「……嘘…」
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「……」
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「……嘘」
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「……」
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「……嘘」
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「………」
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目の前に女の人がいた。
執拗に、僕に向かって「嘘」と言っている。
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小指が吸い込まれるくらいの、ふっと小さくすぼめられた唇が、ほんの少しだけ下向きに広がった。
仄暗い黄昏時、甘い吐息が零れるように音を発する。
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「嘘」
「嘘」
「嘘」
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繰り返されるその言葉に、僕は何と言えばいいのか分からなくなった。
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◯◯◯
友達と公園で遊んだ帰り道。川沿いに続く堤防の、枯れたススキの頭が風に揺られる道を、僕は歩いていた。
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僕は運動が苦手で、今日もシンジ君達と遊んだ草野球で、一人だけ一本もヒットを打てなかった。
今日はシンジ君が相手チームのピッチャーで、スポーツ少年団で普段から野球をしている彼のボールは、僕にとってはロケットのように速く思えた。
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小学校の仲のいい子たちとする草野球は、公式の試合でやるより人数が少ないから、一人上手い子がいるだけで、ズルいくらい大きな戦力になる。
だから当然、今日はぼろ負けしてしまった。
シンジ君に加えて、もともと運動神経の良いケイタ君まで向こうのチームだったのだから、最初から勝てるわけがなかったのだ。
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全然ボールは当たらないし、結局負けてしまうしで、少し不機嫌にしょぼくれながら、水切りに丁度良いくらいの石ころをドリブルしながら歩いていた。
こんなことなら、じゃんけんでチーム分けをするときにグーを出しておけばよかった。なんて、軽く蹴飛ばすごとに体から離れる影を見ながら思っていた。
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カァカァと、一人きりで鳴くカラスの声が伸びるように響く。
水深の浅い川の底が、見えそうだけれど見えないくらいの、やや暗い夕暮れ時だった。
暖かいけど少し冷たい茜色した陽の光が、川の反対側から広がっていた。
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誰もいない堤防の道のど真ん中を歩くと、なんだか自分が赤い絨毯の上を歩く偉い人になった気分になる。だから僕は、しょぼくれて俯いていたけど、ずんずんと大股で石を蹴りながら歩いていた。
すると、右足の親指の先に強めに当たった小石は、かんかんと小さく跳ねながら堤防の左の方に転がっていってしまった。
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あっと思って、小石がコースアウトしてしまう前に追いかけようと小走りになって、けれど僕はビクリと立ち止まった。
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石が転がっていく先に、ヒトの影があったのだ。
夕陽に赤茶けた堤防に座る、こちらに背を向けた影だった。
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僕は思わず動きが止まってしまって、かんかんと、小石と影がくっついたり離れたりするのを見ることしか出来なかった。
幸い、石はその人にぶつかる直前にアスファルトの出っ張ったところにぶつかって、ほぼ直角くらいに曲がり、堤防の横を転がり落ちて行った。
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かつん、かつん、と、まるで自分の影を追いかけるように、小石は音を立てて転がっていった。
僕はしばらく動けないでいて、ついさっきまで相棒のように一緒にこの道を進んでいた小石の最後を、ただずっと見届けていた。
そこにいた人も、その石の最後を見ているようだった。
その人は髪が背中にかかるくらい長くて、女の人だと思った。
やはりこちら側からは背中を向けて、堤防の途中にある階段の上に座っていた。なぜか、その背中は水を被った様に濡れていた。
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転がり落ちた石ころは、このコンクリートの階段に落ちていったから、かつん、かつん、と音が鳴ったようだった。
その小石も、既に下の方に見えなくなってしまい、僕と女の人は、そのまま階段の下の方を二人揃って見つめていた。
そして、その二人揃った視線から女の人がゆっくりとこちらを向くものだから、その動きにつられて、僕もその女の人に視線が動いてしまった。
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ビクッ、としたのは、その人があまりにも綺麗だったから。
少し茶色味がかった暗い瞳は、宝石の眠る洞窟のように輝いて、透き通るように薄い色彩の唇は、水みたいに淡い桜の色をしていた。
そして、星さえ邪魔な黒髪が、雪にさえ溶かされてしまいそうな白い肌が、オレンジの夕陽に染められて、影を彩っていた。
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体が動かない、視線が動かない、だから僕は、バツの悪い顔で見つめ返すしか出来なかった。
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女の人は、紺色のセーラー服を着ていた。確か、シンジ君のお姉さんがこういうのを着ていたと思う。
怖くは無いけど、怖いような感覚。時が止まったようなというのは、あんまりにもな衝撃を受けた時に起こるのだと分かった。
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「嘘」
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僕はまたもビクッとする。その人が喋ったのだ。唐突に、何の前触れも無かった。
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「嘘」
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繰り返し、言ってくる。無表情に、僕の顔を真っ直ぐに見つめいる。
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「嘘」
「嘘」
「嘘……」
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異様な世界だった。全ての音が消えたはずなのに、その言葉だけが僕に届く。触れる感覚の無い風が冷たい。
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「……」
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僕は何も言えなかった。一体何が嘘なのか、何と答えるのが正解なのか、分からなかった。
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「嘘」
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迷って、逃げるように視線を落ちた石の方へ反らしたのに、また彼女の声でビクッと目線が元を向いてしまった。
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僕は今どんな顔をしているのだろう。
ほんのちょっとも逃げることは出来ない。それが分かって、僕は心の中であたふたした。
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「……」
「……」
「……」
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「……本当」
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絞り出すように、飛び出すように、僕は口を動かしていた。
ふるふると、自分でも分かるくらい、声が震えていた。
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「…本当」
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もう一度、今度はもっとはっきりと。
ちゃんと言い切るように、僕は答えた。
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頭の中はぐちゃぐちゃだった。未だに、ずっと訳が分からずパニック状態で、目が回っているみたいだった。
だけど、しっかりと相手の目を見て、僕は答えた。
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「……、」
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「……」
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彼女は、僕を見つめていた。
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だけど、座ったままの綺麗な無表情から、幾分か驚いたような感情が、透明な双眸とともに見開かれていた。
止まった時間が、よりいっそう止まったような気がした。
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「……」
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無言のままの彼女に、僕は泣きそうになる。
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間違えた…
間違えてしまった。
そう思って、僕は焦った。
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目の前の彼女の表情が、驚きからだんだんと暗く染まっていく。重く重く、槍のように冷たく尖って。
それは、怒りの感情なのだと思った。
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女の人は怒っている。
多分…僕が間違えたから。
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「嘘」
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また唐突に、彼女が言った。
純粋な怒気の含まれた、無表情な一言。
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怖い……
たじろいでしまいそうな右足は、怯えて動けないでいた。たった一言で肩が竦んで、ネズミのように縮こまってしまう。
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「嘘」
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重ねられる一言が、ただひたすらに怖かった。鬼に殴られて踏み潰されるような恐怖だった。
でも、それでも……
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「…本当」
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曲げる訳にはいかなかった。
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「本当」
「本当」
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負けちゃ駄目だと、手をギュッと握って自分に言い聞かせた。
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「…嘘」
「…本当」
「嘘」
「…本当」
「嘘!」
「本当!」
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数回、言葉を交わす。何が嘘で何が本当なのか、何も分からない。頭の中が隠されたように靄でいっぱいだった。怖い。でも……
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「本当…!」
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「……」
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やがて、彼女が口を噤んだ。
両目が、こんなにも怒っているのに、涙を堪えて揺れていた。
ゆっくりと落ちる夕陽が、彼女の影を深くしていた。
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「本当」
言い聞かせるように、僕は言う。
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「……嘘…」
弱々しい、小さな声だった。ぎゅっと閉じられた口元が、小さく震えていた。最初に見た無表情が嘘のように悲しそうだった。
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「………………嘘……」
彼女の目から、滂沱と涙が溢れていた。流れる涙は、夕陽の影を浴びて、墨汁のように黒く染まった。
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「………………嘘…………」
泣いている。
痛くて、辛くて、悲しくて、泣いている。
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「嘘、嘘嘘、嘘嘘嘘嘘嘘……!」
「本当、本当……本当…!」
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僕も泣いていた。彼女の慟哭に心が叫んでいた。
痛かった、苦しかった、悲しかった、寂しかった……
マグマのように溢れ出る感情が、僕の顔面をぐちゃぐちゃに濡らした。
彼女を守りたい、救ってあげたい、抱きしめてあげたい、そう思って、いてもたってもいられなかった。
彼女の側へ、少しでも近くへ……!
そう思い、動かない足を踏み出して、
そして……
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そして目の前から、彼女はいなくなった。
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ほんの一瞬だった。瞬きよりも速く、何の前触れも無く、彼女の姿は消えてしまったのだ。
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嘘のようで、だけど本当の出来事で、足元を見ると、確かに僕は右足を前に突き出していた。
その足の先、彼女がいた場所が、黒く濡れていた。
とうに低くなった夕陽は、その濡れた場所を影の中に沈めようとしている。
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彼女の涙だろうか、それとも血なのだろうか、何故かそう思って、そういえば彼女がホースで水をかけられたように濡れていたのを思い出した。
穴のように濡れた染みは、階段の下へと続いていた。点々と、びちゃびちゃと。
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……不意に風が吹いた。冷たい、冬の風だ。
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僕は、歩き出していた。
堤防の斜面に短く刈られた芝は、紅葉し切ったように、藁のような乾いた白色をしていた。
それが途切れる灰色のコンクリートの階段、蹴り歩いた石が転がり落ちたその先、夕陽が堤防に遮られて、闇が広がるその先を、僕は見下ろした。
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そして、濡れ跡を追いかけようと、一歩踏み出そうとして、その体勢のまま、前へと倒れ込んだ。
背中を押されたのだと思った。足を踏み外したのだと思った。だけど、どれも違った。
僕は、自分の意思で硬いコンクリートの階段へ飛び込んだのだ。
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何故そうしたのかは分からない、けれど、その行動に、迷いはなかった。
無意識に頭を庇いながら転がった。
暗く冷たい地面から、視界を一瞬だけスライドして見える藍色の空に、四辺形の星座が浮かんでいるのが見えた。
全身を打ち付け、傷だらけになりながら思っていたのは、どうして今日は、1人で帰っていたのだろうという、ひどく無関係な事だった。
いつもなら、公園から家の近くの十字路まで、友達と一緒の筈だった。
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そんな考えが頭に過ぎった辺りで、僕の意識は一度途切れた……
………
……
…
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◯◯◯
次に目を覚ましたのは、知らない場所の、知らない家の真ん前だった。
近所の人だろうか、知らない人達が、僕を囲んでガヤガヤしている。
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空はすっかり暗くなってしまって、それ程明るくも無い月がぼんやり佇んでいた。
周りの様子をもっと見ようと起き上がろうとしたら、身体のあちこちが痛くてそれどころじゃなかった。
僕を囲む人達がどよめく。
無理に動くのを静止されて、アスファルトの地面が冷たいから、動けないのはとても辛いと思った……
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◯◯◯
あの出来事からしばらくしてから、僕が倒れていた場所の真ん前の家に住んでいる人が、警察に捕まった。
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どんな悪いことをして捕まったのかは誰も教えてくれなかったが、僕の身体がボロボロだったのもその人に酷い暴力を振るわれたたらだと思われたのか、警察の人に見覚えがあるか聞かれた。
写真を見せて貰ったけれど、そこに写る小太りのおじさんに見覚えは無かった。僕を囲んでいた人の中にもいなかったと思う。
あんな黄ばんだ前歯の欠けたおじさんなんて、もし会った事があるなら1発で憶える。
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そもそも、僕が傷だらけだったのは、アスファルトの階段を転げ落ちたからなのだけれど、無関係であろう怪我までその人のせいにされてしまったら、少し可哀想かもしれないと思った。
だけど、もし人を怪我させて捕まったのなら、どうして僕にそういう罪だと教えてくれないのだろう。
確か、暴力罪的な名前の罪があったと思うのだけれど……
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ちなみに、僕が倒れていたのは、隣の校区の公園からは逆方向の場所だった。
あの堤防は少なくともいつもの帰り道だったので、未だに全く訳が分からんといった具合だ。
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今回の話を、友達の何人かに話してみた。けれど、夢でも見ていたんだろうと、誰一人信じてくれる者はいなかった。
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結局、この嘘か本当か分からない体験談は、都市伝説どころか噂にすらならなかったので、僕は全く、やられ損である。
作者ふたば
最後までお読み下さった皆様、有難う御座います。
誤字脱字、日本語間違い等ございましたら、遠慮なくお申し付けください下さい。
明けまして御芽出度う御座います、意味不明な文章製造機のふたばです。
今回は『文章中セリフを「嘘」もしくは「本当」の2つのみで作品を書く』というセルフリクエスト(最早リクエストじゃない)を元に描かせていただきました。
我ながら読み手に優しく無い文章ですが、よろしければ、正月ボケ直しに考察してみて下さいませ。