最近、隆二に元気がない。
隆二は私の幼馴染で、同じ中学校の同級生でもあった。毎日一緒に登校しているのだけど、最近は会う度に窶れていっている。大丈夫、と尋ねてもまるで定型文のように、大丈夫だよと返事するだけだ。長年付き合ってきたのだから、尋常でない変化をしていることは分かった。だが、隆二は変化してから、私だけでなく人を寄せ付けないような態度を取るようになった。どうやら人間関係もうまくいっていないらしい。しかしそれは変化した後のことであって、やはり隆二の身に何かあったのだろうけど――私はそんな幼馴染の横顔を見つめることしかできなかった。
私は隆二のことが好きである。仲良しの女の子曰く、隆二の普通すぎるらしい。だけど、それはその女の子が隆二の本質を知らないからだ。私は長年付き合ってきたからよく知っている。それは言語化してしまえば忽ちに綻んでしまう程に脆く、儚い。だから私はこの気持ちは自分にしか理解できなものだと、胸の内に仕舞っておくのだ。隆二のことを考えると、胸が少し痛む。
現在進行形で遠くに行ってしまっているようで――手を伸ばしても、もう届かない場所に居るようで――長年付き合ってきたことが全てなかったことにされてしまうようで――私はいつも不安になる。
顔半分をお風呂の中に沈めて、ぶくぶくと泡をたてた。泡は一度膨れ上がって、呆気なく割れてしまう。
そんな儚くて、小さいものだったのかな。私と隆二の過ごしてきた日常って。
お湯の中で、自分でも発したか分からないような声に幼馴染の名を乗せた。また、胸が痛んだ。温かいお湯の中でそれはより鮮明に感じられた。
明日、隆二の家に行ってみよう。
隆二の家は私の家の隣にある。隆二は部活に所属していないのに対し、私はバトミントン部なので、下校時間が一緒になることは滅多にない。私はユニフォームのままで、家を訪ねることにした。
恐らく隆二は居るはずだ。
「ごめんください」
家の中は不気味なまでにしん、としていた。
「加奈ちゃん? 隆二に会いにきたの? 二階に居るから、行ってあげて」
隆二のお母さんの声が居間から聞こえた。聞き覚えのある声に、私はほっと胸を撫でおろす。
「おじゃまします」
靴を脱ぎ、隆二の部屋に行く前に、私はおばさんに声をかけようと思った。食器を洗うおばさんの姿を想像しながら、居間を開ける。
私は思わずわっと声を出してしまった。私の想像していた風景はなくて、そこにはマネキンが立っていた。
マネキンがシンクのほうを向いて、台所に立っている。ピンク色のセーターを腕まくりして、何年も使い古したようなジーパンを履く恰好はおばさんを模してはいるが、顔はのっぺらぼうだった。
「なによ、これ」
台所に面しているリビングを振り返る。何度も見慣れた隆二の家のリビングだ。
私は転げるようにリビングから飛び出して、階段を駆け上がった。
隆二、隆二。
「隆二」
そして、隆二の部屋を開ける。
「隆二!」
この家が明らかに異常な事態に巻き込まれていることは歴然であった。だけど、私は、そんなことどうでもよくなるぐらいの光景に――悪寒がして、嗚咽がして、吐き気を催して――目を見開いた。部屋に設置された大きな窓からは、夕日に呑まれていく町の風景がくっきりと見えた。私と反比例するかのように、割れた雲の合間から差し込む茜色の光は、夜に切り替わろうとする町に程よく差し、その光景までも照らした。
その窓の手前にあるベットの上に隆二は居た。隆二は私に気づいているのかそれともあえて無視しているのか――兎に角、私のほうを見てはくれなかった。
女に馬乗りになって、腰を振っている。
隆二の喘ぐ声が夕焼けの町に溶け込んでいく。
私の頬に一筋の涙が伝った。それは何もかも失ってしまった哀しみに対してだろう。
私はそれほど、隆二のことが好きだったのだ。
この窓際に並んで、二人で今日と同じような――夕日の風景を見て、将来のことを語り合って、笑いあった。
でも、隆二はもう――私と並んでいない。
小学校で一緒に並び、歩いた登下校。クラスの男子に恋人だと馬鹿にされ、それでも、私はそう言われることが嬉しかった。そう言われて、照れながら否定する隆二の姿が。それを見て笑う私が。
本当の恋人のようで。嬉しかった。
だけど、それは、この夕日のように、泡沫で儚くて、一方的で。
もう私の気づかぬ間に消えてしまっている。
「加奈! 加奈!」
私は意識の外から聞こえる聞き覚えのある声に顔を上げた。一瞬、私の幻聴かと思った。だけども、それは隆二が言っているようだった。
何だか、隆二が戻ってきた気がした。私は覚束ない足取りで隆二のもとへ向かった。まだ求められている気がして、今なら戻れるような気がして。
あの頃の私たちに。
「隆二――隆二」
しかし、やはりまたそんな幻想は打ち砕かれた。隆二が裸で跨っているのは――私を模したマネキンであった。
nextpage
それからともなくして、隆二の家はなんの挨拶もなく、引っ越してしまった。あれ以来、私は隆二もおばさんも、おじさんさえも見ていない。
見たくもない。
私は空っぽになった幼馴染の家を見つめては、まだもしかしたら隆二が居るのかもしれない、と妄想しては――泣いた。
隆二の家で何が起こっていたのはか知らない。これから、それが分かることもないだろう。隆二は今もまだ、あのマネキンと愛し合っているのだろうか。
私は多分、これから普通に高校に行って、大学に行って、就職して、何処かで恋人を作って、結婚して、ごく普通の人間として、一生を終えるのだろう。
だけど、その人生にもう隆二は存在しない。
私は喉からくるような気持ち悪さに、また泣いた。
私の愛していた隆二はもうこの世にさえ存在しない。
気づけば、隆二を探している。居るはずもないのに。
あの頃の風景に記憶を戻しては、私は手を伸ばしている。届くはずもないのに。
隆二に愛されない私は、あのマネキンよりものっぺらぼうだ。
作者なりそこない