「あいつ、今頃どんな顔してんだろ」
助手席の美弥が楽しそうに笑う。
仲間の一人を廃屋に置き去りにし、四人の乗った車はすでに山の麓まで下りて来ていた。
「そろそろ引き返しましょう」
水を差すように後部座席の乃里子がそう言った――
―1―
肝試しに行こうと言ったのは、四人のうち誰だったのだろう。
まだその時期には遠い、肌寒い春の夜だった。
グループは男二人と女三人の計五人。大学の仲間で、わたしはお情けでそこに加えてもらっていた。
肝試しと言う言葉に嫌な予感がしたのを覚えている。そういうことに鋭くなっていた。
だが、行きたくないと言えないまま、車は心霊スポットの廃屋を目指して深夜の山中を走った。
車内は静まり返っていた。みんな怖いからだとばかり思っていたがそうじゃなかった。
彼らにはたくらみがあったのだ。その浮きたつ心を抑えるために沈黙していただけ。
それは目的地に着くとすぐわかった。
二人一組だと手渡された懐中電灯。わたし一人になるのはわかりきったことだ。
じゃあねと言って、二組のカップルは楽しそうに入っていく。
ちっぽけなライトに浮かぶ廃屋は巨大な雑木林の闇に囲まれていた。荒れ果てているが重厚で見事な構えの日本家屋は、何十年か前まではちゃんと人の住み家だったのだろうが今では蔦や雑草が家の中にまではびこっていた。
肝試しを済ますまできっと帰れない。
ため息をついて前に進む。
ライトを頼りに、地面に散らばる引き戸のガラス片を踏みしめて三和土にあがった。
すぐにある板間の中心に囲炉裏が見えた。もちろん鍋などなく、鉤の付いた棒が釣られているだけだ。
襖が外れていて隣の和室が丸見えだった。乱雑にめくられた畳は腐りかけ、床板の穴からは繁茂した雑草が覗いている。これでは外と一緒だと思った。
畳は臭いがひどく、倒れた襖に浮き出た染みは黄ばんだ死人の顔に見える。
早く通り過ぎてしまいたいが、床板を踏み抜かないようにしなければいけない。
鴨居の上に何かがいて心臓がぎゅっと縮んだ。
光に浮かんだのは欄間に彫られた龍だった。ほっとすると同時に、生きているかのような精巧な造りに感心する。埃まみれなのがもったいなかった。よく見ると柱や梁にもこの家を建てた人のこだわりを感じる。だが今や心霊スポットだ。
奥の部屋から楽しげな悲鳴が聞こえてきた。
あの人たちやここに来る若者たちには、きっとこの家に対する畏怖はないのだろう。
光の輪に浮かぶ様々なゴミ。菓子の空袋やペットボトル、使用済みの避妊具まである。ここは単なる遊び場、心霊スポットなんて誰も本気で思ってやしない。
さっさと終わらせて帰ろう。そして、このグループから抜けるんだ。
そう決心して歩を進めた。
―2―
「あいつ、ひとりびびって泣いてるんじゃないか」
「ちびってたりして」
「ちょっ、そんなの車に乗せんのイヤだぞ」
「じゃ、置いていけばいいじゃん」
浩郎の腕にすがりつき美弥はけらけら嗤った。
「もういい加減、あのこ抜きにしたいんだけど」
瑛士と手をつなぎ、先を歩いていた乃里子が振り向いて光を向けた。
「眩しいなあ。やめてよ」
美弥が浩郎の肩に隠れた。
「いじめるの楽しいのはわかるわよ。でももうめんどくさいのよね」
乃里子が光を戻すと、開けっ放しの押し入れが輪の中に浮かんだ。
「あそこに誰か座ってたら怖いな」
瑛士がおどける。
「もう変なこと言わないで、さっさと行きましょう」
乃里子にぐいっと引っ張られ、瑛士は勢いよくつまずいた。
「なによ。自分だって面白がってたくせに。
そうだ。ねえ、浩君、本当にあのこ置いていっちゃわない?」
美弥が耳打ちする。
浩郎はやんちゃな子供のようににっと笑った。
―3―
進んでも彼らの姿はなかった。さっきまで聞こえていた悲鳴も笑い声も今は聞こえなかった。
奥に行くほど床板の傷みが激しく、急げないのがもどかしい。
突然、外からエンジン音が聞こえ、車の走り去る音がした。
まさかとは思ったが、やっとたどり着いた裏口から表に回ると、停めてあった浩郎の車がなかった。
我慢していた涙が冷えた頬を伝う。
ここから真っ暗な山道を歩いて帰れとでも言うのか。ううん、いつものいたずらだ。しばらくすれば戻ってきてくれるだろう。
玄関に戻り、上がり框に腰掛ける。
懐中電灯の光だけでは頼りなく、物音ひとつない暗闇に溶け込んでしまうような気がして自分を抱きしめた。
遠く走行音が聞こえてきた。
慌てて外に出る。
木々の間からヘッドライトが近づいてくるのが見えた。
―4―
「あいつ、今頃どんな顔してんだろ」
助手席の美弥が楽しそうに笑う。
浩郎が運転する四駆車は山の麓まで下ってきて、カーブの多い細道から二車線ある道路に出たところだった。
「悪趣味ね」
後部座席に座る乃里子が鼻を鳴らす。
美弥は振り返り、「何言ってんのよ。あんただって同じ穴のナントカじゃない」と睨み付けた。
「ま、そうだけど。でもそろそろ引き返しましょう」
「ここまで来て、なんで。いやだよオレ。ガソリンもったいねーし。疲れたし。ほっときゃいいじゃん」
浩郎が細い眉をひそめて文句を言う。
「あんなところに置き去りにして、あとあと面倒なことにでもなったらたいへんだわ。自分たちのためよ」
「あのこの心配してるわけじゃないんだ。さすが乃里子、怖いねぇ」
ふふんと笑って、美弥は浩郎の二の腕をつついた。
「ちっ、わかったよ。戻ればいいんだろ。戻ればっ」
浩郎は車をUターンさせ、来た道を戻った。
しばらくすると廃屋がヘッドライトに浮かんだ。
玄関先に誰もいないのを見て、「あいつまだ中にいんのかよ」と浩郎は不機嫌な声を出した。
車を止め、短くクラクションを鳴らす。
「一人で山を下りたんじゃないか」
「それはないでしょ」
瑛士と乃里子のやり取りを聞いて、「ちょっと見て来てよ」と浩郎が振り返った。
「いやよ。浩君が美弥と一緒に見てきたらいいじゃない。あんたたちが言い出しっぺなんだから」
乃里子はてこでも動かない意思を示すように、座席に深く体を沈めた。
「わかったよ。行こ」
「もう、ほんっとに乃里子って我がままよね」
浩郎と美弥は仕方なく車から降りた。
―5―
――寒い。
わたしはぼんやりと立っていた。
立派な床の間のある一番奥の部屋だった。足下に転がっている懐中電灯が穴の開いた床板に光の輪を映している。
浩郎の車が迎えに来たのではなかったのか。なぜまだこんなところにいるのだろう。
なぜか何も思い出せなかった。
とりあえず懐中電灯を拾おうと手を伸ばす。動いた光が穴の闇を照らした。
何かいる?
よく見ようと覗き込んだ。
首に古縄を巻かれた女が俯せに倒れていた。髪が乱れ、衣服は埃や泥にまみれている。なぜこんなところに?
無事なのか確かめようとした時、土気色の顔がこっちを向いた。どう見ても生きているようには見えない。女は白く濁った眼球でわたしをじっと見つめ、ゆっくりと這い出してきた。
―6―
美弥と浩郎は再び廃屋の玄関先に立った。誰もいる気配がない。
「ったく、どこ行ったんだよ」
二人は板の間に上がり込み、懐中電灯で辺りを照らす。
がたんと奥のほうから音がした。
「おーい。さっさっと出て来いよ」
浩郎が面倒くさそうに呼びかけたが応答はない。
「あいつったら何してんの。あーあ、戻って来なきゃよかった。乃里子のせいよ」
美弥もうんざりした顔で髪をくしゃくしゃとかき上げた。
廊下から床の軋む音が近付いてくる。
浩郎が光を向けると、首に縄を巻き付けた女がゆっくり入ってくるのが見えた。
―7―
そうだった。
あの車は浩郎のものではなかった。
降りてきたのは見知らぬ三人の男で、玄関先で佇むわたしを見て一瞬驚き、だがすぐに下卑た笑いを浮かべて襲い掛かってきた。
力の限り抵抗した。叫び声をあげ、両腕を振り回し、脚を振り上げ、暴れるだけ暴れて口を押えにきた手の肉を噛み千切ってやった。
でも――我が身を守ることはできなかった。
手の血を流した男がわたしにまたがり、落ちていた古縄で首を絞めた。目には怒りと狂気が浮かんでいた。
声が出せず、見つめることで命乞いをした。
お願い。助けて。殺さないで。
だが、男は力を緩めなかった。
ころさないでおねがいおねがいおねがい
わたしは見つめ続けた。命が消える最後の時まで――
ゴミのように床穴に捨てられたわたしは、仲間を呪い、男たちを呪い、すべての人間にわたしと同じ死を願った。
そう、床下から這い出してきたのはわたしだ。
―8―
「お、おい、ふざけんなよ」
浩郎はぎこちない動きで少しずつ自分たちに近付いてくる女に怒鳴った。見知った顔はどこか違う気がする。まるで死人のような――そう思ったとき足下から震えがきた。
逃げなければ。とっさに美弥の手を握った。
「ねえ、なにあれ。ばかじゃないの?」
美弥はまだ何も気づいていない。
女がつぶやいている。
「えっ、なに? 聞こえないわよ。気持ち悪いわね。
ねえ、もうほっといて行こう」
美弥は握った手を軽く振ったが、もう動くことができなかった。
「――ナミネ死ナミレミマニク死ニトチノレ死ノオロメ死トヲキイ死リグエ死ヲドノメ死ヲビクネ死ナミネ死――」
女の声が聞き取れた時、美弥がやっと異常に気付き、浩郎の手を引っ張った。
だが、首を絞められているように息ができなくてその手を振り払ってしまった。
「なにやってんのっ」
伝えたくても返事ができない。
浩郎は両手で喉を掻きむしった。指先が肉に食い込んで暖かくぬめる。
「――死ナンオト死タワナ死ンミネ死ナミネ死死死死――
ミンナワタシトオンナジ――」
女の呪詛は続く。
血にまみれて浩郎が倒れた。両目を開けたまま動かない。それを見た美弥が腰を抜かした。その尻の下で温い染みが広がった。
「遅いわね。何してるのかしら」
暗い車窓を眺め乃里子がつぶやいた。
「ほんとにいないんじゃないか? やっぱりもう山を下りたんだよ」
携帯ゲームから目を離さずに瑛士が返事をする。
「じゃさっさと戻ってくればいいのに。早く帰りたいわ」
「中でよろしくやってんだろ」
「こんなところで?」
乃里子はぷっと吹き出し、ないないと手を振った。
幾度となく聞いたゲームオーバーの音がして舌打ちしたあと、瑛士が「見に行こっか」とドアを開けた。
「えー。めんどくさい」
「何してんのか、ちょっとだけ覗こう」
「いやだぁ、瑛ちゃんってそんな人だったんだ」
乃里子は車を出た瑛士のあとを追った。
突然脳裏に不吉な記憶が過ぎり、乃里子は足を止めた。胸がざわざわと騒ぎ出す。
「瑛ちゃん――行くのやめよう。なぜか行っちゃいけない気がする」
瑛士が振り返り、手を差し出す。
「何言ってんだよ。早く行こう」
乃里子は仕方なく歩を進め、廃屋に入った。
板の間に浩郎と美弥が血溜まりの中で倒れていた。ふたりとも両手で喉の肉をえぐっている。
「なんだよ。これ――」
瑛士は呆然として立ち尽くした。
ぶつぶつと声が聞こえ、二人は顔を上げた。部屋の隅にうつむいた女が立っている。
乃里子は思い出した。
「瑛ちゃん、逃げよう」
しかし、瑛士が突然苦しみ出し、喉を掻きむしり始めた。
そうだ、逃げられないんだ。誰も逃げられないんだ。
この呪いは繰り返されている。何度も。何度も。何度も。
乃里子も喉を掻きむしる。
「もう許して――」
血と肉片の付いた手を合わせ懇願しても、女の濁った瞳には何も映らない。ただただ永遠に呪詛を吐き続けるだけ。
「――死ナンオト死タワナンミネ死ナミネ死ナミレ死ミマニク死ニトチ死ノレノ死オロメト死ヲキイ死リグエヲ死ドノメ死ヲビクネ死ナミネ死ナミ死死死死――
ミンナワタシトオンナジ――」
*
「あいつ、今頃どんな顔してんだろ」
助手席の美弥が楽しそうに笑う。
仲間の一人を廃屋に置き去りにし、四人はすでに山の麓まで下りて来ていた。
だが、乃里子が後部座席から身を乗り出し忠告する。
「そろそろ引き返しましょう。あんなところに置き去りにして、あとあと面倒なことにでもなったらたいへんだわ。自分たちのためよ」
そして、「でも、もう遅いのよね」と、自分でもなぜかわからない独り言をつぶやいた。
作者shibro
不快な表現含んでいます。
自分でも納得いってなかったので呪詛の言葉を書き直しました。といってこれで納得したわけでもありません。いいものが浮かんだらまた書き直します。