杉村が自殺した。ある初夏の出来事だ。
夜に学校に忍び込み、屋上から飛び降りたらしい。
朝学校へ来た新米の先生が発見して、その先生はそれ以来学校へ来ていない。
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精神を病んだそうだ。それはそうだろう。
遺体の損傷は相当に激しかったらしい。
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杉村の担任だった伊藤は責任を感じていた。
なぜ杉村は自ら命を絶ったのか。いじめはあったのだろうか。
他の生徒に聞いてみてもいじめのようなことはなかったという。
高3という時期だ。受験のプレッシャーも重なって耐えきれなくなったのかもしれない。
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遺書もなく何ひとつ真相はつかめないまま、結局この事件は自殺として扱われた。
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それから1ヶ月が過ぎようとしていた。
授業は再開され、蒸し暑い教室ではいつものように扇風機がかたかたと首を振り、その音がかえって暑さを強調していた。
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杉村の机は生徒の希望でそのままにしてある。伊藤もそのつもりでいた。あいつは勉強熱心だっからな、と伊藤が言うとみんなもうなづいた。
心底いいクラスだと思った。
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放課後、三階にある教室から一階の職員室に向かうため、階段を降りていた。
運動部の威勢のいい掛け声が聞こえる。一階の階段の半ばくらいで立ち止まると、ちょうど視界の右から左にかけて陸上部の列が横切っていく。
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こちらに気づいた何人かが挨拶すると、共鳴のように他の何人かもそうした。
午後から降り出した雨のことを思い出した。もうすぐ大会も近いのに大変だな、伊藤は通り過ぎていく掛け声を聞いていた。
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陸上部の列がすべて視界の左端に溶けていったとき、列の向こうに隠れていた人影が姿を現した。
伊藤はびくっと驚いて、手に持っていた教材を危うく落としそうになった。
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間違いなく杉村だった。
輪郭は薄くいまにも空気に溶けてしまいそうで、生前と同じ黒縁の眼鏡をかけている。
レンズの奥の目はまっすぐにこちらを見ている。
飛び降りた時にできた損傷も見当たらなかった。
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伊藤が言葉を発せないでいると、杉村は階段の下を指差した。
階段の下には扉があり、小さな部屋が後に続く。
そこは大掃除の時以外には使わないような用具が保管してあった。
伊藤は毎年ワックスを用意して各教室から取りに来た生徒に手配をしていたから、この部屋のことはよく知っていた。
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杉村が手招きをした。慌てて伊藤は階段を降りた。なぜか恐怖心はなかった。
杉村は扉をすり抜けた。伊藤が扉を開けると、カビ臭いにおいが鼻をついた。
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部屋の中はひんやりと涼しい。
杉村は扉のすぐ横にあるスイッチを指差していた。大掃除で使う用具は扉のすぐそばに固めて置いてあり、普段は電気をつけるようなことはなかった。伊藤がスイッチを押すとぱっと電灯に明かりがついて、部屋全体を照らした。
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この部屋はこんなに広かったのかと伊藤は驚いた。部屋の奥にはいくつも棚が並んでおり、杉村はその中の1つを指差した。
その棚だけ他のものよりも埃が積もっていなかった。
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杉村は指を指したまま動かない。
伊藤はその棚を持ち上げて動かしてみた。
その奥には隠し扉があった。
伊藤は童心を取り戻したように興奮したが、この部屋が杉村の死と関係があるのかもしれないと思うと、やはり怖かった。
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杉村は再び扉をすり抜けていく。
伊藤はしばらく動かないでいた。
これまでにない葛藤に苦しめられていたが、ついには恐怖心よりも好奇心が勝った。
伊藤は深呼吸をすると、勇気を振り絞ってドアノブを回した。
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卒業式の日。
伊藤は教室を後にすると一目散にあの部屋へと向かった。
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あの日から1日たりとも杉村に会わない日はなかった。
はじめて用具部屋の奥に、もう1つの教室があると気づいたあの日。
彼は部屋に入ると、教壇の対面にひとつだけ置いてある椅子に座っていた。
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生臭いにおいと暗い照明が不気味だった。床には絶対に落ちないような汚れがついていて、黒板は傷だらけだった。
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それなのに、妙に清潔な印象を受けた。まるで誰かが使っていたように、所々に人間の生活が垣間見えた。それがさらに不気味さを増した。
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杉村は椅子に座って微動だにしない。
伊藤は、持っていた教材を教壇に置くと、黒板に数式を書き始めた。伊藤は数学教師だった。
午前中にクラスで一度書いた板書をつらつらと書き上げていく。本能的にそうしていた。
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板書を終えて振り返ると、杉村は黒板を見つめていた。御構い無しに説明を始めた。
途中で涙が溢れた。杉村は数学が得意だった。
将来は数学を使う仕事に就きたいと面談の時に話していた。
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そう語る杉村は笑っていた。晴れやかな笑顔が印象的だった。
しかし、あの時から杉村は他の悩みを抱えていたのかもしれない。
そう思うと涙が止まらなかった。
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杉村の後ろに並ぶロッカーを見た。ロープや、はんだごて、そしてびりびりに破られたノートがあった。端の方にはボロボロの雑巾が積んである。
何枚かは赤色に染まっている。次第に視界がぼやけていく。
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それきり、伊藤はロッカーを見ることができなかった。
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いつものように扉を開けるが、杉村の姿は見当たらない。
伊藤の手には卒業証書が抱えられていた。
杉村のために伊藤が自作したものだった。
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伊藤は溜息をついた。杉村のいない教室は物足りない気がした。
そしてもうひとつ、いつもとは違う光景が目に飛び込んできた。
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黒板一面にチョークで描かれた、鮮やかな花畑。
手前から奥に所狭しと並んだ花弁の集合は狭い教室に奥行きと明るさを与えた。
いまにも切れかけそうな電灯に照らされたそれは、風に揺れているようにも見えた。
いや、自分の目が潤んでいるのかもしれなかった。
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そのとき、音を立てて扉が開いた。教室で解散したはずの生徒たちがぞろぞろと入ってきた。
みんな目を腫らしていた。
伊藤と目を合わせる者はなく、揃ってうつむいていた。
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伊藤は黙って一人一人の顔を見ていた。そうして、卒業証書の授与の際に読み上げた名前を反芻した。
しばらくしてやっと1人が顔を上げた。
伊藤の方をまっすぐ見る。
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「本当に、ごめんなさい。」
女子の中には鼻をすする者もいた。
伊藤はもう一度深い溜息をついた。
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「謝るのは、俺にじゃないだろう。」
伊藤は落ち着いた声でそう言った。
わっと泣き出す生徒もいた。次々に嗚咽が始まった。
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「だって、私たちのせいで、先生まで可笑しくなっちゃったんだもん。」
伊藤は心底驚いた。俺が可笑しいだって?
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「放課後誰もいない教室で、ひとりで何時間も話してるなんて。」
「初めて先生が私たちにこの部屋のこと喋ったときから、先生変になっちゃったんだよ?それで放課後に先生について行ったら、嬉しそうにこの部屋に入っていって。」
「先生は気づいてないけど、杉村は俺たちが殺したんだよ。杉村はもういないんだよ。」
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いや、気づいてるぞ。とっくの前に、気づいてる。そう言おうと思ったとき、自分が泣いていることに気づいた。
声が出なかった。
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頬を伝って流れた涙が教壇の上に落ちた。
チョークの粉が水滴の表面をくるくると回っていた。
溢れる涙を止めることはできなかった。
俺だって、気づいてる。でも、杉村はここにいるんだ。それは事実なんだ。
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涙を拭って彼らの方を見た。
それは集合写真のようだった。
涙で顔をくしゃくしゃにするみんなの後ろで、ぼんやりとした人影が揺れていた。
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脳が飛び出るほど醜く変形した顔の杉村が、大きな口を開けて笑っていた。
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