高校2年の夏の事。
夏休みの始めにクラスメイトの女友達3人で、2泊3日の旅行に行った。3人の内の1人、中野さん(通称中ちゃん)の親戚が民宿を経営していた事もあって、都心から電車で2時間の海沿いの町で過ごす事になった。
初日から、宿に着くなり海に行って遊んで、日帰り温泉に入って、夜は民宿の女将である中ちゃんの叔母さんが作った美味しいご飯を堪能した。普段よりもかなりテンション高くて、なかなか寝付けずにいた。
布団に寝っ転がりながらしばらく恋愛話なんかに花を咲かせていたが、そのうち自然と怖い話しようという流れになった。まあ、若者数人が集まるとよくあるパターンだと思う。
話そのものは、今思うとかなりお決まりの、ありきたりな話(心霊スポットに行ったら変な事起きたとか、金縛りにあったとか、髪の長い不気味な女を見たとか、呪われた日本人形だとか…)がほとんどで、実際に体験した話は1、2個ほどだった。
だけど、部屋の明かりを暗くしていて、外は街灯も少なくほぼ真っ暗。窓の外からは、波の音だけが聞こえてくる。この独特の雰囲気が恐怖感を2倍増しくらいにしていた。
途中途中ネタが無くなると携帯のオカルト系サイトに載ってる動画サイトを挟んだりしていたのだが、ある話を境に私はずっと中ちゃんの様子に少し違和感を感じていた。
それは、ユキノが子供の時に体験した話をした時だった。
風邪をこじらせて高熱でうなされていたら、ある晩亡くなった祖父が夢枕に現れて、ずっと手を握ってくれて、安心して眠りに着いた。そして一晩経つと祖父の姿は消えていたが、嘘のように熱が下がり、みるみるうちに元気になったそうだ。大好きな祖父が病気を持っていってくれたのかも、今でもそれがすごく思い出に残ってるんだ、と。
感動系の体験談だったし、怖さは全くないどころか、場面を想像して少し目頭が熱くなっていた。だが、さっきまで3人の中で1番キャーキャー盛り上がってた中ちゃんが突然大人しくなり、ユキノの後の話にも、うんうんと静かにうなづくだけで何も言わなくなっていた。
「もしかして眠いのか?」と私もユキノも最初は思っていた。しかし、体育座りして膝を抱えている腕がかすかに震えていたのを見て、私は心配になり「どうかしたの?」と声を掛けようとした。だが次の瞬間パッと部屋の明かりが付いた。びっくりして振り返ると、「あら、まだ寝てないの?こんなに暗い中何してたの?」と、部屋の入り口に女将さんが立っていた。
ポカンとしている私達を見ながら、女将さんは「ちょっと下に降りてらっしゃい」と言ったので、もしかして、ずっと話がうるさくて怒っているのか?とヒヤヒヤしたが、民宿の裏口にある縁側に、ジュースと線香花火のセットが置いてあった。
女将さんは「今日明日は泊まるのあなたたちだけだから。くれぐれも気を付けてやるのよ」とニコッと笑い、裏口のすぐ向かいにある離れ(女将さんの家族や従業員の居住スペースになっている)に帰ってしまった。
さっきの中ちゃんの様子が気にはなったが、線香花火をしているうちに、いつもの中ちゃんの調子に戻っていた。眠かったのか、怖かったのか、その時はまだわからなかった。花火を終えて部屋に戻ると1日はしゃぎ疲れたせいで途端に眠くなり、私は布団に入るなり眠りに落ちてしまった。
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翌朝、私はユキノに体を揺すられて起こされた。うすぼんやりとしたまま何があったのか聞くと、「中ちゃんがいなくなった」と。起きて布団を見ると、3つ並べた布団の真ん中に寝ていたはずの中ちゃんがいなかった。荷物も携帯も置きっぱなしのまま、布団だけが空っぽになっていた。
「もしかして昨日の様子が変だったのが原因かも…」私とユキノは宿の中を探した。共同トイレや風呂場、リビングや縁側を見に行ったが姿が無かった。時刻はまだ朝の5時だ。宿の反対側からは、波の音が聞こえてくる。まさか…私達の頭に最悪のパターンがよぎった。
急いで女将さんを呼ぶために離れのインターホンを鳴らした。だが何の反応も無く、中に人がる気配すら感じられなかった。「警察に電話しなきゃ…」私達はそう言いながら玄関の前で半ばパニックになっていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、ガタイの良い中年の男が鍬を持って立っていた。
異様な出で立ちを見て固まっていたのだが、男はガハハと笑って目深にかぶった麦藁帽を取った。宿の周りの草刈りをしていた女将さんの旦那さんだった。私達は中ちゃんが居ないことを伝えると、「キヨコ(中ちゃんの名前)ちゃんとカミさんなら裏山に行ったよ。」と居場所を教えてくれた。
まだ薄暗い裏山を20分くらい進んだ。裏山とはいうものの、斜面に大昔からの墓標が建ち並ぶ墓地だった。もう少し上ると寺社があるそうで、山そのものがお寺の敷地だと旦那さんから教えてもらった。
声を掛けると、女将さんと中ちゃんはゆっくりとこちらを振り返り、少し驚いた表情をした。「ユキノもリリ(私)も爆睡してたから、起きないだろうと思って」と中ちゃんは笑っていた。だが、ずっと探していた事や、昨日の様子が少し気になったと言うと、中ちゃんは女将さんの方を見て、何かを確認するように不安な表情をした。女将さんも何かを知っているようで、静かにうなづいた。
私達の前には、女将さんの母親、中ちゃんの父方の祖母が眠っている先祖代々の墓があった。
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中ちゃん家が父子家庭であることは知っていた。だがそれはつい最近の話で、両親が離婚して暫くは母親と一緒に暮らしていたそうだ。父親とは定期的に会ってはいたものの、父方の親族に会うことも、田舎に行くことも全く無かったという。
最初の内はそれでもさほど気にしていなかったが、中学2年の途中から母親が新しく彼氏を作って家で同棲するようになったことで、それまでの家の空気が一気に変わってしまった。
父親とも会う回数を減らされ、逆に彼氏と仲良くなるようにと母から迫られるようになった。更に言うとその男から、母親の居ない時に言い寄られるようになったそうだ。相手にしないでいると次第に暴力的な事を言われるようになり、完全に彼氏にべったりになっていた母親から冷たくされるようになった。
次第に中ちゃんは父親の元に行きたいと思うようになったのだが、肝心の父親が仕事の都合で海外にいた。中ちゃんは一か八かで、父親から昔聞いた話の記憶を頼りに、半ば家出同然で父の田舎、つまりこの民宿のある町に行き、女将さん達を訪ねたそうだ。
女将さん達は最初、会ったことのない姪っ子が突然現れ困惑した様子だったという。すぐに追い返されてしまうと思ったが、祖母は何も言わずに家にあげてくれたそうだ。
祖母は母親側から一方的に関係を断ち切られ、孫にずっと会えずにいたことを誰よりも気にしていたそうだ。中ちゃんは祖母の計らいで暫く本家で過ごすことになり、その後海外赴任から戻ってきた父親と同居した。女将さん曰く、祖母はやっと孫との繋がりが出来るようになったと、とても喜んでいたという。中ちゃんが高1の時、ちょうど去年の今頃の時期に亡くなるまで、祖母は可愛がってくれたそうだ。
しかし、葬儀を終え、荼毘を済ませた夜の事だ。本家の自室で寝ていると、名前を呼ぶ声がした。目を開けると、枕元に正座をしてこちらを覗く祖母の姿があったそうだ。
中ちゃんは夢だと思っていたのだが、生きていた時と変わらないその姿を見て、ふと気が緩み、泣きながら会えなくなって寂しい、母親が変わってしまって苦しいと吐露したそうだ。すると、枕元の祖母は「悪い奴はやっつけるからね」と、穏やかな声で言ったあとフッと消えてしまったという。
不思議と怖さも無く、その時は言葉の意味があまり分からなかった。だが、それから程無くしてネットのニュースにある変死体の記事が載った。名前を見るとそれは母親と付き合っていた男だった。
1か月前に突然行方をくらまして、土地勘が無いと行けないような地方の山奥から、一部白骨化した状態で発見されたと書いてあるのを見て、それがちょうど祖母が現れた日と重なっていた事に気づいたそうだ。
それまで幽霊の存在はあまり信じていなかったが、あまりにも偶然の出来事に、中ちゃんは「祖母がやったのか?」と少し怖くなったという。しかし、それからも祖母は、中ちゃんの夢枕に度々現れるようになった。
中ちゃんは祖母が現れる度に、「自分に嫌なことをした人達」の事を話した。母親の異性関係を理由にいじめてきた塾の元クラスメイト、部活の嫌味な先輩、通学のバスの中で肩がぶつかって、舌打ちし睨んできた男…
祖母は中ちゃんの話が終わると、毎回同じように「悪い奴はやっつけるからね」と言った後消えてしまうのだが、それから1か月の間に、元クラスメイトが事故に巻き込まれて寝たきりになったとSNS伝いに知らされたり、先輩が突然転校したり、睨んできた人が他の乗客に因縁をつけたとかで警察に連行される姿を見たりと、まるで祖母が仕返ししたかのように次々と不幸なニュースが舞い込んできた。
「ざまあみろ」
中ちゃんは心の中で思った。そして祖母が夢枕に現れるのが、密かな楽しみになっていた。
だが、1つだけ気になることがあった。祖母は現れる度、姿がくすんで見えるようになっていたそうだ。
そして、今年の正月で帰省した時の事。本家の寝室に再び祖母は現れた。だが、その姿は以前よりも変わっていた。祖母の姿であるのことに変わりは無いのだが、黒い塊、影のようになっていたそうだ。
祖母は両手をついて四つん這いに、ちょうど着物で正座から立ち上がる時のような姿勢でこちらをのぞき込み、目の部分だけが目出し帽を被ったようにはっきり見えたという。
祖母らしきその塊は、「キヨコ、悪い奴はいないかい?」と話しかけてきたのだが、以前の穏やかな声ではなく、なんだか機械が喋っているような、抑揚のないものになっていた。楽しみだったはずの夢枕の祖母の変わり様に、中ちゃんは怖くなり、泣きながら「ごめんなさい」と言うしかできなかったという。
だが、祖母は繰り返し「キヨコ、悪い奴はいないかい?」とずっと同じことを問いかけてきたそうだ。まるで、「嫌いな人間を言わない限り止めない」とでもいう様に。
そして視界全体に祖母と黒いもやが映り、口が勝手に何かを話そうとした時、女将さんが中ちゃんの名前を大声で呼びながら、戸を開けて入って来たそうだ。その瞬間祖母の姿は消え、黒い靄のようなものが戸を抜けていったという。
中ちゃんは、祖母が亡くなってから起きた一連の出来事を全部女将さんに話したそうだ。
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緩やかな傾斜を20分程登った先にある、年季の入った寺の境内の中に私達は居た。小さな仏像と装飾のある座敷で、女将さんと中ちゃんはこれまでの出来事を話していった。
本尊の前の座布団には、中年ぐらいの住職が座っていて、時折「そうですか」「ええ、うん」と、穏やかな口調で相槌を打っていた。2人の後ろに座っていた私とユキノは、静かにその姿を見守ってはいたが、ひざに置いた手を、震える脚を止めるため「ぎゅっ」と握りしめていた。
住職は一連の出来事を全て聞き終わると、しばらく間を置いて2人にこう言った。
「おばあ様はきっと、成仏しきれてないのかも知れない」
「恐らく、孫娘の事が心配でたまらずあの世に行けないままでいるのでは」と。
「もう20年前でしたかね。あなたの祖父が亡くなられ、おばあ様はその後1人で過ごしておられた。おばあ様はかなり心配性なお人だと方々から聞いていましたし、亡くなられる1ヶ月前にも、ここまでお参りに来ておりましたよ。」
「ご家族が引き留めようとしたが振り払ってきた、なんて自慢気に言っておられた。本当はそんなこと出来る具合じゃないのに。来る度に、孫が心配で心配で堪らないと言っていました。」
「夫と死別し、子供も自立し離れていった。気にかけたい相手が居なくなってしまったことが、寂しかったのでしょう。しかしそんなときに、孫のあなたがやって来た」
「寂しい思いをしてきた孫に会えたことが嬉しかったのでしょうが、反対に自分が先に逝ってしまう事で、また悲しい思いをさせてしまうとも思っていたようです」
「恐らく夢枕に現れたのはその為だと思います。あなたを傷つけた人が仕返しのような事態になったのは、時間軸を見れば辻褄が合いますが、因果応報という事もあります。キヨコさんも女将さんも、本当におばあ様がやっていると信じておられるようですが、それはどうでしょうか?」
「どちらにせよ、恐らくおばあ様は、あなたやあなたを傷つけた人が持っている負の気を吸い込み、姿が変わってしまったのだろうと思います。黒く見えたのはその為では。このままでは、きっと成仏しあの世に行くことも出来なくなります。もっと言うと、おばあ様の意思がコントロール出来ず、悪霊になることもあるでしょう」
「どうなさいますか?キヨコさん、あなたはお若いが随分と苦労された。しかし、自分の力で、勇気を出したからこそ、おばあ様や女将さん方にも出会えた。しかし誰もが皆死にます。死んだあとは穏やかなあの世で過ごされるのが一番だと、私は思っています。特におばあ様のような方にはね。どうかあの世の穏やかな世界から、見守ってもらうことにしませんか?」
住職の話を聞きながら、中ちゃんが泣いているのが分かった。そして中ちゃんは、「お願いします!おばあちゃんがあの世に行けるようにしてください…私、バカでした。おばあちゃんが自分の思いを叶えてくれるなんて思ってました。私のせいであんな怖い姿になってしまったなんて…!」
女将さんも涙を拭いながら、「母は心配性でしたから…私が宿の女将になる、嫁ぐって時も大変で…私も弟も、しばらく母とは距離を置いていたんです。でも、キヨコちゃんがまた引き合わせてくれたのかもね…死ぬ前に。」そう静かに言った。
住職は2人の話を聞いた後、「わかりました。では、これから経をあげさせて頂きますね。」と言った。そして私達の方を見て、「お2人さん、どうしますか?一緒に居ても大丈夫ですが、別室で待っていることも出来ますよ」と聞いてきた。
正直、私はここにいられる自信が無かった。中ちゃんの体験が本当だとしても、それを消化し理解するのには時間が欲しかったし、なんだか見慣れない事を見物しているような、そんな気分になっている自分に卑しさを感じていた。
「別室で待たせて下さい。どれだけ時間が掛かっても構いません」と3人に話すと、私とユキノは大部屋の隣にある、待合室のような小さな座敷に案内された。障子の向こうでは、シン…と一旦鎮まった後、仏具の音と住職の読経が響いてきた。
住職の奥さんらしき人がお茶菓子を出してくれたのが、中ちゃんの事が気になり手を付ける事が出来なかった。
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30分は経っただろうか。チーン…と鈴の音の余韻が消えると共に、読経が止んだ。そして、暫くして障子の戸が開き、「終わりましたよ」と住職が声を掛けてくれた。
「中ちゃん…女将さん…大丈夫?」と恐る恐る私達が声を掛けると、2人共「ありがとうね、待っててくれて。」と穏やかに微笑んだ。「もう大丈夫でしょう。おばあ様も、これでちゃんと成仏出来たと思います。」住職も、安心したような表情をしていた。
宿までの帰り際、ユキノが突然「私でも出るかもなぁ」と中ちゃんに言った。
「ほら、中ちゃん学校とか遊んでる時とか、ドジっ子なとこあるじゃん?海に行ったときもさ、お気にのブレスレット流された~!とか言って(笑)結局何かの海藻とブレスレット間違えてて、バッグの中にあったっていうね(笑)」
「でもさ、中ちゃん色々辛い事あったなんて知らなかった。知らないで色々デリカシー無い事言ってたかも。ごめんね。これからは私達にも言ってね、何かあったら。てか、ぶつかってきて舌打ちとかなくない?私だったらもっとヤバい事考えてるわ~(笑)」
「ブレスレットの話はやめてよ~!恥ずかしかったのに!(笑)」
それまでのどこか緊張した空気が一気に解けた。宿に戻る頃には、宿に着いた初日の空気と同じような雰囲気に戻っていた。旦那さんはキョトンとしていたが。私達3人はその後また海水浴に行ったり、土産選びを楽しんだりして、次の朝を迎えた。
帰りの電車の中、ふと、窓の外を見ながら中ちゃんが「おばあちゃんね、夢に出てきたんだ。」と言った。「えっ⁉」と驚愕する私達を見て少し笑うと、
「もう変な姿じゃなかったよ。私の知っているおばあちゃんだった。夢の中でね、おばあちゃん、涙を流しながら、『ごめんね』って言ってた。
なんで謝るんだろうって、謝るのは私の方なのにって不思議だったけど…。私さ、『もう安心して大丈夫だから、これから何があっても頑張るから、見守ってて。私には味方になってくれる友達や家族がいるから』って言ったの。」
「そっか…良かった。てか泣ける事言うじゃんか~」
「(笑)おばあちゃんにね、そう言ったら『そうかい…』って言って、フワッで消えちゃった。心配性だもん、きっと100%納得はしてないだろうけど(笑)でも、いつかそう思って貰えたら良いな」
それから乗り換えの駅に着き、私達はそれぞれ別の路線になる為、駅構内で別れた。
「現像終わったら連絡するからまた会おうね!」
「また、っても来週とかじゃない?(笑)」
「ユキノ、リリ、ほんとありがとね。」
「私らこそありがとね。ほんと楽しかった。また来年行こうよ!その前に来週ね~」
「じゃ、バイバーイ!」
家族にメールしていると電車が来るアナウンスが聞こえてきた。顔を上げるとふと向かいのホームが目に入り、見ると中ちゃんが立っていた。「中ちゃーん」と手を振ると私に気づいたのか、こっちを見つめてきたのだが、どこか今さっきと様子が違った。こちらを見る中ちゃんは、何かをつぶやくように言っていた。
「ご め ん ね」
そう言っているように聞こえた。そしてホームに到着した電車に遮られ、中ちゃんの姿は見えなくなった。ごめんね…何のこと?もう問題はほぼ解決したのだからいいんじゃないか?
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1週間後、ユキノから珍しく、メールではなく着信が来た。
「もしもし?お疲れ~!写真出来たの?」
「リリ…ちょっとヤバいかも。」
「え?」
「うちらさ、帰る前、旅館の入り口で写真撮ったじゃん?女将さんと女将さんの旦那さんも入れて5人でさ。デジカメだから撮った時の感じってわかるじゃん。その時は、何ともなかったの。でもさ、でも…」
「ユキノ…どうした?何があったの?」
「…ごめん、渡せないこんなの。中ちゃんには絶対!ねえどうすればいい?あのお寺に持っていくべきかな?」
受話器の向こうのユキノが涙声になっていた。渡せないって、どういうこと?
「女将さんの姿が、真っ黒なの。中ちゃんが夢枕で見た感じ?…目の部分だけ写ってて、他は黒い影みたくなってて…怖いよ、リリどうしよう!」
私はなんとなく、違和感に気づいていたのだ。
夏休みの時期に、泊まってる人が私達3人だけだなんて。それにこのタイミングでお寺で祖母の供養ってなんか変だ。盆だってまだ先なのに。中ちゃんが黒くなった祖母の姿を見たのは年末年始だったはず。その間、中ちゃんも女将さんも何をしていたのだろう。
それに、旦那さんが車で駅まで送ってくれた時の事が忘れられない。
後部座席越しに、遠ざかる宿の入り口で、さっきまでニコニコ見送ってた女将さんが、目を見開いて、真顔でジーーーーッとこちらを見つめていたのだ。
今になって思う。中ちゃんの祖母は、既に、葬儀の時にとっくに成仏していたんじゃないのか?
だとしたら、今まで中ちゃんの夢枕に現れていた「モノ」は一体?そもそも、供養なんて出来るものだったのか?
中ちゃんの「ごめんね」の、本当の意味は一体何だったのだろう。
だが今となっては、もう聞けないのだ。中ちゃんは、ホームで見た姿を最後に、夏休みが明けると共に父親と一緒に海外に行ってしまったと担任から聞かされ、連絡先も全く、繋がらなくなってしまった。そして、また一緒に行こうね、と約束したあの宿は、女将さんの失踪と共に閉館したそうだ。
女将さんの部屋には、人形の形をした紙切れが大量にあったらしい。
あの時の写真は、ほとんど焼いてしまったが、セルフタイマーで撮った、3人の姿を写したものだけは今も大事に仕舞ってある。
いつかまた、ちょうど今頃に会えることを信じて。
作者rano