【託す】
その奇妙な店は、迷い込んでしまった小さな裏路地に、忽然と現れたような店であった。
何の脈絡もなく、店頭には、白い卵が、所狭しと乱雑に並んでいた。
ー「妊娠ですね。四週目に入っています。」ー
そう医師に告げられ、沙織は眩暈を覚えた。
きっとこの子供は夫の子供ではない。
同窓会の夜、久しぶりに会った初恋の人。
軽い気持ちだった。
「私ね、実はK君が初恋の人だったんだよ。」
懐かしい昔話で終わるはずが、酒の力がそれで終わりにしなかった。
気がつけば、ホテルでKを受け入れていた。
避妊具をつけて欲しいと言ったにもかかわらず、Kはそのままのほうが気持ちいいじゃんと言い、聞き入れてくれず、おまけに避妊してくれなかった。信じられない、最悪だと思った。
自分勝手な振る舞いに、その夜で、Kに対する気持ちはすっかりさめてしまった。
それからも、Kからしつこく電話やメールが入ったが、無視して、着信拒否した。
堕ろすことも考えた。
しかし、それには、父親の同意が要るらしいし、だいいち専業主婦が、堕胎にかかる高額な費用を銀行からおろせば、おのずと夫に何に使ったのかと問われるであろうし、夫が汗水たらして働いたお金をそんなことに使うのはやはり心苦しかった。
絶望的な気持ちで、フラフラと病院から帰り道を歩いていると、慣れ親しんだ街にもかかわらず、沙織は小さな路地で迷ってしまった。こんな道、あっただろうか。その路地は、不思議な道だった。まるで、一昔前の、昭和の時代にタイムスリップしてしまったかのような町並み。薄暗い駄菓子屋に、小さなブティックのショーウィンドウには、首の無いマネキンが二体だけ、何かの幾何学模様のようなワンピースを身につけていたり、タバコ屋の窓には、色褪せたセブンスターのパッケージのポスターが貼り付けてある。野菜も雑貨も同じ棚に置いてあるような、雑多な商店や、店先に色褪せた本が積み上げられた古本屋があり、その隅にひっそりとその店はあった。
沙織は、そんな不思議な空間に迷い込んでしまっても、ノスタルジーには浸れなかった。頭の中は子供をどうするかで、一杯だったのだ。
「そこのお姉さん。」
沙織は、そう声をかけられ、振り向くと、そこには、その店には不似合いな、はっとするほど美しい女が、和服姿で座っていた。和服は、着物のような、巫女装束のような、不思議な服で、今まで見たこともないような美しい色で織られたものだった。店頭の小さな台にひしめく白い卵は、規則性もなく、雑に並べられているように見えて、微妙なバランスを保っていた。
「あなたには、今、悩みがあるだろう?」
その女はすべてを見透かしたように、驚く沙織の顔を見た。
「占いかなにかですか?でしたら結構です。」
沙織は怪しげな店の店主から逃れたくて、その場を去ろうとした。
「あんたは、そのお腹の子供が、夫の本当の子供ではないかもしれないと思ってるんだろう?」
そう言われ、沙織は驚きを隠せなかった。
この女は、なぜ、それを知っているの?病院からつけてきた?
でもこんな目立つ風体なら、つけられても気づくはず。
「何なんですか?あなた。誰なの?」
沙織は声が震えていた。
「あたしのことなんか、誰でもいいじゃないか。それより、そのお腹の子、間違いなく、あんたの夫の子ではないよ。」
図星を突かれて、沙織は頭に血が上った。
「あ、あなたには関係ないでしょ?さっきから何なのよ!」
ついに叫んでしまったが、誰一人こちらを振り返りはしなかった。何なの、この異様な空間は。
すると、女は白い卵を一つ差し出してきた。
「これに託すといい。この卵は、願いを叶える卵だよ。夜の卵というんだ。」
「夜の卵?」
「そう、夜の卵。すべての穢れを闇に葬り去ってくれる。あんたがその卵に願えば、お腹の子供は、夫の子供にすり替わるよ。」
そんな話が信じられるわけがない。
「そんなこと言って、ただの卵を高額で売りつけようったってそうはいかないわ。」
沙織はもう相手にすまいと立ち去ろうとした時であった。
「お代はいらないよ。ただし、タダではないけどね。」
お代はいらないけどタダではないとはどういうことだろう。
無視して通り過ぎようとすると、さらに女は追い打ちをかけた。
「そのお腹の子は、Kにそっくりになるよ。男の子だね。」
沙織は耳を疑った。なぜこの女はKのことまで知っているのだろう。
「Kに頼まれたの?」
それなら納得がいく。どこまでしつこい男なのか。少しでも好きだったことに反吐が出そうだ。
すると、女はゆっくりと首を横に振った。
「悪いことは言わない。持ってお帰り。それに託せば、あんたは大手を振ってその子を産んでも大丈夫。」
沙織は半信半疑だった。もしかしたら、Kに頼まれたのかもしれないとは思ったが、卵を渡す意味がわからない。
見たところ、何の変哲もない卵だ。沙織は恐る恐る手を出して受け取ると、女は薄くて赤い唇の端を引き上げて笑った。この世のものとは思えない美しさだ。
「大丈夫。これでもう、あんたは旦那そっくりの子供を産むことができるよ。」
そう言われると、なんとなく目の前がモヤモヤしてきて、意識が朦朧とした。
気が付けば、いつもの大通りを歩いていた。
白昼夢かと思ったが、手にはしっかりと白い卵が握られていたのだ。
夫が家に帰って妊娠を告げると、夫は飛び上がって喜んだ。
「やったな!二人で大切に育てような!」
夫はこの子供を自分の子と信じてやまない。
沙織は、夫に申し訳なくて、自己嫌悪に陥った。あの日の自分を殺してやりたかった。
最初は赤ちゃんなんて、みんな同じような顔だから、気づかないだろうけど、もしもだんだんKに似て来たら。
そう考えると、夜も眠れなかった。
沙織は夜中に、あの白い卵を引き出しから出して、昼間のあの白昼夢のような出来事を思い出していた。
お願い。私の赤ちゃんを、夫の赤ちゃんにして。
Kの種ではありませんように。
卵を握り締めて強く願った。
すると、卵はぼんやりと光ったように見えた。
沙織は神にもすがりたい思いで強く願いを託した。
そして、卵屋の女に言われたように、Kのフルネームを卵に書き、彼の生年月日を記した。
そして、小さな穴を開け21日間土に埋めた。
21日目の夕暮れ、沙織は、卵を埋めた場所を見つめていた。
本当に願いは叶うのだろうか。自分でもあれは夢で、これは気休めにしかならないのではないかと暗澹たる思いに揺れていた。しばらく見つめていると、その卵を埋めた場所の土が、ムクムクと盛り上がりうごめいた。
何か蛇でも出てくるのではないかと、沙織は身構えた。
土はもりもりと盛り上がり、ついにそれは姿を現した。
小さなもので、それが一瞬何かわからなかったが、人の頭だと認識すると、沙織は小さく叫んだ。
そのおぞましい首が振り向くと、その顔は確かに、Kであった。
「いやあああ!」
沙織は恐ろしくて叫び、後ろに飛び退った。
Kの頭を持ったものは、体をひねり、土を払いのけ、ようやくその全容を地表に現した。
体は鳥の形であるが、頭は確かに人間のものであり、Kであった。
沙織はパニックになって、息もできないほどであった。
「やっ!こ、来ないで!」
沙織はようやく、足が動き、走って家の中へ入ろうとした。
すると、そのおぞましいKの頭を持つ鳥は、沙織に向かって走り出した。
「きゃあああああ!」
沙織は掃き出し窓から飛び上がると、サッシの窓をぴしゃりと閉めた。
すると、その鳥は、羽を広げ、空高く舞い上がり、飛び去って行った。
沙織は、いま起こったことが信じられずに、まだ心臓はどくどくと脈打っていた。
何なの、あれ。沙織を急激に吐き気が襲い、沙織はトイレに駆け込んで吐しゃした。
それから数か月後、ついに子供が産まれた。
予定通り、安産であり、母子ともに健康であった。
子供は男の子。沙織は手放しでは喜べなかったが、夫の喜びようはひとしおだった。
沙織はまた罪悪感にさいなまれる。見た目はまだ、サルのようで誰に似てるかわからない。
しかし、数か月もすると、その顔は、夫にそっくりであった。
良かった。この子は夫の子供だったのだ。
やはり、あの卵屋はまやかしであり、あれは何かの仕掛けだったのだと沙織は自分に言い聞かせた。
それから1年後、同級生に偶然街で出会い、Kが死んだことを知らされた。交通事故死だったそうだ。
それは、奇しくも、あの卵を埋めて21日目、あの奇怪な生き物を見た日の夕暮れ、ほぼ同時刻だったそうだ。
沙織は思い至り、卵の件を調べてみた。すると、沙織が行ったことは呪術だったとする。
人を呪わば穴二つ。沙織は言いようのない漠然とした不安を覚えた。
それから数年後、生まれてきた子供はいつまで経っても言葉をしゃべらなかった。ついに4歳の誕生日を迎えた頃、沙織は医師に相談した。すると、医師からは息子は自閉症だと告げられた。今まで、多少疑ったことはあったが、実際に告げられるとショックを隠せなかった。
その日、沙織は、そのことを夫に告げた。夫は一瞬深刻な顔をしたが、すぐに笑顔でこう答えた。
「俺とお前の子であることに変わりはない。だから、今まで通り、大切に育てていこう。」
沙織は、たまらず涙が溢れた。
私は、こんなに素晴らしい夫を裏切ったのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
沙織は何度も謝罪の言葉を口にしていた。
「なんで沙織が謝るんだ。沙織のせいではないよ、これは。」
違うの、違うの。私が頭を振ると、主人は静かに言った。
「知っているさ。俺の子ではないかもしれないんだろ?」
沙織は驚愕の目で、夫を見上げた。
「ごめんな。あの日、俺、お前をつけた。」
もう沙織には、夫のいうあの日という日がいつなのか理解できた。
「俺は嫉妬深い男だ。自分でも自己嫌悪に陥った。どうして沙織を信じることができなかったのか。」
沙織は青くなって震えた。
「それなりにショックだった。どこかでお前のこと信じてたから。」
夫はさらに独白する。
「離婚しようと思ってた。でも、生まれてきた子供の顔を見たら、できなかった。俺の口から出た言葉は、大切に育てよう、という言葉だった。でも、それは本心からの言葉だ。」
沙織はポロポロと涙をこぼして唇をかみしめた。
「沙織の携帯も覗き見した。俺は最低のやつだ。」
そういうと夫はうなだれた。
ううん、私が、私がすべて悪いの。口には出せずに、沙織は泣き崩れてしまった。
「俺も苦しんだけど、沙織も死ぬほど悩んだんだろ?死ぬほど後悔したんだろ?だから、相手を着信拒否して決別したんだよな。だから、もう俺は許そうと思った。」
沙織は夫の前で土下座して泣いて謝った。
「沙織、もう泣かなくていいよ。俺たちで大切に、育てような、この子。」
「あなたっ、あなた、ごめんなさい。ごめんなさい。」
夫は沙織を抱きしめた。
「たぁたん」
その時、息子が言葉らしきものを発した。
「いま、とうさんって言わなかった?」
「違うわよ、かあさんって言ったわよ。」
そう言いあうと、二人は笑いながら、一緒に息子を抱きしめたのだ。
そして、それから二年後、沙織はこの崖っぷちで、息子の手を引いて佇んでいる。
あの日から1年後、夫が失踪した。会社を訪ねてみれば、1か月前に退社したとのことで、夫は1か月間、沙織を会社に行くフリをして騙していたのだ。その数か月後、夫から手紙が届いた。
やはり障害のある、しかも自分の子供ではないかもしれない子供を育てるのは苦痛だという旨の手紙だった。
昨日、偶然、隣町で夫を見かけた。だいぶ年下の女と、仲睦まじい様子で腕を組んで歩いていた。
まだ私は離婚届には判を押してない。
死のうと思った。
息子の手を引いて、崖から飛び降りようとしたその時、何をしようと無反応だった息子が手を振りほどいて言った。
「一人で死ねば?自業自得だろ。」
沙織は、息子が産まれて初めて笑ったのを見た。
nextpage
separator
おや、坊や、一人かい?お母さんは?
ああ、やっぱりそうかい。
あんたは利口な子だね。今まで辛かっただろう?
そうだ、坊やにいいものをあげよう。
これかい?これは、願いを叶えてくれる不思議な卵。
夜の卵さ。
作者よもつひらさか