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夏休みはバイトをしようと、自分の小遣いくらい稼げるんだと啖呵を切ったんだが、面接で会った店長の一言で止めた。
「かわいいね、君。こっそり時給を上げようかな」
何を評価してもらったのかは分からない。いや、分かる。だから嫌だと思った。水色のワンピースに紺色のデッキシューズ、長い髪の毛はストレートにして結ばなかった。丸出しの膝小僧はツルツルにしてある。
「で?」
「玲レイくんの面倒みるから、バイト料頂戴」
次の日、アタシは神張カミバリハミングロードを抜けて環状道路を渡り、パキパキ鳴る竹林を通ってバイトをねだった。今日はツインテールで黒のタンクトップ、背中にスカルが浮いて見えるジルを合わせて、足元は厚底の編み上げブーツ。シマシマのタイツは外せない。やっぱりこの方が自分っぽい。
「何か欲しいなら買ってやるけど?」
違う。そういうことではない。首を横に振るアタシを軽いため息で流してしまう。忙しいはずだから断るはずはない。個展は来週に迫っている。ちっちゃい小皿を五百万とか注ぎ口がついた変わった大皿を七百万で平気で売る人だ。その為に仕方なく会議やら打ち合わせやらを自分でやるようになった。
「ダメ?」
ありがたい申し出のはずだ。額に浮いた汗が光る。集中している。
「夏織カオル、杏アンちゃんとケンカでもしたの?」
「そういう訳じゃないけど。バイトしようかなって面接行ったら、かわいいから時給上げてやるとか言うから止めた」
「上げてもらえばよかったじゃないか、十円だってバカにできないぞ」
「凛リンくんが言っても説得力ないよね」
「玲より、商談を頼みたいよ」
「それはハードル高過ぎ」
「だよなあ」
陶芸師、石田 凛。母親の杏と同じ歳でその世界では有名らしい。過去が見える皿だとか幽霊が覗く湯飲みだとか、髪の毛が沸く小皿とかもあった。アタシのお茶碗も凛くんの作品で、たまに花びらが見える。凛くんの作品は砥部焼きをルーツに持つらしいが、それはまるで青磁器のようだった。
と誰かが記事に書いていた。
「舞川マイカワの博物館に恐竜が来てるでしょ? 玲くん、好きじゃん、アタシ、連れて行くから」
商談に使う小皿を十枚ずつ数えて紫の風呂敷に包んでいく。手つきがキレイで色っぽい。色っぽいのは指先だけではないのだけど。知っている大人の誰よりもキレイな人だ。男なんだけど。
「何が起こるか分からないぞ」
「分かってる、大丈夫」
玲くんは発達障害だとかで、八歳になる今も学校へは行っていない。一応私立の学校に席はあるし、市役所の人との面談も定期的に行われている。使ったことがないランドセルは埃が被っていくので、たまに拭いてあげる。ひらがなを教えたのはアタシだ。
「じゃあ、頼むよ。はい」
作務衣のポケットに手を突っ込み、無造作に札を出した。三万円。こんなにいらない。
「分からないだろ、舞川からタクシーに乗るはめになるかもしれない」
否定は出来ない。その話はよく知っている。
「ありがと、凛くん」
「気をつけて行けよ」
「はぁい」
「頼んだよ」
「はぁい、はぁいはぁい」
ぴょこんと手を空に突き出す。その爪は杏が付けてくれたビーズがついた付け爪。
「あ、爪取る」
玲くんに刺さったら殺されるかもしれない。凛くんの奥さんは二年前に亡くなっている。宝物の玲くんは、杏に放ったらかしにされてるアタシと同じようにみんなで育てている。ありがたい仲間様々であるのだ。アタシは凛くんの作業机に座り、アルコールやらなんやらを並べて一枚ずつ剥がしていく。
「窓、開けてからやれよ、髪の毛も臭くなるだろ」
凛くんは身体を伸ばしてあちこちの窓を開けていく。
「凛くんさあ」
「あぁ?」
「アタシ、こないだ、幽霊が作ったハンバーグ食べたの」
「ふーん。ちゃんとした肉ならいいけどな」
「帰ってから吐いたし、お腹も壊した」
「ああ、そうだよなあ。旨かったか?」
「うん。すりごまを入れるのがコツなのよ」
返事がなかったので振り返る。凛くんは集中して大きな皿を光に翳していた。作務衣から伸びた腕にはしっかりと筋肉がつき、背中のしなりがそれこそギリシャの彫刻のようだ。カッコいい。
「お皿、割れてるの?」
「いや、見えるか? 右っ側」
「あ」
手形があった。
「子供のみたい。小さいね」
「そうだな」
八百万で売ったものだそうだ。
「金返せって言われないの?」
「ああ、言われなかったな」
言われたら、はいはいと返すに違いない。剥がした爪を並べて凛くんに行ってきますと言った。
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「何言ってるの? 二人で行くの? 待って、アタシも行くから」
凛くんはアタシと同じで双子の姉弟である。双子の大先輩だ。凛くんのお姉さんの葎リツちゃんがものすごく慌てている。二人でいいのに。
そもそもいつもタクシーに乗ることになるのは葎ちゃんだけなのだ。理由は分からないけど有名だ。
「葎ちゃん、大丈夫。凛くんに了解もらったから。タクシー代ももらったよ」
「え、でも」
葎ちゃんはきっとアタシの手には負えないからと言いたいのだろう。確かに葎ちゃんみたいに完璧にはいかない。いや、とりあえず、自力で帰ってくる自信だけはある。本気でついてこようとしている葎ちゃんを凛くんが引き留めた。玄関は広いけどわちゃわちゃしてしまった。
「いいんだよ、俺がいいって言ったし」
「あんたは一時から打ち合わせなんでしょ、さっさとシャワー浴びて着替えなさいよ、遅れるわけにはいかないでしょ」
「遅れたほうが言い値がつくんだよ」
「先に行って、お待たせましたって言われる方がずっといいじゃないの、こっちはアタシが」
葎ちゃんは諦めずに反論しまくっている。凛くんが手をヒラヒラさせた。行けよ、行け。
違う、この手は凛くんのじゃない。前からよく見る左手は灰色で明らかに生きてはいない。分かりやすいから、まあ、いいや。
出かける気配を察したのか、玲くんが二階から降りてきた。ちゃんとリュックを背負っている。凛くんとお揃いの作務衣。この親子は大抵この格好である。凛くんは紺色ばかりだけど、今日の玲くんは水色の大きめ千鳥格子でとてもかわいい。くりくりした二重の目が凛くんを捉えた。
「お父さん、水筒、欲しいです。甘いのがいいです」
「ああ、おいで」
このお家は葎ちゃんのお家だ。作業場を挟んで向こう側にも同じお家があって、それが凛くんと玲くんのお家なんだけど、今は使っていないらしい。踏み入ってはいけないゾーンのようで、入ろうと思ったこともない。凛くんには作業場で事足りる。
キッチンでカラカラと氷が扱われ、すぐに満足した顔の玲くんが玄関に戻ってきた。
「カオちゃん、行きたいです。りっちゃん、行って来ます」
葎ちゃんは凛くんと似た顔の眉間にシワを寄せて、気をつけてとか夏織の言うことを聞きなさいとか、通り一辺の注意を並べた。黙っていれば、すぐ終わるのに凛くんがチャチャを入れた。
「葎、うるさいんだよ。お前が一番タクシー代使うくせに」
「どこにも連れて行かないあんたに言われたくないわ。自分で行けばいいのよ、アタシはあんたの代わりと思って」
「はいはい、いつもすいません、ありがとう」
「全然、そう思ってないでしょ」
「ほら、ご子息様のご帰宅だ」
葎ちゃんの二人の子供は高校一年のアタシより三個下と四個下の兄弟で今、反抗期の真っ最中だ。玄関でうるさいんだよ、と顔に書いてある。一応、アタシと玲くんには小声で声をかけてくれるのだけど。
「あんたたち、ただいまは?」
「言うわけないだろ、顔見れば分かるだろ」
「凛は黙ってなさいよ。あ、シャワーは凛が先よ」
万年反抗期だったらしい凛くんはアタシたちを玄関から追い出してドアを閉めてしまった。
「カオちゃん、桜川サクラガワ駅から行きます」
「ん」
玲くんは反抗期連中に目もくれず、すっと小道を指した。アタシが来た方向と逆である。ハミングロードを通って行く神張駅より少し遠い。
「カオちゃん、笑ってますね」
「玲くんもね」
「はい、お父さんもりっちゃんもみんな楽しそうです」
「うん、そうだね」
手を繋いでてくてくと。
「あ、ネコさんです」
死んでるけどね。
「あの人はスカート、どうしたんですか?」
いや、あれは大分前からあそこに立っているので、アタシにも分からない。事故とは思えない。車なんか通らないし。
「玲くん、今日は恐竜を見に行きますよぅ」
「テラノザウルスですか?」
「行ってからのお楽しみです」
「カオちゃんは分からないんですね」
「はい、ごめんなさい」
「じゃあ、カオちゃんもお楽しみです」
「そうです、お楽しみ」
死んでると思われる人や動物から意識をずらしてあげる。玲くんはビー玉みたいなくりくりお目目でアタシが切符を買ったりホームを探したりするのをじっと見ていた。
「カオちゃんにもいるんですね」
見ていたのはアタシではなかったらしい。よくよく見ると玲くんの視線はアタシのツインテールに注がれていた。慌てて鏡を見ると映っていたのは灰色の手だった。ツインテールの結び目を撫でている。どこから伸びているのかと鏡の向きを変えたら映らなくなってしまった。
「あ、いませんね」
「うん、どっか行っちゃった」
ぶわっと暑い空気と一緒に電車がホームに滑り込んできた。
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車内は空いていた。並んで座ると玲くんは水筒を開けた。イオン飲料の甘い香りがする。一口飲んでホッと口を丸めた。何をするにも一所懸命で見ているとほんわかする。
「あ、カオちゃん、またネコさんです」
これさえなければ。向かい側に座る老夫婦の足の隙間から顔だけのネコがこちらを見ていた。あれは死んでる。周りの人は気付かなかったので、そうだねと合わせて水筒のキャップを閉めてあげた。
いつか分かる時がある。アタシはそれを月の光の下で実感した。死んでる人と生きているアタシたちとの違い。それまではこの玲くんと変わらなかったかもしれない。見えない誰かに話しかけたりしていたかもしれない。
「カオちゃんも飲みますか? リュックに入ってます」
リュックを開けるとストレートティーのペットボトルが入っていた。ありがたくいただく。
「おいしいね」
「はい」
すぐそこに立っていた女の子二人が笑いながら誰かを指差していた。アタシの後ろの方だったので振り向く訳にも行かず、聞き耳を立てると小声で言った。
「気持ち悪い、手話って」
気になったので振り返ると隣にいた人と目が合った。手話を使っていた人たちはその人の後ろにいた。さっきの気持ち悪いって聞こえたんじゃないだろうか。
「あ」
「あれ? こないだの」
目が合った人はかわいいから時給上げようかなと言った店長がいるレストランの人だった。少し歳上のようだ。大学生かもしれない。話しかけようとしたら、立っていた女の子がサンダルを鳴らして近づいてきて先に声をかけた。
「霧都キリト先輩、偶然ですねっ」
二人はこの人の前に立って、かわいく笑った。二人ともデニムのショートパンツで胸元が広いティーシャツを着ている。双子コーデだ。
「バイトですか?」
「うん」
「あのお店、おいしいですよね、ウェイターの人、みんなイケメンだし。店長も素敵ですよね」
正直、面接で飲んだ紅茶は不味かった。自分でいれた方が断然美味しいと思う。でも確かに料理は美味しかった。
二人がまた口を開こうとした時、玲くんが言った。
「しゅわって何ですか?」
双子コーデの一人が一瞬だけ嫌な顔をした。そもそもアタシたちのことは眼中になかった。すいません、と頭を下げて移動しようとした。
「口が利けないから手を使って会話するんだよ。この人たちみたいに」
霧都先輩と呼ばれた人が、それこそ手話を使って玲くんに答えてくれた。もちろん手話で話していたらしい人たちも手元を見ている。その人が霧都先輩に手話で答えた。少し眺めてみる。何が気持ち悪いんだろう。霧都先輩は玲くんに向き直って言った。
「俺と同じ大学の先輩なんだ。かわいい子がいるねって話してたんだよ。君のことかもね」
双子コーデのことだと普通に思うだろう。それを玲くんに振るとは、この人面白い。双子コーデたちはムッとしている。
「あ、伝えておいたよ。手話、気持ち悪いんでしょ?」
双子コーデのムッとした顔が一瞬で赤くなる。なんか居たたまれない気分。ちょうど舞川駅に到着したので、すいませんでしたと声をかけて電車を降りた。暑い空気がアタシたちを包む。
「玲くん、お昼食べたの?」
「まだです。でも恐竜に会いたいです」
恐竜が逃げるわけはないからとりあえず何か食べよう。食に興味ないのも困る。ハンバーガー店に決めた。
「ポテト好きです」
「アタシも。大きいのにしようか」
「俺も」
俺も?
振り返ると霧都先輩だった。
「一緒に食べていい?」
嫌とは言えない。はいとも言えない。
「はい。一緒に食べましょう」
「え?」
「そうしようか。あの席はどう?」
タイミングよく空いた席を霧都先輩が示す。先に座ってて、と言われた玲くんは、はいと返事をして向かっていった。
「あの子、面白いね」
「興味だけならやめてください」
「弟?」
違うけど面倒なので、そうですと答えた。
「ネコ、いたよね?」
びっくりした。見えたのか。
「俺もあんなんだったなあって。懐かしくなった」
分かる、さっきそんな気分だった。霧都先輩は一番大きい三段のハンバーガーを頼んだ。ポテトも炭酸飲料も大きい。細いのに食べられるのだろうか。アタシたちは魚のグリルがサンドされたものにポテトをつけた。飲み物はウーロン茶とリンゴジュース。
アタシと玲くんは並んで座り、向かい側に霧都先輩。玲くんはキラキラした目で霧都先輩を見ている。
「ぼくは、石田 玲といいます」
「玲くんと呼んでいいですか?」
「はい、お兄さんのお名前はなんですか?」
「ぼくは天久テンキュウ 霧都といいます。霧都くんと呼んでください」
先輩ってつけて、と言おうかと思ったがやめた。すかさず、霧都くんですねと玲くんが笑った。別に同じ学校じゃないし。
「手話、教えてください」
もう食べる気がない。それはダメだ。口を出そうとしたら霧都先輩が言った。
「きちんとハンバーガーを食べてからならいいですよ」
「分かりました、食べます」
博物館まで辿り着けない気配がする。すいません、バイトですよねと言いたいが、そこにまた玲くんが食い付いたらと思うと少し悩む。きっと葎ちゃんはこういうのが重なって最終的にはタクシーに押し込んで帰ってくるのだろう。アタシの小さい悩みなんて知らない玲くんは一所懸命に食べている。手話か。
「あの、霧都先輩」
「霧都でいいよ、同じ大学じゃないでしょ? 高校生?」
「あ、はい。一年生です。橘タチバナ 夏織といいます」
霧都の切れ長で大きい黒目がアタシを見た。
「弟?」
「あ」
そうだった。嘘って難しい。
その時、視界の端っこに双子コーデが映った。行き先が一緒なのか霧都を追いかけてきたのか。見ない振りに決める。
「すいません、母の友人の子なんです。今日はアタシが面倒みるからって。恐竜が好きだから博物館に」
「ああ、そうか。ポスター見た?」
「え、はい。神張駅で」
「あれ、撮影したの、友達なんだ」
「そうなんですか? へえ」
すごいかは分からない。まず、恐竜のすごさが分からないし。
「夏織ちゃん、面白いね」
「ちゃんはつけなくていいです」
「そう? 分かった」
霧都のハンバーガーはすでに半分がお腹に収まっている。玲くんも負けてない。競ってるみたいで楽しくなってきた。アタシもかぶりつく。
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玲くんは、霧都に教わったら教わった分、きっちりと手話を覚えていく。霧都はあの先輩たちと友達になってから覚えたのだと言った。ならば、ついでなのでアタシも覚えることにした。挨拶くらいならすぐ覚えられたし、何だか楽しくなってきたし。とりあえず、ドリンク以外は片付けて、霧都は自分のノートを広げてメモしたりしながら手話を続けた。
「止めんか、こんな場所で」
まさかアタシたちのこととは思わなかった。頑固そうな面差しのおじいさんはアタシたちの手を払った。そしてそのまま行ってしまった。玲くんとアタシは目を丸くしたまま霧都を見た。
「まあ、差別っていうか。手話を快く思わない人もいるってことだよ」
「しゃべっちゃいけないってことですか?」
玲くんの質問の答えはアタシに投げられた。
「昔はさ、例えば、生まれつき手がなかったとか足がなかったとか、逆に指が多かったりとかすると、隠したりしたわけ。時代によっては死産ってことにされたりもあったでしょ」
「そうなの?」
「双子だって忌み嫌われて、一人を殺してしまったり隠したり里子に出したりも普通だった」
背中を汗が伝う。その時代に産まれていたら、アタシと妹はどちらが死んでいたのだろう。手にかけるのは誰が担うのか。
「聞こえないとか見えないくらいなら健常者に紛れて生きられるだろうからまだマシかもな。働けばいいだけだ」
「でもバレたら?」
「迫害されるとか。小さな村なら幽閉されるとかかな。ああ、ハンセン病とか分かりやすいかな」
「分からない、聞いたことしかない」
合わせて頷くことも出来るけど正直に言った。
「逆に身体障害者を神様の生まれ変わりだといって大事に大事に崇められた地域もある。あとは見世物小屋で一生を終えた者もたくさんいただろうね」
「そうなの」
「言語障害者なんかは神様の言葉を伝えてるとか言うし、ああ、イタコなんかは盲目が条件だし」
玲くんが立ち上がった。
「ぼくは知りたいです。なんで手話が気持ち悪いのですか?」
玲くんの今日のテーマかもしれない。アタシはスマホを出して手話や障害者を検索した。今のおじいさんが言ったことと同じことがあったり、目が見えないために事故に遭ったことなんかがすぐにでてきた。あんなに楽しく思った手話が哀しみとして映る。
「カオちゃん、カオちゃんは知りたくないのですか? カオちゃんもお父さんもリッちゃんも双子です」
霧都が炭酸飲料を吹いた。
「ごめん、そうなの?」
「あ、いいの、平気。それより、テーブル拭いて」
アタシたちは大事に育ててもらっている。凛くんも葎ちゃんも結婚して子供もいて幸せに決まってる。
決まってる?
「恐竜、行こうか?」
「恐竜はどうやるのですか?」
霧都はまた手話を始めた。あんな言われ方をしたのに。二人とも気にしていないのか。
店を出て博物館に向かう交差点は広くて車の通りも激しい。アタシは玲くんの手を取ろうとした。
それはいきなり起きた。ただ霧都が支えてくれたから何ともなかった。パァーンとクラクションが響いた。
「どうした?」
「え、ううん、ごめんなさい」
アタシは玲くんと手を繋いだ。霧都から離れる。
「カオちゃん、怖い顔してますね」
「え、あ、大丈夫。ごめんね」
横断歩道を軽快なメロディーにあわせて渡る。心なしか速足になる自分がいる。
「夏織」
横断歩道を渡りきってから霧都がアタシの左腕を掴んだ。やっと呼吸できる、そんな感じだった。
「どうした?」
玲くんの手を取ろうと下を向いた瞬間、その視野にいたのは双子コーデの女の子だった。あり得ない角度でアタシの視野を塞ぎ、頭を掴んで道路に突き出したのだ。
霧都には、ふらついたように見えただろう。厚底なんか履いてるからだと言われそうだ。霧都は素早くアタシの前に腕を伸ばして支えてくれた。
「ふらついて」
「大丈夫? 飲み物あったよな?」
「はい、どうぞ」
霧都と玲くんは見事な連携で水筒をアタシに渡す。喉が渇いているわけではない。だが、玲くんはそれを飲ませようとした。
「お父さんが、おまじないかけてくれたんですよ」
水筒を受け取り、軽く振るとカラカラと音がした。凛くんの器の欠片が入っている。一口飲むと落ち着いた。
「ありがと」
「はい。カオちゃんはお前が守るんだよってお父さんが言いました」
なんと気の利く親子である。
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あの女の子は何故か二人には見えない。二人が見えているであろう、血まみれの男の人や首だけの犬はアタシにも見えるのに。
「座ろうか、あそこ」
霧都は券売所に近いベンチを指した。頷くと玲くんを離した。
「ポスター、俺の友達が撮ったんだよ。見ておいで」
「はい」
返事は手話と同時になった。身に付いたのだ。跳ねるようにポスターの真下に向かう玲くんを二人で見守る。
「で?」
「え?」
霧都を見る。二重で大きい黒目、浅く焼けた肌、長めの前髪は栗色だった。かっこいいのだ。服だって決して安いものではないだろう。アタシの頭を掴んだのは確かにあの女の子だった。きっと霧都を見つけて頑張って話しかけてきたに違いない。アタシたちが邪魔をしたのだ。
「生き霊って分かりますか?」
「ああ、あいつか」
鼻にシワを寄せて嫌な顔をした。
「分かってたの?」
「最近よく言われるんだ。あの女がいたよ、見たよ。おかしいなって。だって、あの女、俺をつけてて今、そこにいるのにってさ」
「デートしたいんじゃないの? してあげればいいのに」
「しないよ。一緒にいたくないし」
「かわいかったよ。話したらいい子だったりして」
「や、同じゼミだから話すよ。ただ、その気持ちはいらないかな」
「いらない?」
「じゃあ、夏織は好きですって言われたら誰とでも付き合うの? あ、別にコクられてもいないけど」
あの子は選ばれなかっただけ。
「しない」
「だから、俺もしない。それだけだよ。ってか怖いんだぞ、ストーカーされるの。死んだやつの方が全然優しいんだぞ」
そうだ。生きている人間の方がずっと怖い。
凛くんに聞いてみよう。何か対策を練ってくれるかも。スマホを出すと霧都も出した。
「何だよ、メルアド交換じゃないのかよ」
「違うよ、生き霊退治の仕方、聞こうと思って」
「夏織はさ」
「うん」
「周り、大人ばっかりだろ?」
「え?」
「クラスに友達いないだろ」
答えに詰まる。
「そんなことない、楽しいよ」
くすりと笑う霧都。いないんだな、と笑われたみたいだ。
「聞けば何でも教えてくれる大人たちに囲まれて、守られてばっかりなんだろ」
それも当たりだ。仕方ないといえばそれなんだけど。杏のお仕事の関係や凛くんの体質、玲くんの病気、妹は死んだ。大事に大事にされていることはよく分かっている。
凛くんに掛けにくくなったスマホを持て余す。
「ほら、メルアド、交換しよう」
「霧都は何でアタシに構うの? あの女の子のこと、どうするの?」
一瞬、出し渋ったスマホを霧都はさっと取り上げてメルアドと電話番号を登録してくれた。
「玲くんが面白かったし、どうやら俺と同じものが見えるみたいだし。それに夏織はあの女が先輩らを気持ち悪いって言った時、何でかなって顔をしてくれたから。ああいうときって本音が見える。ああ、この子は分かるんだって思った」
「アタシだけじゃないよ、そういう人」
そう言うと霧都は呆れたような困ったような顔をした。
「なあに?」
「メルアド交換が今日の目標だった」
「え?」
「もういいよ。ほら、行こうよ」
先に立ち上がって玲くんを呼んだ霧都の背中を見る。ついていこうとした途端、玲くんが転んだ。
「大丈夫かっ」
走り出した背中を追いかけるつもりだった。
この左足の激痛がなければ。
掴まれた。
ものすごい力で。
見なくても分かる。あの女の子だ。
「カオちゃんっ」
「え、え? おいっ」
踏み出すはずの足は動かず、アタシは床にダイブする。
寸前で霧都の腕がアタシを支えた。とりあえず顔を打つことはなかったが、この痛みに声が出ない。左足を見ようとしたら霧都に抱きしめられた。
「見るな」
「カオちゃんっ、カオちゃんっ、カオちゃんっ」
「玲、落ち着け」
「カオちゃんっ、カオちゃんっ、カオちゃんっ」
「大丈夫だから、玲っ」
「カオちゃんっ、カオちゃんっ、カオちゃんっ」
壊れたおもちゃみたいにアタシを呼ぶ声が不意に聞こえなくなった。
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目を開けて、そうか、アタシは気を失ったのかと思った。見回すと霧都と目が合った。
「大丈夫か?」
「霧都、ここ、病院?」
「ああ。痛みは?」
「ん、大丈夫」
痛み止めの点滴を見つめる。
「見えた?」
「何が?」
「あの女の子」
「どこで?」
「えっと」
抱きしめられたとき、と言うのが何だか恥ずかしかった。
「転んだとき。見るなって言ったじゃない」
「あれは、ああ」
「なあに?」
「左足、在らぬ方向を向いてたから」
あの激痛を思い出すと冷や汗が出る。
「厚底だったし」
「厚底でも編み上げのがっちりしたブーツだったじゃないか。あんな風にはならない、つまずいたくらいじゃ」
「つまずいてないもの」
「だろうな。ブーツは切られたぞ」
「いい。仕方ないもの。ありがとう、大変だったよね」
「ほんとだよ。玲くんはずっとお前を呼んでた」
霧都の向こう、隣のベッドに玲くんは寝ていた。大変なことをしてしまった。凛くんに怒られる。葎ちゃんにも杏にも絶対怒られる。
「夏織?」
霧都の指先がおでこに貼り付いた前髪を直してくれた。
「玲くんね、お母さんが倒れたときも側にいたから。お母さんはそのまま亡くなったの。アタシ、悪いことしちゃった」
「元を正せば俺だろ? ってかあの女な」
「あ」
「ん?」
「あの女の子、ズルイって言ってた」
あんたばかり霧都に構ってもらって。そんな意味だろうか。あの声がまだ耳に残っている。
「電話借りようと思ってアドレス帳開いたよ。橘か石田かで悩んだけど、この病院、知り合いがいるんだろ? 連絡はしたからって言われた」
「どこ? ここ」
「霧沙ムサ市立病院」
「あ、うん、知り合いいる。あ、怒られたんじゃない?」
舞川からならすぐだ。安心が身体を満たす。ほっとした。霧都は少し笑っていた。
「ああ、怒鳴られた。大学生にもなって女も捌けないのかって」
「なにそれ?」
それから霧都はあの呆れたような困ったような顔をまたこちらに向けた。
「衝撃的な写メだけど見る?」
霧都が見せてくれた写メは確かに衝撃的だった。
グニャリと曲がったアタシの左足。そこにはハッキリと手形が写っていた。この手に掴まれて折れたのだ。
「一応、表向きは厚底のせいになってるけど、これのせいだって、顔がいいだけじゃモテるとは言わない、ただのバカだって」
「でもいい先生なんだよ。大好き」
ここの医院長先生だ。女の先生で太っていて背も高いから貫禄たっぷりで、腕もいいし、経営も完璧、アタシみたいなよく分からないものでもまとめて面倒見てくれる。ただ言葉がキツく怖いので多分誰に電話しても迎えはないだろう。みんなこの先生に一度は怒鳴られている。
「ごめんな」
「平気よ、後で玲くんにも謝ってくれれば」
「分かった」
コンコンとノックがしてすっとドアが開いた途端、霧都は立ち上がってアタシから離れた。
「あ、先生」
「夏織、痛みは?」
「平気」
「じゃあ、一仕事してらっしゃい」
「へ?」
先生は霧都を睨むように見た。霧都は本当にさりげなく視線を外す。
「居場所、分かったの?」
「はい」
先生はアタシの点滴を抜き、痛み止めを霧都に渡した。何も言わないで病室を出ていった。
「玲くんはここにおいていっていいらしい」
「うん、分かった。アタシたちはどこに行くの?」
霧都は車イスを準備してアタシをのせた。左足は膝から下がギブスで固まっている。
「あの女がいるとこ。最強のやつを向かわせたって言ってたけど、意味は分からない」
最強のやつ?
聞き返そうとしたら玲くんの水筒を持たされた。
「持ってろってさ」
自分のカバンと霧都のカバンを抱えて持つ。霧都は上手に車イスを操作して外に出た。すっかり暗くなっている。タクシーを呼んであったらしく、車イスごとのせられて出発した。霧都に手を伸ばすとその手を握ってくれた。
「実害を出す生き霊は珍しいそうだ。お前はよっぽど恨まれているって怒鳴られた」
「玲くんじゃなくてよかった」
「ごめんな」
霧都を見ると少し疲れたような顔をしていた。そっと触れるとビックリされてしまった。
「あ、ごめんなさい」
「いや、だからさ」
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目を反らした霧都の耳が赤くなった。何だかアタシも恥ずかしくなる。タクシーが急ブレーキを踏んだので前を見る。
「すいません、ネコかな」
運転手が頭を下げた。固定された車イスは何の問題もない。霧都も平気だった。
でもそこに立っている。フロントガラスの向こうからアタシを見てる。
女の子が見えない運転手は気にせず車を発進させた。思わず目を瞑ると霧都が聞いてきた。
「いたの?」
「いたよ、ほんとに見えないの?」
「うん、ごめんな」
「なんで謝るの?」
「見えてたら違うかなって。二人が同じものを見てたら安心するだろ?」
見えたのは霧都の気持ち。アタシの気持ち。
そりゃ、ズルイって言われるわ。
タクシーがついた先は霧都がバイトしている、アタシが面接したレストランだった。
「電車でさ、今日はバイトですか? って聞かれて、俺がうんってウソついたの、覚えてる?」
「覚えてるよ」
「あのあと、ここに来てずっと居座ってるらしい」
「え?」
ずっと。別に約束したわけじゃないのに。というか、何ならあの女の子がここで働けばいい。時給は上がらないかもしれないけど。
「言っただろ、ストーカーなんだよ」
生き霊は確か無意識の領域だ。本人に何かを言ったところで消えるのかどうかは誰にも分からない。霧都は数段の階段を回ってスロープからアタシと入店した。いらっしゃいませと心地いい出迎え。黒一色の制服がピシッとしていて、霧都も似合うだろうなと思った。
「悪いな、いろいろ」
「マジ、あれ、ヤバいぞ。霧都はいないって言うとキレるんだよ」
小声で状況を確認する。霧都は女の子がいるテーブルのはす向かいにアタシを連れていく。
「ありがと」
「なんか食うだろ、あ、任せていい?」
さっきの店員が頷く。霧都はアタシから離れて女の子の前に立った。
「あ、霧都先輩、忙しそうですね。コーヒー貰おうかな」
やっと来た、やっぱり来てくれた、ほら、間違っていないわ。そんな声が聞こえるようだった。アタシのことは眼中にない。そうだ、最初からアタシのことは見ていなかった。
「悪いけど、警察呼んだから。いい加減、付きまとうの止めてくれる?」
「そんな、付きまとうなんて。コーヒー飲みに来ただけですよ」
「十一時二十八分から? 今までずっと? もう七時を回ってる。業務妨害だよ」
「そんな、お客ですよ。そんなこと言えますか?」
「うちのマンションのロビーに八時間いたこともあったよね? 同じマンションの子供が怖がってたよ」
「それは足が痛くなって動けなくて」
「あんな風にか?」
霧都はアタシを指した。
女の子はアタシを睨む。
女の子は知らない。アタシの足首に自分の手形があること。パトカーの赤いランプが見えた。本当に警察を呼んだのか。
「何もしてない、ただコーヒー飲んでただけじゃない、ちょっとマンションのロビーに座ってただけじゃないっ」
「ゼミの俺のロッカー、開けて何してたの? 大講堂の俺が座ってた席をあたしのだって騒いだこともあったんだってな」
「そ、それは、あの、お土産を」
「ゼミの連中に俺と旅行に行ったって自慢したらしいじゃないか。俺の親友にも適当なこと吐いたらしいじゃないか」
女の子は下を向き、肩を震わせた。
「……に」
「俺は何も約束もしてないし、あんたに興味もない。だいたい、手話が気持ち悪いとか言うやつと一緒にいたくない。今までは見ない振りでいいかと思ったけど、あれは許せない」
「ずっと好きなのに、霧都先輩だってタオルありがとうって言ったじゃない」
多分、店内にいたみんなが呆れたため息を吐いただろう。霧都の話を聞いていないし、ありがとうと言われただけでここまで出来るなんて逆にすごい。
「まず、何の話か分からない」
「初めて会ったときです、タオル落としたじゃないですか」
拾って渡したのだ。
「それ、ありがとうって言わないやつはいないぞ」
「嬉しかった、入学してからずっと見てきたんだから」
気持ちは純粋なのだろう。表し方がおかしいのだ。
「嬉しい、いっぱい話しちゃった」
冷めた視線は霧都だけではない。店員がアタシにケーキを出してくれた。小さくて丸いショートケーキ。大きな苺が転がりそうだ。フォークに刺してかじると甘くておいしかった。
「霧都先輩、もうバイトはおしまいですか?」
霧都に向けたのは笑顔だけではなかった。女の子はナイフを霧都に向けていた。店員が霧都の前に出ようとした。
「それ、どうするの」
「だって霧都先輩、分かってくれないから」
女の子はアタシを睨む。その瞬間、左足首がまた痛みだした。カランとフォークが落ちて苺が転がった。その苺を踏み潰したのは女の子だった。
「霧都っ」
店員の声が響いた。
「一緒に死にましょうよ。そうしたらずっと一緒でしょ」
「やだね」
冷めた視線は女の子には向けられていない。アタシの後ろだ。振り返るとスーツを着た男の人が立っていた。凛くんもいた。
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凛くんはショートケーキをどかしてアタシの目の前に風呂敷包みを置いた。きれいな仕草で包みを解く。桐の箱だった。
凛くんは箱をそっと開ける。
ぶわっと花びらが溢れた。
溢れたように見えた。箱の中身は大きなお皿だった。真っ白で灰色の点点が花びらに見えたのだ。その時、軽くツインテールを引っ張られた。誰かと思って見上げると。
真っ黒の長い髪の毛。着物を着た女の人。
隙間から見える目も真っ黒。
アタシを優しく撫でる左手は灰色だった。
この手は。
「行け」
凛くんの冷たく響く一言に灰色の左手が反応した。
灰色の左手は女の子の首を掴んだ。
これはみんなに見えているのだろうか。女の子は膝から崩れて床に倒れた。霧都はアタシのときみたいに助けたりはしなかった。霧都に刺さったように見えたナイフがフォークみたいにカランと音を立てて転がった。ナイフには血もついていない。刺さっていなかったのだ。
「霧都、刺さってないのか?」
「大丈夫、これ着せて貰ったから」
店員に聞かれた霧都が、ティーシャツを捲ると黒いベストが見えた。スーツの人が答えた。
「ケガしてからでは大変ですから、一応と言って着せたのは正解でしたね」
警官だったのか。スーツの人は女の子に近づいて、殺人未遂で逮捕しますと言った。女の子は頭を打ったのかぐったりしている。
凛くんは澄ました顔で桐の箱をしまい、丁寧に風呂敷で包んだ。ひらひらと花びらが零れていた。いつもと変わらないきれいな色っぽい手つきに見とれてしまう。
「凛くん」
「バカ夏織め」
「ごめんなさい」
そういえば痛みが引いた。灰色の左手に撫でられたときからだ。
「玲は葎が迎えに行った」
「本当にごめんなさい」
貰った三万を返そうとしたら、いらないと言われた。
「でも」
「たまには自分で服を選べよ。杏の着せ替え人形じゃないんだから」
「杏が買ってくるけど、杏はアタシの好みを分かってるよ」
「バーカ」
ポンポンと頭を叩いて店を出ていく。凛くんはあの警官と知り合いのようで、ありがとなと言うのが聞こえた。
「何なのよ」
潰れた苺。かわいかったのに。食べたかった。
「痛みは? 痛み止め飲む?」
霧都はごそごそとベストを脱ぎ警官に返した。
「平気、多分」
女の子は警官に抱えられてパトカーに乗せられていなくなった。見回したが生き霊はいないようだった。
霧都は向かい側に座った。清々した顔をしている。
「何だよ、あっち行けよ」
アタシにではなく、ちらちらと隠れていた店員に言った。
「霧都」
「ん」
「ありがと」
「こちらこそ。ケリがついたよ。もう見えない?」
「うん、いないみたい」
「よかった」
よかったとふわりと笑う霧都。こんな顔もするんだ。
「うん」
何だか嬉しくなって笑ってしまう。
「夏織さ」
「なあに?」
「また、遊ぼうか」
「また、また今度?」
「うん」
「いいよ、嬉しい」
霧都は手で何かを払った。何かと思ったら、散ったはずの店員たちがまたアタシたちを見ている。
「ああ、もう」
「そうだ、手話って習えるの?」
「え、ああ。今日さ、恐竜見たら連れていくつもりだった。病院のボランティアだけど。小さい子どももいるし、玲くんも喜ぶかなって思ってさ」
「うわ、行きたかった」
「あのさ、夏織」
「うん、アタシ、いつでもいいよ」
クスクス笑う声がする。店員たちが笑っているみたい。
「今日、会ったばかりで、生き霊くっついたり、骨折したり大変だったのは分かってるんだけどさ、言っていい?」
「うん」
なんか、心臓がパクンパクンしてる。
「俺と付き合わない?」
耳が赤くなる。
霧都から目が離せない。
二人が同じものを見てたら安心するだろ? と言った霧都が思い浮かぶ。
「どうぞ、クールな霧都を落としたかわいいお嬢さん」
店員がケーキを持ってきた。置かれたお皿にはチョコレートで花びらが描かれ、一言書いてあった。アタシはそれを読んだ。
「ありがとう」
「どっちだよ、それ」
ふふふと笑う。だって嬉しいから。
「また生き霊が出たらどうするの?」
「一緒に退治するんだよ。俺だけじゃダメだったし、夏織は骨折するからな」
「痛いのよ?」
「あ、痛み止め飲む?」
「平気、嬉しいから」
「飲んでおけよ、心配だから」
小さな粒を二つ、アタシの手のひらに出してくれた。
「怖かったな」
「俺も。あの先生はマジで」
「えー、そっち?」
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あれから一週間が立った。アタシはあのあとまた病院に連れていかれてそのまま入院している。生き霊は本当にいなくなったみたいで現れることも見ることもなくなった。杏も仕事だったから自宅には戻らないことになり、葎ちゃんが来てくれていっぱい面倒をみてくれた。玲くんも来てる。
タブレットで手話の番組を睨みながら二人で手話を使って話をする。誰かの手助けが出来たらいい。
「あんたたち、なんで黙ってやるわけ? 話しながらやりなさいよ。アタシ、分かんないじゃない」
葎ちゃんがタオルをたたみながら言った。
「そっか」
「だいたい口に出した方が覚えるんじゃないの?」
「あ、なるほど。玲くん、葎ちゃんは、怒ってる?」
「なにそれ、ちょっと」
「りっちゃんは、怒っていません、心配、してる、だけ」
軽いため息。口元が綻んでいる。
「恐竜、見たい、です」
「足が治ったら」
足が治るまで開催しているだろうか。
「そうだ、霧都に、頼んでみる?」
付き合わない? と言われ、ありがとうと答えたまま、何の連絡もしていない。何を言えばいいか分からなかった。霧都からもないし。
「はい、そうして、ください」
「待って、誰、キリトって誰?」
葎ちゃんのびっくりした顔がかわいかった。
「えっと、彼氏」
「は?」
「大学生」
「ちょっと、手話やめて。ちゃんと話しなさい」
両手を掴まれた。葎ちゃんは杏と違う香り。
「いい匂い」
「え、もう。はぐらかさないで」
「彼氏だよ。かっこいいし、優しいし、幽霊も見えるのよ」
「ぼくにも優しいんですよ」
「玲は黙って。いつから? 杏は知ってるの?」
「知るわけないじゃん、杏、いないもん」
「どういう意味?」
「彼氏になって一週間だから。あれから会ってないけど」
ため息。薄いメイクがすごくきれい。
「葎ちゃん、きれいね」
「アタシのことはどうでもいいの。彼氏、名前は? なにキリトくん?」
なんか面倒くさい。違う話しないと。
「ねえ、葎ちゃん。凛くんが持ってきたお皿、あれなあに?」
「皿」
葎ちゃんの顔色が変わった。これは怒ってる。玲くんがそっと手話で、大変、と伝えてきた。
「えっとあの」
「皿って? どんなの? 大きくて白くて灰色の花びらの柄で桐の箱に入ってて江戸紫の風呂敷から出てきたの?」
大正解。葎ちゃんの眉間にシワがよる。
「凛が持ってたの? 打ち合わせ終わって帰って来たかと思ったら、あんたを迎えに行ってくるってあの時、それを持って行ったのね?」
凛くんが来てくれた経緯は分からないけど、お家にいた葎ちゃんが言うならそうなんだろう。なんで怒ってるんだろう。
「夏織にちゃんと言わないとね。あのお皿は絶対触っちゃダメ。どんなに悲しくなってもどんなに辛くなっても、どんなに誰かを憎んでもどんなに誰かを恨んでしまっても決して触らないで」
二重瞼で切れ長の目。真っ黒な瞳にアタシが映ってる。
「聞いてるの?」
「うん」
「分かったの?」
「うん」
ニッコリ笑って頷く。
「空々しいスマイルね、杏とそっくり」
「だって、あのお皿がどこにあるかも知らないもの」
葎ちゃんが笑った。
「そうね、そうよね」
おでことおでこをコツンとぶつけておしまい。
「帰るわね、玲、行くわよ」
「はい。カオちゃん、また明日」
「うん、ありがと、また、明日」
葎ちゃんと玲くんに手を振る。いなくなってからスマホを取り出すとメールの着信があった。霧都からだった。
『恐竜、行くなら一緒に行くけど。車イスでもいいよ。玲くん、行きたいんじゃないの?』
同じものを見てたら安心するだろ?
同じことを考えているのも、すごく安心する。
耳が赤くなる。心臓もパクンパクンしてる。
なんて返事したらいいんだろう。葎ちゃんに聞けばよかったな。
ダメ。自分で考えないとならない。車イスだと迷惑じゃないのか。おトイレも時間がかかるだろう。でも治るのを待ってたら恐竜展が終わってしまう。松葉杖を練習して来週とか。スカートは止めてショートデニムとティーシャツと、リュックにして、でも。
クローゼットの中身を頭に浮かべる。
たまには自分で服を選べよ。杏の着せ替え人形じゃないんだから。
「あ」
凛くんに言われたことが分かった気がした。買い物が先だ。
『嬉しい。来週には松葉杖になるからそうしたらお願いしていい?』
心臓のパクンパクンに合わせて霧都に返信した。今週中に買い物に行けるかな。葎ちゃんにお願いして連れていってもらうか、それとも一人で行けるだろうか。ワクワクしたりドキドキしたり。霧都からの返信はシンプルだった。
『いいよ。厚底禁止な』
分かった、じゃあスニーカーを買おう。
了
作者tow
ヒャゥゲモノ(ひやうげ者)行状や服装などが奇異で突飛な人。(日葡辞書)