僕は夜の街の空気に向かって、深い溜息を吐いた。
もう、死にたい。
そんな負の感情が僕の中に渦巻いていたのである。それは段々と規模を広げ、やがては僕の気持ちを全て飲み込んでいく。
仕事がうまくいかない。時々下がったり、時々ちょっと上がったりする成績をただ眺めているだけの生活に嫌気がさしてきた。面倒で退屈な生活。
しかし、何より厭なのは人間関係である。
仕事自体は面倒なだけで済むのだけど、人間関係というのは複雑に絡み合っているのだ。僕は入社時から今迄、友達と呼べる人が居ない。最初は気にしないでいようと思った。ただ仕事場で顔を合わせるだけの連中だ。それ以外の交流を持たないでも、あまり支障はないだろうと思っていた。だが、僕の気持ちも複雑であったのだ。
ただ自分だけが取り残されていくような状況が堪らなく厭になってきたのである。誰かと仕事の不満を言い合い、酒でも飲めればどれほど幸せなことか。他の奴らが楽しそうに名前を呼び合っているのを見るたび、そう思う。
その人たちの中で謎の協調性が生まれ、自然と僕は『一人ぼっち』という区分に追い遣られる。そして何故か、その人たちは仲良しグループという自分たちの区分を守り固めていくのだ。もう、遅かった。僕にはもう捺印が押されてしまっているのである。
もう死ぬしなかない。生きることがこれ程憂鬱だと思ったことはない。高校の頃から友達が居なかったが、何とか行事を切り抜け、ここまで来た。
もう限界である。
このままでは恋人なんて夢のまた夢。別世界の話だ。
僕を迎えてくれるのはこの古びたアパートだけである。二階の一番端っこの部屋が僕の住処であり、唯一の居場所だ。
高校の時、本当に気怠くなって自殺を考えたこともあったが、あれがまだ小さいことだったのを今、思い知らされる。
死にたい。
自殺と言えば、首吊りか。
僕は押し入れから荒縄を引っ張り出し、輪っかを作った。ざらざらとした荒い面が、僕の肌を刺激する。
これ、首に巻いたら感触が痛いだろうな。
首を絞めるぶんにはいいが、この感触がどうにも気に入らない。気になって死ねないかもしれない。
僕の脳裏に一筋の閃きが横切る。
――蒟蒻。
蒟蒻だったら、巻いても痛くない。蒟蒻にこの荒縄を通して、首に巻くというのはどうだろう。あのヌルヌルとした感触だったら、許容範囲である。尚且つ、案外痛みも軽減されるかもしれない。
いやいや、馬鹿か。
一々、それで蒟蒻を買うのも馬鹿らしい。そもそも、蒟蒻で首を吊って自殺したなんて、恥にしかならない。自殺者も自殺者なりに恰好ぐらいつけてもいいだろう。
ならば、入水はどうだ。
暗い深海に沈む、自分の身体を想像して、少し興奮した。ダークな感じで、かなり見栄えはいい。だが、僕は泳げないのだ。だからだろうか、小さなころから海水の味が嫌いだった。そのどちらも揃った海に沈んでいくのは気が引ける。
ならば、牛乳風呂はどうだろう。丁度、牛乳も買い込んであるし、無駄な出費はない。何より牛乳は美味い。
――これも駄目だ。
死ぬというのに健康になってどうする。そもそもよくよく考えてみれば、自分の身体が沈むほどの牛乳は買い込んでいない。
すると、飛び降り自殺か。
このアパートは小さいから、会社の屋上からでも飛び降りればいい。ただ飛ぶだけだ。だけど、それだと会社の窓から飛び降りている瞬間を見られてしまうんじゃないだろうか。今、実態がある状態で話題に入れないのに、飛び降りた瞬間は会話のネタにされてしまうのは何だか癪に障る。
会社は駄目だ。
では、東京タワーはどうだろう。あれはもう高すぎて、人の迷惑とかどうでも良くなるのではないか。そして、とても長いからスピードも速くなって人々の視界に入ることもない。
おいおい、ちょっと待て。東京タワーのてっぺんは尖っているのだ。そんなのにどうやって登るんだ。
焼身自殺――は苦しいと聞く。だが、今更苦しさを気にしてられない。
しかし、焼かれている間はいいにしても、肌が黒くなり癒着した状態は如何なものだろう。恰好も最悪であるし、そもそも誰なのか分からなくなってしまう。身元が判明して、僕だと分かってもその死体を見ただけじゃ判別できない。つまり、例えば親が黒焦げの僕を見て『僕』だと判断したとしても、それは警察に言われたから、僕と分かるのであって、死体を見て分かっているわけではない。最低、顔だけは残しておきたいが、火をつけるとなると、部分的に燃やさないというのは不可能だ。
そうか。火をつける前に顔を切ればいいんだ。
――もう死んでるじゃないか。その時点で。
どう考えても、現実は僕を殺してくれない。そのもどかしさと理不尽さに、頭が破裂しそうだ。
そうか。何故、思いつかなかったのだろう。
一つあった。
厭呪人薩柱憺世迷知存碍盲障自殺。
それなら、十人程度で事足りるし、道具も肉切り包丁だけでいいだろう。死に様も悪くない。何より、自分は苦しくないという特典付きである。
計画がすっきり決まったところで、僕は居ても立ってもいられなくなった。
隣の部屋から子供の泣き声と、それを宥める母親の声が聞こえた。確か、父親が帰ってくるのが夜の十時だったと記憶している。
この頭の回転が仕事に使えたら、もっと環境はよくなっただろうか――そんなことを後悔しながら、僕は台所で肉切り包丁を探した。
作者なりそこない