黄昏幻影 ~街角に雨が降る時~

中編7
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黄昏幻影 ~街角に雨が降る時~

 土曜日の午後、下校時にぱらぱらと雨が降ってきたかと思うと、途端に土砂降りの豪雨となって道行く人を追い立てた。

 傘を持っていなかった俺は、交差点の花屋の軒先を借りてぼんやり空を見上げていた。コンビニで時間を潰してもいいのだが、姉に見つかると「みっともないから止めなさい」などと小言を言われるので、出来るだけ避けているのだ。

 やがて、交差点に面した百貨店の時計台が、十三時ちょうどに軽快な曲を鳴らし始める。

 ふと、何かの気配を感じて視線を下げると、黄色い帽子を被った小学生がすぐ隣に立っていた。赤いランドセルからすると、女の子だろうか。ちっこい雨宿り仲間が増えて、俺は何となくほんわかした気分になった。

 十分ばかりはそうしていただろうか。雨足はやむ気配はない。長時間外に立ち続けるのは辛い季節だ。やはりどこかで傘を買った方が早いかなと思い直した時、隣にいた、黄色い帽子の子が突然飛び出していった。

 親御さんが迎えに来たのだろう。向こう側で手を振っている人がそうなんだろうか。いやしかし、別の子が手を振り返しているじゃないか。どういうことだ? 少し気になって目で追っていると、その子は歩道を超えて、車道にまで飛び出そうとしていた。

「ちょっ────」

 声と同時に体が飛び出していた。急ブレーキの音、直後に強い衝撃、そして『ゴンッ』という鈍い音が続いた。

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「何があったの?」

 病院のベッドに横たわったまま、俺は姉の質問を受けていた。唯一の保護者である母は医者から話を聞いていて、ここには俺と姉の二人きりだ。

「子供が────飛び出して行って…………」

「花屋さんは、あなたが一人で飛び出していったと言ってるわ」

「本当に、いたんだ」

「疑ってる訳じゃないの。打ち身程度で済んで良かったけど、一歩間違えれば…………」

 冷静に話していた姉が涙声になるのを聞いて、俺はようやく二人に心配をかけていたんだという実感が湧いてきた。ごめんと謝る俺に、姉は顔を俯けたまま首を振った。

 幸いにも急停車直後の車両に衝突したので、アスファルトに体を打ち付けて失神しただけで済んだ。

 CTスキャンまで採ったのだが、異常なしとの結果が出た。警察関係者もやって来て、通り一遍の聞き取りをして帰って行った。運転手は平謝りしていたが、衆人環視の中で俺が突然車道に飛び出したことになっているので、事件性は最初から疑われなかった。

 翌日、姉の付き添いで退院し、問題の交差点にまでやって来た。

 姉はじっと交差点を見つめていたが、何も見えないと首を振った。霊視ができる姉にも見えないということは、やはり幻覚か何かだったのだろうか。

 思案する俺をよそに、姉は花屋の奥さんにここで他の事故がなかったかを聞いた。

「ああ、そう言えば────」

 奥さんは俺を気遣うようなことを言った後で、一年前に起こった事故について話し始めた。

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 それは雨の日だったそうだ。

 小学生の子供を迎えに、交差点までやって来た母親が、車道の向こう側に子供がいるのを見かけて手を振ったそうだ。するとその子供は、まだ赤信号にも拘らず、車道に飛び出していったのだとか。

「可哀そうに、子供が轢かれた時、母親は半狂乱になっていたわ」

「その後、母親は?」

 奥さんは申し訳なさそうな顔をして見せた。

「ごめんね、そこまでは知らないの」

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 姉はその事故についてネットで情報を集めた上、更に付近の小学校にまで連絡を入れ、その母親を呼び出した。名は狩野さんというそうだ。土曜日の午後、例の交差点近くの喫茶店で三人で会う約束まで取り付けた。俺はなにより、そこまでする姉の行動力に驚いていた。

 当日、向かいの席に座った狩野さんは、どこにでもいそうな三十台の主婦といった趣だった。髪はセミロングで、色染めはしていない。少しやつれたように見えるのは、娘さんのことが未だに尾を引いているせいだろうか。

「電話でお話しましたが、娘さんらしき霊を弟が見たと言っています」

「────あの、それ本当なんでしょうか」

 目だけでなく、声にも力がない。目の前に出されたコーヒーには手を付けず、彼女は落ち着かぬ様子できょどきょど視線を彷徨わせながら、姉に問い返す。

「ええ。ですから、お母様に来て頂きました」

 狩野さんは視線を交差点に向けた。しかし、そこはいつもの光景が広がっているだけで、あの時に見た霊らしき子供は俺の目にも見えなかった。

「お子さんが亡くなった時、雨が降っていたそうですね」

「え? あ、はい…………」

「天気予報では、今日は午後から雨が降るそうです。それまで待ちましょう」

 時刻は十二時半を回っていた。土曜日、俺と姉は狩野さんとこうして落ち合っていた。時刻は狩野さんの娘、理香子ちゃんの亡くなったその時に近づいている。

「今まで霊の目撃例が殆どなかったのは、単に霊視能力の問題だけではないと思うんです。それなら、私にはもっと頻繁に見えていたはずですから。理香子ちゃんが現れるには、幾つかの条件が必要と思われます」

 姉は淡々と、狩野さんに語り掛ける。その冷静な口調に、狩野さんも落ち着いてきたようだった。

「一つ、土曜日であること。一つ、雨天であること。一つ、十三時をやや過ぎた時刻であること。そして、最も重要なのは恐らく────」

 コーヒーカップをソーサにかちゃりと置いて、姉は言った。

「道路の向こう側に、狩野さん……もしくは狩野さんによく似た人がいることです」

「────本当に…………そんなことが…………理香子が、私を探しているって言うんですか?」

「そう思います」

 狩野さんは、信じるべきか迷っているようだった。しかし、姉の態度が余りに事務的であるためか、あからさまに疑うような事は言わなかった。

「もう頃合いです。出ましょう」

 姉の一声で、俺たちは喫茶店を出た。花屋を向こう側に眺めながら、俺たちは車道側のガードレール前に並んだ。

 空はどんより曇り、いつ降り始めてもおかしくないほど空気は湿っていた。丁度十三時に、交差点に面した百貨店の時計台が軽快な曲を鳴らし始める。

 そして程なく、ぱらぱらと雨が降り始めた。時刻は十三時二分、五分、十分と過ぎていく。雨は少しずつ大粒となり、やがて先週と同じように土砂降りの豪雨となった。

「あ…………」

 いた。雨の中、黄色い帽子を被った子が、今まさに、こちら側に向かって走り出そうとしていた。

 狩野さんにも見えたらしい。両手を頬に当て、目を丸くして立ち竦んでいる。その両目から、涙が溢れていた。

 理香子ちゃん……その亡霊は車道を突っ切って、走行する車をすり抜けるようにして狩野さんに真っすぐ駆け寄った。その姿は朧気ではあったものの、その年頃らしいあどけない笑顔を浮かべていた。狩野さんは躊躇いなく少女を強く抱きしめた。その途端、理香子ちゃんの姿は霞のように見えなくなった。

 歩道の端で膝を付いて空を抱き、肩を震わせて嗚咽する狩野さんに、姉はただ黙って傘を差し伸べ続けていた。

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「理香子ちゃん、お母さんと出会えて良かったね」

「────そうね」

 家に帰ってから、リビングで姉の淹れたハーブティーを飲みながら、俺は今日のことを思い出していた。

「あの子、ちゃんと成仏するのかな」

「大丈夫じゃないかな……そうじゃないと、困る」

「困るって……まあそうだけど。そう言えばあの後、二人で何か話してたよね」

 理香子ちゃんとの再会後、姉は狩野さんをやや離れた場所まで引っ張って行き、二人だけで何か話し込んでいた。俺は離れているように言われていたので、何を話していたのかまでは分からなかった。あの時、狩野さんが姉と俺にしきりに頭を下げていたのがどうも引っ掛かっていたのだ。単に感謝を表すには大袈裟ではないか。

「『お宅の娘さんのお陰で、弟が死んだかも知れないような事故に遭いました』って、伝えておいたの」

 俄かには信じられず、俺は言葉が咄嗟に出てこなかった。

「な……え……? どうして…………」

「どうして? どうしてって?」

 俺の問いを聞いて、姉の声音が低く変わった。冷静な状態から、感情的になる時の典型的パターンだ。姉の目はかつて見たこともないほどの真剣味を帯びていた。張り詰めた空気の中に、姉の微かに震える声が響いた。

「あなた、下手をしたら死んでいたのよ?」

 いつかも聞いた言葉を、姉は繰り返した。それがどれだけ重い意味を持つかを分からせようとするかのように。

「狩野さんも、お子さんも確かに不幸な目に遭った。でも、だからと言って他人も巻き込んでいい理由にはならない」

「そう……だけど。別に大けがとかなかったし……」

「そういう問題じゃないでしょう!!」

 姉には珍しく、その声は強い怒気を孕んでいた。

「私と母さんがどんなに怖い思いをしたか……あの理不尽さにどれだけ憤りを覚えたか……その思いも全部私たちだけで背負えと言うの? あの二人に責任はないとでも?」

 ごめん、という言葉も気軽に言えないような空気があって、俺は黙っている他なかった。やがて立ち上がった姉は、後は無言のまま自室に引篭ってしまった。

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 日曜日、再びあの交差点に来た時、姉は花屋に寄って白い花を買い求めた。そして、交差点の手前、理香子ちゃんが飛び出していった場所のすぐ近くの生け垣に献花した。

 手を合わせる姉に倣って俺も理香子ちゃんの冥福を祈った。

「スズランの花言葉を知ってる?」

 首を振った俺に、姉は花を見つめたまま言った。

「『純潔』、『純粋』そして『再び幸せが訪れる』───致死性の有毒植物でもあるけれどね────」

Concrete
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