この話は、怖い話とは少し違うかもしれない。怪異や幽霊などのオカルト話ではない。が、吉村にとっては紛れもなく怖い話だった。
彼がもう少し社会人として経験を積んでいればあるいは異なった展開になっていたのだろうか。同じ状況に他の者が直面したら?
ともかくだ。この出来事は若干24歳、社会人一年目の真面目な青年にとっては、すぐに受け流せるような軽いものではなかった。
平成が終わろうとしている今、薬学部は6年制をとっているが、10年ほど前までは4年で卒業できた。国家試験を通過し、そのまま薬剤師の道を進むものもいれば、研究者の道を歩む者もいる。
吉村はやっとのことで某薬学部大学院を卒業した。もともと研究職志望で選んだ研究室だったが、先輩や教授とそりが合わず、苦しい二年間を過ごしていた。
人付き合いは苦手な方ではなかったが、合わないものは合わない。合わせようと努力するのだが、魚心あれば水心とはいかなかった。それでも研究さえうまくいけば多少は違ったのだろうが、運がなかった。2年近く手がけていた研究ですら海外の研究グループに先に論文を出されてしまう。
残されたわずかな時間で無理矢理修士論文を書き上げ卒業資格を取得したものの、研究者になろうという熱意や情熱はすでになかった。まぁ今となればそんなもの元からあったのかどうか。
それ故、はじめての仕事はとても楽しかった。研究者としてではなく、薬剤師として就職したのはドラッグストア。接客業である。吉村の相手は試験管からお客様にかわった。
店舗に来店されるさまざまな悩みを抱えるお客様に、ぴったりの商品をご案内する。ドラッグストアの薬剤師の場合、悩みは健康・病気、ぴったりの商品は薬になる。
高齢のお客様が相手になると、ちょっとした家電の相談や電池の入れ替え、アプリの操作など、薬剤師とは関係のない相談を受けることも少なくない。
そんな相談を受けるたび
「なんでドラッグストアに?」
なんて心の中で苦笑いをする。しかしまんざらではない。ほんの数ヶ月前までの閉鎖的な空気に比べたら天国と地獄ほどの開きがあった。
吉村は基本的に人が好き、人助けが好きなのだ。研究ももちろん大きな目で見れば人助けに違いないが、研究室の中で行われているのはシンプルな「競争」なのだ。誰もが「世界初!」を夢見て自らの研究に没頭する。結果至上主義。少なくとも吉村のいたところはそんなところであった。
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仕事をはじめて半年が過ぎた。業務にも接客にも慣れてきた。わからないことばかりであたふたすることも少なくなり、ある程度の余裕を持ちはじめていた。
余談だが、薬剤師と言えば薬のエキスパートと思われがちだが、実際にはそうシンプルなものではない。
特に、ドラッグストアに置いてある薬について薬剤師は無知に等しい。彼らが大学で学ぶのは主に病院・薬局で使用される成分である。しかも学ぶのは成分名であり、商品名ではない。4月5月に店頭に出ている新人薬剤師の商品知識は下手するとパートのおばちゃんにも劣る。
今では市販でも病院と同じ薬がいくつか置かれるようになったが、出せる薬にも限界はある。その上、薬剤師は法律上診断をしてはいけない。診断技術を持たないからだ。実はお客様の脈すら取ってはいけない。そんな薬剤師が下せる判断は「たぶんこれで大丈夫だと思います」「治らなかったら病院に行ってください」だ。個々の能力で程度の差はあるが、それが薬剤師の精一杯である。
それでも、吉村は持てる知識を振り絞って接客する。新人らしく、がむしゃらに。
そんな中、現れたのが美樹本さんという女性のお客様である。50代くらいだろうか、どこにでもいそうな主婦である。
初めは些細な接客だった。風邪薬やら目薬やら、ごくごく普通のお客様として吉村は応対していたが、美樹本さんはそんな吉村の接客をいたく気に入ったようだった。事あるごとに吉村に相談するようになる。
オススメしたものをすんなり買っていただけるので、会社的にもオイシイお客様であった。ただ彼の名誉のために言っておくが、押し売りをしているわけではない。
ところが………
時は少し過ぎ、11月。年末の忙しさの前にほんのしばしゆるりと時が流れる月。いつものように吉村は美樹本さんから相談を受ける。
「あのー吉村さん」
「あ、美樹本様。いらっしゃいませ、こんにちは。」
「こんにちは、あのー折り入って相談なんですけど」
「はい、なんでしょうか?」
「息子のことでちょっと」
「あ、息子さんのことで」
「ええ、実はうちの息子、心療内科に通ってるんですよ」
「あ、そうだったんですね…それはそれは…」
「はい、それで、なんか最近お薬が合ってないみたいで」
「なるほど…、効きが良くないと」
「そうなんですよ、副作用ばっかりでちゃって全然効いてる感じがしないんです」
この手の相談はよくある。特にメンタル系の病気は専門家でも診断が難しい分野だ。その上、本来バッチリな薬であっても効果が出ない場合がある。薬よりも薬らしく効くもの。人はそれを「(医者や薬への)信頼」「病は気から」と呼んだり、「思い込み」と言ったりもする。一旦不信感を持たれてしまってはどんな良薬も役には立たない。
「そうでしたか、その辺りのお薬はお医者様でも診断が難しかったり、効いていたお薬が効きにくくなったりすることもあるんですよ。」
「そうなの?」
「はい、なので主治医の先生に現状をご説明していただくか、もし言いにくければ他のお医者様にご相談なさってはいかがでしょう?お薬の量を減らしたり別の薬に変える場合もありますので。」
別の医師に意見を仰ぐことをセカンドオピニオンという。患者の立派な権利である。
「そっかぁ、そうなんですね。わかりました!ありがとうございます!」
「いえ、私は何もしておりませんので。少しでも良くなられることをお祈りしています。」
美樹本さんは満足げにその他雑貨を購入し、帰っていった。
はじめは何も商品を提供できない自分に歯噛みしたものだが、今はそうは感じない。お客様に安心というプライスレス商品を提供しているのだ。何も商品を売るだけが仕事ではない。
その一月後、12月。言わずと知れた年末。風邪を引くお客様も増え、世間同様、一年で最も忙しい月である。
あくせく商品出しをしている吉村の肩をポンポンと叩くお客様がいた。美樹本さんだ。今までに見たこともないくらい笑顔で話しかけてきた。
「美樹本様!こんにちは!」
「吉村さーん、相変わらず忙しそうね!」
「はい、おかげさまで!美樹本様も今日はだいぶお元気そうですね」
「私?私はまぁまぁよ。」
「お風邪などひかれていないなら何よりです」
他愛もない話で談笑する。ちょうどお客様が少なくなっている時間帯で、医薬品コーナーには吉村と美樹本さんの二人だけしかいない。
ふと、吉村は先月の接客のことを思い出した。
「そういえば息子さんの具合はどうですか?」
笑顔をいっそう咲かせながら美樹本さんは話し出した。
「そうそう、それで今日来たのよ!忘れるとこだった!息子ね、治ったのよーおかげさまで」
一瞬吉村の頭に疑問符が浮かぶ。
治った?うつ…とは言われていないが、その手の病気が?
「そうなんですね!よかったですね!治ったというと…」
「そう治ったの!お薬飲まなくて良くなったのよ」
「それは何よりです!他のお医者様にご相談なさったのですか?」
「ううん、違うの。あの日あなたに相談したでしょ。それからね、あなたに言われたとおり、薬をやめてみたの。そしたら息子の体調もすごく良くなってね。ほんと吉村さんに相談したおかげですー、ありがとう!」
え?
俺が…言った?
何を?え?
吉村の全身に鳥肌が立つ。
「そ…いえ…あの、私は…」
「吉村さーんレジでお客様がご相談でーす」
何をどう伝えていいかまごまごしているうちにレジで呼ばれてしまった。
「あ、忙しいところごめんね!また来ますねー」
上機嫌のまま美樹本さんは帰っていった。
もちろん吉村の心中は穏やかではない。明らかに美樹本さんは「あなたに言われたとおり」とおっしゃった。もちろん一言一句覚えているわけではない、だが病院からもらっている薬を勝手にやめるなんて絶対に言っていない。一言も。それだけは断言できる。
それでも伝わったことが全てである。なにをどう解釈されたか、美樹本さんは吉村の言葉をそう受け取ったのだ。幸いにも不具合があったわけではない。楽観視はできないが、最悪の事態は免れている。薬の種類によっては中断してはいけないものも少なくない。
吉村はそう言い聞かせる。次。次気をつけよう。言い方がまずかったのかもしれない。誤解を生まないように話せばいいだけだ…大丈夫、だよな…
しかし、ほんのわずかに頭をよぎる不安というものは得てして実現するもので…年明け、再び美樹本さんから相談を受けることとなる。
お題は、風邪。息子さんが病院でもらった抗生剤が合わないのかお腹を下しているという。困った。また前回のようなことがあるとまずい。が、風邪に抗生剤は基本的に効かない。何らかの意図がない限り出さない医師がほとんどのはず。
「どちらの病院に行かれました?」
「うーんとね、〇〇クリニックに行きました、もらったお薬もちゃんと持ってきたんですよ」
知り合いの医師がやっているところだ。薬もたしかに抗生剤。彼なら下手に抗生剤は出さない。
「そうでしたか。抗生剤は一時的にお腹が緩くなることも多いので、一緒に出された整腸剤をしっかり飲んで様子をみてください。ひどかったら病院に相談してもらったらいいですが、ただ抗生剤は途中でやめると意味がなくなってしまいますので、飲むならしっかり飲みきってくださいね!」
美樹本さんには悪いとは思ったが、前回のようなことがあるのは困る。
「全部飲みきるのね、わかった!ありがとう!」
「お大事になさってください!」
(今度は、きっと大丈夫。念も押したし、飲みきるっておっしゃってたし、大丈夫…)
…
…
数日後、またまた満面の笑みで美樹本さん登場。吉村はもはや嫌な予感しかしない。
「吉村さーん、こないだはありがとうねー!すっかり良くなったよ」
「そ、それはよかったですね。そのままお薬飲み切りましたか?」
「うん、ちゃんと飲みましたよ!」
ホッとする吉村。しかし…
「それと、前にもらってたメンタルクリニックのお薬、あなたが教えてくれたように一緒に飲ませたの。あれ飲んでる時便秘がひどかったからお腹が緩いならちょうどいいもんね、さすが薬剤師さん頭いい!」
!!?!!?!?!え?!?!?!!
俺が、教えた?いつ?何を?
「今日はお礼だけいいに来たの、また来ますね!」
もはや吉村の口から言葉は出なかった。
前回といい今回といい、一体何がそうさせているのだろう。悉く彼女はやってはいけない道を選び、しかもそれが吉村に教わったことだという。
ドッペルゲンガー的な者がいるのだろうか。さすがにそれはないだろう。最も有力なのは彼女の妄想。しかし普段は全くそんなそぶりすら見せない。普通のお薬の時は何の問題もないのだ。
息子?共通のワードはそれしかない。が、大事な息子にそんなことをするだろうか。大事にするあまり何かしてやりたい気持ちがそうさせるのだろうか。いずれにしても、不具合がなかったからよかったものの、万が一何かが起こった場合は自分のせいにされてしまう。
真面目な吉村は悩んでいた。どうすれば誤解なく伝えられるのか。いや、言ってもいないことを言ったことにされないのか。言って誤解されるならまだわかる。でも言ってもいないことをどうしろというのだろう…
美樹本さんは悪い人ではない。
だけど、
だけど、
もう来ないでほしい…
いつしか吉村はそう考えていた。
その思いが顔に出たからかどうかはわからない。ただ、年が開けてから美樹本さんは徐々に来店の間隔が開き、春を過ぎる頃にパタリと来なくなった。
〜〜〜〜〜
「よかったじゃないか」
「ああ、うん、まぁな」
僕と吉村はおでんが有名な居酒屋でグラスを傾ける。久しぶりに会って互いの近況報告ついでに今までの話を聞いたところだ。
「接客業って難しいよなー、俺には絶対無理。逆ギレしそう」
「はは、お前らしいな」
「なんだよ、オチが微妙だから茶化してやったんじゃないか。終わりよければ全て良しだろ。」
いつもなら真面目な吉村らしく、もっともらしい彼理論が展開されるところだが、今日はそれがない。僕はキャバ嬢じゃないんだ、暗い話で終わるのはよしてくれ。
「あのな」
「ん?」
「まだ、話終わってないんだ」
「え、まだ続くの?長いよ」
「いや、終わるには終わったんだけどさ、
…
…
…
まぁ、いいか!やめやめ」
急に微笑む吉村。何を言いたかったのか気になったが、本人がいいと言っているんだしいいってことにしとこう。僕の耳はかすかに彼の言葉を拾ったが、拾った気がしただけだ。今夜は、そうだな、とことん飲もう!
「あのな」
「ん?」
「まだ、話終わってないんだ」
「え、まだ続くの?長いよ」
「いや、終わるには終わったんだけどさ、
…
…
美樹本さんに息子はいなかったんだ。
まぁ、いいか!やめやめ」
作者春秋
あれ、何作目でしたっけ。
だらだらと長くなってしまいました。またもや。
読みにくくて申し訳ありません。あと薬剤師の方、気分を害されたら申し訳ございません。