僕は中学三年生だというのに、ランドセルを背負っている。勿論、好きで背負っているわけではない。
お父さんがやれと言うから、やっているだけだ。
僕が背負ってるのは男の用じゃなくて、女の子用――妹のランドセルだ。妹はまだ小学三年生だから、ランドセルを背負っていてもおかしくはないけど、僕はもう中学三年生なんだ。
こんなところクラスの人に見られたら、恥ずかしいよ。
でも、お父さんが僕に命令したのだから、やらなくちゃいけない。
また殴られるから。僕が悪い子になると、お父さんは僕を殴る。その時の顔が厭で厭で厭で、僕はお父さんの言うことを聞く。お父さんは鬼のような表情をするんだ。そして僕と妹をがっと太い腕で殴る。お父さんは大工さんだから腕が物凄く太い。腕だけじゃない。体ががっちりとしていて、まるで岩みたいだ。
そんなのに殴られたら痛いってもんじゃない。
死んじゃうよ。
でも、実際は死なない。でも、本当に痛い。
お母さんは吐血した。お父さんが殴って、お母さんが吹っ飛んで、机の角に頭をぶつけて、口から血を吐いて、頭から血が出た。
お母さんは病院に入院せず、そのまま何処かに行っちゃった。いつか帰ってくるって妹は言っているけど、多分もうお母さんは一生帰って来ないと思う。
お父さんはそれから色々な女の人を家につれてくる。
アキコという女が一番厭な女だった。
僕の容姿を馬鹿にする。頭の悪さも馬鹿にしてくる。
ノロマ、トンマ、キチガイ、気持ちが悪い、死ね、ブサイク。
思い出しただけで頭がおかしくなりそうだ。でも、アキコはもう来ない。今お父さんが家につれてくる女は何という名だったっけな。
忘れてしまった。
僕は突然足を進めるのが厭になった。
道端に小さな岩があったから、腰かける。座り心地はよくないけど、地面に座ってお尻を汚すよりはマシだ。
山の奥の奥にそのランドセルを捨ててこいと言われた。だから僕は名前も分からない山をずっとずっと歩いている。
別に今日じゃなくたっていいじゃないか。
折角、今日は早帰りだったのに。
家に帰った途端、僕の胸にランドセルを押し付けて、捨ててこいと言うんだもんなあ。でも、逆らえないから僕は引き受けることしかできない。
それにしても、妹のランドセルをなんで山奥に捨てなくちゃいけないのだろう。やけに重い。ずっしりとしている。
中を絶対に覗くなと言われた。でも、覗くなって言われたら覗いたくなっちゃう。でも、お父さんは覗いたらいけないと言った。
覗いたら、また殴られるんだろう。きっと。
でも、覗いたことなんて分かりっこない。だから僕はランドセルを横に下ろして――手を止めた。
お父さんの怖い顔が浮かんできて、僕を盛大に罵った。
――だからお前は頭がわりぃんだ。なんでこんなことも分からないんだ。
僕は急いで手を引っ込め、頭を押さえた。
怒らないで。殴られるのは痛いよ。
お父さんが此処に居ないことは分かっている。でも、痛みが蘇ってくるんだ。
小さい頃から何発も何発もくらった痛みが。僕の頭に頬っぺたにお腹に、蘇ってくる。
ランドセルを開けることはできなかった。お父さんに監視されている気がした。僕は岩に座りながら来た道を眺めた。来た道は緩やかな坂になっていて、僕の腰かける岩のところの地面は平になっている。それからちょっと行くと、また緩やかな坂になって山奥へと続いている。
不思議だなあ。
夕日が山をも呑み込んで、夜の気配が頬を掠った。
夜までに帰らなければ叱られる。僕は立ち上がって、また歩き出した。緩やかな坂を上っていくと、道がないところに出た。
凸凹とした土の上を歩いて、何度か滑り落ちそうになる。。
小さな丸太が土の中に埋もれている。多分階段だったんだろうけど、あんまり役に立たない。道なき道を歩く――というよりは登るに近かった。
急斜面の凸凹した道を登り終えると、また平らな場所に出た。草木が地面を覆い隠し、曲がりくねった樹木が所々に生えては夕日を遮っている。そんな光景が随分向こうまで続いている。
僕はちょっとその中を進んでいって、適当な場所にランドセルを放り投げた。
ぬちゃ――そんな音がした。
厭な音だ。
ランドセルの中身がひどく気になる。でも、見てはいけない。
お父さんに叱られて、殴られてしまう。ランドセルは生い茂る草の中に埋もれた。手を伸ばすのが面倒なので、やっぱり中身を見るのをやめた。
何より、お父さんが怖いし。
僕はまた急斜面のほうへ向かった。その拍子に顔を上げた。
夕焼け色に染まる街が見えた。高く屹立するビル、群がる住宅。
僕は小学校の頃から勉強ができなかった。だって、お父さんとお母さんが五月蠅くて、とても勉強できる環境じゃなかったから。
それは中学生になっても変わらない。定期テストではいつも最下位だ。
みんなに馬鹿にされる。
お父さんも高校には行かせないと言っている。
温かい風が僕の輪郭をなぞった。植物の厭な匂いが厭らしく鼻腔を撫でる。
家に帰りたくなった。
僕を殴るお父さんだけど、僕を育ててくれたお父さんだ。それに、妹だっている。いつか妹と一緒に家を出て、幸せに暮らしたい。
家に帰ると、お父さんが捨ててきたかと僕に尋ねた。それから、中身は見てないかと言った。僕はうんと頷いた。
お父さんが僕の頭に手を置いて、よくやったと褒めてくれた。
僕は嬉しくて、嬉しくて――嬉しさが頬に弾けた。それは飴玉を舐めているときみたいに甘かった。
お父さんの笑顔を初めて見た気がした。
その日、妹は家に帰ってこなかった。
お父さんはもう一生帰ってこないと言うけれど、僕はそれを信じなかった。
――お母さんはきっと帰ってくるよ。
妹の言葉を思い出す。その気持ちが少し分かるような気がした。
だけど、それから、妹が僕の前に姿を見せることはなかった。
作者なりそこない