「やめて、やめてよ」
「冗談なんて言うかよ」
男は乱暴にそう言って、女を睨んだ。しかし、女はそんな男の態度など眼中になかった。ただ動揺と不安だけが女の脳内を埋め尽くし、それは男への問い詰めとなって口先から飛び出す。若しかしたら、不安を解消する答えがあるかもしれない、という一縷の希望を女は求めていたのである。
「私たち愛してあっていたわよね?」
「今だって愛しているさ」
男は腕を組み、椅子に背を預けて、不適に笑う。
「私だって愛してる。でも、そんなの――やっぱり」
「信じられないのか? お前! 信じられないのかよ!」
男の形相が一変し、女に掴みかかる。
「やめてよ!」
女がそれを振り払うと、男は我に返ったようである。乗り出した身を、元に戻し、コップの中の水を飲み干した。
「一旦落ち着こう。な? 俺もカッとなって悪かったよ」
「私、それが何か分からないの! それがどうしようもなく不安で」
「分かる。分かるさ。だからこそ一旦落ち着くことが大切だろう? 違うか?」
女は男の言葉を聞いてはいるものの、理解はしていなかった。ただ、従順にこくりと頷く。
「俺はなあ。ある集落に生まれたんだよ。そこは限界集落で、法治国家の世の中じゃ考えられない掟が沢山あった。しかも、その掟には定められていない暗黙のルールなんてものも存在して、そっちの方が圧倒的に多かったな。だから新しく来たやつとかはだいぶ酷い目に合うんだ。その掟の中に『ユミカカ様』っていうのがあるんだ。これは明確に記されている。掟というか――掟ではないな。うん。だが、それは確かに掟の中にある。妙な話だろう? 俺だって疑問に感じたさ。今もその疑問は解消してねえが、もう東京に来たんだから関係ねえよな。その掟のことをつい最近ひと思い出したんだよ。それがお前と出会ってからすぐの事だ」
女はそれを黙って聞いた。心の中に溜まっていく靄が破裂しそうな程に膨れていくのを感じて、時々泣きそうになった。
「その『ユミカカ様』ってのはよ。なんつうか。きちんと掟に記されているのに、存在自体は曖昧なものなんだな。いや、存在しないというわけではない。それは女のような形をしていたり、丸っこい頭に口や鼻がぐちゃぐちゃになっていたり、様子は様々だがな」
「それが――」
「まあまあ、話はちゃんと聞け。その『ユミカカ様』を発生させる方法は簡単さ。まず自分の臍の穴の中に酒を入れる。酒はなんでもいい。そうしてな『帰正有難謬人胎我妻来』と唱える。それがお前と初夜を過ごした前の話だ」
女は泣き、腹を摩った。
「宿ったんだよ。ユミカカ様は。お前の腹に、そして生まれてくる。掟通りだ」
男は席を立ち、女の腹に耳をつける。何かが脈打つ音。
「ヤドッタンダヨ。ユミカカサマハ。オマエノハラニ、ソシテウマレテクル。オキテドオリダ」
しゃがれた声が腹の中から聞こえた。それは男の言った言葉を繰り返している。
男は満足そうに笑った。
作者なりそこない