生きている人間が一番恐ろしい。
よく耳にする文句だけど、それが本当だと感じた体験を聞いてほしい。
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ある日、俺は有給を使って得た貴重な午前を惰眠によって浪費していた。
なんだかんだ休みの日は家で寝ているのが一番だということを俺は知っている。
初夏の日だったが、午前中は湿度も低く、窓から差す陽光は俺の惰眠を犯罪的な心地よさに仕立ててくれた。
俺が恐らく午後まで続くだろう熟睡に入っていこうというとき、インターフォンの呼び音が鳴った。
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俺は一度は無視したが、二度、三度となると流石にそのまま眠ることもままならなくなり、俺の甘美な睡眠を妨害した不届きものに怒りを募らせ玄関に向かった。
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はい。なんでしょうか。
ドア越しに俺が言うと、ドア窓に映るシルエットに動きがあった。
動きはあったが返事はない。
俺は自分で読んでおいて返事も挨拶もない訪問者に我慢ならなくなり、わざとぶっきらぼうにドアを開けた。
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立っていたのはまだ若そうな男だった。
20?30?若そうではあるが、身に付けている質素な無地のシャツとチノパンからするにあるいはもっと年上かも知れなかった。
表情は不気味だった。人間、本当の真顔というものは実は中々できないものだと思う。無表情を繕っても頭の中の考えや感情が顔の筋肉を動かし、いかにも人間くさい表情にすることだろう。
しかし、その男は無表情そのものだった。俺もあるいは生まれて初めて見た人間の表情だったかもしれない。
ガタイは決して良くなく、さして背も高くないその男に俺は恐怖した。動物的な危機感をはっきり感じとった。
目の前にいるのはヒトだが人間ではないような気がした。すなわち野生の獣。このまま視線を交わわせれば、ヤツは俺を害するだろう。
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意外にも男が口を聞いた。
いや、恐ろしい印象こそ持ったが衣服を纏った文明人なのだ。当たり前だろう。
「突然お邪魔してしまいすみません。厚かましいとは思いますが、お水を一杯頂けませんか」
見た目の不気味さに反して、声色と口調は丁寧で紳士的だった。
とはいえ、初対面の人間にいきなり水をくれとは常識的にどうなのだろうか。
俺はそう思ったがさっきの緊張も男の礼儀正しい口調で多少緩和され、また紳士的にお願いされたのだから断るのも気が引けた。第一、たかが水ではないか。
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俺はコップに水を注ぐと男に渡した。
「ありがとうございます。頂きます」
男はやはり無表情のままコップを空にした。
そしてまたこちらを見つめてきた。
俺に再び不安と恐怖が押し寄せてきた。
「すみません。もう一杯、頂けませんか」
男は平坦なトーンで言った。
よっぽど喉が渇いていたのだろうか?だが、いくらなんでも図々しくないだろうか。口調こそ丁寧だろうが厚かましいにも程があるのでは?
そうは思ったが、もう一杯やることにした。
断ったとしたら?頭には不安なイメージが何パターンも過る。
思えば、貴重な休養を邪魔された怒りもいつしか恐怖の感情に移り変わっていた。
そうだ。もう一杯やろう。ヤツの気分を損ねてはならない。たかが水ではないか。
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俺は再び水を男にやった。
男は再びコップを空にした。そしてまた俺の目を見つめてくる。
まさか。まさかもう一杯か?
俺はどきまぎしたが、どのくらい無言の応戦が続いただろうか。
男は浅く会釈をすると水の礼を言い、自然すぎて不自然に思える歩調で去っていった。
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やっと終わった。
安堵して額に手を回すと汗が滲んでいた。初夏とはいえ、まだ汗が吹き出るような気温ではない。
せっかくの有給休暇にとんだ来客があったものだ。
俺は先ほどの緊張と疲れを癒すため、再びベッドに戻った。
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夜。
なんだかんだ寝溜めといってもいいくらい寝た俺は、汗をかいたビール缶を片手にテレビを見ていた。
出来の悪い旅番組、退屈なバラエティ。今宵、休みの夜のラインナップはどうやらハズレらしい。
どうせつまらない番組しかないのなら、朝しか見ないニュース番組でも見るか。俺は某局のニュース番組にチャンネルを変えた。
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画面下の赤いテロップには速報の文字。
その上の映像は俺の家の近所だった。
沢山のパトカー。警察。野次馬。立ち入り禁止のテープ。
映像内のリポーターの話す内容を聞くに、殺人のようだ。
午前中に見た不気味な男がフラッシュバックする。再び嫌な汗が全身に滴るのを感じた。
「あっ!いま犯人と思われる男が警察に拘束され出てきました!服には返り血でしょうか?赤い何かがついています。繰り返します。いま警察に拘束され犯人と思われる男が...」
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まさかと思った瞬間だった。画面に移った男はまさしくあの不気味な無表情男だった。
警察に連行される姿が映像で流れているが、やはり何か不自然な程落ちていて、殺人をした人間の様子ではないような気がした。
ふと、男の視線がカメラを捉える。
あの不気味な目線が再び。俺は失禁した。
もしあのとき、判断を誤ったら俺は。
生きている人間が一番恐ろしい。こと、自然な感情を持たない人間は。
作者えのき