「ママァ、もう一回、いいでしょ?」
おでこに汗をいっぱいかいて髪の毛は貼りつき、すでに白い浴衣のそではびしょびしょのヒナが泣きそうな顔で懇願してきた。
「だぁめ。もう何回目だと思ってるの?そろそろ他のお店にいきましょう?カキ氷買ってあげるから。」
「いやだ!ヒナ、この赤いおっきな金魚さんすくうまで、帰らない!」
真美子はイライラした。
この子さえ居なければ。
絶対に考えてはならないことだが、今までのままなら無い感情が真美子の心に蓄積していた。
真美子は、シングルマザーである。真美子は、派遣フルタイムで最近まで働いていたが、派遣切りで解雇され今は無職だ。真美子は途方にくれた。職場には真美子の同僚で、同じく派遣フルタイムで働いていた百合子も居たが、百合子は残留となったのだ。
「申し訳ないね。我が社も経営が厳しくて。」
人事課長が申し訳なさそうな表情を作って真美子に詫びたが、真美子は騙されない。
「どうしてですか?百合子さんは残留で、何故私だけが?」
そう詰め寄ると、社の方針だとか、上からの命令なので逆らえないだとか、モゴモゴ言っているので、さらに真美子は畳み掛けた。
「はっきり言って、私のほうが、百合子さんより、仕事はできると思うんです。資格だって彼女よりたくさんあるし。」
その言葉を口に出したとたんに、人事課長の今までの困ったような表情がすっと消えた。
「あのね、会社ってのは、仕事ができる、できないじゃあ回らないのよ。会社って組織は常に安定を求めてるわけ。そりゃあ、確かに君は仕事はできるよ。頼んだ仕事は、誰よりも速く処理できると思う。でもねえ。お子さんが病気になるたびに、しょっちゅう休まれたんじゃ、うちも困るわけよ。君、先月、何日働いた?」
「そ、それは・・・。子供が入院したんだから仕方ないじゃないですか!」
「先月だけじゃあないよ。僕だってこんなことは言いたくないけど、有給使い果たして、一ヶ月14日休む人と、週休二日以外はきっちり出てくれる人と、君が会社の経営者だったらどちらを選ぶ?」
それを言われると、真美子は何も言えなかった。
ヒナは体の弱い子だった。朝元気に保育園に行ったと思ったら、昼前には、保育園から電話がかかってきて、具合が悪いのですぐに迎えに来てくれと言われることがしばしばあった。
その点、百合子は、ご主人と二人暮らしで子供は居ないので、滅多に公休以外で休むことはなかった。
ずるい。本当に困っているのは私で、百合子ではない。百合子は家を買って間もないので、ご主人の単身赴任先について行かずに、地元に残って家のローンの足しにと働いているだけだ。
百合子を恨んでも仕方がない。真美子が自分で蒔いた種なのだ。シングルマザーになったのも、道ならぬ恋に溺れた真美子が、妻帯者の子供を身篭ってしまったからだ。相手の男は、元の会社の上司。その頃は、真美子も正社員で、結構大手の会社に勤めていたのだが、直属の上司と深い関係になってしまい、とうとう身篭ってしまったのだ。
「その子供、産んでくださる?」
上司とその妻と真美子の三人で、上司宅のリビングで話し合いをした時のことだ。唐突に、上司の妻はそう切り出してきた。真美子は戸惑った。おどおどしていると、さらに妻は続けた。
「私達、子供ができないから、夫婦で不妊治療をしていたの。どうやら、夫はちゃんと正常に子供を残す能力があるみたいね。原因は私のほうにありそう。あなた、不妊治療が、どんなに辛いか、わかる?」
冷静な妻の態度に、真美子はただただ恐ろしくなり、首を横に振ることしかできなかった。
「でしょうね。あなたが羨ましいわ。私達、どんなに努力してもできなかったのに、あなたはすぐにできた。あなたの子供を認知しますから、あなたのお子さんをいただけるかしら?」
真美子は、子供は堕胎しようと考えていたので、あまりの展開について行けずパニックになった。
「か、簡単に、物みたいに言わないでください!」
すると、上司の妻の片眉がぐいっと上がり、またすぐに戻った。
「あら、じゃああなたはその子供を物みたいに処分するつもりじゃなかったって言うの?」
図星を突かれて、真美子は何も言えなくなった。
「よく考えてみて。その子供を処分すれば、あなたの体にも大きな負担がかかるのよ。心にもね。それにね、女手ひとつで、子供を育てるって大変なことよ?あなた、聞くところによると、うちの主人とお付き合いしてたから、他にいい人がいるわけじゃないでしょ?それよりも、私達夫婦に育てられるほうが、子供も経済的な不安を抱えなくて済むし、幸せになれるんじゃないの?そして、あなたも。まだ若いから、いくらでもやり直せると思うの。」
余裕綽々で、細くて長い足を組みかえる上司の妻に、どうしようもなく嫉妬を覚えた。自分が稚拙で、後先考えずに行動したにも関わらず、真美子はムキになった。
「幸せになる方法は他にもありますよ?奥さんが、この人と別れて、彼が私と結婚すれば私も子供も幸せになれます。」
真美子もこんな年増に負けてなるものかと思った。美貌はともかく、若さならこの女に負けない。
すると、妻は困ったような、笑い出したいような複雑な顔をして、初めて俯いて何も言えずに石のように黙っていた上司に向かって言った。
「あなたは、どうするの?私はどちらでもいいけど?」
すると、上司は突然、ソファーから降りて、真美子の前で土下座をした。
「すまん。君とは結婚できない。俺には妻しかいない。俺の運命の女は妻だけだ。君とは結婚は無理だ。」
妻は、優越感に溢れた顔で真美子を見下ろした。真美子は、屈辱に打ち震えていた。
「ね、悪い事は言わないわ。あなたもやり直せるし、私達はかわいいベイビーを授かる。あなた、可愛いから、きっと可愛い子供を産んでくれることでしょうね。みんな幸せになれるのよ?」
「いやです!子供は、実の母親と一緒に暮らすのが幸せに決まってます!私は、一人でこの子を育てます!」
売り言葉に買い言葉。真美子は若かった。世間知らずだった。
妻は最後に、冷ややかに、残念ねと言い、子供をくれないのなら認知はしないし、養育費も渡さないと真美子に約束をさせ、真美子を帰したのだ。もちろん、会社にも知れることとなり、真美子は今まで関わったことの無い仕事に部署を変えさせられ、自主退社するまで追い詰められたのだ。
時間が経つにつれ、真美子のお腹は目立ってきた。これでは就職活動もままならない。かと言って、実家を頼るわけには行かない。お腹だけ大きくなって帰ってくれば、誰の子供だと親に聞かれるのは目に見えてるのだ。真美子の両親は、真美子が上京するのには反対だった。女の子は地元に残って、嫁に行くのが一番の幸せという考えの両親だったので、真美子は反抗して、親元を離れたのだ。
大学も、渋々行かせてもらい、実家に帰る度、年の離れたおじさんの写真を見せられて、お見合いをさせようとするので、いつの間にか、実家とはすっかり疎遠になった。そんな両親にこの事実を告げれば、きっと自分達の言うことを聞かなかったからだと非難するだろう。
真美子は今までの蓄えと、失業保険で何とか暮して、ついに出産した。生まれてきたのは娘で、とても可愛い女の子だった。いざ産んでみれば、自分の子供はとても愛おしい存在であった。この子のためなら頑張れる。真美子はがむしゃらに働いていろんな資格を取った。この際、生活のため、正社員にこだわっては生きて行けない。
しかし、子供というものは、脆弱ですぐに熱を出すし、病気になってしまい、なかなか真美子の暮らしは楽にはならなかった。女手一つで子供を育てるのって大変よ。上司の妻が口にした言葉が、今更になって身にしみる。
そして、やっと派遣先も安定して、これからという時のこの仕打ちだ。真美子は、溜息をついた。せめてもの救いは、切られた派遣先で出来た彼氏の存在だけだった。真美子より、6つも年下の男である。真美子は、密かに期待していた。彼と結婚できれば、少しは楽になるかもしれない。そんな真美子の甘い夢はもろくも打ち砕かれた。見てしまったのだ。彼と、百合子が逢瀬を重ねているところを。真美子は彼を責めた。
すると男は開き直った。
「あのさあ、俺が誰とどこへ行こうと勝手じゃん。まさか、俺があんたみたいな子持ちと本気で付き合ってるって思ったの?まさか、結婚するつもりだったとか。」
真美子は、怒りに打ち震えた。
「百合子さんのことで、何か誤解してるみたいだけど、百合子さんとは、なんでもないよ。あの人とは、趣味が合ってさ。時々、ライブとか付き合ってもらってるだけだから。百合子さんに、何か言ったら俺は黙っていないからな、そう思えよ?」
不貞を働いたと思っていたのは、どうやら真美子だけだったらしい。この男は、たぶん百合子のほうが本命で、本気で百合子を好きなのだ。真美子はそれがわかると、それ以上何も言えなくなった。
この子が居る所為で。
真美子はプライドの高い女だった。自分が誰かに負け続けるのは、子供の所為。
居なくならないかな。
真美子は、金魚すくいに熱中するわが子を遠い目で見ていた。
作者よもつひらさか