私は廃れていた。まるで廃棄物のように醜い身体を見渡し、顔を顰める。私の日課は食物を探すことだけになっていた。雨を凌ぐことも、暖炉を求めることもしない。もうする気力もない。私は臭う体を引きずって、人通りの少ない路地を歩き回った。案外漁っていると食べられるものは存在する。それをできる限りポケットに詰めて、日が落ち寒くなる前に家へ帰ることにした。
私はこうなる前の生活が記憶にない。正確には曖昧模糊だ。いや、今とあの頃じゃかけ離れすぎている。思い出したところで現在の自分を否定するだけだろう。
この生活は案外居心地が良い。公園の林の中に入っていって、私は段ボールの寝床に腰かけた。いつ死んでもおかしくないと思う。
「おじさん」
私は声のする方をひょいっと見上げた。辺りが静寂に包まれていなければ、聞き逃してしまいそうな程細い声だ。
そこには金髪の女の子が居た。外国人だろうか。青い瞳に、ピンク色のフリルのついた服。
何だか記憶の奥底でその姿と『何かが』一致した。それは大体検討がついたものの、思い出してはいけないものだ。すぐに記憶から拭い取る。
「こんばんわ」
女の子は小学生ぐらいの体を一回転させ、にっこりと笑った。
「君、ダメじゃないか。こんなところに来ちゃあ」
私は予想より自分がしゃがれた声だったので吃驚した。
「じゃあ、おじさんは何でここに居るの?」
「私はもう何年も前からここに居る。もうここに居るしかないのだ」
「へえ、なんで?」
なんで、と問われて何も言えない。思い出せない。私が黙っていると、少女はもうどうでも良くなったのか、話題を切り替える。
「おじさん、パンいる?」
「だから、もう帰りなさい」
「いいの、私は。ねえ、パンいる?」
少女は何処から取り出したのか、パンの半分を私のほうへ差し出す。腹が呻く。私は久しくちゃんとした空腹感を感じた気がした。
それをひったくり、口の中に押し入れる。
食い物の味だ。少女が何か言ったが、私の耳には届かない。
パンというのはこれ程に美味なものだっただろうか。
「どう、おいし?」
「――ん。あ、ああ。ありがとう。でも、もう帰りなさい」
「おじさん。もっとパン欲しい?」
「まだあるのか?」
「うん。家に帰ればたーくさん」
私はこくりと頷く。一度味を覚えてしまえば、もう忘れられない。体が食い物を欲する。人間的な感情が取り戻されていくのを感じた。
「じゃあ、私のお願い聞いてくれる?」
「――お願い?」
「うん。お願い」
「ああ」
「一発殴らせてよ」
私は思わず聞き返す。
「だから、一発殴らせて」
少女の無邪気な笑みは来るときと何ら変わりない。私は突発的な発言に躊躇ったが、うんと言ってしまった。私の持つ食欲が少女はそんなことしないだろう、という考えを脳に与えたからである。しかし、それは私の本能に逆らった考えだ。
この少女は殴ってくる――私の本能はそう訴えているのだ。
刹那、少女の拳が私の頬を殴った。肌寒さもあり、私の頬は敏感にそれを受け取る。長年ぼやけていた感覚がいっきに目を覚まし、痛みは膨張していった。
涙が出てきそうだ。咳き込み、私はふらつく脳を何とか平常に戻す。じんじんとした痛みが頬に残った。
「おじさん。じゃあ、私パン持ってくるね」
少女は何事もなかったようにそう言った。
少女は約束通りパンを持ってきてくれた。今度は食パンだ。
「おいしい?」
「うん」
ものの数秒で平らげてしまう。物足りない。ものを乞う目を少女に向ける。
「まだ食べる?」
私はまたこくりと頷く。
「じゃあ、今度は口の中に指突っ込んでもいい?」
自然と、まるでそれが当たり前のように、私は頷いてしまったのだ。そうすれば腹が満たせる。もう少女の放った言葉の中身など聞いていなかったのかもしれない。
「じゃあ、口開けて。ちゃんと喉のところまで入れるからねー」
私は言われた通りに口を開ける。少女の小さな人差し指がこちらに向かってくる。それが舌をすう、と触った。どんどんと指は滑っていき、私の歯に少女の手が詰まる。それでも少女は手を口の中にねじ込み、指を更に奥へと突き進めていった。やがてその指の感覚は不快感へと変わっていく。
「ぐげえ、ええ」
「もう少し、もう少し」
私は手足をじたばたさせてもがいた。少女の指が舌を通り越す。それは痛いというか、気持ちが悪い。
喉元に何かがこみ上げる。少女がさっと手を戻すと、それを待っていたかのように吐瀉物が口から出た。まだ消化しきれていないパンが液体に塗れて、土の上に落ちる。
「おええ――」
乾いた目の底で涙が滲んだ。涎がだらりと口から垂れる。
「おじさん、はい、パン」
俯く私の目の前にパンが差し出される。そのパンの上には苺のジャムが塗られていた。パンを畳んで、頬張ると甘美な味が口いっぱいに広がる。パンの食感とジャムの甘さがいい具合に混ざり合い、先程の苦しみなど忘れさせてくれた。見れば、少女の足元に大きな鞄がある。どうやらそこから取り出しているらしい。
「おじさん。まだまだあるよ? まだ、お願いきいてくれる?」
正直、もう嫌だ。あんな苦しい思いはしたくない。だが、やはり、私の食欲は――頷くのだった。
「じゃあ、ねえ。眼球舐めさせて。左目でいいや」
私はその言葉に戦慄を覚えた。少女はちょこんと、舌を出す。唾液がぎらつき、その舌が近づいてくる。少女が身を屈めるにつれて、襟元がたるみ、ピンク色の乳首が見えた。
少女の人差し指が私の右目を閉じさせ、押さえつける。自然と左目が開いた。そうしなければいけない気がした。
少女の舌先が寸前にある。そして、生暖かい感覚が眼球を覆う。同時に痛みが走った。
「いたっ」
私は思わず、目を閉じ、顔を後ろへ引いてしまう。
「おじさん、まだだよ。まだ舐めてないよ。触っただけじゃない」
「でも、痛いんだ。酷く、痛い」
「そんなの知らないよ。ねえ、早く」
私は何度も瞬きをして目を落ち着かせた。大丈夫だ。少しの辛抱だ。我慢すれば、もっと美味いものが食えるかもしれない。
「ほら、いくよ」
また同じように少女は右目を押えて、私に向かってきた。少女の幼い舌先が私の眼球に触れる。瞳の黒目の眼球の表面。
「ああ」
不快感と痛みが私を襲った。段ボールに爪を立てて、歯を食いしばる。
少女の舌が私の眼球の中を往生した。
気が狂いそうだ。意識がどこかへ遠のき、頭が真っ白いになる。
「ああ、あああああああああ」
生暖かい唾液が、舌全体が、私の見開かれた眼球を舐める。少女は私の右目を押えることをやめていた。だが、もう開くことはできない。逆に、力いっぱい閉じて、精神をできるだけそちらに集中させる。
少女の手が私の首に回って、二つの親指が喉元に触れた。
そこではっと我に返ったように少女が顔を離す。そして、鞄の中からパンを取り出し、今度はピーナッツバターを塗った。
私は左目を擦って、不快感や痛みを濁す。
「ねえ、おじさん。まだお願い聞いてもらえる?」
私はそれが何となく分かっている。しかし、もうどうでも良くなっていた。それは、そのお願いの内容が大体分かってしまったからかもしれない。
私はまたこくりと頷いた。
作者なりそこない