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北風がだんだんと厳しくなってきた頃のことだった。今夜は雪が降りそうだなと思いながら私は家路を辿っていた。
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私は1人の少女が自分のアパートの前で倒れているのに気づいた。年は15、6歳くらいだろうか。黒いコートに包まれ、横向きになっており、仔犬の眠り姿のような姿勢だ。
私は思わず声を掛けた。
「大丈夫ですか」
少女はゆっくり目蓋を上げた。小柄な身体を僅かに動かす。
「あぁ……」
私は少女の顔の横で膝を折って、
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「何が貴女に起こったのかわかりませんが、こんなところでは寒くて凍え死んでしまうでしょう。中にお入りなさい、私の部屋に。」
と口走ってしまったが、これは不味いかしらと思った。何の面識もない、こんな鄙びたアパートに住む、汚れた作業着の中年男など誰が信用してくれようか。もう少し、私の顔が誠実そうであればよかったが、生憎私の顔は力なく、卑しい。
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「貴方はこんな、得体の知れない人間を家に入れるのですか」
少女は皮肉そうに笑った。身体を起こそうとしているが、たちまち平衡感覚を失って、崩れた。
「まだ痛む」
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見れば、黒いコートの中に仕舞い込まれた華奢な脚にいくつもの傷痕がある。血がもう既に変色してきている。彼女の様子から緊急性があるわけではないと判断したが、怪我人を放っておけるほど私はつらくはない。今は止血が先決である。
「手当てして差し上げましょう」
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私は、少女を抱え、部屋の鍵を開けた。
救急箱を棚から取り出す。まずは、水道水で傷口を濡らし、さらの布巾で丁寧に軽くとんとんと叩いた。ガーゼを傷口にあて、
包帯を巻きつけた。
私が手当てしているとき、少女は安堵の表情を浮かべていた。こちらも思わず顔が綻んだ。
更に、私は湯を沸かしてコーヒーを入れた。
「砂糖と、ミルクは…。」
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「結構です。私、ブラックが好きなので。」
少女はぎこちない笑顔を見せた。いささか彼女の身体には大きすぎるコートと辛子色をした膝丈ワンピースを身に纏った彼女は何故こうなったか問わず語りに話し出した。
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つまるところ、彼女は、父親から
酷い虐待を受けており、母親は妹を溺愛し、彼女のことは何の関心も示さず、絶望的な状況に置かれていた。
脚の傷は、家出を試みたときに、そんならお前の脚を切ってなくせば出れぬまいと言った父親から受けたものであるらしい。
「でも、お父さんは本気で私を止める気はなかった」
彼女は、涙をその大きな瞳一杯に溜めた。
「切り落とすほどの勇気はなかったんだわ。ーーーいいえ、もしかしたら、大根を切り落とすより、私の脚を切り落とす方が価値がないと思ったのかもしれない。」
可哀想な彼女は、いっそのこと脚を切り落としてくれれば、本当に必要とされているのだと感じられたのに、とさえ言い出した。どうして、こんないたいけな少女が地獄に遭うのか。私は、世の不条理さを嘆いた。
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「それで、出血多量で死ねるかしらなんて思ってここのアパートの前に自分から寝そべったんです。丁度気温も寒くって眠りにつきながらにして死ねるとも期待しましたわ。
……ごめんなさい、ここのアパートは幽霊アパートって、私の同級生たちは呼んでいて、まさか人が住んでいるとは思わなくって…。でも、貴方のような方がおられた。」
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彼女はきっと顔を上げ、私を見つめた。
「とてもいい人だわ」
愛らしい顔には、いまや一点の曇りも見つけられない。
微笑し、私の手の甲に小さな手を重ねた。
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「どうせ両親は、私の捜索願なんて出さない」
「しかし、そうしたって、どこか然るべき場所がある」
「然るべき場所?ねぇ、それって貴方が判断するの、それとも世間体かしら、警察かしら」
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私はとうとう言い負かされ、一時的にこの少女を引き取ることとなった。今でもどうしてこんな非常識なことをしたのかわからない。ただ、過去の自分とも重ね合わせながら、少女の唯一の希望の光を私の手で失わせてはならないとだけ考えていた。
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彼女の名は由美というらしい。
彼女はよく働き、よく笑い、私を慕ってくれた。幼児のように質問攻めにしてくるときもあった。
「どうして御髪をすっきりなさらないの」
「生まれつきこんな髪質なのだよ」
「丸まっていて可愛らしいけれど、こざっぱりした方が私好みだわ。」
「そうかい?」
私に子供がいたことはないが、もし家庭があり、娘がいたとしたらこんな風なのかしらと思った。もっとも、所帯持ちの旧友たちはやれ嫁が太っただの、子供は愛想の「あ」の字も見せないだの、ぼやいてばかりだったが、確かに心安らぐ瞬間を家庭に見出しているようだった。
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私は今年35になり、独身のまま町工場にて働いている。1日のほとんどを町工場で過ごし、朝は8時半に工場に到着、帰宅時間は21時を少し過ぎる頃だった。余裕ができるほど金は貯まらない。煙草は吸わないが、酒が好きだから浪費していると咎められれば反論し難い。たまの休日も、特に何の予定もないから昼過ぎまで惰眠を貪り、夕刻から飲酒を開始するという不摂生な過ごし方しかしてこなかった。
以前はもう少しばかりまともな生活だったのだが、最近はずっとこの調子だ。
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しかし、彼女が来てからはそうはいかなくなった。生活習慣においては、私より何倍も健康的な彼女は、私の惰性を許さなかった。休みの日でも布団は8時までに取り上げられ、酒もビール缶1本までと決められた。
居候の分際で、何の権利があって指図できるのだと真顔で迫ったら、貴方が好きだからですと答えられ、私は年甲斐もなく赤面し、今度は私の方がつけ込まれる羽目になった。
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彼女曰く、私の性質は純粋らしい。馬鹿ということかねと尋ねたら、彼女は目を丸くさせ、とんでもないわと言った。
「貴方は素直で純粋。それは決して馬鹿ということじゃなくて、私の信頼における最高の存在ということなんです。」
彼女は、私の垂れ下がった懐疑を示す眉の形を真似してみせた。
私は疑っている自分こそが馬鹿馬鹿しく思えてきて、彼女こそが私の良き友人であると信じた。良き友人がいれば、悪友もいるもので、私には腐れ縁の相沢という悪友がいた。
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由美と暮らしてから2ヶ月が過ぎた頃、彼が現れた。七三に奇抜な柄の蝶ネクタイ、ベージュのスーツを着こなす彼の顔立ちははっきりしていて、整っている。彼は、かの有名なT大学准教授を務めていたが、性に合わないと言い、今は個人で株のトレーダーをしている。どれほど稼いでいるかは、彼の身につけているあらゆるものと彼の豪遊ぶりから推測が容易であろう。
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相沢は唐突に私に連絡を寄越し、私のアパートに訪ねてくる。今夜もそうで、ドアを開けるなり、宴だと張り切った様子で言う。
彼は、由美の存在に気づくと、咳払いをし、軽快に挨拶をした。気の利いた言葉も並べ、笑いも誘った。続けて、私に向かって顎をしゃくった。例の薄気味悪いくらいの胡散臭い笑顔を作り、じゃあ僕と高崎は近くの居酒屋で飲むとしようと提案してきた。緊張のほぐれたらしい彼女は彼と私を交互に見やってから、いってらっしゃいと送り出してくれた。
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「それで、ヤッたのか?」
居酒屋に着くなり、相沢は下衆な質問を投げかけてきた。
「…するわけないだろう、娘みたいなものだよ」
「ほう、事情を詳しく教えてくれたまえ、わが親友よ。」
大方、相沢が期待していたのは「そっち」の方の話で、彼女と私の間に何もないことが分かると途端に白けた顔になった。
「君は、本当につまらないね。そんな助け方をしたんなら、病んだ若い女なんて簡単なのに」
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なぜこうもこの男は、打算的で不誠実なのだろう。こんな男が稼いでいい思いばかりしているのだから、世の中が一向に改善しないのではないのか。
だが、私が心中を吐露すると、君の方がおかしいと必ず彼は言う。
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彼はめっぽう酒に強い。いつかの金曜日、三件目でバーに行ったとき、マスターに「マティーニのような男」と評されたが、彼は鼻で笑っていた。
「僕はね、女は絶対的に男の下にいると思っている」
熱燗を飲みながら彼は言った。
「だからなんでも許せる。犬みたいなものさ。犬も間抜けな動物だけど、尽くすときはとことん尽くしてくれるし、飼い犬の方が可愛い。自分の女は飼い犬なんだよ。
………自分より絶対的に下である存在が僕を安心させてくれる。自分しかあてがいない、儚い存在…。いつかのときに言ったね、僕はサディストらしい。首を締めてセックスするのは興奮するのだけれど、同時に可笑しくなってくるんだ。
一体何が悲しくてこいつは首を絞められて恍惚の表情を浮かべているんだ?ってね。
根性が売女だなと思いっきり見下してから力を強めると、今度は苦痛に歪んだ表情になる。僕はそれにより一層興奮を覚えるんだ。」
彼は酒に酔っているわけではない。素面でもこんな言葉を吐くのだ。
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「どうして女が男より下だと言い切れるのだ」
「女は真実を見ようとしないからさ」
「真実を見ようとしない?」
「そうさ。あいつらは、ぼんやりとしたイメージしか見えていない。幻影といってもいいイメージを盾に、こちらを説き伏せようとする。しかしね、所詮それは彼女らが自分の都合を押し通すために創り出した虚妄だ。まるでそれを万人の意見かのようにいうのだから可笑しいね。不快な思いをしているのは自分さ。他人のことなんて毛頭興味無いくせに、やれ非常識だと弁えろだの弱者の代弁者ぶる。良識的な人間を演じる。………いちばん滑稽なのは、自分がしっかりとした男らしい気質を持っていると勘違いしている奴らだ。アイツらはタチが悪い。
社会のため、組織のためなんて言葉が大好物だ。自分に都合が悪いときは、このままじゃ社会、あるいは組織が腐ってしまうと憤怒しながら糾弾する。相手のためにならない、もよく言うな。社会では通用しないよなどとあたかも自分が指導者のごとく振る舞う。優位に立ちたいだけだろうに。自分がご機嫌なときは、何を怒ってらっしゃるのとけたけたと笑う。
……自分が愚かだと気付いている女はいい。それでいて、しがみついてきたんなら利用してやればいい。」
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作者奈加
大長編となります。【1】〜【3】の予定です。ショッキングな表現はありますが、殺人や霊等は一切出てきません。
分類するとしたら人怖ですが、誰もが少なからず持っている「汚い」心の部分を、登場人物たちに投影した作品なので、単なる怖さというより心を丸裸にされてゾワっとする怖さ…を目指して、高校時代に書いた小説をアレンジしたものです。
だいそれたことを書きましたが、稚拙な文章ですので気が向いたときにでも読んで頂ければと思います。