「お疲れ様でーす!」
バックヤードに入り、いつもの挨拶を終えると、カーテンで仕切られただけの狭い更衣室へ入る。
朝から掛け持ちのバイト続きで、疲労困憊、満身創痍と言って仕舞えば大袈裟だが、疲れながらも充実していた。
nextpage
先日のプールバイトでの一件、、
(20歳にもなって、ファンタジーなんて笑えないよなー)
なんて思いながらも、確実な“眼”の違和感を感じ始めていた。
時々、左眼の痛みがある。
正確には左眼の奥、眼球を動かすだけで激痛が走る。
生来の不精な性格が、病院への足を遠のかせていた。
nextpage
コック服に着替え、厨房に入る。
油の匂い、活気のある挨拶。
僕は小さな弁当屋で働いている。
高校2年から続けているアルバイト。
ひたすらトンカツやコロッケなどの揚げ物をする、フライヤーが僕に任された仕事だ。
火傷も多いし、身体は油でベタベタ。
時々レジや弁当の盛り付けも担当していて大変だけど、この仕事が好きだ。
nextpage
集中して作業に取り掛かる。
夕方17時。
これから、夕食を目的にした客で混み合う時間だ。
「すいません。」
揚げ物の保温庫はガラス張りになっていて、フライヤーからは保温庫を通してカウンターの様子が見える。
手を動かしながら、横目で様子を伺う。
nextpage
女性が立っていた。
(変わった格好だな。お洒落な人なのかな?)
その女性を見た第1印象だった。
つばが異様に広い真っ赤なハット。
そして真っ赤なワンピース。
不自然なほどピンっと伸びた姿勢。
顔はハットで完全に隠れていた。
nextpage
レジには誰もいない。
納品や検品で、レジを担当してる人が持ち場を離れることは珍しく無い。
作業を一旦止めて、レジに向かう。
「お待たせしました。
いらっしゃいませ、、」
nextpage
ギョッとした。
レジ横のカウンターの前に立っていたのは、初老の男性だった。
(見間違い、気のせい、錯覚だ。)
と気持ちを切り替え、笑顔で接客対応をする。
「ありがとうございました!」
nextpage
接客が終わり、持ち場に戻る。
戻ろうとする際、店のカウンターを背にした背中に生温い空気を感じた。
気になり振り返る。
店は、駅前のロータリー沿いに隣接している店舗に位置していて、カウンターからはロータリーが一望出来る。
nextpage
カウンターから見た風景に、人間が1人も居なかった。
普段、夕方の時間帯じゃあり得ない光景。
夏の時期という事もあり、まだ明るい。
蒸し暑さからか、動揺からなのか、コック服の背中が汗で張り付いてくる。
自分が店に1人という状況も相まって、例えようの無い不安感が襲ってくきた。
2、3度頭を振り、気を取り直し持ち場へ移動する。
nextpage
再び作業を再開する。
厨房内は換気扇の音が響いている。
淡々と仕込み作業を続けていると、不意にカウンターの方に気配を感じた。
保温庫越しにカウンターの様子を見る。
nextpage
女が立っていた。
さっきの赤い帽子とワンピースの女だった。
ただ先程より身長が伸びていた。
首から下しか見えない。
僕は、見てはいけないものであると直感し、直ぐに目を逸らした。
まじまじと直視することが憚られる雰囲気。
恐怖心が、僕の中で増幅していく。
nextpage
今度は呼び声が聞こえないため、
(気のせい、錯覚だ。)
と自分に言い聞かせ、一心不乱に仕込みに取り組む。
女の気配だけが、じっとりとした空気と共に、僕の身体にまとわりつくような感覚。
「ゴッ!ゴッ!」
nextpage
妙な音がカウンターの方から聴こえる。
(見ちゃダメだ。)
と自分を律しつつ作業の手は休めない。
「ゴッゴッゴッゴッ!おぉ〜お、ぉ」
音に加え、何かの鳴き声の様なものも聴こえ出した。
nextpage
急に左眼に激痛が走る。
堪らず作業の手を止め目を閉じる。
自分だけの暗闇の中、閉じた視界の端にパパッと光が走った。
(なんだろ?これ。)
と考えていると、
「バーン!ガラガラ!バラバラ、、」
と大きな音がした。
nextpage
ビクッと身体が反応し、反射的に音のした方向を見る。
僕「なんだ店長かー!どこ行ってたんですかー?」
40代の恰幅の良い女性が、納品した食材を床にばら撒き息を切らしていた。
裏口から食材を運んでいて、躓いたのだろう。
nextpage
直ぐに駆け寄り食材を拾いながら、
僕「怪我ないですか?」
店長「大丈夫よ。
あんた眼を瞑って微動だにしないんだから。
寝不足?
呼んでも返事しないし。
もう、しっかりしなさいよ!?」
僕「すいません。
ぼーとしてました。」
(まただ。
また不可思議現象だよ。
もう面倒臭いから話合わせとこう。)
nextpage
そう考えると同時に、店長が戻ってきた事に心から安堵した。
眼の痛みは、いつの間にかなくなっていた。
夜22時になり、店は閉店となる。
後片付けも大方終わり、まとめたゴミをゴミ置場に運ぶ。
ゴミ置場は店舗の裏手にあり、街灯もなく夜になると真っ暗だ。
nextpage
先程の事が脳裏に蘇る。
(また変なもの見ないうちに、サッサと済ませちゃおう。)
ゴミを棄て振り返る刹那、視界の端に光が走った。
虫が這う様に。
左眼を手で覆う。
(なんだ?)
一瞬立ち止まると、聞き覚えのある音がする。
nextpage
「ゴッ!ゴッ!」
(早く店に、明るいところに行こう。)
左眼を覆っていた手を離し、前に向き直る。
nextpage
目の前2m先に女がいた。
赤い帽子、赤いワンピースの女が、店の裏手の外壁に頭を打ち付けていた。
男と見紛うほどの体躯。
身長180㎝近い僕が赤い帽子を見上げていた。
「痛っ!」
左眼を再び激痛が襲う。
あまりの激痛に蹲る。
nextpage
ポタッ、、ポタッ、、
(汗、、か?)
左眼を覆っていた掌を見ると、赤い水が手を滴り落ちていた。
(血?やばい、手当てしなきゃ!)
僕はよろけながら店の裏口に歩き出す。
いつの間にか、裏口と僕の間に存在していた赤い女は姿を消していた。
nextpage
店の裏口から、転がるようにして厨房に入る。
業務日誌を書いていた店長が、眼を丸くして僕を見ている。
僕「店長!眼がっ、血がっ!あ、あ、、あれ?」
掌の血は消えていた。
眼も痛くない。
店長「あんたどうしたの?ん?ちょっとこっちに来なさい。」
左眼を覗かれる。
店長「鏡見て来なさい。そして明日眼科へ行きなさい。」
nextpage
僕は店長に言われるまま鏡を見て、次の日眼科へ受診した。
鏡を見ると、左眼の白い部分がすべて真っ赤になっていた。
赤い飴玉のように、綺麗でさえあった。
nextpage
次の日、眼科の先生に言われたのは、“結膜炎”
だった。
釈然としない診断内容ではあったが、軽微な結果にこれまであった事へも楽観できる様な気がした。
気がしていた。
日増しに痛む左眼、視界を這いずる光。
その前後に現れる“何か”。
身体の変調に言い知れない不安が漂う中、少しずつ何かが僕を蝕んでいくのを感じた。
作者ttttti
第2章になります。
学生時代に様々なバイトをしていました。
今では楽しい思い出です。