当時、都内の某中小企業に勤めていた俺は、それなりに多忙な日々を送っていた。
日をまたぐ残業に休日出勤は当たり前。
当然ストレスも溜まるわけだが、自由な時間があまりなく、これといった趣味も持っていない俺のストレス解消法は、もっぱら喫煙だった。
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最近はタバコもどんどん値上がりし、どこもかしこも禁煙で肩身がせまい思いをしていたが、それでもやめられない。
所謂ヘビースモーカーというやつだ。
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だが、それも一年ほど前までの話。
俺はある出来事をきっかけに、ぱったりと吸うのをやめてしまった。
いや、吸えなくなってしまった、と言った方が適切かもしれない。
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その日も例に漏れず残業で、会社を出たのは終電ギリギリだった。
それでもなんとか最終電車に飛び乗って、気がついたら自宅のあるマンションの前で立ち尽くしていた。
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疲労と眠気で朦朧とする中で、
明日は久しぶりの休みだし、有意義に過ごすためにも今日はもうシャワーを浴びて寝てしまおうと思っていたのだが、タバコの箱が空であることに気がついた。
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「あー。しくったぁ」
少し前までは部屋にストックもあったのだが、少しずつでも減らそうと貯金も兼ねて買うのを止めていた。
一度は諦めてシャワーを浴びたのだが、何故か今、無性に吸いたくて堪らない。
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近くにコンビニも自販機もない。
駅前までは少し歩くが、仕方ない。俺はスエット姿に上着を羽織ると部屋を出た。
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星も見えない真っ暗な空の下。
俺は街灯の冷たい明かりを頼りに、静寂に包まれる路地を歩いていた。
すると、路地の曲がり角に小さな明かりを見つけた。
近づいてみると、そこはタバコ屋だった。
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こんなところにタバコ屋なんかあったっけ?
店を背にして設置されている数台の自販機は、どれも明かりが消えて沈黙している。
そのかわりシャッターが開いていて、小窓の向こうには小柄な老人がひとり座っていた。
目を瞑ったまま微動だにしない。
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まさか店番中に居眠りしたまま今に至るとか?
いやいやいや。いくらなんでもそれは無い。
俺はとりあえず声をかけてみた。
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「お爺さん。大丈夫?」
すると老人はゆっくりと顔を上げて、開いていない目で俺を見ると
「いらっしゃいませ」
と、しゃがれた声でぽつりと言った。
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「お店、こんな時間まで開けてて大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。それより、何をお求めですか?」
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とりあえず営業しているようだ。
ボケて時間が分からなくなったのかと思ったが、受け答えははっきりしていたのでひとまず安心した。
俺はいつもの銘柄を伝えると、ふと窓の貼り紙に目を留めた。
そこにはこう書かれていた。
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節度のある喫煙を
マナーを守らない者には天罰を下す
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喫煙マナーや歩きタバコ、ポイ捨てなどを戒めるポスターはよく見るが、この『天罰を下す』というのがどうも引っ掛かる。
何より配色がホラー過ぎる。
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真っ黒い紙に赤い手書き文字で、でかでかと紙いっぱいに書かれている。
不安感と恐怖心を煽る演出なんだろうが、それにしたって気持ち悪いな。
そんなことを考えていると、老人が商品を小窓から差し出してきた。
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「どうも」
受け取ろうと手を出す。その時、突然がっと腕を掴まれた。
驚いて息が止まりかけた。
固まって声も出せないでいると、老人はぽってりと垂れた瞼を半分開き、黄ばんだ目で俺を見上げながら、
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「お兄さんは大丈夫だと思いますがね。マナー、ちゃんと守って下さいね」
皺だらけの口から不揃いの痩せた歯を覗かせ、にちゃりと不気味に笑った。
俺はぞっとして、老人の手を振り解くと、代金を投げるように渡してその場から離れた。
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足早に来た道を戻る。
何度も振り返り、店の明かりが見えなくなったところでやっと足を止めた。
「一体なんだったんだ、あの爺さん」
心臓がどくどくと音を立てて暴れている。
そうだ。こんな時はタバコを吸おう。
俺は肩で息をしながら、震える手でフィルムを毟り取ると上着のポケットを探った。
「あ……あった」
思った通り、前に買って入れっぱなしだった百円ライターを発見し、すぐにタバコに火をつけた。
煙を肺いっぱいに吸い込んで、安堵のため息と一緒に鼻から吐き出す。
そうして、ようやく少し落ち着いてきた。
あっという間に一本吸い終わってしまったが、まだ吸い足りない。
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そこで俺はとある過ちに気付いた。
灰皿がない。
いつもなら携帯灰皿を持ち歩いているのだが、今はスエット姿で、羽織っている上着にも都合よく入っているはずもなく。
どうしようかとしばらく吸い殻を睨んでいたら、ふと悪い感情が湧き上がってきた。
その時。
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「こんばんは」
背後から突然声を掛けられ、俺の心臓は危うく弾け飛びそうになった。
「だ、誰だ!?」
「こりゃ失敬。驚かしちゃいました?」
思わず声を上げると、闇の帳から陽気な声が弾んで返ってきた。
目を凝らすと、そこには濃い闇に紛れて全身黒ずくめの男が立っていた。
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「すみません、急に話しかけちゃって。あ、申し遅れました。私、月影といいます」
そう律儀に名乗ると、男は街灯の下に姿を現した。
白に近い金髪で、一瞬年寄りかと思ったが、ふっさりとした柔らかそうな艶のある髪と端正な容姿ですぐに青年だとわかった。
スラリと背が高く、見た感じ大学生くらいだろうか。
まるで喪服のような漆黒のスーツを着て、手にも黒革のハーフグローブを嵌めている。
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「お兄さん、こんな夜更けにこんな場所で、一体どうしたんです?」
しばらく見入っていると、月影と名乗る男がにんまり顔で聞いてきた。
俺は咄嗟に吸い殻を後ろ手に隠し、それはこっちのセリフだという言葉を飲み込んで、冷静を装って答える。
「タバコがきれちゃって、買いに来たんですよ」
「あー、成る程。じゃあ、もしやこの先のタバコ屋で?」
月影は目をまん丸にして拳で掌を叩き、大げさなリアクションを取る。
「そうですけど……」
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なんだか胡散臭い男だ。
そもそも、こんな真夜中に喪服みたいな黒スーツをきっちり着込んで彷徨いている時点でかなり不審者だ。
あまり関わり合いにならない方がいいなと思っていると、月影が口を開いた。
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「実は私も、あの店にタバコを買いに来たんですがね、店主に『アンタに売るタバコはない』って追い返されちゃいましてね。仕方なく今から駅前まで行くところなんです」
「はあ……?」
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販売拒否って、滅多なことがなければあり得ないだろう。
一体何をしでかしたんだと少し訝しんだが、一方で同じ喫煙者同士、吸いたいときに吸えないもどかしさは分かる。
「あの。もし良かったら一本どうですか?」
箱を差し出すと、月影は表情をぱっと明るくして、「わぁ、いいんですか?」と無邪気に笑う。
身長とミステリアスな風貌で大人びて見えたが、笑った顔はあどけない。
「まあ、吸えない辛さは分かりますし」
「ありがとうございます。いやぁ、嬉しいなぁ。優しいんですね〜お兄さん」
相変わらず反応が大げさで胡散臭い。
ともあれ、目的も遂行したことだし、これ以上構ってやる義理もないなと「じゃあ、俺はこれで」と背を向けた時だった。
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「そんな優しいお兄さんには、お礼にいいこと教えちゃいます」
「いや、いいですよそん……」
「あの店のタバコは、ちゃんとマナーを守って吸ってくださいね」
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振り返ると、月影はまどろんだ猫のように目を細めてニヤニヤと笑っていた。
「じゃないと、天罰が下りますから」
その表情と言葉になんだか薄ら寒いものを感じ、それを振り払うようについ声を荒げてしまった。
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「なんなんだよ、あの爺さんもアンタも。
マナー守らなかったらなんだっつーんだよ。
天罰? 何だそりゃ。ばかばかしい。
子供騙しじゃあるまいし」
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普段ならどんなに怒っても、このように感情をさらけ出すことはないのだが、
この時の俺は疲れと眠気と言い知れぬ不安感で、少しおかしくなっていたんだと思う。
勢いに任せて感情のまま捲し上げても、月影はまるで動じない。
それどころか、悠長にタバコに火をつけて煙を燻らせている。
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「そんなに目くじら立てないでくださいよ。私はただ、貴方のために忠告してるだけなんですから」
「怖い思い、したくないでしょう?」と言った月影の眼が、まるで月にかかる雲が晴れるように、紅く光を帯びて浮かび上がった気がした。
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気がついたら、俺は夜の道を無我夢中で疾走していた。
マンションまでそんなに距離はないはずなのに、走っている時間がものすごく長く感じた。
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やっとの思いで自宅にたどり着くと、玄関をこじ開けて中に飛び込み、全ての鍵を施錠する。
荒い息の中スコープを覗くが、誰もいない。
俺はドアに背を預け、ずり落ちながら深い息を吐いた。
いまだに胸の底では恐怖が蠕動し身体を震わせている。
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「でも、ここまでくれば……」
ほっとひと息つく。
変な汗で身体中がベタベタだった。
色んなことが起こりすぎて思考が追いつかない。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
シャワーを浴び直したら、今度こそ本当にさっさと寝てしまおう。
そう思ってよろよろと立ち上がると、はたと気づいた。
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「……吸い殻、どこやった?」
手には持っていない。
上着のポケットを探るが、タバコの箱とライターだけで他に何もない。
ザァッと音を立てて血の気が引いた。
まさか、落としてきたのか?
そこで瞬時に、あの言葉が脳裏をよぎった。
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『マナーを守らない者には天罰を下す』
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ずくりと何かが胸の内を突き、全身の毛が逆立った。
戦慄がつま先からぞわぞわと這い上がり、同時に腹の底が石を入れられたように重くなる。
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息苦しい。
喉の奥が乾ききって痛い。
鼻に抜ける焼け焦げたような臭い。
熱い、熱い、熱い……熱い!!!
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「うっ……!?」
その瞬間、猛烈な吐き気と共に胃から熱いものがこみ上げてきて、トイレに駆け込む暇もなくその場で嘔吐してしまった。
幸い、昼以降何も食べていなかったので胃液しか出ない。
……はずなのだが、吐瀉物を見て俺は愕然とした。
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そこには、胃液と混ざり合った少しの黒い灰と、水分を吸ってふやけた吸い殻が落ちていた。
俺は生理的な涙を溜め、しばらく凍りついたままソレを見つめていた。
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それ以来、タバコ……特に吸い殻を見る度にあの夜の出来事が蘇り、恐怖に手足が震えるようになってしまった。
完全にトラウマだ。
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今ではスッパリとやめて、ついでに仕事も辞めた。
現在は転職し、少し収入は落ちたが、土日休みできっちり定時上がり。
味覚も戻ってきて、今の趣味はもっぱら一人旅で各地のご当地グルメの食べ歩きだ。
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ところで、この話には続きがある。
あの出来事から、しばらくはあの路地には近づかないようにしていたのだが、
引っ越しが決まって、もうこの地域に戻ることもないだろうと思ったら、あのタバコ屋の存在が気になってしまった。
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まだ営業しているのだろうか。
あのポスターも相変わらずあるのか。
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遠巻きから確認するだけならばと、少し怖かったが思い切って行ってみることにした。
だが、そこにはもうタバコ屋はなく、小さな空き地があるだけだった。
雑草が生い茂り、テープが張られて『売土地』の看板がすっかり廃れた状態で立っている。
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俺は首を傾げた。
ほんの数週間しか経っていないのに、この荒れ具合はおかしい。
すると、向かいの家から初老の女性が箒と塵取りを持って出てきた。
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「あの、すみません。ここに確かタバコ屋ありましたよね?」
聞くと、女性は「ああ、はい。確かにありましたね」と言った。
やっぱりあのタバコ屋は存在していたのだ。
だが、次に女性の口から発せられた言葉に耳を疑った。
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「でも、もう10年以上前ですよ」
「えっ……10年……?」
目を見開き驚きを隠せない俺を見て、女性は詳細を語り始めた。
「お爺さんが一人で経営していたんですけど、火事でね。夜中だったし、お店も二階の自宅も焼けちゃって、お爺さんも亡くなられたんですよ。確か、噂だとタバコの不始末が原因だって……」
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それを聞いて、俺はなんとも言えない気持ちになった。
自分の不始末が招いた火事なのか、それとも……。
どちらにしろ、あのお爺さんは、今も夜な夜なこの場所でタバコを吸う人を監視しているのだろう。
そして、マナーを守らない者には天罰を下す。
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結局、あの夜に出会った不思議な男・月影の存在は最後まで謎のままだった。
けれどこれだけは言える。
あの男が現れなかったら確実に俺はポイ捨てをしていただろう。
結果的には落としてしまって『天罰』が下ってしまったが、意識的にマナー違反をした場合、もっと酷いことが起こっていたのではないだろうか。
そう思うと、今でも背筋に氷が伝うような戦慄が襲う。
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どんなに些細なことでも、悪いことをすれば必ず返ってくる。
俺はこの教訓を生涯忘れずに、墓場まで持っていくつもりだ。
作者772