「マジでここ出るらしいぜ」
助手席に座ったユウキが顔をにやにやさせながら俺の方を振り返り、言った。
俺が答えぬうちに運転席のナオヤが、
「ジュンヤなんで今日はお前が運転しねえんだよ」
と言った。
「いきなり出たらこええじゃん」
本来、この三人で出掛ける時に運転するのは俺の役目だった。しかし、今日ばかりはナオヤに運転を代わってもらった。
「俺ならいいのかよ」
ナオヤがそう言うと、車内は爆笑の渦に巻き込まれた。
「それにしても雰囲気出てるなあ」
俺の方を向いていたユウキが前に向き直って、静かな調子で言った。俺も窓の外に顔を向ける。ガードレールの向こう側には細い木々が立ち並び、その中を暗闇に染めていた。
この計画を切り出したのはユウキだった。
――紋屋山に出るって噂だぜ。
俺は反対したが、ナオヤは賛成し、多勢に無勢でどんどんと計画は固められていった。
だから、俺は今緩やかに蛇行した坂道をのぼっている。対向車線からの車はまったくなく、それどころか俺たち以外の車を見たのは山の中に入る前だった。コンクリートの道路を照らす車のライト以外に光はなく、暗闇が辺りを染めている。
「そんな噂がたってのって確か、一年前くらいだよな」
ナオヤがハンドルを握りながら俺たちに問いかけた。すかさずユウキが、一年前かあと視線を宙に漂わせながら言った。
「一年前って言ったら、ジュンヤにもまだ彼女が――」
ユウキがそこまで言いかけて、わざとらしく両手で口を塞ぐ。俺は笑いながら、ふざけんなよとユウキの頭を軽く叩いた。
彼女――ミサキとは大学のゼミ仲間だった。最初は挨拶を交わす程度だったが、ゼミの合宿で意気投合し、恋人同士になった。俺は結婚を考えるまでに彼女を愛し、彼女も恐らくは同じくらい俺のことを愛してくれていただろう。
しかし一つの過ちにより、それまで順風満帆だった俺たちの関係は一瞬にして崩れた。
彼女が俺の子を宿してしまった。俺は酷い罪悪感に陥り、彼女に堕ろせと言った。だが、彼女は産みたいと言った。それから毎日のように彼女と俺は喧嘩した。まだお互い大学一年生であったし、子供を産むというのがどれだけこれからの負担になるのか――俺は彼女に説得を試みた。
彼女は首を縦には振らなかった。寧ろ、俺が説得しようとする度に決心を固くしているように見えた。
親に頼み込んで行かせてもらった私立の大学を中退するわけにもいかず、かと言って彼女が俺の言い分を了承するわけでもなく、お互いの『気持ち』がぶつかり合い、論争はヒートアップしていった。ついに俺は彼女を殴った。殴って殴って、言い聞かせた。それでも彼女は子供を産むと言った。
それから、彼女は行方不明になり、いまだ見つかっていない。
そんな重い話を笑い話にできるのはこの二人だけである。
「それぐらいにしておけって――あれ?」
ナオヤの笑いを含んだ声が唐突に不安げな口調に変わる。
「どうしたんだよ?」
俺が尋ねると、ナオヤは小さく首を傾けたままどこか一点を覗き込むように見つめている。その目線を辿ってみたが、緩やかに蛇行する道路と混じり合った二つの光の円があるのみで不審なものは見当たらない。
「ナオヤどうしたんだよ」
俺はまた尋ねる。すると、ナオヤは傾げていた首を元に戻し、おっかしいなあと独り言のように呟いた。
「いや、今、女が道路の真ん中に立っていた気がしたんだけど」
「マジかよ」
ユウキは笑いながら言ったが、顔は曇っていた。
車内の空気が明らかに変わった。
俺は急に後部座席に独りで座っているのが不安になった。俺は振り返り、仄かに見える風景に目を細める。暗闇に塗られた風景が遠ざかるように流れていく。
自分の呼吸が荒くなっていくのが分かった。
突然飛び出す女の首を想像して、俺は前をいた。
誰も何も喋らない。俺が後ろを向いているときにもしかしたら二人は『別のナニカ』と入れ替わってしまったのかもしれない――そんな不安を感じて、俺はユウキに話しかけようとした。その刹那、ドンという音がして社内が揺れた。
「うわああああああっ!」
一番大きな声を上げたのはユウキだった。運転席のナオヤがガタガタと肩を震わしているのが見えた。見れば、車の天井が内側へ、への字に曲がっている。まるで誰かが車の上に降り立ったかのように。
「う、嘘だろ、おい!」
ユウキが天井を見上げたまま言う。ナオヤは肩を竦めて、ぶつぶつとお経のようなものを唱えていた。
「ナ、ナオヤ、落ち着けよ。ここで事故ったら元も子もねえぞ」
俺はそう言い聞かせるが、ナオヤは首を横に振るばかりで、聞く耳を持っていないようだった。車は一応道に沿って走ってはいたが、いつナオヤが運転を誤ってしまうか分からない。
ドンドン――車の上を誰かが歩いている。
ユウキと目が合った。その合わさった目線はナオヤの方へと投げかけられた。
ナオヤの頬には大粒の汗がへばりつき、ハンドルを握る手が震えていた。
「ナオヤ落ち着けって」
そう言ったユウキの声も震えている。俺だって心臓が必要以上に脈打ち、目元が物凄く熱い。
ナオヤのシートベルトがしゅるっと外れた。何してんだよ、と言いかけた俺は言葉を止める。正確には息詰まって、言葉が出なかった。
ナオヤの手はハンドルを握っており、シートベルトを外せるわけがないのである。ユウキは見ていた限り動いてもおらず、ナオヤのことを心配そうな顔でただ見据えていた。
誰もシートベルトに触っていない。
表皮が鳥肌に埋め尽くされる。
「厭だ!」
そんな声が聞こえたかと思うと、運転席のドアが勢いよく開いた。冷気が雪崩れ込み、俺の顔を打った。
そして、一瞬のうちにしてナオヤが外へ投げ出された。俺は急いで後ろを振り返る。
ナオヤが転がっていくのが見えた。俺の恐怖はピークに達し、一種の絶望を覚えた。
「うわあああっ!」
ユウキの声に我に返り、前に目を戻す。開きっぱなしのドアが閉まりそうになっては開き、閉まりそうになっては開きを繰り返している。
ユウキが助手席から手を伸ばし、ハンドルを握っていた。だが、ハンドルを切ることができずに、大きな鉄の塊はガードレールに突っ込んだ。
けたたましい音が響いたかと思うと、俺はヘッドレストに突っ込み、視界は暗闇に包まれた。
※
気づけば病院のベットの上に居た。急いで体を起き上がらせて、状態を確認する。その際に背骨が痛み、腹が唸りを上げた。だがこれと言った外傷はなく、『あの出来事』が夢のように思えた。俺は夢であってほしいと願った。
そこに丁度、看護師さんが来て、多少驚いた顔を見せたもののすぐに笑顔になって、大丈夫ですかと訊いてきた。
口の中が異常なまでに乾いており、中々声を発することができなかった。
聞けば、俺は三日も寝ていたのだと言う。ユウキは右足を複雑骨折し、俺の隣のベットで寝ていた。
ナオヤは――何とか命は取り留めたものの体の損傷が酷く、意識が戻る見込みはないらしい。骨が飛び出し、体中の皮は剥がれ、頭が割れて――そして何故か腹が裂けて、腸が飛び出していたのだとか。普通これで生きていることはありえないと看護師さんは言った。そして、ナオヤは手術中に不可解なことを口にしていたらしい。
産みたい――と。
俺は申し訳なく思う。俺がしたことで結果的にナオヤやユウキを巻き込んでしまったことを――。
どこかに三人で遊びに行くときの運転手はいつも俺だった。そしてミサキの時もそうしていた。
俺は起き上がらせていた身体を倒し、天井を見上げる。
そしてもう二度と行くことのないあの道を思い浮かべながら、静かに目を閉じた。
作者なりそこない