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私は彼の発言を、云々唸りながら聴き、めちゃくちゃになる呂律とともに嗚呼、そういうものか、いや、そうじゃない筈だなどと反芻していた。きっと酔いが覚めたらいや、そうじゃないと言い切れるだろう。
勘定は全て相沢持ちだった。急に誘って悪かった、あの子にも悪かったね、と彼は後日、高級焼き菓子を送ってきた。
由美は、派手だけれどいい人なのねと菓子をつまみながら言った。私は苦笑するしかなかった。
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相沢との最初の出逢いは、中学の頃だ。文武両道、有言実行型の彼は率先して生徒会長に立候補し、常に周囲から羨望の眼差しを浴びていた。私は並一通りだったから、彼を遠目で眺めているだけだったが、一体何の縁なのか、私が学校にこっそり持ってきた娯楽品を彼が発見し、見逃す代わりに友達になってくれないかと持ちかけてきた。私は予期せぬ返答に暫く呆然としていたが、了承すると、彼は、なら君は僕の親友だと宣言した。
「一目見たとき、此奴となら上手くやっていけると思ったんだ。ほら、よく言うだろう、第六感ってやつだよ、きっと。」
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しかし、私からしたら相沢に世話になったことといえば金銭及び物質面ばかりで、勿論大いに助かっているし、そのことに引け目は感じているが、精神面では全くといっていい程なかった。
むしろ、彼のレイシストぶりに呆れ返るばかりなのであった。
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半年が過ぎる頃には私たちは互いの存在に何の違和感も緊張感も抱かぬ仲になっていた。
ご両親は一体何をなさっているのかと怒りが込められた疑問が沸々と沸き起こったが、私も軽蔑に値する非常識な判断をずっと赦してきているのだから、同罪だとも思った。
幸い、私の住むアパートには過酷な労働環境に置かれている独身の中年男性や、家族から見離されたらしい老人しかいなかったから、私の同居人には気づかなかった。
人間は、自分が生きていくのに必死なときは、ありとあらゆるものに盲目となるのだろう。
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由美はときどき私の腕に抱きついて離さなかった。父親から残虐な仕打ちを受けてきた過去を埋め合わせるためか、私には献身的であり、無邪気でもあった。また、母親から冷淡な対応をされ続けてきたためか、自分はああはなるまいと訴えるかの如く、家事や内職を完璧にこなした。
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この頃からか、私は、由美を、家族の仲で「娘」と置いてきた位置づけを「妻」にすり替えようとしていた。
しかし、それには罪悪感が否めなかった。
澄みきった彼女の心をどうして私が穢せようか?無垢な翼を捥ぎ取るような真似がどうして私にできようか?
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私はとうとう由美の言いつけを守らず酒屋で、焼酎を買い込み、アパートの外でしこたま飲んだ。人気もないから都合がよかった。千鳥足で錆びた階段をなんとか昇り、鍵を開け、そのまま几帳面に敷かれた布団に飛び込んだ。1人でこんなにヤケになって飲むのは久々だった。
私の飛び込んだ布団の横で眠っていたらしい彼女はいやに酒臭い私に気づいて、
「飲みすぎだわ。ーーーー何本飲んでいらしたの」
と顰めっ面をした。
「アパートの、外んとこでね、酒屋で買ってきたのを、ずっと飲んでいたのだよ。」
「まぁ危ない!」
彼女は私の紅潮した頰を白い手で包んだ。
「何かあったらどうするんです」
私は意地悪したくなった。
「……アパートの外で寝そべっていた君には言われたくないね。」
由美はぷっと吹き出し、本当に危なかったのは私だったのにねと表情を緩ませた。
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「でも、もうよしてよ。……今日のことはもう済んでしまったから帳消しにしてあげますけど、明日から、ね?」
由美は頰から手を離し、指切りの形を作った。私もつられて小指を出す。
「あぁ、きっと、約束する」
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しかし、私にはわかっていた。
彼女の存在を「妻」に位置付けるか「娘」に位置付けるか、兎にも角にもはっきりさせないと、また同じことを繰り返してしまうと。この指切りには、何の意味もないのだ。
彼女が、私のことを「お父さん」と呼んでくれればいいのに、「洋介さん」と呼ぶから、決意が鈍るのだ。
私は愚かになっていた。
こんな考え方では、私はいつか第二の相沢になってしまう。
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ちょうど梅雨が明けた頃、由美は袋詰めの内職は辞めますと言い、隣町の喫茶店で給仕するようになった。
もし、彼女の境遇があんなでなければ、きっと今頃明日の不安なぞ微塵も感じない暮らしを、もっと若い男と満喫していただろうに、哀れな由美は私しか頼りがいないのだと、独り言のように呟いた。
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彼女の詮索はすまいと決めていたが、わが脆弱な決心は揺らぎ、ついに彼女の身の上話を自ら懇願した。由美は、虐待されていた過去については、私と出会って間もなく打ち明けていたが、それ以外の情報は、私に与えていなかった。私も私で、暗い過去を無理矢理引っ張り出させる作業を彼女にさせたくない一心で聞くまいと思っていたのだが、彼女に対する好奇心ーといったらいささか軽率すぎるだろうがーが溢れていたのだった。
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私の申し出を聞くと、洗濯物を畳んでいた手を止め、胡座をかいている自分を凝視した。一瞬ギクリとしたが、彼女は眉を下げながら力なく笑った。貴方がそれをお望みなら、承知しましたと言い、私の前に正座し、語り出した。
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出身校やら他愛ない話が続き、暫くは私もなんだ、御家庭以外は、大したことないんじゃないかと思ったが、それは違った。
「………私、親友を裏切ったことがあるんです。」
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「本当に、私の心からの親友と呼べる人でしたわ。でも、私は彼女を守れませんでした。」
微かに声が震えだした。
「私は私の安全な日常を壊されたくなくって、見捨てましたわ。………私は悉く人を信頼できませんでした。時折、冷ややかな目で見られているような錯覚を起こして、心底友人らしい友人ができませんでした。そのときに唯一信頼できたのが親友のことです。そんな人を裏切るなんて、なんて酷いんでしょう。
……なぜ信頼できないって、温かい笑顔と穏やかな口調で私に話しかけてくれる子が、複数人と話すときは般若のような形相で、憎悪のこもった声で
その場にいない誰かを罵っているからです。皆は同調の意を示し、ときどき恐ろしい笑い声をたてます。
由美はそういうところがないからいいねぇなんて言われたら、かえって落ち着かない心地になって、悪口を言い合っているのを理解していないふりをしてしまいました。
わざと間延びした声で返事をするんです。
……皆、天然だと私を評しましたわ。
嗚呼、非難されている子にも、幾つか直すべき性質はあれど、私もそれ相応の性質を持っている。私と親しく話す人は、私の姑息な性格を見抜いているかもしれない。
ただ厄介な敵を作りたくないから、生きづらいのが厭だから、笑い話をして流しているだけで、私の胸底はどんなにかどす黒いんでしょう。
………私は、臆病で、しかし自信家でもありました。成績もよかったし、運動もそれなりにできた。絵画や作文コンクールも入賞しました。でも、頂点に立つ程でもなかった。…だから、わざと大袈裟に謙遜したり自虐したりしました。一番でなくっても、褒めてほしいんですもの。………そんな姑息な性質を必死に隠そうとして、道化に走り、何にも考えていない素ぶりをしてみせたりもしました。でも、根が真面目なこともあって、突き通すのは苦しかった。…なんだかお話するのにとても体力を奪われるんですね。
……それでもなんとかやってこれたのですけど、或る日私の親友は、悪友とも呼ぶべき不良な子に遊びに誘われました。それは誰かを嬲るだとか火遊びだとか…そういった類の遊びです。勿論親友は断りましたわ。けれど、それは試してみただけなのです。……親友は、私より幾分か気が強かったけれど、いまいち空気を読めない処があって、それを揶揄っただけなのでした。それから揶揄いはひどくなりました。
いじめとも呼ぶべき事態に陥りましたわ。
………それでも私は、見て見ぬ振りをしたばかりか、不良な子の行動をよしとし、ときどき共に笑いながら……道化を用いて、巧みに標的を私にはならぬ態度をとったのです。つまりは、同罪なんです。……………いいえ、私の方が業が深いですわ。……親友なんて立ち位置に置いたのは自分なのにその人一人すら守れなかった」
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由美は唇を噛み締め、「偽善主義者」と呟いた。
「私って偽善主義者なんじゃあないかしら」
笑っているような、悲しんでいるような曖昧な表情を保ち、私を見つめた。手を伸ばして私の腕を掴む。じゃれて抱きつかれたときよりもずっと固く握っていたが、無機質に触られている感覚だった。
口腔内がいやに乾燥してきたー唾を飲み込みたいが、それさえも難しいー喉から無数の手が生えてきた。
これは久しぶりだ、泣きそうになったり、自分に疚しいことがあったときに起こる現象だ。小学生の頃、誤って同級生の育てていたマリーゴールドを踏んでしまったのに知らぬ顔を突き通した。謝りたかったが、契機を逃した。被害者の女の子は、声も出さず泣いていた。その姿を見て、今と同じ現象を認めたのである。
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「……それなのに親友は、暫くしていじめがなくなってから恐る恐る近づき謝った私に、何ともなかったわ、貴女の一体何が悪いの?と聞き返して……。それ以上の私の謝罪の言葉を遮り、笑いかけてくれたのです。
ねぇ、もし、彼女が私をひっぱたたいてくれたなら、私の罪は少しは消えたのかもしれないのに。
親友は残酷だわ。謝罪さえ拒むことで、かえって私の償いのきっかけをことごとく奪ってしまった。」
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私は彼女をなんとしてでも励ましたいと烏滸がましい気持になっていた。叱るなんて真似はしたくないし、私には到底出来ない行いだった。
私は私の腕に巻きついた彼女の手を右手で握りしめた。
「…誰でもあるさ」
「いいえ、こんなエゴイストはいないわ」
「ーーーーー私だってあるさ」
「貴方が?まさか」
由美は、言葉と裏腹に期待に満ちた潤んだ瞳を私に向けてきた。
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「私は、」
生唾をやっとのことで飲み込み、思い切ったように
「相沢をいじめていたよ」
と告白してみせた。
由美の大きな目がさらに見開かれた。
「嘘」
「本当さ」
嘘だ。私は相沢に到底及ばない。かつての神童をどうして凡人がたった一人でいじまられようか。否、たとえ同級生と共にいじめたとしても彼は鼻で笑うばかりだろう。
「物を隠したり、彼の机に落書きしたり、あることないことでっち上げて皆から遠ざけようとした。」
「お友達と一緒に?」
「ああそうさ、悪友たちとね。」
嘘だ。相沢の方が余程悪友だ。
彼は自分以外の人間に対する興味がない。
いじめもしないし、いじめられもしない。彼には人を惑わす魅力がある。それは事実だが、人間性は、能力とは別な処にあるのが常だ。
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「でも、許してくれたのだ。何もなしにね。……驚いた、君も同じような過去を持っていたなんて。」
演技には自信がなかったが、由美の過去に動揺はしていたらしい震えた声が、それとなく信憑性を持たせてくれた。
由美は、潤んだ瞳から涙を流し、ああそうなの、ああそうなのねと繰り返した。
「貴方はいい人よ、それでも。」
彼女は、地球は丸いと宣言するよりもはるかに自信を持って言い切った。
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どうして彼女を庇う真似ばかりしてしまうのだろう。彼女を叱ってやる方が彼女のためになりそうではあった。それでもしたくなかった。
否、そもそも自分に叱る資格などない。こんなアパートで保護者面しているのがいけないのだ。
私こそが悪人だ。彼女との距離が近くほどに私は愚かになっていた。
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彼女の性質は清らかで、脆い。
もっと野太い人間ならば、自分のしてきた悪行も、忘却の彼方へと追いやることは容易いのだろう。
……悔い改めようとするから苦しいのだ。
思い出せる能力もあり、また自責の念も煮立ってくるから、苦しいのだ。
しでかした行為、それ自体にはほとんど意味がなく、どう受け止めるかが肝要である。歴史を辿ってみても、後ろから人間が立派なレッテルやら勲章やらを貼りつけてきただけであって、ほとんどがどうでもよく、しかし、ある特定の人らにとっては重要なだけ、或いは自らの権益のために、重要な素振りをしたいだけなのだ。
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彼女の意志の弱いことは認められよう。ならば、意志の弱さは悪だろうか?
私には相沢の方が悪だと思われる。
彼の行為には、今まで咎められるべき箇所はないのだが(失言ともいえる発言には目をつぶろう)彼本来の性質となれば、十分に咎められる筈だ。
嗚呼、私も差別的思考をしているのかもしれない。私より圧倒的に優れたる人を妬んでいるのかもしれない。
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いつの日にか相沢に言われた。
お前は女々しいねと。あの言葉の意味がようやくわかってきた。
彼は、私のみすぼらしい姿や弱々しい口調から判断したのではない、私自身の性質を見抜いていたのだ。
彼を悪く言う資格は、果たして私にあろうか?
もし、なかったとしても、私は由美だけは清い性質を持った少女であると信じたい。
由美は純真がゆえに傷つきやすく、己を責めたて、今尚苦しんでいる。
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私は、いつかの居酒屋でのやりとりを思い出した。
私の皮肉を相変わらず相沢は、鼻で笑う。一寸神妙な顔つきに戻る。
「自分が悪人だってわかっているさ、わが親友よ。」
私の皮肉にこめられた思惑を察した様子である。
「しかしね、君の方が余程たちが悪いよ。……無知の悪というのはね、恐ろしい」
私はまさか相沢から悪人認定されるとは予期しておらず、ひどく驚いた。
「私が悪人だって」
「ああ、原罪は誰でも背負っているのだ」
「……君はクリスチャンらしいね」
「マリア様の方が魅力的だったからね」
「でも、本当に悔やまれる行為をしてこなかった人だっているだろう」
「それは、その人にとっては、だろう」
「……どういう意味だ」
彼はなにかしら度の強い酒を飲んでいた。
酔いたいのだと訴えるときは、赤子の表情になる。すぐに狡猾な男に戻るのだけれど。
「仮に、僕が試験で、何の不正もせず、公平な判断を為す第三者立会いのもと、満点を取ったとする。しかし、誰かは、必死に努力して半分しかとれなかった。私は恨まれた。」
「そんなの君のせいじゃないだろう」
「いいや、誰のせいとかじゃなくて、その行為によって何を考えるのか、考えさせるのかなのだよ。この世に生まれたる人々は皆悪人さ。」
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……彼の言葉だった。何が、レッテル貼りだの、勲章貼りだ。彼の言葉をもじっただけだのに。いつの間にか自分の言葉にしていたと気づくと私はひとりでに赤面した。
彼は、聖書から何も得ようとせず、ただ、マリア像の美しさによってキリスト教徒になった。神父の話に熱心に耳を傾ける姿も想像できないから、原罪という言葉も、自分の解釈にのっとり引用しただけなのだろう。
だいたい、彼が忌み嫌う「女」の性質に彼自身が当てはまっているではないか。
「女」らしいと決めつけている性質…真実を見ようとしないという性質に、彼自身が認められよう。
どこまでも矛盾した存在である。
そして、私もいつまでもこの悪友とつるんでいる。
何故、私はこの男の元を離れないのだろう。やはり、彼の持つ金かと馬鹿馬鹿しい気分になった。
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誰かが、この腐れ縁を切ってくれない限り、私はずるずると彼と呑み交わしているだろう。
彼との論争ではいつも負かされてきた。
彼の理屈も、一応は理解できるけれど、私はお前はどうなんだと常々思ってきた。
彼には何もかも勝てない。此奴は、性根だけなら、糞野郎なのだと歯痒かった。
彼も利口だから、きっと私以外には、自分の本当の姿を見せてはいないのだろう。
レイシズムに冒された言動は慎み、調子の良い綺麗事ばかり吐いているのだろう。
否、ひょっとしたら彼を崇拝している女性たちには加減して見せているのかもしれない。女性たちは、彼のサディスティックなところがたまらないと言う。
どうしてかくもこの男の周りには、人が寄ってきて賞賛するのだ。……私は酒を飲むしかなかった。
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作者奈加
明治〜昭和初期の独特な語り口がところどころ崩れる…駄文率が上がってしまった( ; ; )
再編集の難しさを感じております…。
あと、このパートは特に怖くないです…。
闇深ではあります。笑
『虚像【2】』です。続編楽しみにしておりますとの有難すぎるお言葉を励みに書きました!
『虚像【1】』を読まないとなんのことかわからないと思うので、今作読んで興味が出たって方がいらっしゃったとしたら、私の投稿からお読みいただけたら幸甚です。