「もういいよ」
私は席から立ち上がると、母を睨みつけた。
「もういいよじゃなくて――とりあえず座りなさい。話はまだ終わってないのよ」
母は深いため息を吐くと、コンコンと二回机を指で叩いた。母が苛立っている証拠である。
「もうお母さんと話すことなんてないから」
「真由美、いい加減になさい。全部あなたのことなのよ」
私は母に背を向け、リビングから立ち去った。母は私を引き留めようと言葉を投げかけてくるが、すべて無視した。
お母さんは頭が硬い。私は自分の部屋に入ると、鍵を閉め、ベットに寝ころんだ。そして天井を見上げ、虚しい気持ちになった。
あと40点だったのに…。
私は顔の向きだけ変えて、机の方を見た。机にはずらりと参考書が並んでいる。
あんなに買ったのに…バカみたい。
センター試験で失敗してしまった。何度自己採点をやり直しても私の志望校の最低ボーダーにあと40点足りていなかった。国語と地歴公民はもともと得意だったし、英語も思った以上にできた。直前やった過去問では酷かった理科二科目も八割とれた。
しかし、数学がダメだった。もともと苦手だということは承知していたが、あそこまで酷いとは思わなかった。
だから数学さえあと一年ちゃんとやれば、志望校に行けるのだ。
至極簡単なセオリーである。あと一年だけ勉強すれば楽しいキャンパスライフが送れる――とてもコスパがいいと思う。
しかし。
母はそれがわからないのだ。どうやら、母は現役で行かせたいらしい。だから別に行きたくない大学の行きたくない学部をやたらと勧めてくる。
死ねばいいのに、と思う。なんなら私が殺してやろうか。
行きたくない大学で、しかも学びたくないものを四年間やるなど苦行でしかない。新しい自分を見つけられると母は主張するが、じゃあそれが見つからなかったらどうするのと言いたい。その時は大学をすぐに止めて、ニートにでもなればいいのだろうか?
理不尽だ。
「理不尽だねえ」
一瞬それが声だとはわからなかった。
どきりとして、飛び起きる。
「だれ…?」
暗い部屋の中を見渡すが誰もいない。
「人生というのは時に理不尽だ。しかも大学という君の人生の分岐点だからそりゃあ、慎重になるだろう」
男の声だった。
「だれ…よ。ど、どこにいるの」
身体の芯が冷えて、うまく声が出せない。私は震える手で携帯を手に取った。
「上だよ上」
恐る恐る上を見上げる。
「きゃあっ!」
男が天井に張り付いていた。肌が尋常ではないほどに白い。
「な、なにしてるのっ」
「あんまり騒がないでくれ。別に危害を加えに来たんじゃない」
男は天井からベットの傍へと飛び降りた。
「…見ての通り僕は人間じゃない」
タキシードに身を包んだ男は不適な笑みを浮かべた。
「あんまり怖がるなよ。君とはビジネスをやりにきたんだ。取引しよう。取引。これは別に断ってもいい。もちろん、受けてくれればありがたいがね」
私は後ずさりして、なるべく男と距離をとった。
「では端的に言おう。君に数学の力を上げよう。その代わり人間の命を差し出してくれ」
「い、いのち…?」
「ああ、そうだ。心の臓とかそういう物質的なものじゃない。まあ一番近いのは魂という言葉かな」
「そ、そんなこと急に言われても…てか、数学の力なんて局所的なものじゃなくて、来年試験に合格できる権とかちょうだいよ」
「贅沢だなあ。僕はそんな上級じゃないからそんなものは上げられないよ。しかも君さっきお母さんに数学さえできれば絶対受かるって言いきってたじゃないか」
「そりゃあ、言ったけど…」
自信はあるが、絶対的に受かるという保証もない。
「ちなみに数学の力の範囲はセンターだけじゃない難関国公立にまで対応した力さ」
「参考書の帯に書いてあるような謳い文句ね」
しかし、それだけの力があればセンターなど満点を狙えるだろう。そもそも数学という教科を勉強する必要がなくなるため、その分他の教科に時間を回せるはずだ。
そういう面も考慮すれば喉から手がでるほど欲しかった。
しかし。
「で、でも、い、命ってそれって矛盾してない? 数学の力があったって、命がなきゃあ意味ないじゃない」
「大丈夫だよ。命ってのは君のじゃなくてもいい。君と繋がりが強い人だったら誰でもいいんだよ」
「……お母さんとか?」
「僕は全然かまわないが君はいいのかい」
「いいよ。別に。いてもいなくても変わらない人だし。そりゃあ育ててもらった恩はあるけど――」
邪魔だから。
そうだ。お母さんがいなければこのまま浪人もできるし、数学の力も手に入る。
「本当に数学の力をくれるの?」
「ああ約束する。というか約束しないと僕も殺されちゃうからね」
誰に、とは訊かなかった。私はただこくりと頷いた。
「契約完了だ。では君に一つ手伝ってもらいたいことがある」
謎の男はふっと笑うと、私に手を差し伸べてきた。
「来てくれ」
男の話によれば魂が引きずり出しやすいのはその人が喜びを感じているときだという。 階段を下りているときに何かとんでもない間違いをしているような気がした。しかし、そんな小さな疑念はすぐに消えてなくなった。
私は自分の将来を自分で切り開くのだ。母にはその犠牲になってもらわなければならない。
「間違っても僕のことや契約の内容を言っちゃだめだよ。お別れの言葉なんかもだめだ」
私の影の中に潜んだ男が囁く。
わかってる。そもそも言えたとしても、お別れの言葉なんて言うわけない。
リビングに入ると、机で項垂れていた母がばっと顔を上げた。
「…真由美」
私の名前を呟いて気まずそうに目をそらす。携帯を机の上に置いてのっそりと立ち上がった。
「お母さん」
その動きを制するかのように私は言った。
「お母さんごめんなさい。私――お母さんの言ってた大学受けてみようと思う。だって、現役で入ったほうが絶対いいに決まってるもんね」
母が何とも言えない目でじっと私を見つめてくる。
沈黙が場を制した。壁にかけてある時計の秒針を刻む音だけがリビングに響いている。
心臓が高鳴った。
「真由美…」
「いまだ!」
男が私の影から飛び出して、母の目の前に立ったかと思うと、首を弾き飛ばした。
「きゃああっ!」
母の頭は血をまき散らしながら宙を舞い、ごろりと地面に転がった。
「な、なにして…」
「こうするんだよ。言わなかったっけ? まあ言う義務もないけど」
頭のなくなった首からは血が飛び出ている。リビングが血だらけになった。
「魂を吸われたものはこの世の全員の記憶から消える。君は僕と契約してるから覚えているけど」
男は母の髪を鷲掴みにすると首を持ち上げた。粘っこい血がどろりと床に垂れた。強烈な血の臭いが私の鼻腔を突いた。
「やめてよ!」
男は驚いた顔をした。自分でも驚いた。無意識のうちに出てしまった言葉だった。
「意外だな。君がお母さんのことを心配するなんて。でも、これは契約。こいつをどうしようと僕の勝手さ。君は数学の力を手に入れた代わりにお母さんを売ったのさ」
刹那、男は母の目の少し上あたりに噛みついた。そこの肉が抉られ、鮮やかなほど赤い肉が姿を見せた。
私は耐えきれなくなって吐いた。
「おっと、この死体と血は消えていくけどそのばっちぃのは消えないよ。自分で処理しなくちゃならない」
男の口からぼろぼろと小さくなった肉が零れ落ちる。
何が起こったのかわからないというような虚ろな母の目が私のことを見据えていた。
「わ、分かったから! は、はやくきえてよ! もう何もないでしょう?」
「ああ。そうだね。数学の力は明日の朝にはもう身についているだろうし――僕はもうここに用事はないね」
男はそういうと指パッチンをした。すると、母の死体がみるみるうちに消えていく。
「ああ、言い忘れたこの契約は返品不可だよ。いくら君が願ったところで僕はもう現れない。というか、現れられないというほうが正確かな」
半透明になった男はそういうと、完全に消えた。リビングにまき散らされた血もなくなった。
私は自分の出したものを見て、それから机の上に目をやった。
母のスマホがある。私が選んであげたスヌーピーのケースを纏ったスマホだ。もうボロボロだから変えればいいのにと私が言うと、お気に入りだからと母はいつも笑った。
何故これは消えないのだろう。
私は机に歩み寄ると、スマホを手に取った。
――一年後。
結局私はどこの大学も受けなかった。就職もしていない。何もしていないくせに去年以上の無力感が私を襲った。この一年はからっぽだった。
父ももう呆れて何も言ってこなくなった。
私は机の上の母のスマホを見つめる。
もしこれが残っていなかったら、私は吹っ切れて勉強をしていたのかもしれない。そうしてセンターで十分な点数を取って、二次試験に備えて頑張っていたのかもしれない。
でも――。
あの日、残された携帯の画面を私は見てしまった。もう触れない母の優しさに触れてしまった。
『うちの娘センターがダメだったんです。さっきもそれで喧嘩してしまって…。私はできれば現役で行ってもらいたいんですが、母親も頑固だったら娘も頑固ですね。自分の行きたい志望校に行きたいというんです。最初は反対してしまったけど…よくよく考えてみたら娘もこの一年頑張ってたなあって。好きなドラマも我慢して、友達とも遊ばずに…。なら、もう一年頑張ってあげさせてもいいかなあって思ったんです。あの子が幸せになってくれさえすればなんでもいいと思うんですね…すみません。長々と。お返事いただけると嬉しいです』
見てしまった瞬間、ああもうダメだと思った。自分はもう何もできない。やる資格がないのだ。だからといって自分じゃ死ぬこともできないクズだから今もこうやってのうのうと生きてる。一生晴らせない罪を背負いながら。
合格したらきっと一番喜んでくれるに違いない。けど、よかったねおめでとうと言ってくれる母はもういない。
なら何をやったって無駄だ。数学なんてなんの役にも立たない。
私は暗い部屋で、ただ泣いた。
作者なりそこない