぇ、一応ねぇ」
杏は髪の毛も顔も傷口も足の先まで優しく洗ってくれた。ゆっくり湯船に浸かると、杏はアタシの手を両手で包んだ。
「頑張ったねぇ、この手で誰かを救ってあげたのねぇ」
救ってあげた?
「分かんない、そんなこと」
「本当は分かってるくせに」
ビックリした。かわいらしい高めトーンじゃなく、落ち着いた大人の声だった。
「何? いつもの喋り方がいい?」
「ううん、ビックリしただけ。どっちも素敵。どっちも杏だもの」
ふふふと笑う杏はすごくかわいい。お母さんがかわいいって素敵。
「ねえ、杏、ママって呼んでいい?」
「やぁだぁ、杏でいい、夏織とは親友みたいなのがいいのよぅ」
バシャバシャとお湯を掛け合って笑った。
「ねえ、杏のハンバーグ食べたい」
「無理、教えてもらったことあったけど、無理だった。ごめん」
即答であっさり断る。杏がアタシはねぇ、と言った。
「ちっともお母さんらしいこと出来ないから、お母さんって呼ばれるの、怖いのよね。そういうんじゃなくて、髪の毛を結んだりカールしたり、爪とかアクセとかお洋服とか、そういうことなら教えてあげられるから。夏織を誰よりかわいくするなら、アタシ、誰にも負けないわ」
お風呂から出てたっぷりとボディーローションを塗ってくれた。いい香りが鼻をくすぐる。
「杏」
「なぁにぃ」
「今日、一緒に寝たい、杏のベッドに行っていい?」
「もっちろんっ。あ、パジャマ、お揃い買ったのよ、おんなじの着ようねぇ」
杏はそう言うとアタシが好きなお店の袋を開けた。同じデザインのパジャマが色ちがいで三着。
「衣織イオリのもあるの?」
衣織は双子の妹だ。息を引き取るのを杏と見守っていた。
「そのうち、アタシたちの替えになるだろうけどねぇ」
「衣織はピンクで杏はオレンジね」
「そ、夏織は黒ね」
アタシは万年ハロウィンである。ゴスロリみたいなデザインでピンクやオレンジがあるとは。
杏と眠ったその夜はなんの夢も見なかった。深くぐっすり眠った。
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次の日、病院に行って診察を受け、念のためと抗生剤を打たれた。その足で警察に行く。事情聴取を受けるためだ。杏を駅で見送り、さつきくんの車に乗った。
「その手の捜査官だから、身に起こったことをそのまま話して大丈夫だよ。上手くまとめてくれるから心配はいらない」
「分かった。ねえ、おばあちゃん、見つかった?」
さつきくんは信号待ちのときにビニール袋に入ったアタシのシマシマの爪を持たせた。
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「紛らわしいから持って帰れ。あと、こっちも」
別の袋にも爪が一枚。
「なんで別なの?」
「最初のはお前が掘り起こした穴から発見された爪。あとの一枚は、穴の近くで見つかった白骨の手の中から見つかった」
おばあちゃんだろうか。おしゃれって言ってくれた。
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「さつきくん」
「ん?」
「アタシはおばあちゃんを救えたのかな?」
「お前が一番分かってるだろ」
こんな答えまで合わせたみたいに一緒だとは。
「今日、家に泊まれ。杏は仕事に戻ったから」
「はあい」
「何食べたいんだ? 聞いておけって言われたんだ」
「ハンバーグに決まってるじゃない」
「決まってたのか?」
「うん、ハンバーグ大好き」
お嫁さんに作り方を教わって、すりごまを入れてもらうのだ。
夕べ新たに杏が付けた爪を見る。ピンクとオレンジのシマシマ。今日は衣織が好きなワンピースにした。ツインテールはやめてハーフアップにしてもらった。
夏休みは始まったばかりで宿題すらやっていない。今回の不思議な体験はアタシを強くした。
またいつか、誰かを救ってあげられるだろうか。
「あ、杏から電話だ、出な」
さつきくんからスマホを受け取り耳にあてる。
「はいはーい、夏織でぇすっ」
『ばか、夏織っ、あんた、課題出してないって何ぃ? どういうこと? 今日中に出さないと来週、補習だってよぅ』
「あ」
タイトルが「家族」の作文。確かに出していない。
今日も忙しくなりそうだなと思ったら楽しくなった。
了
作者tow
ソラウソ(空嘯)→悲しんで、物思いに沈んでいる人がするように、空に向かって口笛を吹くこと。