先月の下旬から長いこと続いていた天気の崩れがようやく回復したのか、カーテン越しに窓の外から強い日差しが否応なく差し込み、目が覚めた。
ムクリと上半身を起こした途端に、空きっ腹の中で、気持ち悪い、罪悪感みたいなものがうごめいている感覚に陥り、うずくまった。
───どうしよう…
友人の柏木の家に転がり込んでから、もう3日も経っていた。無理言って、物置部屋のスペースと寝袋を貸してもらい、寝泊まりしていたのだ。
なんとか起き上がりリビングに向かうと、柏木はすでに起きていた。ソファーの上であぐらをかきながら朝飯を食っている。
「おはよう…」
「おっ!おはよう!良く眠れ…てないなその感じは(笑)」
そう言って柏木は、2リットルのペットボトルの水を片手に、ニマニマと俺の方を見た。
「悪いな…3日も泊めて貰っちゃって」
「あー、いーのいーの。てか俺もあんな部屋しか用意できなくてスマンな。3日連続で寝袋じゃ、さすがに体が痛ぇだろ(笑)マットレスかなんか買っておけば良かったな~」
ボリボリ頭を掻きながら呑気に話す柏木を見て、気持ち悪さは一旦身を潜めた。
寝袋とは言え、フローリングに直に引いてたから、肩と背骨に多少の痛みは感じていたし、正直自宅のベッドの方が良いに決まってる。だが今は、自宅よりも柏木の家に間借りしている方がずっとマシな状況だった。
「無理言ってごめんな…」
「大丈夫だって!(笑)てかお前こそ大丈夫かよ?連絡来たもんだから、遊びにでも来んのかって思ってたけど、玄関開けたらお前メット被ったまま真っ青な顔でずぶ濡れで立ってんもんな。ビビったわ(笑)」柏木はまたニマニマしながら俺に言った。
はは…、と苦笑いするしかない。実際にあの時の俺は精神的にかなり切羽詰まっていたのだ。
3日経った今でも、「あれ」は悪夢だったとしか思えない。
ふとした隙にあの光景が鮮明に浮かんでしまいそうだったから、この3日間は酒と馬鹿話とAV鑑賞をして過ごした。そのせいか悪夢の記憶はほぼ消え始めているが、胃の底から恐怖が吹き出してきそうな感覚は未だ抜け切れていない。
「まあ、お前も気の毒だよな。自分の家で半同棲してたのに、女の方に追い出されるなんてよ。気の強いの持つと苦労が絶えねえな(笑)ヒス起こされてキレられて、包丁向けられたなんて聞いた日にゃ、俺だってそのまま追い出すわけにはいかねえよ(笑)」
「まあ。まあな…俺、別れ方下手糞だからさ(笑)…女と付き合うって難しいな!」
「そーいうもんだよ!やっとわかったか(笑)」
コンビニのパンを齧りながら、ダラダラと朝のニュースを見る。柏木は「こういう娘がいいよなあ、お前どう思う?」と、天気予報そっちのけでお天気キャスターを指さした。ショートヘアで清楚な格好をしたキャスター兼タレントの女子が爽やかに笑っている。
ぼんやりとした頭で「いいんでない?」と答えたが、正直どうでもいい。
それよりもこれからどうするかを牛乳を飲みながら考えていたら、柏木から「なあ温泉行かね?最近リニューアルしたスーパー銭湯。盆休みっつても俺実家には帰らないし。パーッと風呂浴びてまた飲みにでも行こうぜ」と、スーパー銭湯の特典付き入場券を、俺の顔の前にひらつかせた。
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一通り温泉に浸かり、クーポンの特典で指圧を受けた後、屋上の足湯に浸かってコーヒー牛乳を飲みながら遠くの景色を眺めた。
肩と腰の凝りもほぐれ、ぼんやりと雲の流れを見る。いやあ極楽だよなあ、と隣で柏木が笑う。平和だ。こんな日がこのまま続けばいい。もうこのまま柏木んちに住まわして貰おうか…なんて本気で思い始めていた。
が、現実はそう思い通りにはいかない…ポケットに入れていたスマホがしきりに鳴っている…さっきから、彼女の母親から連絡が着っぱなしなのだ。
「あなた、別れるって本気なの?」
「もう少し、話し合って貰えないかしら…」
俺が出て行った途端これだ…あいつはマザコンなのか?それとも母親が過保護なのか…?
「あの子はほんとは、あんなことする子じゃないのよ…わかってやって」
やめてくれ。俺はもう、あいつとは別れたい…あんなことって…包丁振り回されたんだぞ!
「お?なんだそれ…あああ~言ってた奴か!しつけーってやつ(笑)」
柏木がスマホ画面を覗き込んで言った。笑い事じゃねーんだよ…もう。
「柏木…申し訳ないんだが、もう暫く泊まらせてもらえないかな…もう帰りたくねえよ…」
「…お、おぅ…いいぞ、そんなのは、狭いけどお前がいいなら。けどよ、荷物どうすんだ?」
「それなんだよな…鍵と財布とスマホと、原チャしかもってきてねえから、明後日からの仕事どうしよ…」
もしかしたら、怒りに任せた彼女が滅茶苦茶にしてしまっているかも知れない…そう思うだけで、気が滅入った。そんな気も知らねーで、復縁だとか…あの母親、何考えてやがる…
「おい…おい!何なら俺も一緒に行ってやるよ。な、そんなら怖くねえだろ?もし万が一、万が一だぞ?その時は警察に連絡だぞ、いいな?」
俺は気が付かない内に泣いていた。情けねー…何やってんだ。彼女は今頃どうしてんだろ。
まだキレたままだろうか?母親が一緒に居たら厄介だな…
なんて思いながら、俺は柏木に背中さすられて更衣室に戻った。
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原チャを置いて、電車で来た道を戻る。一駅、また一駅と…最寄りに近くなる毎に憂鬱さが増したが、もう覚悟決めるしかなかった。
緊張を解すために、敢えてどうでもいい話をしながら歩いていたが、駅から徒歩10分という場所では、まったく意味が無かった。
築5年の、まだ真新しい賃貸アパート。彼女を迎え入れた時は、あんなに嬉しくて、夢が溢れてたのにな…何でか、ごちゃごちゃになっちまった。
俺が悪いのか?女の複雑な感情の変化には、俺なりに分かっていたつもりなんだけどな…
そんなこっ恥ずかしい事を考えながら、震える手でポケットの鍵を取る。
マジで開けなきゃいけねえんだな…
ガチャ……ギッ…ギギィ…
最小限の音を立てながら、恐る恐る、俺は部屋に足を踏み入れた。後ろには柏木が居る。何かあったら逃げりゃいい…そう言ってくれたから心強い。さあもうどうにでもなれ!俺は手探りで、電気のスイッチを付けた─────
「え…?あれ?」
電気が消えている…という事は?
俺はそのままバタバタと部屋に入って行く。
「…誰もいないじゃん」
俺と柏木は、呆気に取られていた。
彼女の姿は無かった…いや、それどころか綺麗サッパリ、あいつの服が入っていた衣装ケースや…気に入って飾ってたポスターや、雑貨も何もかも無くなっていたのだ。
3日前に振り回していた包丁も、ちゃんと台所に戻され、むしろ台所全体が綺麗に片付けられていた。
はは…何だこれ。
一気に力が抜けて、床にへたり込む。
本気だったんだな。別れるって…いや、俺だって望んでいたじゃないか…だがな…
「まあ…すっきりした終わりじゃないけど、俺もそういうの経験あるからさ!…良かったじゃん、俺んとこで肩身狭いのよりも、自分ちの方がいいって…良かったな!おい!」
柏木にバンバン背中を叩かれてむせた。ギャーギャー騒ぎ立ててたのは俺の方だって気づいて、恥ずかしさで死にたくなったが、何事もなかったかのように存在する「我が家」に、安堵した事も確かだった。クソだ。
「…とりあえず、飲むか」
俺は、こないだ買ってまだ1つも飲んでないビールの事を思い出して、冷蔵庫に手を掛けた。
…その時だった。冷蔵庫の、ヴーン…という機械音に混じって、
ヴーッ…ヴーッ…ヴーッ…
という何かのバイブ音が、奥の方から聞こえてきたのだ。そして、手前にあった6缶セットのビールをどけると、そこにはスマホがあった
───────彼女のスマホが。
ヴーッ…ヴーッ…ヴーッ…
何で?あいつなんでこんな所に?怒りで頭オカシクなったのか?
ヴーッ…ヴーッ…ヴーッ…
何がどうなってんのか分からない…柏木も、「え、あ…何なんコレ」と、突然の事で唖然としていた。
「見るか…」俺は柏木の顔を見ながら言った。柏木も、静かに頷いた。
あいつのスマホだ。返してやるのがいいんだろうが…一向に鳴り止まない事が、俺は気になって仕方なかったのだ。
手を伸ばしてスマホを手に取る。ヒヤッとした感触から、もう随分前から入っていたんだろうと悟る。
ヴーッ…ヴーッ…ヴーッ
俺は「非通知」と書かれた着信ボタンを、思い切って押した。すると…暫くの沈黙のあと、
「…もしもし…」
女の声がした…聞き覚えのない声だ。
「……あの、どちら様でしょうか…」
俺はそう聞いた。すると、電話口にもう一人、女の声が聞こえた。沙良…彼女だ。
「え、てか何…?着拒したハズなのに…」そう背後で聞こえたのだ。
もう別れた前提で話されてる事に俺は凹みつつも、
「え…沙良か?そこに居るのか?てかコレお前のスマホで話てんだけど…」と言うと、彼女は「え、!?」と、向こうも何だか釈然としない態度だった。
「あの、あの~電話口の方…はどちら様なんでしょうか…」と聞くも、掛けてきたであろう女は全く答えない。代わりに、背後の沙良がなにやらごちゃごちゃ言っているだけだ。
「おい…沙良!どういうことだよ。お前な!いくら怒りに任せてったって…冷蔵庫にスマホ置くとか、何やってんだよ」
彼女は依然、「えー?何々?何なの意味わかんない!」と言ってくる。
俺は段々、その彼女の態度に苛立ち始めていた。
「だーかーらー!冷蔵庫に入れるバカいるかってんの!てか、そっちから掛けてきて、何?ってなんだよ!ひどくねーか!?俺の気持ちは無視かよ!お前も、お前の母親もな!!!」
シーン…
と、辺りが静寂に包まれる。柏木はとても気まずそうにしていた。
「あの…あのえっと…そちらはあの、彼氏さんか何かでしょうか…」
電話口の女が、やっと口を開いた。なんだかこっちも、釈然としない感じだ。
「あ、あのそうです、俺、このスマホの持ち主の彼氏…いや…元カレで…なんでか冷蔵庫にこれがあって…え、その…ずっと掛けてましたよね?」
「あ、はい…そうです…昨日から沙良の…友達の様子がおかしくて…あの、冷蔵庫って…」
「あの、取りに来るよう言ってもらえませんか?このスマホ。後ろに居ますよね?」
「…え、いません。沙良ここに居ないです」
「いやいやいや(笑)あのねぇ、さっきから後ろでずっと喋ってんだよ。沙良が。なに隠そうとしてんの?」
「いや、え!?ほんと居ないんですって。後ろって…え!なんですか!」
女の声が急にヒス気味になった。演技では無い…多分。じゃあ…
「何々、何なの意味わかんない!」
あの背後の声は…?
「何々、何なの意味わかんない!」
沙良なんだ…確かに声は…
「何々、何なの意味わかんない!」
段々と機械のような声になっていく沙良の声…沙良、「だった」女の声…
「何々、何なの意味わかんない!」
「おい…おい大丈夫かよ!どうした!?」
柏木に肩を叩かれ、我に返る。その間も、壊れたように沙良の声をした「何か」が繰り返す。
警察を呼ぶにも、なんて言えはいいかわからない。
おい…一体何なんだよ…てか、頭痛ぇ…目の前が…真っ暗だ…
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あいつはそのまま意識を失った。俺は急いで救急車を呼んで、そのまま病院に直行した。
でも、思っていたのと違った。そこは…精神病院だった。
あいつ、抜け出してたんだ…もう5回目らしい。体調が悪いとは聞いてたけど、まさか心の病気だったなんて、俺は何にも知らなかった。俺が見ていたのは、普段通りのあいつだったから。
あの家も…ほんとはもう引き払う予定だったらしい。あいつの母親から聞いた。
当然だよな…彼女が居なくて。だって、5年前にとっくに別れてたんだから、沙良って子とは。
あの友人が言ってることは正しかったんだ。「沙良」って名前が一緒だってだけで、あいつはそれを、昔の「沙良」だと思い込んで、付き合っていたんだ。
沙良さんは、それに気づき始めていた。あいつが昔の彼女の面影や何かを、押し付け始めていたから…。だから敢えて、酷い態度を取ってたんだと。でも、あいつはそれでも昔の「沙良」だと信じ切って、彼女を追い詰め始めていた…包丁を振り回したのは、最後の手段だったそうだ。
恐ろしかったんだろうな、あいつ。…折角「沙良」を取り戻したのに、それが崩れて行っちまったんだから。
母親のメールは、昔の「沙良」との喧嘩の時、送られて来たものだった。あいつ、ずーっと取って置いてたんだな。そんで…彼女との喧嘩まで、その時の状況まで完全再現しようとしてた。思い出を思い出として、切り離せなくなってたんだ。
昔っから、繊細な所があるとは思ってたけどよ…
だいたい沙良って子、そんなに思い出に残る程イイ女だったか?俺、顔も殆ど覚えてないぞ?
1か月位経って、面会が許されたから俺、行って来たよ。あいつの病室。
「期待はしない方がいいですよ」って、あいつの母親がほろっと言ってたけど、本当だった。
「何々、何なの意味わかんない!」
「何々、何なの意味わかんない!」
「何々、何なの意味わかんない!」
あいつ…ずーっとその言葉、繰り返してたんだ。今じゃ、俺の事も殆ど認識しなくなっちまった。ついこの間まで、「柏木~」なんて、俺に呼び掛けてたのにさ。
「何々、何なの意味わかんない!」って言葉、これ…「沙良」の、あいつと別れる間際のセリフなんだと…あいつ、最後の最後の思い出に縋ってたんだな。
真顔で、ずっとそのセリフを言い続けてるあいつの事、もう見るのが辛くて、病院にはもう、それから見舞いには行ってない。俺はアレが、幸せとは思えない…だってそうだろ?思い出はいつか、薄れて忘れていくものなんだ。
でも…あいつにとっては…あの方が幸せなのかな?
「沙良」の居ない現実よりも…幻影と共にいる方が。
作者rano