何故だろう。この街で過ごしていた記憶がない。いや、正確に言えば完全にないわけではない。
とても薄いのだ。
例えば小さい頃の思い出なんかは所々ぼやけていて、思い出せないだけだ。過ごしたこと経験したことはしっかりと頭に記憶されているはずだ。
だけども、この街で僕は――本当に過ごしていたのだろうか。
僕は手元の写真に目を落とした。
そこには僕ともう今は亡き美香が写っている。美香は幸せそうに笑ってる。僕も幸せそうに笑っている。
それは確かに――この街で撮った写真だった。
向こうに丘が見える。写真はその丘で撮ったのだろう。
でも、その記憶がない。何となく美香と過ごした記憶はあれど、それは本当にこの街だっただろうか。本当にあの丘で写真を撮ったのだろうか。
他にも何枚か写真がある。
それは全てこの街で撮られたものらしかった。
二人で肩を並べてソファに座っている写真もある。背景はアパートのようだが――見覚えがない。
僕はこんなところに暮らしていたのか。
まるで他人の写真を見ているようだ。だけども、そこに写っているのは確かに僕である。
美香のことはしっかり覚えている。
長い髪の毛、困ったら頬を掻く仕草、笑うと靨ができること、好きな食べ物、好きなジャニーズアイドル。
美香といろんな話をした。
何処で? 此処でか。この街でか?
気づけば美香は死んで、僕は実家に居た。
美香は交通事故で死んだ。
此処で――この街で――。
だから、僕は此処に来たのだ。美香が轢かれた場所を警察に聞かされたときだって、僕はピンと来なかった。
ただ美香が何でそんなところに居るんだろうって、疑問に思った。
やはり僕はこの街を忘れてしまっている。いや、だから。
完全に忘れているわけではない。
この街に足を踏み入れた時、僕は輪郭のないぼやけた何かを心に感じた。でも、それが脳に到達することはなかった。
思い出せない。
取り敢えず、丘に向かった。
まるでドラマのようだ。記憶喪失にでもなった気分だ。
記憶喪失というのは完全に忘れてしまうものなのだろうか。両親や友達の顔を見ても、心は何も反応しないのだろうか。それなら、僕は記憶喪失ではないのだろう。そもそも、記憶を失うような衝撃を受けた覚えがない。
それも――それすらも忘れてしまったのだろうか。
丘に近づくと心臓がざわつく。妙な高揚を覚える。やはり僕は此処に来たことがある。
丘からは街全体が見渡せる。茜色の炎が街を焼いていく。
こんなに綺麗な風景を僕は忘れていたのか。
それにしても。
綺麗だ。
美香と此処に来れたらどれくらい幸せだろう。いや、来たのか。僕が忘れてしまっているだけで。
「もし」
しゃがれた声に僕は後ろを振り返った。
面長な老人が居た。男か女か分からない程、顔に皺を作っている。
気持ちの悪い奴だ。
「もし、あなた。忘れましたね」
どきりとした。口から言葉を出そうとしても、喉に詰まってしまう。
「忘れて、此処に来たのでしょう」
「な、何故それを」
やっと言葉が出た。
「悪いことは言わん。思い出しなさんな」
「何故だ」
「忘れてしまったことは思い出さんほうがいい。思い出したくないから、忘れてしまったんじゃ。厭なことだから忘れてしまったんじゃ」
「厭なこと――」
厭なことだったのか。写真ではあれほど楽しそうにしているのに。
「ならば敢えて思い出すこともないじゃろ。厭なことなのだから。本当に気持ちが悪くて、しょうがないことは忘れるに限る」
「でも、僕は思い出したい。なんだかこれを解決しないと――」
「思い出すな。思い出すな。それは厭なことだ。きっと思い出しても損ばかりだ。一つも得などない。思い出したところで後悔するだけだ。今、お前は必死に自分が生きてきた轍を振り返ろうとしているな。それは自己満足に過ぎないぞ。きっと、後悔する。思い出しなさんな」
老人は何度も何度も言った――思い出すなと。それなら。
きっと厭なことだったのだな。
美香と過ごした日々はきっと、どうしようもなく、気持ち悪くて、最悪で、最低で、糞みたいで、厭な毎日だったのだろうな。
写真に残っているものは全て虚構なのだろう。写真に写っている僕等が楽しそうにしているのは全てまやかしなのだ。
僕をこの街に導くためのまやかしなのだ。
もしかしたら美香という女性は存在しないのかもしれない。それとも、存在しないのは僕か。
どちらにせよ。
僕はそこでふと考えることを止めた。老人はいつの間にか消えていた。
この写真を撮っているのは誰だろう。
明らかに三脚じゃ撮ることのできない位置から撮っている写真もあるし。誰かが撮ってくれたのだろうけど。
そんな記憶はない。忘れてしまったのか。
それも思い出したくないことなのだろうか。
きっと物凄く厭な人なんだろうなあ。
作者なりそこない