部屋を飛び出すと、転がるように実家に逃げ帰った。
手が微かに震えているのが分かった。
震える手を見ると、汗と埃で黒ずんでいる。
あの部屋の埃が全身にからみついてると思うと耐えきれなくなり、たまらず風呂場に駆け込んだ。
蛇口を思い切りひねり、お湯にならないうちから頭からシャワーを浴びた。
眼をつぶると先程の異様な光景がありありと浮かんでくる。
汚れた絨毯、古い洗剤、ひな人形、コインの音、神棚にそして…
ゾクっと背中に悪寒が走り、とっさに背後を振り向いた。
ひっ!
黒い影がゆ~らゆらとすりガラスの向こうに立っている。
顔は分からない。ただそこに立っている。
振り返ったまま、動くことができず、黒い影とすりガラスごしに対峙する。
ドッドッドッドッと、心臓が強く胸を打つ。
すると次の瞬間、黒い影は部屋の奥に滑るように、すうっと消えた。
私はそのまま動けず、固まったまま、すりガラスを睨みつけていた。
「いつまでシャワー浴びてんの!」
母の声でハッと我に返った。
途端に安堵感で全身に血が巡る。
慌ててシャワーを止め、風呂場を飛び出した。
「お母さ~ん!」
脱衣所のタオルを棚から引き出しながら母を呼んだ。
はぁ、良かった。とりあえずお母さんに話を聞いてもらおう。何から話そう…A子の事からかな…
…
あれ?
母の返事がない。
「お母さ~ん!?」
もう一度呼ぶ。
家の中はシンと静まり返っている。
人の動く気配もない。
緊張感が全身を貫く。
「おかあさ…
shake
ガチャガチャっ
玄関の鍵が大きく音を鳴らす。
身体がビクッと縦に揺れた。
ガラガラガラッ
「ただいま~」
聞き慣れた母の声だ。
私は半泣きで玄関へ走った。
「なになになに!何なのよアンタ裸で!」
「お母さ~ん怖かったんだよ、ヤバかったんだよ~!」
ようやく恐怖と不安から解放され、母にすがりついた。
それから私は母に一部始終を話した。
「あそこの部屋、どんな人が住んでたか覚えてる?」
「うん…まあ覚えてはいるけど…」
「覚えているけど何?!」
濁そうとする母に、言葉尻を強めた。
「あそこんちはね、家族で住んでたんだよ。
あんた覚えてない?同じ位の歳の姉妹がいたんだよ。
ナミちゃんと、エッちゃんって言ったかな。
5歳と3歳くらいだったと思うわ。
あんたも一緒に遊んでたわよ。ときどきね。
お母さんとお父さんと、それからおばあちゃんもいっしょに住んでたのよ。」
ナミちゃんとエッちゃん…?
聞き覚えがあるような…無いような。
全く思い出せない。
「でもあれは酷かった。
大晦日の日ね。
事故にあったのよ。交通事故。
お母さんが運転する車で、おばあちゃんと娘2人乗せて…。
雪が降ってて、スリップしたのね。そこに大型トラックが突っ込んで…。」
「えっ、それでまさか…」
はぁ……
母は大きくため息をつき、目線を下に落とした。
「全員駄目だったの。おばあちゃんが辛うじて息があったらしいんだけど、娘さんとお母さんはほぼ即死状態でね。おばあちゃんも病院に運ばれてしばらく頑張ったけど結局ね…。」
「それで、残されたお父さんは…?」
「本当に可哀想だった。
何でも前日忘年会だかで、お酒を結構飲んでたらしくてね。家族で出かける約束すっぽかして家で寝てたんだって。
警察からの電話で起きた時には…だったんたから。
物凄い後悔だったと思うよ。
まあ気が狂っちゃうわよね。
しばらくこの辺ウロウロしてる姿はあったけど、話しかけても何も聞こえてないみたいで。
だんだん見かけなくなって、その内本当に姿見せなくなったわ。
この地にいるのが辛くて引っ越したのかと思ってたけど…
あんたの話を聞く限りだと、その部屋は当時のままかもね。」
そうなんだ…そうだったんだ……。
結婚もしていない、子供のいない私ですら、そのお父さんの痛みは察するに余りある。
家族で幸せに迎えるはずの大晦日。お正月。
自分が忘年会に行っていなかったら。
ちゃんと起きれていたら。
約束を破らなければ全ての未来は変わっていたかもしれない。
同情するような感情が胸に生まれるのを感じた。
A子、どうしたかな・・
心に少し余裕が出来、A子のことが気になり始めた。
時計は午後20時を回ったところ。
・・・・・うん、怖い!明日土曜で会社休みだし、明日の朝行こう・・。
自分のへたれっぷりに情けなくなるが、仕方ない・・
とりあえず、A子にLINEだけ送っておこう。
” さっきは途中で帰っちゃってごめんね!
お母さんに聞いたけど、その部屋ちょっと訳ありかもよ!
良かったら明日不動産に一緒についてってあげるから行かない?”
意外にもすぐに既読がつき、返信が来た。
”ありがとうございます。明日待っています。”
A子のLINEにスタンプで返し、明日に備えて布団に入った。
あくる日、10時頃A子の部屋を訪ねた。
チャイムを押すが反応が無い。
ドアをノックしてみる。
コンコンコン・・
「A子?起きてる?」
ドアノブを回すと、カチャっと手前にドアが開いた。
「A子ぉ~?」
一階に姿は見えない。
部屋を見渡すが、昨日と変わっていない。
相変わらず、テーブルも棚も埃にまみれていたし、テーブルクロスの染みもそのままだった。
「A子、いないの?」
二階に向かって声をかける。
ギシッ
真上から木のきしむ音がした。
「A子?あがるよ?」
埃だらけの床に、スリッパを持ってくれば良かったと後悔しながら、2階への階段に向かった。
つづく。
作者匿名名無子