鏡よ、鏡よ、鏡さん。
世界で一番美しいのはだあれ?
それは、もちろん私よね?
そうよ、花音(かのん)はこの世で一番かわいい娘よ。
いつも、ママはそう言って私の髪の毛をとかしてくれたわ。
それは今だって、変わらない。
私の部屋の窓から、秋の気配を感じた。
これは銀木犀の匂いかしら。いいえ、もしかしたら金木犀なのかもしれない。
私に、それを庭に出て確かめる術は無い。
何故なら、私は、このベッドから起き上がることの出来ない体になってしまったからだ。
「おはよう、花音。今日はすごくいい天気だから、ちょっと寒いかもしれないけど、空気を入れ替えるわね。」
そう言いながら、ママが窓を開け放ったからだろう。空が高い。いつの間にか、遠くの銀杏が黄色く色付いている。
あの不幸な事故から、私はずっとこの窓に切り取られた世界しか見ることができなくなっていた。
あれからどれくらい時間が経ったのかしら。
数週間?数ヶ月?
ずっと床に付していると、時間の感覚が無くなってしまう。
自分で体を動かせないジレンマ。床に伏して、痩せてこの美貌が衰えてしまうのではないかと、不安になり、私はベッドの横の鏡台を見た。そこには、以前と変わらぬ私の美貌がうつっていたので、ほっとした。
私が車にはねられ病院に運ばれた時に、私はうわ言のように、顔を怪我していないかをママに尋ねたそうだ。
全然記憶にないけど、顔だけはどうにか、無事だったようだけど、気付いた時には首から下が動かなくなってしまっていた。
私は、女優になりたかったので、体が動かなくなってしまったことにショックを受け、一時期絶望してしまった。
でも、ママがリハビリをすればきっと動けるようになるからと、励ましてくれて、毎日、私の体をマッサージしてくれて、関節が固くならないように動かしてくれるのだ。
もちろん、私の美貌が損なわないようにお肌の手入れもしてくれるし、毎日髪の毛をとかしてくれるし、たまにはお風呂でシャンプーもしてくれる。何もかも、ママに頼らなくてはならないので、いつも申し訳なく思う。一日でも早く動けるようにならなくては。私が病院に入院している時に、すでに自分の体が動かないことを知ったので、せめてベッドの横には、鏡を置いて、ずっと見ていたいとママに伝えたら、退院してみると、私の部屋には大きな鏡台が置いてあった。私は嬉しかったけど、鏡台の色が金色というのはいただけないなと思った。でも、ママが私のために買ってくれたものだから、文句は言えないけどね。
今日は午後から、担任の先生がお見舞いに来てくれた。優しい百合子先生。今日は花音のために、ありがとう。ママは、私のために、バラの匂いのするお香を焚いてくれる。先生は、何故か私に背を向けて、鏡台の前に座り、バラの香りのお香を嗅いでいるようだった。そして、ママに何事か言い、なんだか泣いているようだった。
百合子先生は、きっと動けなくなった私を不憫に思って泣いてるんだわ。ごめんね、先生。心配かけて。いつか元気になって、学校に行くから、それまで待っててね。私が先生にそう問いかけると、ベッドの方を見て、何故か先生は体がビクンとして、顔が引きつってママのほうを見た。ママはニッコリとして、花音に声をかけてやってくださいね、と言うと、先生は何故かキョトンとした顔をして、私に何事かモゴモゴと言ったような気がした。そして、逃げるようにそそくさと帰って行ったのだ。
私は不安になって、ママに尋ねた。
ねえ、ママ。私、変な顔なのかな。先生、何だか驚いた顔してたみたいなんだけど。
「花音は綺麗よ。ほら、見てごらん。」
そう言うと、ママが縦になっていた鏡を後ろ手に横にして私の姿を映してくれた。
本当だ。前とぜんぜん変わってないや。なのに、百合子先生は何にそんなに驚いたのだろう。
細かいことはどうでもいいか。私は百合子先生がお見舞いに来てくれただけでも幸せな気分になった。
「明日はおでかけしましょうか。」
ママが、私に布団をかけてくれながらそう言ってくれた。
本当?嬉しい!この最近、病院とこの部屋しか見ることしかできない景色ばかりで、飽きてたところよ。
私は、嬉しくて眠れなかった。
まあ、家帰って眠れたことなどほとんどなかったのだけど。
次の朝、手付かずの私のご飯を片付けて、ママが私を車椅子に乗せてくれて、公園までお出かけした。朝の澄み切った冷たい空気が清清しい。空は青く、道には小さなどんぐりが落ちていて、葉っぱはみな紅葉している。いつの間に、季節はこんなにも秋めいたのだろう。
公園への道の向こうから、小さな女の子を連れた、お母さんがこちらに向かって歩いてきた。まるで、幼い頃の花音とママみたいねと言い、ママは私に微笑みかけてきた。
通りすがりに、その女の子が不意にこちらを振り向いて私を見た。
「ねえ、ママー、あのおばちゃん、お人形さんに話しかけてるよー?変なのー!」
すると、そのお母さんの顔が引きつり、女の子の口に慌てて手を当てて、逃げるように走り去ってしまった。
どういうこと?ママ。
「きっと花音がかわいいから、お人形さんと間違えてしまったのね。」
ママはそう言って微笑んだ。
なんだ、そうなのか。
やっぱり私ってかわいいんだね、ママ。
散歩が終わって、私は車椅子から降ろされると、ママにだっこされて、ベッドに横たわった。
ねえ、ママ。いつからそんな力持ちになったのかな。
花音がいくら華奢だからって、45kgはあったはずなんだけどな。
そして、ベッドの横には悪趣味な金屏風の鏡台と、黒縁の鏡は横向きに置かれており、そこには可憐な私の顔が映っている。それにしても、ママ。この鏡の私の顔、いつも同じなのは気のせいなのかな。体が動けないから顔まで動かせないのかな。ねえ、ママ、この鏡の私の顔、瞬きしないの。そういえば、最近、いつ瞬きしたかしら。
ねえ、ママ。ママ。
今日もいつものように、鏡台の前には、バラの匂いのお線香が焚いてある。
作者よもつひらさか