今日も寒いな。
また新しい1日がはじまった。なんだかとっても、眠い。
どれくらいこうしているのだろう。
私の世界の全てはこの一部屋。もう随分と前から私の世界はこの一部屋。
それと言うのも…
「エリちゃーん、起きてますかー?おはよーーー」
こいつだ。
この男だ。
見上げるほど大きな身体、やたらと長い脚。この部屋の主であるらしいこの男に合わせてか、部屋もそれに相応しく高く、大きい。
私はこの部屋に閉じ込められている。たった一人。男と私の他に誰もいない。
男は気味の悪い言葉を吐きながら、ニタニタと笑っている、ように見える。
何を考えているのか、さっぱりわからない。わかりたくもない。
おもむろに男は長い脚を私に伸ばす。
やばい!また捕まる!
寝起きの身体を奮い立たせ、広い部屋を逃げ惑う。
幸いにも男の動きは遅い、が、それがまたかえって不気味に映った。
「あらあらー、ご機嫌ななめですねー」
わけのわからないことを…私は一目散に駆け出し、部屋の壁際へと逃げ、静かに泣いた。
そんな私を見て男は嬉しそうに顔を緩ませた。そしてくるりと背を向け、部屋を後にした。
がちゃ、ばたん。がちゃり。
よかった。今朝はなんとか無事に済んだ。
ひどい時は執拗に私を追いかけ、私の身体を蹂躙する。
声も出ないほどに怯える私を、おぞましい笑み?を浮かべながら、いやらしく撫で回す。
あの男にとって、私は愛玩物なのだ。
いつからこうしているのだろう。
このところ考えることもしなくなってきた。
新しい1日がまたはじまる。
それにしても、寒い。
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エリ、僕のかわいいエリ
今日も一段とかわいいよ
欲しいものがあったらなんでも買ってあげる
おもちゃがいいかな
それともおいしいものの方が喜ぶかな
欲しいものがあったらなんでも買ってあげる
だから
逃げようとしないでね
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何度も何度もこの部屋からの脱出を試みたが、うまくいかない。
すぐにあの男に見つかるか、しっかりと閉じられた扉を開けることができない。
何度も失敗を繰り返しているうちに徐々に気力は薄れていく。
かつては隙さえあれば、それこそ男が扉を開ける瞬間に飛び出そうとしたものだが、悉く捕まってしまった。
長い手足、強い膂力、私にはなすすべもない。
力の限り叫んだこともあった。でも誰も助けに来なかった。
男に捕まる度、私の身体は蹂躙されるのだ。
逃げ出したい気持ちは大きかったが、捕まるのも嫌だった。
なので最近はこの広い部屋を逃げ回ることが多くなった。でも、外を諦めたわけじゃない。
外に…
自由に…なりたい。
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エリ、僕のかわいいエリ
ごめんね、狭い部屋に閉じ込めて
でもね、君のためなんだ
君が逃げようとするから…
さて、戸締りはちゃんとしないとね
ばたん、がちゃり
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男が、出て行った。
何もせずに過ぎていく1日。
念のため、ドアが開かないか試してみる。
がちゃがちゃ
がりがり
やっぱりね、そうだよね。
ふぅ。ため息をひとつつく。
落ち込んでなどいない。いつものことだから。
ふぅ。
あきらめてすごすいちにち。
なんにもないいちにち。
たいくつないちにち。
なーんにもないいちにち。
そとにでたいなあ。
ねむいなあ。
さむいなあ。
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がちゃり、ばたん。
「ただいまー」
男がまた現れた。
あれから何日たった?1日?2日?もっと?
ともかく長い時間放置された私は扉の音と男の声で飛び起き…いや、気だるく起きた。
広いとはいえ、部屋の中だけで過ごしていて元気になどなれるわけがない。いつものことだ。
そんな私とは対照的に機嫌が良さそうな男。
こういう声の時は決まって…
「エリちゃーん、いいこにしてたーーー?」
ほらきた。
のそり、のそりと近づいてくる男。
必死で逃げようとする気持ちに反して動いてくれない私の体。
「やめて!」
この言葉が何の意味もなさないことを私は知っている。でも叫ばずにはいられない。
そしていくら叫んでも、いや、声を上げればあげるほど、男の笑みは一層いやらしさを増す。満面の笑み、というやつなのだろう。
ゆっくりと男の手が私の身体を抑える。
ゆっくりと男の手が私の身体を弄ぶ。
幾度となく繰り返されてきたこの時間。
恥と、苦痛と、かすかな快感の入り混じる時間。
ダメ、いまは、なにもかんがえ…ない…
ああ、あたたかい。
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エリ
愛しのエリ
僕には君だけなんだ
君こそが僕の心を満たしてくれる
明日は会えないけれど、いいこにしているんだよ
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がちゃ、ばたん。かちゃり。
扉の閉まる音で目を覚ました。
がらんとした部屋にひとり。
今日も、寒い。
またいつもどおりの一日がはじまった。
…
…
…
が、
少しだけ違っていた。
朝日の眩しい1日が過ぎ、あたたかい昼下がりの2日が終わり、3日目の夜の帳が降りても、そして漆黒の4日目を迎えても、男は現れなかった。
男が来るのは毎日ではなかった。
2日おき、早ければ1日おき、時には3日4日ずっと部屋にいることもある。
それでも、今まで3日以上は空くことはなかった。
それが…
…この部屋に私ひとり。
私…
私は…
…さび、しい?
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エリ
愛しのエリ
今なにしてるかな?
僕のこと少しでも思ってくれてるかな?
ふふ
すぐ帰るからね
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男が、なかなか現れない。
もうすでに6日は過ぎていると思う。
もっとだろうか。なんだかよくわからない。
わたしのことなど、わすれてしまったのだろうか。
さむいな。
おなかすいたな。
まってるんだけどな。
まってる?だれを?だれだっけ?
なにを?
…
がちゃり
「ただいまーエリちゃーん」
誰?誰か入ってきた?
男?誰?
「昨日は帰ってこれなくてごめんねー、寂しかったかい?」
ニコニコとした、笑顔で、こちらに、くる、こわい…こわく、ない?
怯える私に男は手をかざす。慣れた手つきで頬から耳の後ろへ指を這わせる。
恐怖からだろうか、空腹からだろうか、体が動かない。
なんだろう、この感じ。
たしかに恐怖も嫌悪もある。だけど…
この男の手を、私は知っている。
ずっと前から、知っている気がする。
そうか…私はこの男を待っていたのだ…
この男は、私のキモチイイところを、知っている。
あたたかい。
そうか…私は、嫌いではないのだ。
恍惚。
私は、男の腕の中でうっとりと目を閉じた。
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「エリちゃん、いい子にしているんだよ」
朝だ。
男がまた出て行く。愛しの男が。
ばたん。
寂しい。なぜそばにいてくれないの。さむいよ。
またいつものいちにちがはじまる。ふつかだろうか、みっかだろうか。
わたしは部屋のドアに手を伸ばす。
これが、部屋に残された私のルーティーン。
!!!
キィ。
開いた!
扉が、開いた!
今まで見せることのなかった隙間を前に、私の心の中は喜びより困惑が勝っていた。
どうしよう?!
外…出れるの?
出て、いいの?
私の世界は、この一部屋…
あの男と私の、この一部屋…
でも、すぐそこに…
外がある…自由がある!
私は少しだけ開いたドアを全身の力を使って押し開けた。
外だ。憧れた、外だ。
諦めていたのだ。ずっとずっと。諦めていた。
いつぶりなのだろう、10年?20年?外にいた時のことなど、もう覚えていない。
まるで生まれて初めて吸う外の空気は、あの部屋の中と全然違う。
正直、いい匂いではない。いろんな匂いがする。でも、自由だ。
気がつくと、私は駆け出していた。本能がそうさせた。頭で考えるより先に4本の足が動いていた。
鼻先が風を切っているのがわかる。戸惑いはあれど、体は喜んでいた。外だ。自由だ。
「エリ!!!!!」
突然の声に私は立ち止まった。
声だ!あの男の声だ!どこ?わたしはここだよ!
振り返って声の方に顔を向ける。愛しの男が長い脚を懸命に動かしてこちらに向かっていた。しかし、その顔に笑みはなかった。
刹那、私はこの世で最も大好きな、安らぎの匂いに包まれて空を飛んだ。青い空に白い雲。部屋から見るより広い空。
固い地面に打ち付けられる体。思わず声が出る。
見上げると、男がいた。横になったまま、薄眼を開けて私を見ている。
男は私を見て微笑んでいるようにも見えた。
私は愛しくて愛しくて、男に口づけをした。
何度も。何度も。何度も。何度も。
私の体は自分で起き上がることができなかった。
私は男に尋ねた。
ねえ。寝るの?ここ外だよ?お部屋にいこうよ?ねえ。からだ、いたいよ。なでて。いつもみたいに。さむいんだ。
ねえ。
…
私の口から、力なく声が漏れた。
薄れゆく意識の中、私は男の体からあふれるあたたかいものが、私の身体と溶け合っていくのを感じていた。
「にゃあ…」
作者春秋
4作目になります。
怖い話ではないですね。
猫と人では感じる時間の密度が違うと言います。
わざとらしい描写で少し不自然かも知れませんね。
猫にとって私たちは一体どう見えているんでしょう?
人のように考えているわけではないとは思いますが、それでも、愛する気持ちがほんの少しでも伝わっているといいなと思う春秋でした。