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中編3
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同居人の感情

 よくよく考えれば、私の家に男などいない。まず、この古びたマンションに私のようなサラリーマンと好んで同居する『人』などいるわけがない。そんな考えを抜いたとしても、私の部屋に人の気配があるのはおかしいことである。最初は自分の勘違いかと思って、それで済ませてきたが、どうもそうはいかなくなった。

 私は煙草など吸わないのだけれど、机の上に灰皿が置かれていた。勿論、私のものではない。使った形跡などはないようだが、だから何だと言うのだ。不気味であることに変わりはないだろう。このマンションに住んでもう彼是十年は経つ。しかし、この家に両親さえも上げたことはなかった。十年間、私しか出入りしていないのである。

 若しかしたらそこら辺の気の違ったホームレスなんかが置いていったのかもしれない。だが、その考えはすぐに消えてしまう。灰皿を見まわしているとあることに気が付いた。

 まだ真新しいのである。今さっき買ってきたかのように、綺麗で、傷一つない。しかも、鍵はちゃんと掛けた。人が入れるわけがないのだ。私はどんどん見えぬ男に追い詰められている感じがした。そもそも、私は何故その気配のことを男と分かったのだろうか。いや、それは考えるべき問題ではないか。気配に感じたことを考えたところでそれは結局、個人的な感覚に留まるだけだ。

 問題はその漠然とした気配が私の生活に及び、人間の型をあらわし始めたことである。人間というのも、私の感覚が気配を男と思ったから自然にそうなっただけだ。

 気配のままであれば、『感覚』で終わっただろうに。もう誤魔化しがきかなくなった。

 この灰皿を持っていると、私の指先から気配が入り込んでくるようで気持ちが悪い。放り投げるように、机上へ置く。

 今思えば私はその気配を男と思うと同時に、同居人のように思っていたのかもしれない。だが、それはとても恐ろしいことではないか。気のせい、と誤魔化そうとしていた気配を無意識に人間として考えている。私はそんなに疲れているのか。私はそれほど、愛に飢えているのか?

 もうこんな年だ。女も寄って来ないし、禿げかけた頭の男とお見合いしてくれる物好きなやつも居ないだろう。

 ただ哀しさを感じるのだけは事実だ。そう思うと、目の前の灰皿が何だかとても――何年も使い古したような――愛着にさも似た感情がわいてくる。

 だがその感情が私を突き返し、余計に恐怖を感じさせた。そうだ。この灰皿は私のではない。知らぬ男のしかも、気配のものなのだ。

 こんなこと人にも相談できない。ただの頭のおかしい奴だと思われて、終わりである。私は昔から人間関係に敏感であった。ただその態度が傍から見れば、気持ちが悪いのだと言う。そもそも、私の相談を真摯に受け取ってくれる人がいないから、そんなことを思うのではないか。相談の内容がどうこうよりも、周りには私のことを人間的に、その内面まで読み取ろうとするものはいない。なんだか、灰皿のことなどどうでも良くなった。長年引き摺ってきた悩みが掘り出され、そちらのほうが問題になってしまった。こういうときは寝るに限る。そうすれば、あの冷徹ではあるが一応居場所のある職場に行くことができる。

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「ねえ、聞きました?」

「何が」

「隣の渡辺さん。気が狂って、自殺してしまったんですって」

「へえ。あの暗い顔したご主人が? ああ、だからあんな警察がいたのか」

「ええ。私が話しかけても、何だか言葉が詰まってなに言ってるかのか分からない人でしたよ」

「そんな奴がよくそんな、自殺なんてたいそうなことしたもんだな。俺はよく知らねえんだけど、なんか問題あったのかい?」

「そんなこと言うもんじゃありませんよ。なんでも人間関係に困って、死んだらしいですよ」

「それじゃあ、納得だな」

「少し小耳に挟んだだけですけど、煙草を吸わない人なのにホームセンターで灰皿を買っていたんですって」

「お前の小耳ってのはでけえもんだな」

 二人の笑い声が部屋を包んだ。

 それはとあるマンションの一室の出来事で、数年後には誰も覚えていないだろう。

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