月子はわたしの目を見詰めていた。
深いグリーンがかった瞳は、只々、わたしの瞳を逸らす事なく見詰めていた。
わたしの腕には力なく泣く日奈子がしがみ付いている。
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月子はわたしに向けた視線を日奈子に向けると、わたしと日奈子から遠去かり、そしていつしか浮かんでいた顔は、波飛沫に飲み込まれ消えた。
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〜〜〜〜〜
「…あなた…?」
いつもの夢で布団を跳ね上げ飛び起きたわたしに、隣の布団で眠っていた筈の妻の弥生が消え入りそうな声で様子を伺う。
「あぁ…。何でもない。」
わたしは弥生に向かい、ぎこちない作り笑顔で答える。
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「何か飲み物でも…?」と、布団から出ようとする弥生を制し
「いや。大丈夫だ。
自分で行くから。」
わたしはそう返すと静かに布団から出ると部屋を出た。
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妻の弥生は眠りが浅い。
僅かな物音でも目が覚める。
「玄関から音がする。」
「庭に誰かがいる様だ。」
「二階の部屋から足音が聞こえる。」
その度にわたしは妻の不安を払拭する為に、玄関を見に行き、庭をぐるりと見廻り、二階に上がって足音がすると妻が訴える部屋の灯りを点け、押入れの中まで確認する。
「大丈夫だ。何もなかった。」
わたしのその答えで、安心して又眠る妻。
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優しく、明るく、気の利く妻。
そして、その妻との間に生まれた、妻に似て優しく思い遣りのある娘に育った日奈子。
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食べる事にも寝る事にも事欠かない暮らし。
大した欲のないわたしは、今の生活が身の丈に合った暮らしと言う事も承知している。
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ただ…
1つだけ、欠けてしまった…。
その消失感は、わたしよりも妻の方が強く感じているのだろう。
帰って来る筈がない事を分かっていても尚
【if…[もしも]】を信じ、待ち続けている妻。
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わたしは、そんな妻を側で支え、無言の批難にも耐えなくてはならない。
わたしには、そうしなくてはならない責務があるのだから…。
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わたしと弥生が籍を入れた時、月子は未だ未就学の幼児だった。
別れた元亭主というのが混血だったからと、弥生とは全く似ても似つかない面立ちをしていた。
未だ幼い子供だと言うのに、目鼻立ちのはっきりとした、深いグリーンの瞳をした月子は、幼いながらも母の弥生を思い遣る、優しく、そして聡明な子だった。
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弥生の先の離別の理由は、亭主の暴力。
普段は大人しく口数の少ない男だったらしいが、酒を口にすると人格が変わり、弥生には絶えず傷や痣が残る毎日。
月子が生まれてからもそれは変わる事はなかった。
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その矛先が未だ乳児だった月子に向かった事から、弥生は月子を連れ、這々の体で男の元から逃げ出した。
数少ない親戚を頼り、ごねる男から月子の親権を取り、離婚まで漕ぎ着けたのは、月子が3歳を迎えた後の事だった。
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親戚の元にもいつまでも甘えて居られないと、月子と2人で暮らし始めた弥生が事務の仕事で入った会社が、わたしの勤める会社だった事から、わたしは弥生と出会う事が出来た。
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決して美人ではない弥生だったが、細やかな気配りが出来る女性で、いつしかわたしは弥生に惹かれる様になって行った。
弥生に子供がいる事も、わたしにとっては何の障害でもなかった。
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だが、一度目の結婚生活で懲りてしまった弥生は、わたしに対して優しくはしてはくれるが、心を開いてくれる事はなく、わたしもそんな弥生にしつこく付き纏う事も出来ず、半ば諦めの境地にいた。
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そんなある日、会社主催のBBQがあり、上司、同僚の家族同伴で集まる機会があり、独身のわたしは焼く係となり、ビールを片手に野菜や肉を焼いては皆に振舞っていた。
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そんなわたしの隣に、弥生は幼い子供を連れて立ち、わたしと共に皆の食べる肉を焼いてくれた。
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弥生の娘は大人しく母の側に居た。
我儘を言うわけでもなく、退屈をして何処かに行ってしまうでもなく、弥生やわたしの真似をして次々と消える野菜や肉の補充を手伝ってくれていた。
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そして、そろそろ皆の腹も膨らんで、弥生とわたしもゆっくり寛げる時間が来た。
他人の食べるものばかり焼いていたわたし達は、自分達があまり食べていない事に、この時になって初めて気付き、慌てて弥生と娘の分の肉を焼き始めた所で、弥生がすっと隣に立ち
「小林さん(わたし)のそんな所が好きです。」
頬を染めながら小さな声で呟いた。
わたしは突然の告白に吃驚して、弥生の俯く顔を凝視してしまった。
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その時、わたしの指先を小さな手がギュッと握る感触がし、そちらを見ると、クリクリの深いグリーンの瞳を真っ直ぐにわたしに向けた可愛い笑顔が…。
「月子も小林さんがすき!」
と…。
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わたしは知らず知らず泣いていたらしい。
同僚が酔っ払って茶化しに来たのを皮切りに、BBQ大会は一気に弥生とわたしのお祝いムード一色に変わった。
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わたしは幸せだった。
優しい弥生と可愛い月子との暮らしは、毎日が笑顔と優しさで満ち溢れていた。
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月子はわたしを
[おとうしゃん]と呼び、実の父親の様に慕ってくれた。
とても可愛い顔立ちの月子なのだが、何故かいつも
「あらあら!可愛いわねぇ!
お父さんそっくりね!」と、買い物に行った先でも、遊びに行った先でも、同じ事を言われる。
弥生は隣で優しく微笑んで、月子は笑顔で頷き
「月子は、おとうしゃんが大好きなんだぁ!」
と答える。
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籍を入れて間もなく、弥生は妊娠をした。
わたしは有頂天になり、未だ見ぬ我が子の為に、おもちゃや絵本を買っては家に帰っていた。
勿論、月子の分も忘れずに。
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弥生は笑って
「絵本もおもちゃも、未だお腹の赤ちゃんは遊べないのよ?」と言うが、嬉しくて堪らなかったのだ。
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月子も日に日に大きくなって行く弥生のお腹を撫で
「赤しゃ〜ん!お姉しゃんですよ?早く遊ぼうね!」と、可愛らしく声を掛けて笑っていた。
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やがて、日奈子が生まれた。
わたしと弥生、そして月子と日奈子。
一段と幸せが大きくなり、わたしは大切な家族に少しでも楽な暮らしがさせたくて、無我夢中で働いた。
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連日の残業で疲れている時は、弥生は子供達を騒がないように諭し、わたしをゆっくり寝かせてくれたし、栄養のバランスを考えた食事を毎食用意してくれた。
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時には家族サービスで出掛ける事もあったが、弥生は
「お父さんも疲れているんだから、ゆっくり休んでいても良いのよ?」と、気遣ってくれる。
「たまにはわたしにも子供達と遊ばせてくれ。」笑いながら言うと、弥生も笑って頷いていた。
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月子はとても良いお姉さんだった。
食事の支度をする弥生の手を煩わせない様、いつも妹の面倒も甲斐甲斐しく見てくれた。絵本の読み聞かせも弥生に代わりしてくれた。不器用ながらも、汚れたオムツを取り替えたりもしてくれた。
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わたしは、日奈子は勿論だが、月子も可愛くて仕方なかった。
家に帰ると先ず一番に、走って玄関に迎えに来てくれる月子を抱き上げ、そのまま日奈子の元へ行き、月子を抱っこしたまま日奈子ももう片手で抱き上げる。
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遅く帰った時には既に子供達が眠っているのが寂しくて、子供達の横に添い寝をして、気が付いたら朝になっていたなんて事も有った。
仕事も順調に進んでいたし、小さな中古物件だが、我家を持つ事も出来た。
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贅沢はさせてやれないが、妻と子供がいる。
妻に対して大きな声を上げる事もなく、月子に対しても特に叱りつける事もなく、日奈子は未だヨチヨチ歩きで叱る要素もなく。
不満もなく、満たされた毎日を送っていた。
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…
…
思えば…
あの頃が、わたしの人生の絶頂期だったのかと思う…。
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絶望は、ある日突然に襲いかかる。
下手な例えだが…
スカイツリーの頂点から、マリアナ海溝の深部まで一気に突き落とされた。そんな気持ちだ。
どう足掻いても、心も体も海面にすら浮上する事が出来ない。
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…
…
…
月子が死んだ…からだ…。
それも、わたしの目の前で…。
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その日は、連日の猛暑が続き、涼を求めてわたし達は川遊びに出掛けた。
河原で綺麗な石を拾って笑顔の月子。
わたしに手を引かれ、月子の真似をして石を拾う日奈子。
それを日除けのパラソルの下で微笑み見守る弥生。
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石拾いに飽きたのか、月子がわたしの手を引き
「おとうしゃん。
もう少し向こうに行ってみたい。」川上を指差す。見ると、河原は川上の方へと続いているが、岩が突き出ている場所もあるし石も大きな物に変わっている。
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「う〜ん…。
危ないから、少しだけだぞ?」わたしは月子に言い聞かせた。
月子は嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、大きく頷き、わたしは右手に日奈子、左手に月子と手を繋ぎ、月子がお気に入りのテレビアニメの主題歌を一緒に歌い、川上を目指した。
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なだらかな河原は、やがてゴツゴツした岩場になり、幼い日奈子を連れては危険だと判断したわたしは、歩みを止め、月子に声を掛けた。
「月子。小さい日奈子も居るし、これ以上は危ないから戻ろう。」と。
だが、珍しく月子が不満気な表情をしてわたしを見詰め
「おとうしゃん。月子、もっと向こうに行きたい。お魚が見たいの。」と、わたしの手を強くギュッと握った。
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わたしは上流を見詰め、月子にもう一度言い聞かせた。
「もう少しだけだぞ?月子が怪我したら、おとうしゃんは悲しいからな?」
そう言うと、月子は嬉しそうな笑顔で
「月子はおとうしゃんも日奈しゃんも大好き!
だから、おとうしゃんも日奈しゃんも怪我したら月子、泣いちゃう。」と。
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川は流れが強くなって行き、2人の手をしっかりと握り締めてはいるが、月子は
「魚が…。」
「カニしゃんが…。」と、川に近付いて行こうとする。
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わたしはその度に月子の手を強く握り
「危ないからそっちは行っちゃ駄目だ。」と制し、月子も
「はい…。」と素直に従っていた。
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幼い日奈子の手を引き、色々な事に興味を示す月子に気を遣り、まだまだ続く川は、流れも速くなり、足元も岩がゴロゴロと危なくなって来たので、そろそろ戻ろうと足を止めた。
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月子は黙ってわたしの顔を見上げて、少し悲しそうな表情を浮かべていたが、娘達に怪我をさせる訳にも危険な目に遭わせる訳には行かないわたしは、月子の手をギュッと握り
「月子?ここでお終い。お母さんも待ってるから帰ろう?」
月子も分かっていたのだろうが、言い聞かせた。
月子は俯きながらも、コクンと頷き、わたしの手をギュッと握り返した。
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だが、恥ずかしい話だが…
先程飲んだビールが災いし、わたしの膀胱は破裂寸前だった。
我慢も限界だったわたしは、月子と日菜子の手を引いて、川から離れた森の方へ向かった。
「月子。日菜子。少しだけ此処で待っていてね。」そう言い、二人の姿を見ながら用を足していた。
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すると、月子は日菜子と繋いでいた手を振りほどき、川のすぐ横の岩が張り出した場所へ走って行ってしまった。
「月子!駄目だ!危ない!」
私は慌てて叫んだが、未だ小便が止まらず、月子の元へ行けない。
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日菜子はボーッとしながら月子を見てからわたしを振り返ったが、向こうにいる月子に
おいでおいで…
手招きされてニッコリ笑って後を追う。
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「日菜子!!駄目だ!!危ないから…行っちゃ駄目だ!!」
わたしが叫んだ事から、足を止め、困った顔で振り返ってわたしを見る。
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「日菜子。川に落ちちゃうだろ?危ないんだ。お父さんが行くまでそこで待っていなさい。」
そう言うと、月子へ向き直り、その場で足を止めてくれた。
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わたしは急いで日菜子の元へ行こうと森から出ると、月子は日菜子の元へ戻って来たかと思ったら、そのまま日菜子の手を引いて先程の岩の方へ連れて行こうとする。
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「月子!そっちは駄目だよ!
日菜子は未だ小さいんだから、落ちちゃったらどうするんだ?」
わたしも月子と日菜子の後を追いながら月子に言い聞かせる。
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だが、月子はわたしを振り返る事なく岩の上に日菜子を連れて行き…
焦るわたしに向かって、いつにも増して可愛い笑顔を向けたかと思った次の瞬間、日菜子の背中を押した。
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「あぁ!!日菜子!!」
わたしは狂った様に叫び、転がる様に走り、日菜子の落ちた場所に着くと跪き、下を見た。
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そこは…
30センチ程下にも僅かに岩が張り出していて、日菜子はそこで横に転がって泣いていた。
わたしはその岩の張り出しに降りて日菜子を抱き上げた。
と、同時に…
月子への怒りを口にしてしまった。
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「月子!お前は何を考えているんだ!未だ小さい日菜子をこんな危ない目に遭わせて…。
もし下に岩がなかったら、日菜子は川に落ちて流されていたんだぞ!!」と…。
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月子は謝る事もせず、ニッコリと微笑み…
日菜子を抱いたわたしの腹に顔を寄せてギュッと抱きしめたかと思ったら…
…
そのまま流れる川に身を投げた。
…………
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一瞬、何が起こったのか分からず、日菜子を抱き締めたまま、呆然と流れる月子を見詰めていた。
月子もわたしの目を見詰めていた。
深いグリーンがかった瞳は、只々、わたしの瞳を逸らす事なく見詰めていた。
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わたしの腕には力なく泣く日奈子がしがみ付いている。
月子はわたしに向けた視線を日奈子に向けると、わたしと日奈子から遠去かり、そしていつしか浮かんでいた顔は、波飛沫に飲み込まれ消えた。
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〜〜〜〜〜
月子は見付からなかった。
警察や地元の消防団の方々も懸命に捜索してくれたのだが、月子の遺体は川からも海からも上がる事はなかった。
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弥生は
「月子は生きている。
きっと、何処かで優しい人に助けられて暮らしているのよ。」
そう言い、月子の死を認めようとしない。
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何処かで学校帰りの子供笑い声が聞こえると玄関に走り
「月子!おかえりなさい!」
と出迎えるが、月子は姿を現さない。
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家事も難なくこなし、日菜子の面倒も今まで通りに笑顔でしている。
だが、月子に関してだけは決して生きていると主張をし、死を認めない。
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…
…
わたしは…
否が応にも、月子の死を痛感している。
目の前で消えた月子の死を。
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弥生の言う
「誰かが玄関にいるみたい」
深夜、そう言うなり玄関に向かおうとする弥生を制するのは、弥生が変わり果てた月子を見てしまう事を恐れているからだ。
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「庭を誰かが歩いている」と言うのも、それを見にわたしが行く事も同じ理由から。
月子が庭で遊んでいるから。
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「二階の部屋から足音がする」と言うのも、月子が狂った様に走り回っているから…。
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深いグリーンの瞳は輝きを失って白く濁り、透き通る様な白い肌は黒ずんだ色に変わり、剥がれた皮膚を引きずっている。
彫りの深い顔立ちは見る影もなく水を含んで浮腫み、はち切れそうな程大きくなっている。
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そんな月子を弥生に見せる訳にはいかない。
月子はわたしを恨んでいるのだろう。
日菜子を抱き、流される月子を助けられなかったわたしを…。
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あの時…
わたしが日菜子をあの場に置いて月子を助ける事が出来たなら…
連れ子だから助けなかったのではない。
実子だから日菜子を置き去りに出来なかった訳でもない。
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…
…
…
幼い日菜子を一人残して、月子を助けようと思えなかったからだ。
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月子は何故、自らの命と引き換えに、愛情を計るような真似をしたのか?
わたしは月子も日菜子も、どちらも同じだけ…
恐らく、愛していたのだろう…
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…
…
…
又夜が来る。
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今日も月子はやって来るのだろう。
………
愛しい母に会う為に…
………
自分を見捨てたわたしを責めに…
作者鏡水花
又重い話を書いてしまいました(´-﹏-`;)
子供は…
良い子でなければ愛さない…
ではなく…
ただ、いるだけで愛しいのです。
愛さずには居られないのです。
この度もお読み下さった全ての方に…
ありがとうございます(๑ Ỡ ◡͐ Ỡ๑)ノ♡
by.鏡水花