大学の同期に雪沢って男子生徒がいた。
雪沢君は、学部内でお調子者のムードメーカーって感じで、見た目も結構良かったのもあって結構人気があり、いつもグループの中心にいた。
サークル活動にも精を出していて、まるでナンパするみたいに同じ学科の女子をサークルの行事(と言っても飲み会とかコンパ)に引き入れていく。
先輩にも可愛がられているみたいで、とにかく底抜けにノリがいいから、1人で居る所を見たことが無かった。
ただ雪沢君には少々難があった。キャンパス内の広場や食堂の真ん中とかを陣取って仲間と騒いだり、学部合同の必修講義で延々と仲間内で当たり前のように会話に夢中になっていたり、それを教員から度々注意されても治らなかったり…
教員も諦めたのか、前期が終わる頃には誰かが注意する事もいつの間にか無くなり、雪沢達のやかましい行動は日常の光景になっていった。と言うより、更にエスカレートしていった。
そのせいか、後期が始まったキャンパス内では、雪沢君に関するよからぬ「噂」がひっそりと流れるようになっていた。多くは薬だとか女関係のトラブルとかが殆どだったが、こんな噂が流れても全く違和感は感じられなかった。
ほぼ1か月振りに目にした雪沢君は、ほぼ金髪に近い茶髪で、上下某有名ブランドのジャージを着て、両手足にアクセサリーをジャラつかせている、いかにもな「遊び人」という格好になっていたのだ。
ひょうきんさは変わらないものの、何処か威圧感のようなものを醸し出すようになり、今までは「面白くて楽しい人」だったのが、「面白いけどキレたらヤバそうな怖い人」という印象で彼を見る人が多くなっていたように思う。
「夏休み終わると変わるっていうけどさ、一段と変わったよね…(笑)」
「ね!わたし1年生の頃の、爽やか系の格好してたときが良かったな~。似合ってたし。」
と、授業前の教室で同級生が話すのを聞きながら、私は広場の真ん中で仲間に囲まれて胡坐をかいてなにやら騒いでいる雪沢君の姿をぼんやりと見ていた。
暫くすると彼等はおもむろに立ち上がり、広場からどこかへ歩いて消えていったのだが、その姿を見てふと思い出した。
雪沢君の行動の中で、私は1つ気になる事があった。彼は時折仲間2、3人だけで、連れ立ってある場所に行く時があった。3号館の、あまり使われていない裏道の奥にある敷地の外れだ。
下校中にたまたまその場面に出くわしたことがあり、後日誰も居ない時にその裏道を覗いてみたことがあるのだが、校舎の地図にも書かれている通り、奥はフェンスと雑木林が広がる行き止まりになっていた。しかしよく見ると、なにやら倉庫らしき建物が少しだけ顔を出していた。
雪沢君の「薬」の噂と、あの倉庫らしきものを見てしまったことで、私の中で噂は本当なのでは?と一瞬思ったが、ただの噂でしかないし、それに彼とは学科も違う。殆ど交流のない人間の事だ、気にしてもしょうもないなと、私はもう気に留めないようにした。
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それから何日か経ったある夜のことだ。
バイトの遅番が終わり、最寄りの駅のホームでいつも通り、帰りの電車を待っていた。
人の乗り降りが多い駅だったから、夜10時過ぎでも結構人がいる。
線路を挟んで向かいのホームにいる、飲みの帰りや遊びの帰りなのか楽しそうに話す若者や、敬語混じりに誰かと電話するサラリーマンをぼんやりと眺めていた。
次の瞬間だった。
ドンッ!
という音と共に背中に衝撃が走った。間を空けずに視界が向かいのホームから黄色い点字ブロックに映り変わると途端に、膝から前に倒れた。グワンと頭が揺れ、膝と手のひらに痛みが走る。
ドクドクと心臓が鳴り、倒れたまま動けない。だが誰かが背後でギャハハハと笑う声と、そのすぐ近くで「ちょ、ヤバいってさすがに!」と慌てている声だけは、はっきりと聞こえた。
声の主は、雪沢君と仲間の男子2人だった。
「大丈夫!?」
横から別の声がして、何とか顔だけそちらに向けると、女性が私のすぐ傍で私の様子を伺っていた。
女性に肩を支えられながら何とか起き上がると、背後では雪沢君が駅員や近くにいた男性客に囲まれていた。かなり酔っているのか呂律が回らない口調で、
「んだよ…何なんだよっ…ああ?…オラッ!!!」と悪態をついている。
仲間の2人は私が起きたことに気付くと、「ま、マジ平気?」「てか、怪我してる…よね」と苦笑いを浮かべながら聞いてきた。
「大丈夫な訳無いでしょう!!!電車が来てたら轢かれてたわよ!!!何考えてるの!!!」
途端に女性が大声で彼等を怒鳴った。ビクッと仲間の肩が震えたのが分かった。私はへたり込んだまま力が入らず、女性に介抱されながら別の駅員と共に医務室に行くことになった。
ホームの階段を下りる最中、ゴオオオーッと音を立てて電車がホームに入ってきた。風を背中に受け、そこでようやく、自分が「危うく殺されかけた」と悟り、背筋が凍った。
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幸い、私は両掌と両膝に軽い擦り傷を負っただけで済んだ。
手当ての後、鉄道警察の職員と駅員が数人やって来て聴取が行われた。雪沢達との関係、思い当たる節…いわゆる「形式的」な質問をされたが、頭の整理がつかないどころか、パニックになりそうだった。
何故こんな事をされたのか…答えようと考えると体が震え、抑えるのに精一杯だった。介抱してくれた女性、神田さん(仮名)に背中をさすられながら、何とか答え、聴取が終わると途端に脱力した。
そして聴取から暫く経った時、医務室の外で誰かが怒っている声が聞こえてきた。ドアがノックされ戸が開くと、そこには男子2人と彼等の父親だという人が立っていて、私を見るなり目の前で土下座をした。男子は2人共殴られたのか、口の端に血が滲み、顔が青ざめていた。
「す…すみませんでした…雪沢を止めたかったんですが…止めらんなくて…まさかあんなことするなんて…」男子の1人が震える声でぼそぼそと言った。
「…あの…あいつどうなるんすか…」
もう1人がそう言ったとき、廊下の奥でまた大声が聞こえた。声と足音がこちらに向かって近いてくる。すると今度は初老の女性と、顔を手で覆ってうなだれた様子の雪沢がいた。
「まったくあんたは!しょーがない子だよ!!ほら!行くよ!!!」
そう捲し立てながら、初老の女性は雪沢の手をぐいぐいと引いていた。そして私に気づくと、「気ぃ付けな!!」と一言だけ言って、土下座する男子を跨いで出て行ってしまった。
「雪沢!おい待ってって!」
「おまえおかしいって!」
「ちょっとあなた!!謝罪は無いの!?」
「おい君!待ちなさい!」
初老の女性と雪沢に向かって、神田さんや、男子や親達が怒鳴っていた。
私は怒る気力どころか、
早く帰りたい…眠りたい…怖かった…疲れた…なんで私が?
私も家族に迎えに着て欲しいな…でも父は仕事で遅いし、妹はインフルだし、母はその看病に追われてるし。心配かけらんないな…というか、こんな目にあった事を知られたくない…
そんな思いがグルグルと頭を巡り、精神的に限界が来ていた。
その後、私は神田さんが呼んだタクシーに相乗りする形で帰ることになった。終始神田さんに背中をさすられ、励ましの言葉を掛けられながら何とか自宅に戻ると、時刻は夜の12時手前になっていた。
母への言い訳を考えていたが、リビングのソファで、エプロンを片手に寝息を立てている母の姿を見て、私は何も言わず自室で泥のように寝た。
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次の日、何とか起きて外に出たものの、大学に行く気になれず、その足で近所のネカフェに行った。個室に籠って、今頃何もなければ講義を受けてるんだよな…と天井を見つめてぼんやり思っていると、案の定友達からメールが来た。
「どうしたの?具合悪い?」
「今日は雪沢君来てないから、静かで良いよ~(笑)」
…あいつ来てないんだ…
「そうなんだ?サボってんのかね」
少しヒリヒリする掌の痛みを感じながらメールを打つと、
「いや、学校にそもそも来てないから!どうしたんだろね」とすぐに返信が来た。
それを知って正直安心した。彼が…昨日ケタケタと笑いながら私を突き飛ばした人間が居ない。謝罪は無いけど、姿を見なくて良いなら、そっちのほうが幾分マシだった。
「そっか、まだ間に合うから行こうかな」
そうメールを返してネカフェを出た矢先、近くの線路から電車が走る音が聞こえた。フラッシュバックしそうになるのを何とか抑え、私はタクシーで大学へ向かった。
しかしキャンパスに着くと、私の思いもよらぬ事が待ち受けていた。
私に気づいた友達が駆け寄って来るなり、
「ねえ!雪沢君が来ない理由、わたし聞いちゃった!人付き飛ばしちゃったらしいよ!昨日どっかの駅のホームで!」
そう興奮気味に話してきたのだ。
どこから漏れたのか、一晩も経たずにキャンパス内で雪沢の昨夜の「悪事」が出回っていた。
あの2人か?とも思ったが、その男子も、というよりいつものグループ自体が今日は来ていないと聞かされた。
しかし、学生たちが一番気になっているのは雪沢ではなく、「雪沢に突き飛ばされたのは一体誰だったのか」という事だった。
大学1年の終わりから現在にかけての雪沢の素行は、学部内の殆どの学生が、誰に教えられなくても把握していたし、それだけ彼の行動は悪目立ちしていた。だから今更になって色々と悪行がバレても、「ああ、あいつかー」と、皆さほど驚きはしない。
それよりも、一体誰が雪沢の「餌食」になったのか、どんな奴なのか…「被害者探し」が暗に行われていた。
「突き飛ばされた人かわいそーだよね~!なんかこの大学の子だって噂だよ!」
「女とトラブったとかじゃね?あいつ女の前では態度デカイしw」
「だったらあの子じゃない?」
「あの子じゃない?」
皆、私を探している。
そう思った途端、心臓がバクバクと脈打ち始め、背筋に寒気が走った。
彼等にとって、被害者も加害者も、退屈な学校生活を刺激するネタに過ぎないのかも知れない。
だってそうだ。今の世の中は、いや、今までだって、たとえ被害者であっても、叩かれ、噂されるのだ。
すれ違う人とふいに合った目が、数人で歩いている子達の会話が、友達がメールを打っているときの顔が、メールの文章が、SNS上の他愛もないつぶやきが、全部が怖くなる。
私はその日から、1週間も経たずに登校する事が出来なくなった。
作者rano