長編16
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山成(やまなり)

西日を眩しいと感じたのはいつぶりだろう…

ゆっくりと流れる景色に目を細める夕子(ゆうこ)は、その瞳に映る山並みに不安を感じながらも、逸る気持ちを抑え切れない。下りの各駅停車に乗り窓際の座席に小さな身体を預け、微かに電車の振動を感じながら彼女は瞼を閉じた。ただでさえ華奢な容姿である夕子は、ショートカットに眼鏡を掛け一層か細い印象を強めている。

虫の知らせとでもいうのだろうか。日々に忙殺され目の前の事柄に構う暇さえない夕子は、思いついた様に休暇を取りある場所へと向かっていた。向かわなければならない気がしていた。

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1年前の冬、妹のひかりが消息を絶った。

姉であり唯一の肉親である夕子へ、地元の警察からひがりが観光に出かけた山間部で行方不明になったこと、翌日にも現地に来るようにと連絡がある。嫌な予感を拭い去れないまま現地に駆け付け詳しい話を聞くと、ひかりは専門学校の仲間と貸別荘に泊まりスノーボードを楽しんでいるゲレンデ内で、忽然と姿を消したという。夕子が現地に着く頃には捜索隊が組織され周辺の探索が開始される中、山荘ではひかりと観光に来ていたであろう友人たち3名が泣き崩れ、項垂れていた。夕子は頭が真っ白になり立ち尽くしていたが、ひかりの友人の一人から声を掛けられて我に返る。

「あの… ひかりのお姉さんですよね。あの娘お姉さんのこと良く話していたから。これ、ひかりがいなくなった場所に落ちていたんです」

木製の小さなオカリナ。

小学生の頃、夕子はひかりの誕生日にハンドクラフトで作ったキーホルダー型の小さなオカリナをプレゼントしていた。つくづく笛好きだねと馬鹿にしながらも、ひかりはそのオカリナを肌身離さず大切に持っていてくれたことを夕子は知っている。ひかりからは物心ついたころから篠笛に興味を持ち地域の祭りなどにも参加していた夕子に、裁縫の特技を生かしビーズで綺麗な模様が施された笛用の袋をプレゼントした。二人はそれぞれの象徴をお守りの様に持ち、それぞれの人生を歩む。夕子は小さな工場の事務員をしながらも篠笛を続け、ひかりは服飾の専門学校に通い、将来はビーズアクセサリーのデザイナーを目指していた。

「どうして… 」

夕子の口から漏れ出た言葉はそれ以上無く、涙として流れ出る。礼儀正しく静かな性格、小柄で線の細い夕子に対し、勝ち気で人懐っこい性格、大柄で派手なひかりは対照的だ。そして彼女たちは笛とビーズのように共通点の無いもの同士だが、どこかで惹かれ合い、認め合っていたのだった。

「あのー、非常に申し上げづらいのですが、捜索から1週間が経ちました。通常、公的機関の捜索はこの期間で打ち切りとなります」

「通常とは? 通常もう生存はおろか、遺体すらも見つからないということでしょうか? 」

「あ、いやそういうことではなくて、今後も捜索を続けるのであれば民間機関の捜索に切り替えることになります。その場合は費用の問題もありますので… 」

「通常は諦めるでしょう。ということですね。理解しました。お話はもう結構です」

警察署を後にした夕子は眼鏡を外し乱暴に頭を掻く。冷静になどいられるはずもなかったが、頭では十分に理解していた。ひかりが消息を絶ち1週間が経過し、生存は絶望的であることは素人にもわかることだ。だが夕子は諦めることはせず独自の調査を始める。ひかりの交友関係、学校、アルバイト先など関わりのあるものはすべて調べた。“遭難”ではなく、何らかの理由での失踪、誘拐の線で望みを持ち行動をし続ける。

そんな希望が儚く散るのはそう長い期間を要さなかった。ひかりが姿を消してから半年間夕子が必死で調査をし続けるが、何一つ成果が得られない。所詮素人が捜査の真似事をしているだけ。夕子はいつしかそう自嘲し、ぽっかり空いた心の穴を埋めるように仕事に没頭する。仕事に追われ、食事と睡眠以外の自由を絶つような生活を自らに課して半年が経ち、ひかりが行方不明になって既に1年が経過していた。

この時期から夕子は虫の知らせ… いやその表現が正しいかどうかはわからない。ただ予感というにはあまりにも明確な現象を体感していた。

とても聴きなれた音色。笛の音。夕子がひかりにプレゼントしたあの小さな笛の音が聞こえるのだ。事あるごとに、何の前触れもなく、ひかりが自分を呼ぶ声のように。

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「… 失礼します。切符を拝見させて下さい」

「あ、すみません。はい、お願いします」

過去に想いを馳せていた夕子は現実に戻り、時計を確認する。

午後15時。窓の外の西日は陰り、少しずつ夕方に近づいていた。

冬の、しかも年明け間も無い時期に観光をする者は少なく、電車内も乗客は疎らだ。座席は対面式で固定され、空いている車内の状況ではいくらか快適に感じる。

「ちょっと失礼」

不意に男性の声がして目の前の対面している座席の片方に雑誌が投げ落とされ、もう片方に男性がどっかりと腰を下ろす。がっしりとした体格、ベースボールキャップ、黒縁の眼鏡、顎鬚を蓄えた男。年のころは中年だろうか。

「あの… 」

「ん? ああ、楽にして。遠慮しなくていいから」

「いえ、車内がこんなに空いているのに何故ここに座られるのですか? 」

「あ? 別に乗客の勝手じゃないか。それともこの車両、君の貸し切りなのかい? 」

「いいえ」

夕子が目の前の男に聞こえるように大きなため息をつくが、男は気にすることなく楽しみにしていたかのようにゴシップ週刊誌を読み始める。悪びれた様子がないからか、怪しげな風体にもかかわらず不思議と恐怖心は感じない。新手のナンパというやつかなどと首をひねり考えてみてもその男の正体がわかるはずもなく、関わらないに越したことはないと判断し夕子は席を立とうとする。

「あー、えーとね。やめておいたほうがいいよ」

「は? 」

「いや、忠告しに来たのだよ。君が危なっかしいから。片桐 夕子さん」

「え? な、何なのですか? 何故私の名前を知っているのですか? 」

「あー 僕? 僕は高木 宏(たかぎ ひろし)34歳。旅をしている者だ」

秒刻みで怪しさの増すその男を夕子は隠すことなく怪訝な表情で見つめるが、宏はそれを意に介さず夕子の瞳を覗きながら続きを話す。

「片桐 夕子22歳。当時19歳の妹片桐 ひかりを探して彼女の失踪現場である山へ単身向かう途中。そんなところだろ? 」

「そうですが、私を調査する目的は何でしょうか。お答えください」

見透かしたように語る宏に夕子は冷静に聞き返していた。

「段取りというものがあるんだ。君のやろうとしていること自体は間違っていない。ただ上手く行かないと意味がないだろう」

「… どなたか存じませんが放っておいていただけませんでしょうか。取材など受けるつもりはございませんので」

「おいおい。僕をジャーナリストか何かとでも思っているのかい? 君面白いね」

「はい。そう理解しました。もうお話することはございません。失礼致します」

夕子はその場を離れ別の車両へ移動するが、宏は引き留めるでもなく追って来ることもない。一体何だというのだ。週刊誌の取材と解釈をしてしまえば簡単ではあったが、あの男の発言が気になる。

(段取り? やろうとしていること? 私は笛の音に呼ばれてあの山へ再び向かっているだけ。これから何かが起こるの? )

頭には不安と戸惑いが入り混じっていたが、夕子は努めて気にしないようにしていた。

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駅の近くのホテルに着くとすっかり日が落ち、雪が降り始め一層寒さが厳しくなる。夕子が受付でチェックインの手続きをしていると、隣で同じく受付をしている客が騒がしくしているのに気づく。

「僕は角部屋だと言った! 確かにそう言ったんだ。君たちの手違いだろう? 」

「いいえ。旅行会社を介してのご予約ですのできちんと記録が残っております。我々と致しましても記録を根拠に手続きを行っております。そして本日はあいにく角部屋に空きはございませんので、恐れ入りますがご予約のお部屋をご案内させていただきます」

「ふふ、君もわからない人だな。その予約を角部屋だと僕は言ったのだ。何度言えばいいのかな? 」

その客は余りにも目立ちすぎていた。がっしりとした体格にベースボールキャップ、黒縁眼鏡に顎鬚を蓄えた男。先ほど電車で会った高木 宏という男だった。

「すみません。横から失礼します。私の部屋は角部屋なのですが、お部屋を変わって差し上げても良いですよ」

夕子は思わず隣の受付のやり取りへ割って入る。

「ん? ああ! やっぱり会えた。まあ駅から近いホテルはここしかないから当たり前か。いいのかい? 」

「ええ、どうぞ。その代わりにもう私には付きまとわないでいただけますか? 」

夕子はけん制をするように敢えてホテルスタッフの前で宏にそう言う。

「おっと、聞き捨てならないね。まー でも恩に着るよ。お礼にいいことを教えてあげるよ。部屋に荷物を置いたらそこに来てくれ。それじゃまた」

夕子の言葉に動じない宏は受付からすぐ近くのラウンジを指さし、さっさと夕子の譲った部屋へ移動していく。一方的に話をすすめられた夕子は面を食らっていたが、宏の言う“いいこと”とは何かが気になり、部屋に荷物を置き一息つくとラウンジへ向かった。

「さて、まずは僕の素性から話しておいた方が良さそうだな。さっきみたいに君の推理力が発揮される前にね」

「ええ。宜しくお願い致します」

ラウンジの窓際にあるカフェコーナーに座り再び対面する二人。窓の外に降る雪は既に積もり始めている。

「ここは僕の故郷だ。寺をやっている実家があって、その寺を僕が継ぐ予定だった」

「お坊さん? ですか」

「そうだね。だけど2年前に僕の父親は突如姿を消したんだ。本当に突然だった。誰かさんと似たような話だろう」

「まさか私の妹が姿を消した場所と同じ? 」

「ああ、その通り。僕の父も例の山で消息を絶った」

「妹がいなくなる1年前… あなたは2年間その山について調べていた。そしてその過程で私たち姉妹の存在を知ったということですか? 」

「俺の番が来たみたいだ。あとは宜しく頼んだぞ」

「え? 」

「姿を消す前、父が僕に話した最後の言葉だ。それが気になって仕方がないんだ」

宏が向けた視線に誘われるように夕子は何気なく窓の外に目を向けた。大粒の雪は更に激しく降り、風と共に吹雪となって窓にぶつかっている。

「ということで、僕と君の利害は一致している。従って、協力してことに当たっていきたいと思う」

「ん? “こと”とは? これから何があり、どこに向かっていくのでしょうか? 」

「君はひかりちゃんを助ける。僕は例の山の謎を解明する。今はそれだけ考えていればいいよ。ところで、僕は腹が減っている。詳しくは追って指示するから。それじゃあ」

宏は席を立ちその場を後にしたが、夕子は席に座ったまま暫く考える。笛の音。その不確かな感覚にすがりこの地へ赴いた夕子であったが、宏と出逢うことで朧気ながらもひかりの存在に対し希望を持つ。夕子は妹の形見であるビーズが施された篠笛の袋を手にし、ひかりとの再会を静かに誓った。

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次の日、ホテルでの朝食を終え、予定通りひかりの失踪した山へ向かおうとしていた夕子は、フロントのスタッフから声を掛けられ一枚の便箋を手渡される。

『おはよう。今日、君に行ってもらいたいところがある。ホテルの近くにある一番大きな家を訪ねて欲しい。その家の頭の固いオッサンから情報収集をしてくれ。例の山についてすべてを知っている人だから、ひかりちゃんを助ける方法も聞けるかもしれないよ。

それと君に伝えておかなければならない大事なことがある。以下のことを必ず守るように。

1. 単独で山へ足を踏み入れない

2. 君の大切にしているものは処分する

3. 山を見るな

以上だ。夕方にホテルのラウンジで落ち合おう』

文末に高木と書かれたその便箋の内容を確認すると、夕子は戸惑いながらもホテルから出る。雪は止んでいたが息が止まるような冷気と澄み切った空気が吹き抜けて行き、思わず身が縮む。

(山を見ないと言っても見渡す限り山なのだけど… 大切にしているものって、篠笛の袋のことかしら。一人で山へ行かないってことくらいしか守れそうもない)

夕子は宏から命じられた酷く大まかな“注意事項”を繰り返し考え、その意味を理解しようとするがわからなかった。考えながらも便箋に記された目的地を目指す。積もった雪に慣れていない夕子は足元がおぼつかないが、宏の指示した場所には思いのほかすんなりと辿り着いた。

その家は周辺の家屋に比べ一際大きく、広大な敷地、立派な門構え、家というよりも御屋敷という佇まいだ。宏の言う頭の固いオッサンという表現が気掛かりだが、その人物がすべてを知る人間であれば怖気づいている場合ではない。夕子は深呼吸をした後、屋敷の門を叩く。

屋敷から出てきた人物は夕子が想像していた頑固親父ではなく、老婦人であった。家主の婦人と思しきその品のある女性は、夕子の挨拶と申し出に穏やかな表情で耳を傾けてくれる。

「突然すみません。ある方からこの土地にまつわる“山”についてこちらのご主人が博識でいらっしゃると伺いました。もしよろしければご主人とお話をさせてはいただけませんでしょうか」

「そうですか。遠くからお越しいただいたのでしょう。事情があることはお察しします。外は寒いので中へお入りください」

夕子は老婦人に抵抗なく屋敷へ迎え入れられ、案内されるがまま客間のソファーへ腰を下ろす。外観から想像した通りの立派な屋敷に緊張をしながら家主の登場を待っていると、お茶とお茶菓子を差し出した老婦人が夕子と対面するソファーに座った。

「ごめんなさい。主人はつい一週間前にいなくなってしまったのです。お力になれないとは思いますが、何かの手がかりを掴めば或いは… 」

「え? そうなのですね。あの、失礼ですがそれは消息を絶ったということでしょうか」

「はいそうです。わたしも主人ほどでは無いにしても多少は“山”の知識に覚えはあります。お嬢さんも誰か大切な人がいなくなってしまったのでしょう? 」

夕子はひかりの失踪について、宏との出会い、この屋敷に訪れるまでのあらましを老婦人に話す。彼女は穏やかだがどこか悲しそうに夕子の話を聞き、一度席を外しどこかの部屋から資料を抱え客間に戻って来てそれを目の前のテーブルに広げる。

「主人が“山”について調べた成果物です。但しこの文献をご覧になる前にわたしから概要をお話します」

目的であった屋敷の主人が失踪していることに、夕子はひんやりとした何かが背筋を撫ぜる恐怖を感じた。宏の父親、この屋敷の家主、そしてひかり。消息を絶つということが急激に身近に感じ始め、禍々しい何かがどこか暗い深淵で渦巻いているイメージが頭に浮かび身震いをする。しかし今はどんな状況であれ少しでも情報を集めなければならない。夕子が老婦人を真直ぐ見つめ頷くと、彼女はゆっくりと語り始めた。

屋敷の主人は周辺の土地を統べる一族であり、この一族は古くから一帯の山々を管理していた地主。彼も例にもれず土地の継承を受けていたが、時代が進むにつれて過疎化する地域の活性化の必要性が高まり、主人の代で大きな改革を行う。彼は土地の賃貸借、売買を積極的に行い、山を削り開拓がされ旅館やホテルが多く建設されていった。最初のうちは順調であった建設作業は、ある山での開拓事業完了後から進まなくなる。この頃から主人の様子、言動がおかしくなったというのだ。彼は『山に見られている、俺は悪くない』としきりに口にし、怯え屋敷に引きこもるようになった。

「そのある山とは、妹が、ひかりが失踪したスキー場のある山なのですね」

夕子の問いに老婦人は静かに頷き再び語り始める。

幸い宏の父親である寺の住職が、地元での仲間として主人を助けるため手を尽くしたことにより、彼は正気を取り戻すことが出来た。しかし程無くして住職が消息を絶ち、その時から主人は土地の伝承をわずかな文献を辿り研究を始める。そして一つの答えを導き出す。

山成(やまなり)。

古くからの伝承で見つけた一説により彼はそう結論付けた。山成とは読んで字のごとく山に成るということ。この土地のそれぞれの山には神が宿っており、その中でも踏み入れて良い山と踏み入れてはいけない、障ってはいけない山がある。ある名も無い山には特別に強い神が宿るため、足を踏み入れその神に魅入られてしまった人間は山に飲み込まれ山自体に成ってしまうのだ。呪いでも祟りでもない、悪でも善でもない神に魅入られてしまえば逃れようがない。主人は住職を助けるため、この土地にこれ以上の災厄を防ぐため研究に没頭し、つい一週間前に何かを発見したかのような言葉を最後に姿を消す。

『わかったよ。これですべてに終止符が打てる』そう言葉を残して。

「わたしはね、この資料を見る勇気が無いの。これには主人の行方が分かり、助ける手立てが記されているかもしれない。でももしそこに絶望しかなかったら? そう考えると怖くてね」

老婦人は語り終えると、もの悲しく微笑みながらそう呟いた。

「そうだったのですね。理解しました。どちらにせよこれで真相がわかるのかもしれません。この資料、私が拝見させていただきます」

夕子は一つの文献を手に取り、慎重に目を落としていく。

その刹那、笛の音が聴こえた。

風に溶け込むかのように、優雅に漂うその笛の音が届くのを確かに夕子は感じていたが、目の前の老婦人には聴こえている様子がない。無意識に握った篠笛用の袋に気づき、施されたビーズが輝く様子を茫然と眺める。

(呼ばれている… 私がこの地に訪れた理由。当時山荘にある遭難者へ手向けている供え物の中に、ひかりの遺品の小さなオカリナを供えた。そこに笛があれば笛の音は私の幻聴。なければもしかしたら… 行かなくては! )

「すみません。用事を思い出しましたので、一度失礼を致します。またお伺いさせて下さい」

老婦人に不安そうな表情で見つめられるのを気にせず、夕子は屋敷の外に出た。笛の音は段々、強くはっきりと聴こえてくる。

近い… 

見渡す限りの山。この山々のどこかから笛の音が自分を呼ぶ。自然と足が向いた先はひかりが姿を消した場所、その山だった。

夕子がスキー場に到着する頃には、どんよりとした寒空はより一層暗く不気味な色合いとなっている。立ち入り禁止の立て看板の前で足を止めた夕子は戸惑っていた。いつの間にか閉鎖され荒廃したスキー場は自然の力なのか、若しくはその山の力なのか鬱蒼と草が生い茂り、かつての面影はない。当然、立て看板の先に見える山荘に人の気配はなく、足を踏み入れるのも憚られる。しかしすぐ間近にある笛の音の真相が夕子の足を前に踏み出させていた。

山荘の中は何もない。すべてが持ち出され家具一つないもぬけの殻のその場所で、夕子はひかりが消息を絶った日と同じように一人立ち尽くす。

「ゆうちゃん! 」

不意に背後から夕子を呼ぶ声がし、振り返ると閉めたはずの山荘の扉が開いている。

ひかりに呼ばれている…

夕子が慌てて山荘を出ると、辺りは闇に包まれていた。先程まで真昼であったが、辺りは深夜のように静まり照明設備も機能していないスキー場は数メートル先も見えない。夕子からは暗闇の中でもはっきりとひかりの姿が見えている。

「ひかり、やっと会えたね。さあ、一緒に帰ろう」

夕子はそう呟き、漆黒の山に溶け込んでいった。

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昨日夕子に行かせた屋敷の中で一人佇む。取っ付きづらい主人が行方不明であることは何となく予測していた。しかし彼の残した文献、さらに残された婦人までもが消えている。

「思うようにはいかないものだな。さてと… 」

宏はそう呟いた後、屋敷の外へ停めていた車に乗り山へ向かった。

山成について、宏は独自の調査により概ね把握をしている。山に成った者を想う人間は、この土地の“ある山”に足を踏み入れたが最後、二度と戻れない。山はありとあらゆる方法で人を誘う。この土地に足を踏み入れていなくとも、その人間が持つ形見が何らかの形で山のある土地に誘導するのだ。山々に囲まれたこの土地でその景色を眺めるだけで、どうしようもなく“ある山”へ足が向いてしまう。このことから夕子に指示を出していたが、結局のところ山成に抗うことは出来なかった。

助かる方法。様々な調査や仮設、検証、実践を幾度となく繰り返したが、唯一この部分だけが分からずに無情にも時が過ぎていく。日々、山の宏を誘う力が強まっていくのを感じ、今回の夕子の存在にことの解明を期待していたが、残り一つの手段を取るしかないことが分かっただけだ。

最後の手段は得てして酷く単純でちんけな方法であり、彼がしようとしていること、避けて来たことも似たようなこと。自らが山に足を踏み入れ、その目で見定める。ただそれだけだ。

(もし助けられるとしたら、多分誰か一人だろうな… )

宏は山へ向かう車の中で繰り返し考え続けていた。

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西日を眩しいと感じたのはいつぶりだろう…

ゆっくりと流れる景色に目を細める“ひかり”は、迎えに来た友人と上りの各駅停車に乗り、都心部へ向かっている。

気が付いたらスキーウェアのまま山の麓を歩いていた。携帯で友人に連絡すると絶叫と号泣で耳が痛く、状況が把握できない。その後落ち着いた友人が手配した地元の警察に保護され、訳も分からず病院で検査を受けさせられるが異常はなし。ひかりは自らが1年間もの間消息を絶っていたことを警察や友人から聞き、幾分かの驚きを見せるがすぐに落ち着く。夕子について友人から話をされるが、彼女に関する記憶の一切がひかりから抜け落ちていた。そしてそんな人物、家族が存在したことに対して何の感情も抱かない。寧ろ人に興味がなくなっていたのだ。以前のひかりであればあり得ないことではあったが、友人は疲れているのだと言って納得しようとしている。

「ねえ、ひかり? 本当にまだお姉さん、夕子さんのこと思い出せない? 」

「うーん… そうだね。連絡もつかないし」

「おかしいなー 唯一の肉親で本当に仲の良い姉妹って感じだったんだよ。夕子さん凄く良い人だし」

「ふーん。あ、そんなことよりもさ、次いつ行く? スノーボード。スキーでも登山でもいいよ! 」

「えー? こんなことがあったのに良く行きたいと思えるね。前からそうだけどひかりはやっぱり変わっているわ! 」

「そうそう! 変わっているの。シーズン中にまた友達集めて行こうよ。出来るだけ大人数がいいなー 」

「ひかりがいるならみんな喜んで集まるけどさ… わかったよ。人集めてみるよ! 」

「サンキュー! 皆、きっと一生満足出来る思い出になるよ」

ひかり、いやひかりだったその何かは再び窓の外を眺め不気味に嗤い続けていた。

Concrete
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