20年01月怖話アワード受賞作品
大長編61
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アンケートモニター募集

この話は残酷な描写、グロテスクな描写、非常に不快な表現を含んでいます。

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知人から聞いた話です。

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閑静な住宅街。

半袖ワイシャツ姿の男性が歩いている。

例年であれば涼しくなり始める時期ではあるが、異常気象とも思える猛烈な暑さが続く。

額の汗をぬぐい、周囲を見渡す。

真っ白な外壁に木調のベランダと玄関、人工芝のある縁側付きの広い庭、全く同じ造りの戸建てが並ぶ。

【ピンポーン】

「…」

インターホンを鳴らすが、誰も出ない。

男性は会社から支給されているタブレット端末を操作し、現在地の周辺地図を表示した。

地図上の留守宅をタッチし、表札を確認しつつ【苗字】を入力。

続いて【NG】を選択し、最後に【NG理由】の一覧から【不在】を選択。

地図上の留守宅がグレーアウトされた。

ここまでの作業で会社が管理しているサーバー上に情報が蓄積される仕組みだ。

男性は次の家へと向かう。

【ピンポーン】

「…」

「は~い」

「こんにちは!お忙しいところ恐れ入ります。私、株式会社●●のN井と申します」

インターホン越しに深々とお辞儀するN井。

「ただいま、定期的に簡単なアンケートにお答えいただくモニター様を募集しておりまして…」

「アンケート?」

「はい。本日はモニターのご登録と【日用品に関するアンケート】にご協力いただける方に2000円分の謝礼をお渡ししております」

「そんなに貰えるんですか?!あ、モニター登録ってお金かかります?」

「いえ、登録料は一切かかりません。モニター様の貴重なお時間とご意見に対する感謝の気持ちを謝礼としてお渡ししております」

「ちなみに、どれくらい時間かかります?」

「モニターのご登録に5分、【日用品に関するアンケート】に15分程度です」

「じゃあ、やってみようかなぁ…、今開けますね~」

「ありがとうございます!」

インターホン越しに再び深々とお辞儀するN井。

【ガチャリ】

玄関ドアが開き、30代前半くらいの女性が出迎える。

「本日はお忙しいところありがとうございます。お邪魔させていただきます」

N井は満面の笑顔で挨拶し、深々とお辞儀した。

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炎天下から一変し、冷房の効きすぎた涼しい室内。

この急激な温度差は身体に堪える。

突然の来客にも関わらず、まるでモデルルームに来たのかと錯覚してしまう程、綺麗なリビング。

「ほんと暑いですよね~」

女性はそう言いながら、麦茶が入った透明なグラスをダイニングテーブルの上に置いた。

「ありがとうございます。いただきます」

N井は麦茶を一口飲むと、バッグからタブレット端末を取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。

「それでは、早速モニター登録を進めさせていただきます」

タッチペンを女性に手渡すと、簡単に手順を説明し始めた。

「最初の画面に表示されているのがモニター登録における規約となります。

 確認できましたら一番下の署名欄にお名前のご記入をお願いいたします」

女性は真剣な眼差しで規約を読み始めた。

N井はその様子を横目に、手元の携帯電話を定期的に操作する。

しばしの沈黙の後、女性がタッチペンでフルネームを書き終えたのを確認したN井は口を開いた。

「ご確認ありがとうございます。そうしましたら右下【同意する】をタッチして下さい。

 次に、モニター登録画面となります。各項目のご入力をお願いいたします」

モニター登録画面は住所、氏名、生年月日、性別、電話番号(携帯可)、興味のあるジャンル(複数選択可)、アンケート可能な曜日と時間帯が必須項目となっている。

必須項目を入力し終えた女性が首を傾げた。

「この任意項目は入力しなくても良いんですよね?」

メールアドレス、家族構成、家族の氏名、生年月日、性別、職業、業種、年収が任意項目となっている。

「はい。任意項目ですので、ご入力いただかなくても問題ありませんが、

 例えばご主人の情報をご入力いただいた場合、男性向けアンケートのご協力をお願いさせていただく機会が増えます。

 規約にも記載の通り、モニター登録いただいても、二回目以降のアンケートのご依頼は抽選となります。

 ここだけの話、任意項目も可能な限りご入力いただけますと、アンケートをご依頼する機会が増えます」

「なるほど~。これって後からでも追加で登録できるんですか?」

「はい。追加登録はいつでも可能です」

「そしたら今日はとりあえず必須項目だけで登録お願いします」

「承知いたしました。それではそのまま右下の【登録する】をタッチして下さい」

女性が画面をタッチすると【モニター登録完了】と表示された。

「ありがとうございます」

N井は笑顔でタブレット端末を受け取ると、画面を操作し、再び女性にタブレット端末を手渡した。

「こちらが本日ご協力いただく【日用品に関するアンケート】となりますので、画面の指示に沿ってご回答をお願いいたします」

アンケートは日用品の購入場所や購入頻度、表示される商品を知っているか否か、などを選択していくだけの非常に簡単な内容だ。

事前に15分程度の内容であると伝えてはいるが、実際は5分以内に完了できる内容だ。

言われた時間よりも早く終わり、2000円分の謝礼が貰えれば誰だって満足する。

「ご回答が終わりましたら、最後に【回答結果を送信する】をタッチして下さい」

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女性が回答を終えると【ご協力ありがとうございます。調査員より謝礼をお受け取り下さい。】と表示された。

N井はタブレット端末とタッチペンを回収し、バッグから白い封筒を取り出し、女性に手渡した。

「こちらが本日の謝礼となります」

女性は封筒を受け取ると中身を確認し、微笑んだ。

「ありがとうございます。ほんとこんな短時間でいただけるんですね」

「ご協力いただきありがとうございました。次回以降は事前にお電話でご連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします」

満面の笑みを浮かべながらN井は深々とお辞儀し、玄関ドアから出て行った。

【バタンッ】

玄関ドアが閉まると同時に営業スマイルを消し去り、真顔になったN井。

その後も定時まで営業を続け、そのまま社員寮に直帰した。

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世間的には社員寮と聞くとあまり良い印象はないかも知れないが、N井の住む社員寮は別格だ。

会社から一駅離れてはいるが、駅歩5分の非常に良い立地にある。

オートロック式のマンションで、地上6階建て、全30戸、間取りは1DK。

1階には共用の食堂があり、朝食と夕食が無料。

その分、寮費が相場より少し高いかも知れないが、トータルで見るとかなり良心的だ。

N井は社員寮に着くと、真っ先に食堂へ向かった。

一番混み合う時間帯ではあるが、社員寮に住む全員が座れるだけの座席が用意されている。

朝食も夕食も日替わりメニューとなっている為、選ぶことはできないが、食堂のおばさん達が作る手料理はどれも美味しい。

この日の夕食はオムハヤシだった。

「N井、お疲れ様」

二口、三口食べたところで、声を掛けられたN井。

視線を上げると人事部のK田が目の前に立っていた。

一次面接の時、面接官をしていたのがK田で、第一印象は体育会系の男前だった。

社内でも何故結婚していないのか不思議に思う人が多い。

そういえば、採用される割合が男9:女1と、男性の割合が非常に高く、なおかつ容姿端麗な男性が多い為、K田が好みの男性を顔採用…、同性愛者ではないかと噂されている。

「あ、K田さん、お疲れ様です」

「調子はどうだ?」

「まぁ、ぼちぼち…」

「そうかそうか。くれぐれも体調だけは気を付けてな。身体は資本だからな」

K田はそう言って微笑むと、空の食器を乗せたトレイを返却口に置き、食堂を後にした。

N井もオムハヤシをあっという間に平らげると、食堂を後にした。

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自室に戻ったN井はシャワーを浴び、冷蔵庫から取り出したビールを開けた。

ゴクゴクと喉を鳴らしながら、キンキンに冷えたビールを体内に流し込む。

ビールの空き缶をテーブルの上に置くと、タブレット端末を取り出す。

社員用のアプリケーションを起動し、【NEW】のアイコンをタッチすると、来週の担当営業地域が表示された。

足を運んだことのない郊外の住宅地。

携帯電話で経路検索すると、最寄り駅からは乗り換え二回で一時間弱。

テーブルの上に携帯電話を置き、寝転がりながらテレビを付けるとバラエティ番組が映し出された。

「…」

しばらくするとテレビを付けっぱなしにしたまま、N井は深い眠りに落ちた。

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翌週のある日。

担当営業地域を一軒一軒虱潰しに回るN井。

続いていた猛烈な暑さも収まり、営業し易い気候へと移り変わりつつあった。

余談だが、太陽光発電やインターネット回線の営業とは違い、アンケートモニター募集の営業は話を聞いて貰える割合が非常に高い。

営業経験豊富ではない入社一年目のN井であっても、5軒に1軒程度の割合でモニター登録まで漕ぎつけている。

ちなみに、正社員のN井は初年度はアルバイトのような仕事を任せされているが、次年度以降は本社での内勤が確定している。

『まずは現場を知れ』

と言うのが社長の方針らしい。

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「次は…」

視線の先には周囲を高い塀と木々で囲われた一軒の豪邸。

正面には立派な鉄製の門扉があり、二十メートル程離れた位置に立派な戸建てが二軒並んでいる。

今週担当している地域では最も広く、地図で見る限り、敷地面積も一般家庭の十倍はありそうだ。

「はぁ…」

N井の口から失望と羨望が入り混じった溜め息が漏れた。

こういった家に住む人間がアンケートモニターに興味を持つことはまず無い。

そもそもお金があるのに、たかだか2000円の謝礼目当てに貴重な時間を割く必要が無いからだ。

以前、ここまでの豪邸では無かったが、世間一般ではお金持ちと思われるお宅に玄関まで入れてもらえたことがあった。

結果、家主の奥さんに説明している最中に家主が現れ、面倒だから帰ってもらえと言われ、モニター登録には至らなかった。

『ごめんなさいね』

そう言いながら帰りがけに家主の奥さんから紙袋を手渡された。

中には菓子折りが入っており、後で調べたら5000円近くする焼き菓子の詰め合わせだった。

きっと、貰い物をそのまま横流しされたのだろうが、N井は複雑な気持ちになったことを思い出した。

「もしかしたら今回は…」

【ピンポーン】

ダメ元ではあったが、意を決したN井は豪邸のインターホンを押した。

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「………………………………………………」

反応が無い。

N井はインターホンに背を向け、タブレット端末を取り出すと、地図上に表示される豪邸をタッチした。

「はい~。どちら様でしょうか?」

続けて【NG】を選択しようとした時、背後から声がした。

「あ…、こんにちは!お忙しいところ恐れ入ります。私、株式会社●●のN井と申します」

「N井さん?」

「はい。ただいま、定期的に簡単なアンケートにお答えいただくモニター様を…」

「立ち話もなんですから、どうぞ~」

鉄製の門扉が自動的に開いた。

「あ…ありがとうございます!」

N井は拍子抜けしつつもインターホン越しに深々とお辞儀し、敷地内へと足を踏み入れた。

正面からは見えなかったが、豪邸の右手にはガレージが隣接しており、芸能人のお宅訪問で見たことのある高級外車が二台と、真っ黒なワゴン車が一台。

高級外車は綺麗に磨きあげられているが、ワゴン車には雨染みの跡が残り、全体的に薄汚れていた。

きっと、観賞用と普段使い用だろうと思いつつ、歩みを進めると、正面にある二軒の戸建てのうち、右側の玄関ドアが開いた。

「こんにちは~」

整った顔立ちに清楚な身なり、落ち着きがあり、気品溢れる淑女。

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きっと住んでいるのはそんな人物だろうと思っていたN井は再び拍子抜けした。

目の前には上下スウェット姿の五十代後半と思わしき、おばさん。

髪の毛が寝ぐせで跳ね散らかった、おばさん。

必死に努力して色眼鏡で見ても、おばさん。

何の変哲もない小太りの、おばさん。

「本日はお忙しいところありがとうございます」

「どうぞあがってください~」

N井は満面の笑みを浮かべ、豪邸にお邪魔した。

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応接間に通されたN井は三人掛けソファに腰掛けた。

ローテーブルを挟むように向かい側にも同じ三人掛けソファが備え付けられている。

「今、飲み物お持ちしますね~」

「ありがとうございます」

【パタンッ】

ドアが閉まり、一人きりになったN井は周囲を見渡した。

確かに立派な造りの豪邸ではあるが、あのおばさんにしてこの豪邸と言ったところか。

応接間はそこら中に書類やチラシが散乱しており、向かい側のソファには上着と思われるコートやダウンが山積みになっている。

【カチャ】

N井が再び満面の笑みを浮かべていると、飲み物と茶菓子を持ったおばさんが戻ってきた。

「どうぞ~」

「ありがとうございます」

おばさんは向かい側のソファに山積みされた上着を片側にまとめると、空いたスペースに座った。

「ごめんなさいね~散らかってて。それで、どういった御用で?」

「当社では定期的に簡単なアンケートにお答えいただくモニター様を募集しておりまして、

 本日はモニターのご登録と【日用品に関するアンケート】にご協力いただける方に2000円分の謝礼をお渡ししております」

「あら、2000円もいただけるの?じゃあ、登録しようかしら。ちょうど両親も寝てて、手が空いたところなのよ」

「ありがとうございます!では早速…」

N井はバッグから私物のタブレット端末を取り出し、ローテーブルの上に置いた。

タッチペンをおばさんに手渡すと、簡単に手順を説明し始めた。

「最初の画面に表示されているのがモニター登録における規約となります。

 確認できましたら一番下の署名欄にお名前のご記入をお願いいたします」

おばさんはタッチペンで下まで一気に移動すると、フルネームを記載し、右下の【同意する】をタッチした。

「次に、モニター登録画面となります。お手数ですがご入力をお願いいたします」

モニター登録画面は住所、氏名、生年月日、性別、電話番号、携帯番号が必須項目。

口座番号(インターネットバンキング登録済)のみ任意項目となっている。

おばさんが入力を進める中、N井は笑顔で切り出した。

「2000円分の謝礼ですが、インターネットバンキング登録済みの口座振込をご指定いただけますと、

 キャンペーン期間中につき、2倍の4000円をお振込みさせていただいております。

 いかがでしょうか?」

「あら?それだけで4000円もいただけるの?ちょっと待っててくださいね」

【パタンッ】

おばさんは小走りで応接間を出て行った。

再び一人きりになったN井は満面の笑みを浮かべながら、茶菓子を口にした。

ローテーブルの上に置かれた私物のタブレット端末を見ると、口座番号以外は全て入力済みの状態になっていた。

【カチャ】

N井が二つ目の茶菓子の袋を開けようとしていると、おばさんが戻ってきた。

「お待たせしちゃってすみませんね~。確かこの中に…」

おばさんは高さ10センチ、幅20センチ、奥行き20センチ程の木製引き出しをローテーブルの上に置いた。

おそらく鏡台か何かの引き出しを外してそのまま持って来たのだろう。

おばさんは引き出しの中身をローテーブルの上に一つずつ置き始めた。

印鑑数本、通帳数冊、クレジットカード数枚、銀行から送付された未開封の封筒。

「あったあった。これの…」

そして最後に小さなメモ帳を手に取り、パラパラとめくり始めた。

恐らく、忘れないようにIDやパスワード等が書かれているのだろう。

「…」

目当てのページを見つけたのか、真顔になったおばさんがメモ帳を見つつ、タッチペンを手にし、タブレット端末に表示された口座番号の欄を入力し始めた。

N井は全項目入力し終えたことを確認すると、口を開いた。

「ご入力ありがとうございます。それでは右下の【登録する】をタッチして下さい」

おばさんがタッチペンで画面をたたくと【モニター登録完了】と表示された。

N井は満面の笑みで私物のタブレット端末を手に取り、画面を操作すると、再びおばさんに私物のタブレット端末を手渡した。

「こちらが本日ご協力いただく【日用品に関するアンケート】となりますので、画面の指示に沿ってご回答をお願いいたします。

 ご回答が終わりましたら、最後に【回答結果を送信する】をタッチして下さい」

N井は説明を終えると携帯電話を操作し始めた。

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数分後、おばさんが回答を終えると【ご協力ありがとうございます。調査員より謝礼をお受け取り下さい。】と表示された。

「ご協力ありがとうございます。謝礼につきまして、先程ご登録いただいた口座への送金手続き完了しておりますので、こちらからご確認をお願いいたします」

N井は私物のタブレット端末の画面を下にスクロールさせ【謝礼確認はこちらから】をタッチした。

すると、画面には各種銀行名が表示されている。

「先程、ご登録いただきました【●●銀行】をタッチしてください」

おばさんが画面をタッチすると【●●銀行インターネットバンキング】のホームページが表示された。

「お手数ですが、こちらからログインいただき、謝礼が送金されていることのご確認をお願いいたします」

おばさんは再びメモ帳を見ながら、口座番号、パスワード、秘密の合言葉を入力し、無事にログインした。

入出金明細のページを確認したおばさんは笑みを浮かべた。

「あら、本当に4000円振り込まれてる。たいしたことしてないのにありがとうね」

おばさんは入出金明細のページをN井に見せた。

入金欄には個人名から4000円が送金されている。

「…!?」

もう少しで9桁に届きそうな金額。

N井はちらりと見えてしまった残高に息を呑み、平静を装いつつ話を進めた。

「ご確認ありがとうございます。そうしましたらホームページからログアウトをお願いいたします」

おばさんがログアウトしたのを確認すると、N井は再び画面を切り替えた。

「最後にこちらのタッチをお願いいたします」

おばさんが【謝礼受領】をタッチすると【本日はご協力ありがとうございました。当タブレットは調査員にご返却ください。】と表示された。

「本日はモニター登録のご協力ありがとうございました。次回以降は事前にお電話でご連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします」

N井は満面の笑みで深くお辞儀すると、私物のタブレット端末を回収した。

「こちらこそ、4000円ありがとうね」

嬉しそうな表情を浮かべ、先にソファから立ち上がったおばさんが応接間のドアを開けた。

N井が応接間を出て、玄関に向かう途中、二階から誰かが下りてきた。

「あ…」

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ショートパンツからすらりと伸びた二本の脚。

キャミソールの上に羽織ったカーディガンの袖口から覗く綺麗な指先。

日本人離れした端整な顔立ち、おそらくハーフだろう。

ようやくこの豪邸に相応しい住人に会えたとN井は安堵し、階段の途中で立ち止まった女性に軽く会釈した。

「あ、お母さん下にいたんだ。お客さん?」

女性はN井の後ろにいるおばさん…ではなく母親に話しかけた。

「こちらN井さん。男前でしょ~?わざわざアンケートに来てくれたのよ~」

母親はそう言いながらN井に向かって微笑んだ。

「アンケート?」

「そうなの、登録して簡単な質問に答えただけで4000円も貰えたのよ~」

「ほんとに?怪しいやつなんじゃないの?」

「それが本当なのよ!そうだ、ローサもアンケートどう?ねぇ、N井さん?」

N井の予想通り、ローサという名前から娘がハーフであることは確定した。

「すみません、少々お待ちください…」

N井は会社のタブレット端末を取り出し、地図上に表示された現在地の豪邸をタッチした。

ローサ母の【苗字】を入力し、続いて【NG】を選択。

最後に【NG理由】の一覧から【不在】を選択。

地図上の豪邸がグレーアウトされた。

「お待たせしました。この後は特に社用もありませんので、

 娘さんのモニター登録もさせていただけると、こちらとしましても大変助かります。

 ご協力をお願いさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「ん~。どれくらい時間かかるんですか?」

ローサはあからさまに面倒くさそうな表情を浮かべた。

「モニター登録と簡単な【日用品に関するアンケート】併せて20分程度お時間いただけれ…」

「ほらほら、今日は夜まで家に居るんでしょ?時間もあるんだしアンケートやっちゃいなよ!」

「も~、はいはい…やりますよ」

母親の説得に根負けしたローサは渋々頷いた。

それを聞いたローサ母は小走りで応接間に入り、大量の衣類と書類を抱えると、応接間から出てきた。

N井は応接間に移動すると、私物のタブレット端末を取り出し、タッチペンと一緒にローサへ手渡した。

正直な所、ローサ母に登録させた情報さえあれば充分だった為、家族情報の更新と称して、氏名、生年月日、性別、携帯番号だけ登録させた。

【日用品に関するアンケート】を進めてもらっている間、N井はローサの顔をじっと眺めていた。

「どうしました?」

「あ…、えっ…、お父様は外国の方ですか?」

ふいにローサと目が合ったN井は咄嗟に質問し返した。

「日本人ですよ。ほら」

カーディガンのポケットから携帯電話を取り出し、しばらく操作した後、画面をN井に向けた。

紫色の頭巾とちゃんちゃんこを着た老爺がベッドで身体を起こし、隣には寄り添う老婆、その二人の背後にローサ父とローサ母とローサ、それにもう一人の女性が満面の笑顔で写る家族写真。

「あ、私と姉は養子なんで」

N井の訝しげな表情に気付いたローサは微笑みながら言った。

ローサ父もローサ母に負けず劣らず、ただのおじさんだった。

この両親からこの姉妹が産まれる可能性は限りなくゼロ、それこそ奇跡。

あり得るとしたら母親の不倫…、などと考え始めた最中だったN井はなるほどと納得した。

ちなみに姉も美人ではあるが、ローサとは似ても似つかず、血の繋がりは無いそうだ。

今は一緒に住んでおらず、息子と素敵な旦那と家族三人幸せに暮らしているとのこと。

「この写真、喜寿のお祝いの時に撮ったんですよ」

矢継ぎ早に家族のことを次から次へと話し続けるローサ。

N井はわざとらしく腕時計を見ると、バッグから白い封筒を二通取り出し、ローサに手渡した。

「本日はご協力ありがとうございました。こちらが謝礼となります。二千円分ずつ商品券が入っておりますので、お確かめ下さい」

「あ…はい。ありがとうございます。今日はお話出来て楽しかったです」

まだ話し足りなかったのか、ローサは少し残念そうな表情を浮かべた。

ローサは受け取った封筒の中身を確認せず、ローテーブルの上に置くと、ソファから立ち上がり、応接間のドアを開けた。

軽く会釈し、応接間を後にしたN井。

「あら、N井さん、もう帰るの?」

N井が玄関で靴を履いている最中、背後から呼びかけられた。

振り向くと、おば…ではなくローサ母が微笑んでいる。

「また、いつでもいらしてくださいね。アンケート、いつでも協力しますので」

「ありがとうございます。次回以降はお電話で事前にお伺いさせていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします」

N井は深々とお辞儀し、玄関ドアを開けて出て行った。

【バタンッ】

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いつもならこのタイミングで営業スマイルを消し去るN井であったが、この日は違った。

玄関ドアが閉まった後も笑顔のまま。

両手で顔を擦ったり、両頬を叩いたり、真顔に戻そうと努力するも、笑顔が崩れることはなかった。

まるで長距離走を走り終えた直後かのように高まる心臓の鼓動。

N井は手のひらを見ると、小刻みに震えており、手汗が止まらない。

これまでの人生、ここまで達成感を得られたことがあっただろうか。

「あの~!」

あれこれ考えながら門扉まであと数メートルのところで背後から呼び止められた。

N井が振り向くと遠くから小走りで近づいてくるローサが見えた。

「あっ…」

サンダルが原因で躓き、途中で転倒したローサ。

「大丈夫ですか?」

N井が駆け寄ると何事も無かったかのように両膝の汚れを払い微笑むと、カーディガンのポケットから財布を取り出した。

「あの、これ…」

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手渡されたのは一枚の名刺。

右下には可愛らしい看護師のイラスト。

【Y木総合病院 看護師 Y木ローサ y-rosa@~】

「Y木総合病院?」

何処かで見聞きしたような気がするが思い出せないN井は顎に手を当てた。

「お父さんの病院なんだけどね、私そこで看護師してるの。駅前に…」

「あ~!駅前の!ホームから見えました。お父さん、お医者様だったんですね。凄いですね」

「たいした事ないよ。あ、名刺の裏に携帯番号を書いておいたから…」

「携帯番号は先程ご登録いただいてますよ」

「そうじゃなくて…、良かったら連絡ください」

「え?」

「それじゃ、お仕事頑張ってくださいね」

ローサはきょとんとした表情のまま立ち尽くすN井に軽くお辞儀すると、再び小走りで豪邸に戻って行った。

N井は名刺を再度眺めると、笑みを浮かべた。

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N井は社員寮に帰宅後、パソコンを操作し、ブラウザのお気に入りから一つのサイトをクリックした。

表示されたログイン画面に管理者用のIDとパスワードを入力。

赤と青を基調したデザインのホームページが表示され、背景には悍ましい容姿の化け物。

ここ数年で少しずつ噂が広まった【カツカツサマ】と呼ばれる都市伝説のまとめサイトだ。

管理者以外はアクセス制限をかけており、このサイトに辿り着くには偽ショッピングサイトを経由する必要がある。

そのショッピングサイト経由で買い物がされればインセンティブが入る。

併せて、偽ショッピングサイトにアクセスしたユーザーのパソコンをマルウェアに感染させ、IDやパスワード、クレジットカード番号等を抜き取り、それらをまとめて業者に売り飛ばしている。

知人から頼まれて立ち上げたサイトではあるが、N井にとっては良い小遣い稼ぎだ。

「このサイトともそろそろおさらばかなぁ…」

N井は自動収集された個人情報の確認を終えると、パソコンのアプリケーションを立ち上げた。

画面にはアンケートモニター登録画面が表示され、個人情報が次々と入力されていく。

個人情報の登録が終わると【●●銀行インターネットバンキング】のホームページが表示された。

口座番号、パスワード、秘密の合言葉が次々と入力され、入出金明細のページが表示。

やはり見間違いではなく、1憶近い残高が表示されている。

N井は私物のタブレット端末とパソコンを遠隔操作アプリケーションで接続し、ローサ母のモニター登録を一部始終録画保存していた。

しかし、これだけでは口座番号とパスワードは確認することができない。

基本的にインターネットバンキングはソフトウェアキーボードによる入力がデフォルトであり【●●銀行インターネットバンキング】も例に漏れない。

通常のキーボード入力では、キーロガーと呼ばれるキー入力を監視、記録するアプリケーションで入力内容が筒抜けとなる。

例えば個人のパソコンにキーロガーを仕込ませる事で、使用者がパソコンを使用している間のキー入力が時系列で全て保存される。

各種ログインID、パスワード、普段ホームページで何を検索するのか等、その人の趣味嗜好まで筒抜けとなる。

これを回避する為に導入されているのがソフトウェアキーボードだ。

ホームページ上に表示されるキーボードからIDとパスワードを入力することで、キーロガーの情報収集対象外となる。

N井はパソコンに録画された映像を表示させたまま、私物のタブレット端末を起動し、アプリケーションをタッチした。

すると画面が真っ黒になり、左下に赤字で日時が表示された。

しばらく見ていると、画面に赤い点が表示され、すぐに消えた。

その後も赤い点が線を描いたり、一瞬だけ赤い点が表示されては消えを繰り返し、最後は再び画面が真っ暗になった。

N井が私物のタブレット端末に仕込んでおいたのは、タブレット画面の何処をタッチしたかX軸Y軸の座標で時系列に保存するアプリケーションだ。

このアプリケーションにパソコンで録画保存した【●●銀行インターネットバンキング】の映像を取り込んだ。

すると、ソフトウェアキーボード上に赤い点が表示され、どのキーを入力していたのかが筒抜けとなった。

「よしっ!!」

N井は左手を軽く握りガッツポーズすると、冷蔵庫に向かい、缶ビールを一本手にした。

ゴクゴクと喉を鳴らしながら、キンキンに冷えたビールを一気飲み。

しかし、ここまでは序の口に過ぎず、問題はここからだった。

【●●銀行インターネットバンキング】は一日あたりの送金限度額が1000万円に設定されている。

全額を別口座に移すには最低でも十日間必要となる。

それに毎日1000万円ずつ送金を繰り返していては、恐らく【不正送金チェック】に引っ掛かり、銀行からローサ母宛に取引内容の本人確認があるだろう。

N井は二本目のビールを開け、目を瞑り、しばらく考えた後、口元を緩めた。

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【ピンポーン】

「はい~」

「お世話になっております。株式会社●●のN井です」

「N井さん、お待ちしておりました。そちらの方は?」

インターホン前、N井が二歩下がり、スーツを着た女性が前に出た。

「Y木様、初めまして。私、○○製薬のS美と申します。本日試飲いただく栄養ドリンクの開発担当をさせていただいております」

「あら…わざわざどうも。開けますね~」

鉄製の門扉が開き、N井とS美は敷地内へと足を踏み入れた。

「立派な豪邸だね」

S美がガラガラと音を立てながらスーツケースを引く。

「…」

無言で歩き続けるN井の顔を覗き込むS美。

「大丈夫?」

「あ?うん…」

S美がN井の手を握ると、小刻みに震えが伝わってきた。

緊張しているのか、手汗でしっとりとしている。

「ほんと、大丈夫だから」

N井はS美の手を振りほどくと、その場で立ち止まり、両手のグーパー運動を繰り返した。

最後に、両手を力強く握り、再び豪邸に向かい歩き始めた。

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少し歩くと正面にある二軒の戸建てのうち、右側の玄関ドアが開いた。

「こんにちは~」

前回とは異なり、清楚な身なりのローサ母が出迎えてくれた。

「本日はお忙しいところありがとうございます」

「いえいえ、どうぞあがってください~」

「お邪魔させていただきます」

N井とS美は深くお辞儀し、豪邸に足を踏み入れた。

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前回同様、応接間に通されたN井はS美と二人で手前のソファに腰掛けた。

室内を見渡すと綺麗に片づけられており、まるで前回と違う部屋にいるかのような錯覚に陥った。

「今、飲み物お持ちしますね~」

「ありがとうございます」

【パタンッ】

『ふぅ~』

ドアが閉まり、二人きりになったN井とS美は同時に深呼吸した。

N井はバッグから【栄養ドリンクに関するアンケート】と書かれた冊子を三冊取り出し、ローテーブルに並べて置いた。

ペンケースからボールペンを三本取り出し、アンケート冊子の上に一本ずつ置くと、再び深呼吸した。

【カチャ】

N井が予備のアンケート冊子をパラパラめくっていると、ローサ母が戻ってきた。

N井の前にだけ飲み物と茶菓子を置くと、向かいのソファに座った。

「N井さんお久しぶりね~。一か月ぶりくらいかしら?ところで…お隣の方とはお付き合いされてるんですか?」

『え?』

ローサ母からの唐突な質問にN井とS美は同時に反応してしまった。

「お二人とも美男美女でお似合いですし、付き合ってるの?」

N井は感じていた違和感に気が付いた。

ローサ母は始終無表情。

S美とは一度も目を合わせようとせず、心成しか敵意のようなものを犇々と感じる。

「いえ、事前に電話で打合せはしておりましたが、S美さんとお会いするのは本日が初めてです」

「あら、てっきり付き合ってるのかと思ったんだけど。なら良かった~。ローサの方が美人ですものね~。そうそう、ローサもN井さんの事を気に入ってるのよ~」

先程までの無表情から一変して満面の笑みを浮かべるローサ母。

「あの、電話でお伝えした通り…」

「あ、そうだったわね~。ごめんなさいね~。今、呼んで来ますね~」

【パタンッ】

N井が話を切り出すと、ローサ母は小走りで応接間から出て行った。

今日は家族全員を対象とした【栄養ドリンクに関するアンケート】である旨、事前連絡済み。

祖父は寝たきり、祖母は認知症とのことなので、ローサとご両親の三人がターゲットだ。

「ねぇ、私は話さない方が良さそうな感じだよね?」

「だねぇ…あからさまに嫌われてるね」

N井はローテーブルの上にワンセットだけ置かれた飲み物と茶菓子を見ながら言った。

S美はN井の前に置かれた飲み物を一気に飲み干し、無邪気に微笑んだ。

「はい。ご馳走様。おいしゅうございました」

その光景を見たN井も釣られて微笑み、緊張が和らいだ気がした。

「ありがとね」

「ここからが本番だよ」

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【カチャ】

ローサ母がローサとローサ父を連れて戻ってきた。

N井とS美はソファから立ち上がり、深くお辞儀した。

「本日はお休みのところアンケートへのご協力ありがとうございます」

向かいのソファ左側にローサ父、真ん中にローサ、右側にローサ母が座った。

「いえいえ、栄養ドリンク飲み放題と聞いて、楽しみにしてたんだよ」

医者と聞いていた為、もっと堅物な父親をイメージしていたが、思いのほかフランクだった。

真ん中に座るローサは微笑みながらN井の顔をじっと無言で見つめ続ける。

N井はローサ父と視線を合わせながら話を切り出した。

「早速ですが本日ご協力いただく【栄養ドリンクに関するアンケート】についてご説明させていただきます。最初に血圧測定をお願いいたします」

N井の隣でS美がスーツケースを開け、上腕式血圧計を取り出り、ローテーブルの上に置いた。

「なんで血圧?」

「従来、栄養ドリンクは血圧及び心拍上昇させることが健常者を対象とした治験で確認されております。

 本日、試飲いただく○○製薬の栄養ドリンクは【リラックス効果+血圧を下げる効果】がございます。

 試飲前と試飲一時間後に血圧測定を行い、栄養ドリンクの効果を確認するのが目的となります」

「なるほどね~」

「では早速、ご主人から測らせていただきます」

N井はソファから立ち上がると、ローサ父、ローサ母、ローサの順に上腕式血圧計で血圧を測った。

測定結果を口頭でN井が伝え、S美が手元の用紙に記入した。

「血圧測定のご協力ありがとうございました」

S美が再びスーツケースを開け、保冷バッグを取り出した。

保冷バッグの中からから栄養ドリンクを取り出し、一本一本丁寧にハンカチで表面の水滴を拭き取り、ローテーブルの上に置いた。

「こちらが○○製薬より来年発売予定の栄養ドリンクとなります。

 飲み終わりましたら、アンケート冊子へのご記入をお願いいたします。

 容器のデザイン、栄養ドリンクの匂い、味、飲みやすさ等を5段階評価でご記入お願いいたします。

 ページをめくりますと、他社製品を含めた栄養ドリンクが写真付きで記載されておりますので、

 飲んだことのある栄養ドリンクにつきましては右隣の空欄にチェックいただき、同様に5段階評価をお願いいたします」

Y木家の三人はほとんど同時に栄養ドリンクに手を伸ばし、蓋を開けると一気に飲み干した。

S美は腕時計を確認し、手元の用紙に試飲時刻を記入した。

「こりゃあ、飲みやすくて美味しいな!」

「そう?普通の栄養ドリンクじゃない?」

「確かに美味しいけど、違いまでは判らないわねぇ」

各々、ボールペンを手にすると、アンケート冊子への記入を始めた。

「それでは、一時間後に再度血圧測定を行いますので、アンケートのご記入よろしくお願いいたします。

 頁数が非常に多く、大変お手数をお掛けしますが、不明な点がございましたら随時ご質問ください。

 なお、謝礼につきましては事前にお電話でお伝えした通り、一家族で一万円分の商品券となります」

N井はバッグから白い封筒を取り出すと、ローサ父に手渡した。

封筒を受け取り、中身を確認したローサ父は微笑んだ。

「なんだか悪いねぇ、これ飲んだだけなのに」

「いえいえ、貴重な休日のお時間を一時間もいただいておりますので…」

「それもそうだな!もっと沢山くれても良いんだよ?」

「ねぇ、ちょっと恥ずかしいからやめて…」

N井の愛想笑いに気が付いたのか、ローサがローサ父の太ももを平手で叩いた。

「後程、一週間分の栄養ドリンクを配送いたしますので、そちらでご容赦ください。

 あ、S美さん、おじい様とおばあ様もアンケートにご協力いただいたことにして、ご家族全員分で手配お願いできますか?」

「はい。大丈夫です。朝晩二本、一週間分をご家族五名様、七十本で手配いたします」

「え?そんなに貰えるのか?」

「はい。後日、空き瓶は回収に伺いますので決して資源ゴミとして捨てないようお願いいたします」

「了解。それじゃあ、はりきってこのアンケートも終わらせなきゃな!」

「よろしくお願いいたします」

N井は腕時計をちらりと見たが、まだ五分しか経っていない。

目の前にはアンケートに集中し始めたY木家の三人。

聞こえてくるのはボールペーンの音だけ。

しばらくすると、応接間は静寂に包まれた。

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N井は立ち上がると応接間のカーテンを閉めた。

S美はソファに眠るY木夫婦の両手両足をロープで縛り上げ、口をガムテープで塞ぎ、応接間入口を横目で見た。

「ねぇ、床に転がってる女はどうする?」

「とりあえず、同じように縛っておいて」

「は~い」

Y木夫妻がほぼ同時に眠りにつき、不審に思ったローサは逃げ出そうとしたが、S美がスーツケースに忍ばせていたモンキーレンチで背後から殴打した。

現時点で、頭を殴打されたことにより気絶しているのか、睡眠薬が効いて眠っているのかは判断できないが、どちらでも問題はなかった。

S美はローサを仰向けにすると、両手両足をロープで縛り上げ、口をガムテープで塞いだ。

「ほんと、手間かけさせんなって感じ。お高くとまりやがって、ほんとうざいんですけどっ!」

眉間に皺を寄せたS美はローサの脇腹に蹴りを入れた。

「程々にね。目的はお金なんだからさ」

「は~い。次はどうする?」

「Y木家のお宅散策だよ。

 他にも携帯とタブレット、ノートパソコンなんかもあったら回収お願い」

N井は眠っている三人の衣服から回収した携帯電話をバッグに入れながら言った。

「よし、それじゃ、始めますか。

 金になりそうなものも回収して構わないけど、全部は取らないこと。

 半分は残す感覚でお願い」

「どうして?」

「後始末の後に強盗を疑われたくないからね。

 ここからの持ち出しは後日、知人の廃品回収業者に頼むから、向かいにあるリビングにまとめとこう」

「その業者は信頼できるの?」

S美が不安げな表示で問いかけた。

「大丈夫だよ。少し高くつくけど、金さえ払えば何でも運ぶし、何でも処分してくれるよ」

「なら良いんだけど…」

「あと、俺は木製の引き出しも探さなきゃだ。

 前回来た時、そん中に通帳やらカードがまとめて入ってたから。

 ご親切にパスワードびっしりのメモ帳までね」

「一人で持ち逃げしないでよね~」

N井とS美は笑いながら応接間を後にした。

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数時間後。

ダイニングテーブルの上には冷蔵庫から勝手に取り出した食材。

現金に貴金属類、数々の戦利品に囲まれながらN井とS美はリビングで祝杯を上げていた。

「じゃあ、そろそろ始めますか?」

「いぇ~い!」

N井は回収したノートパソコンを開いた。

向かいに座っていたほろ酔いのS美はN井の隣の席に移動した。

「あ、スクリーンロックかかってるじゃん…」

S美は残念そうな顔をしながらN井の肩を人差し指でツンツンした。

「大丈夫」

N井は回収したメモ帳をパラパラとめくった。

8桁の数字を入力すると、呆気なくスクリーンロックは解除された。

「何の日付か分からないけど、ほとんどこのパスワードだね。

 英数字の入力が必要な時は頭にY付けるだけ」

N井はショッピングサイトを開いた。

ログイン状態であった為、画面にはローサ父の本名が表示されている。

続いて、マイページから登録情報を確認し、ダイニングテーブルの上に並べられたクレジットカードの番号と見比べた。

「あ、これだね」

金持ちなら限度額無制限のクレジットカードも持っているのではと期待していたが、期待する程のものでも無かった。

調べてみると、ローサ父名義のクレジットカード一枚だけが限度額1000万。

ローサとローサ母の名義はそれぞれ限度額50万~100万程度。

「とりあえず、このアカウントで月1000万まで買い放題だよ」

N井は隣に座るS美の目の前にノートパソコンをスライドした。

「う~ん。そう言われると何に使うか悩むね…」

そう言いながらもS美はその日のうちに限度額の半分近くを注文した。

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当初、インターネットバンキングで別口座への送金も考えたが、自分の口座に送金するような真似は出来ない。

かと言って、口座売買サイトで入手した口座への送金も口座凍結のリスクがあり、選択肢から除外。

結果、辿り着いたのがY木家の住人にしばらく成り済ますことだった。

N井もS美も勤めていた会社は事前に退職し、この日に備えた。

「ねぇ、さっきから物音しない?」

「ん?」

耳を澄ますと何かを叩くような音が聞こえる。

「起きたかな?」

N井はリビングを出ると応接間に向かった。

ドアを開けると芋虫のように床でもぞもぞと動くローサがいた。

Y木夫妻はまだソファで眠っていた。

「んっ!んっ!んっ!」

ガムテープで口を塞いでいる為、何を言っているのか全く分からない。

「面倒だから大声だけは出すなよ?」

N井はローサの口元のガムテープをゆっくりと剥がした。

「お願いします!殺さないでください!」

「…」

無反応のN井を見たローサは鼻水を垂らしながら号泣し、別の事を口にした。。

「あと、お手洗い…」

「あ…」

危うく応接間が糞尿まみれの地獄絵図になるところだった。

国内外問わず、監禁被害者はまともにトイレを使わせてもらえず、発見時には糞尿まみれということはざらだ。

N井のいる右側の豪邸は三階建てで各階に一つずつトイレがあった。

おそらく、左側の豪邸も同様に各階一つずつあるとすれば、合計6つのトイレがあるはず。

「足りるか…」

N井は小走りでリビングに戻ると、S美に事情を説明し、応接間に連れてきた。

「うちらは一階のトイレが使えれば良いから、とりあえず二階のトイレに連れていこう」

N井はローサを立ち上がらせ、二階のトイレへと向かった。

S美はスーツケースからロープと工具セットを手に取り、後に続いた。

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二階の広々としたトイレ内。

S美はローサがいつでもトイレを使える状態にし、便座に座らせ、便器と両脚をロープでぐるぐる巻きに固定した。

ウォッシュレット用のリモコンは取り外し可能であった為、S美はスライドして壁から取り外すと廊下にいるN井へ手渡した。

「定期的にドアをノックするから、そのタイミングで外からトイレを流して、ウォッシュレットも作動させるよ。分かったら頷いて」

S美がそう伝えるとローサは首を縦に振った。

「うちらがこの家にいる間はこのトイレから出ることはないと思ってね」

ローサは首を縦に振った。

「ドラマの見過ぎだったかな?こういう状況だと暴れたり騒がれたりすると思ってたのに、従順過ぎて拍子抜け」

【バタンッ】

S美がドアを閉めると、N井がトイレの外側から電動ドライバーで補助錠を取り付けた。

「他のトイレにも付けておくから、応接間の様子見てきて」

「おっけー。晩酌の準備もしとくねー」

しばらくして、目を覚ましたローサ父を三階のトイレ、ローサ母を左側の豪邸の三階のトイレへ連れていき、ローサと同様に監禁した。

左側の豪邸、玄関は別々だが、右側の豪邸と通路で繋がっており、外に出ることなく移動することが出来たのは幸いだった。

残るは二人。

ローサ祖父は寝たきりであった為、そのまま放置。

問題は認知症のローサ祖母だったが、N井がトイレと同様に外から補助錠を取り付けて解決した。

N井がリビングに戻るとS美がダイニングテーブルの上に追加の食材を並べていた。

「あ、おかえりー」

「ただいまー。とりあえず今日やれることはやりきったかな」

「ではでは」

S美がN井の前の前に置かれたシャンパングラスにスパークリングワインを並々と注いだ。

「ではでは」

S美は先に開けて飲んでいた缶ビールの中身をシャンパングラスに注いだ。

『カンパーイ!』

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「明日以降は?」

N井のシャンパングラスに四杯目のスパークリングワインを注ぎながら、頬を赤らめたS美が問いかけた。

「ローサ父とローサが同じ病院勤務だから、とりあえず、ローサ父が倒れたことにして、しばらく自宅療養する、とでも伝えるかな」

「なるほどね。じゃあ、ローサは?」

「ローサは、家族看護で、しばらく休暇かな。そもそも、父親の病院だし、誰も文句言わない、でしょ」

「それもそうだね。ローサ母は?」

「専業主婦、みたいだし、気にしなくて、良いかな。後で病院に、連絡する時に、手伝ってもらうくらいだね。

 電話を直接、掛けさせる訳には、いかないから、後で台詞を、読ませたのを録音して、それを電話越しに、再生するつもり」

「さっすがー。他に気にしておくことはある?」

「とりあえ、ず、しばらくの間は、配達員くらいしか、会う人いないだろう、から、その時はマスク、必須で。

 一応、カツラと伊達メガネも、用意してあるけど。あ、サングラスは、NGね。自宅でサングラスとか、不自然だか、ら」

「りょーかーい」

「まぁ、堂々と、してれば、大丈夫だよ。

 荷物、受け、取って、配達員が、玄、関ドアを、閉め、る、直前、に、大、声で【お母、さ~ん!荷、物届い、たよ~!】とか、言って、みたりね」

「なるほどねー。随分と慣れてるみたいだけど、過去にも成り済ましの経験あったり?」

「え?まぁ…」

「根っからの犯罪者じゃん!」

「いや、い、や、友、達の、ア、リバ、イ作…、で、友、達、の、振…、し、て友、達の、家に、何日、…、住ん、で、た…、だ、よ」

「へぇ~友達なんかヤバいことしてたの?」

「…」

「もしも~し。聞こえてますか~?」

「…」

「…」

「…」

「あ、もしもし。うん…」

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N井は口を大きく開けてあくびした。

いつのまにか寝てしまったようで、お酒が回っているのか身体がポカポカとする。

「ん?」

目の前にS美の姿は無く、ポカポカする原因がお酒ではないことに気が付いたN井。

「ん!ん!」

口はガムテープで塞がれ、声を出せない。

お風呂場の浴槽内、全裸で後ろ手にロープで縛られ、両脚もピンと伸ばした状態で膝のあたりをロープでぐるぐる巻きに縛られていた。

八分目まで湯が張られ、胸から上と、両足の指先が湯舟から出ている状態。

N井は置かれている状況を把握するのにしばらく時間が掛かった。

夢であることを願ったが、Y木家の人々と同様に監禁されていることは明らかだった。

(S美は大丈夫だろうか。それともS美の仕業?もしくは…)

思考を巡らせていると、以前ローサに見せてもらった家族写真を思い出した。

(そういえば、ローサには姉がいたな…)

その後もひたすらN井は考え、身体も捻らせてみたが、脱出の糸口は見つからなかった。

幸いにも浴槽は保温状態であった為、良い気持ちとなったN井は目を瞑り、再び浴槽内で眠りについた。

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「んっ!」

冷たい水が頭頂部から流れ、N井の身体を一気に冷やした。

「おい!起きろ!」

シャワーノズルを手にした男は水を止めるとN井の口元のガムテープを一気に剥がした。

「痛っ!ちょっと!誰なんですか?!早く解いてください!」

「待ちや。落着き。ほら、まずは腹ごしらえや」

そう言うと男はドリンクゼリーの口栓を外し、飲み口をN井の口元に近づけた。

「一気に飲みや」

N井は逆らってもどうにもならないと判断し、ドリンクゼリーを一気に飲み干した。

「おりこうさん。ここからが本題や。S美~」

「は~い」

浴室ドアが開き、入ってきたS美が男に抱き着いた。

「私たちの諭吉様なんだから、そんなにイジメないでよね~」

「ほら、そんなん後や。持ってきたか?」

S美は浴室ドアを再度開けると、足元に置かれていたものを手に取った。

N井のタブレット端末だ。

「N井はん。暗証番号は?」

「お願いだからさっさと教えてね。この人、ちょっと短気だから…ね」

「暗証番号は…」

N井が暗証番号を伝え、ロックが解除されたのを確認すると、男はN井の口元を再びガムテープで塞いだ。

「ありがとさん。ほな、ゆ~~~っくり、くつろいでや」

S美と男は笑いながらお風呂場を後にした。

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熟成した赤ワイン色に染まった浴槽内。

糞尿にまみれた湯船に浸かり続けるN井。

最初のうちは酷い悪臭で鼻が曲がりそうだったが、今や何も感じず無臭に近い。

ご親切に保温が切られることはなく、相変わらずお湯は暖かい。

最後にS美を見たのはいつだったかも思い出せない。

数日前、浴槽と接しているお尻の辺りに激痛が走ったが、今は何も感じない。

視線の先、湯船から出ている両足の指先が見えるが、動かそうとしても動かない。

(そりゃ、そうだよな…)

よくよく見ると、両足の指先の肉片が浴槽の内側に張り付いているだけだった。

(はぁ…)

視線を脇に移すと、擦れたのが原因か、脇肉が剥がれ落ち、赤黒い肉が見え隠れしていた。

(もしかしたら今なら…)

N井は両手を動かそうとしたが全く動かせない。

両肩は動かせた為、力いっぱい前後させてみた。

(やっぱり…)

手首から指先にかけて、ほとんどの皮膚が剥がれ落ち、まるで理科室の骨格標本の手のように骨が露出している。

後ろ手に縛られていたはずの両手は細くなったおかげでロープの束縛から解放された。

二の腕の途中から手首にかけ、ブヨブヨの皮膚が垂れ下がり、壊死しているのか、全く感覚が無い。

N井は身体を捻り、浴槽の縁に二の腕を引っかけ、湯船から出ようと力を入れた。

【ドサッ】

何とか湯船から出ることは出来たが、起き上がれない。

浴室の床に落ちたN井は身体を再確認した。

(無いし…)

湯船から出れたのは上半身だけ。

壊死した下半身は全て湯船に置いてきた。

(ちくしょう…)

必死に匍匐前進するN井。

二の腕から先が在らぬ方向に折れ曲がりつつも、何とか浴室ドアの目の前まで移動できた。

(もう少しなのに…)

見上げた先には浴室ドアの取っ手。

N井は両肩を上げたが、だらりと折れ曲がった両腕が目の前で交差するだけ。

どう足掻いても届く高さではなかった。

(何処で間違ったのかなぁ…)

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【ドサッ】

上半身から流れ出た臓物、体液、ブヨブヨの皮膚片で詰まりつつある排水溝。

N井の意識も渦巻きながら一緒に流された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    終

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琥珀色の液体が広がり、小さな湖面を作りあげた。

とめどなく溢れ出る琥珀色の液体。

湖面はさらに広がり、一方は滝のように流れ落ちた。

もう一方が行き止まりまで到達すると壁かと思われたものが動き始めた。

「冷たっ!」

N井はテーブルの上で倒れた缶ビールを立てると、椅子の背もたれにかけてあったバスタオルで自身の顔を拭き、零れたビールの上にバスタオルを被せた。

時計を見ると深夜一時。

(悪夢だったな…)

初めは明晰夢で思い通りの展開になったが、途中からは制御不能だった。

N井は両手をグーパー運動させると、安堵からため息をついた。

(やっぱり、協力者は信用ならないな。裏切られる可能性もあるし、協力者が犯したミスを柔軟にカバーするのも難しい。それにしてもS美め…)

○○製薬のS美に対し、一瞬だけ殺意を抱いたN井であったが、それもすぐに消えた。

そもそも、N井の知り合いにS美という女性は存在しない。

夢の中のS美は顔も名前もテレビでよく見る女優のS美そのものだった。

(とにかく、Y木家に成り済ましは無しだな。臨機応変に対応できる自信がない。それなら…)

N井は名刺入れから一枚の名刺を取り出し、テーブルの上に置いた。

名刺の右下には可愛らしい看護師のイラスト。

SMS画面を開き、名刺に書かれた電話番号を宛先指定し、続けて本文を入力する。

『こんばんは。本日はアンケートのご協力ありがとうございました。もしよろしければ、ご都合の良い時にお食事でも』

(明らかに好意がありそうだったし、これくらいの内容で十分だろう)

N井はSMSを送信すると、冷蔵庫に缶ビールを取りに行った。

キンキンに冷えた缶ビールを手に、戻ってくると、携帯にSMSの返信が届いていた。

(随分、返信が早いな…)

『こんばんは!本当ですか?!嬉しいです!N井さんのご都合良い日ならいつでも大丈夫です!』

『了解です。何か食べれないものとかありますか?』

『海老アレルギーなんです…。他は何でも大丈夫です!』

『了解です。お店探しておきますね。日程はまた後日相談させてください。では、おやすみなさい』

『楽しみにしてます!おやすみなさい』

思い立って僅か五分。

ここまで進展するとは思いもしなかったN井は満面の笑みを浮かべ、眠りについた。

(Y木家に成り済ますんじゃなくて、俺自身が本当にY木家の一員になれば良いだけ…)

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カーテンの隙間から漏れる朝日。

セットした目覚まし時計が鳴る五分前に目覚めたN井。

そのままアラームをオフにし、ベッドから起きあがり、振り返った。

ベッドの上には横たわる女性の後ろ姿。

「ん…」

寝返りを打った拍子に目が覚めたのか、寝ぼけ眼でN井を見つめる。

「あ、起こしちゃった?」

「ん~、おはよー」

「おはよー」

あれから数か月後、とんとん拍子でローサとの交際は進んでいた。

『N井さんの骨格が好きです』

『骨格?顔ってこと?』

『あ…そう言いたかったんです』

初デートでそんなやりとりをして、今に至っている。

唯一の失敗は社員寮にローサを連れ込んだのがバレてしまい、退寮したことだろうか。

社員寮から徒歩五分のワンルームマンションに引っ越し、週一回でローサが泊まりに来る生活。

「約束は十二時だよね?」

「そだよー」

「シャワー浴びてくるね」

「はーい」

この日はローサの実家で食事をする約束があり、N井とローサは身支度を終えると、ワンルームマンションを後にした。

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「こんにちは、N井さん。ローサお帰り~」

玄関先でローサ母が満面の笑みで出迎えた。

「ただいま~」

「こんにちは。あ、これ、お口にあうといいのですが」

N井は前日にデパートで用意しておいた菓子折りを紙袋から取り出してローサ母に手渡した。

「あら、これお父さんも好きなのよ。ありがとね。どうぞあがって」

事前にローサから両親の好みを聞いておいて正解だったとN井は胸を撫で下ろした。

そして、そのままリビングへと通された。

「広いですね」

応接間にしか入ったことのなかったN井はリビングの広さに驚きつつ、周囲を見渡した。

「いえいえ、そんなたいしたことありませんよ。どうぞこちらにお掛けください」

六人掛けダイニングテーブルの上には大きな寿司桶が二つ、様々な種類の寿司がそれぞれ60~70貫、綺麗に敷き詰められており、傍らには日本酒の大瓶が数本並んでいた。

「乾杯の一杯だけで大丈夫だよ。お母さんがビールも冷やしておいてくれてるってさ」

日本酒はあまり飲めないN井が表情を曇らせていると、耳元でローサが囁いた。

N井が微笑んだのも束の間、リビングのドアが開き、ローサ父が視界に入るとN井の表情は引き締まった。

「はじめまして。ローサさんとお付き合いさせていただいております、N井と申します」

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数時間後。

すっかり出来上がったN井とローサ父が肩を並べ、互いのぐい呑みに日本酒を注ぎ合う。

「ローサ、本当に良い男を見つけたな」

N井の肩を叩きながら上機嫌のローサ父。

「そうだ、頼んでおいたアレは持ってきたか?」

「頼んでおいた…?あっ…」

N井は足元のバッグからA4サイズの封筒を取り出し、ローサ父に手渡した。

ローサ父は封筒を受け取ると、中から二つ折りの紙を取り出し、真剣な眼差しで見つめた。

「異常なし…異常なし…異常なし…うんうん。全部A、問題ないな!」

ローサ父は微笑みながらN井の肩を再度叩いた。

「あ、ありがとうございます」

ローサから健康診断の結果を持ってくるよう頼まれていたN井は安堵の表情を浮かべた。

「Y木家の一員になるなら健康第一!ローサにも健康な子供を産んでもらわなきゃだからな!」

「ちょっと!お父さんやめてよ!セクハラだからね!」

親子の微笑ましい光景を目の当たりにし、N井は本来の目的を忘れ、素直にこの家族の一員になりたいと思い始めた。

「今日は泊まっていくんだろ?」

日が暮れ始めた窓の外を見ながらローサ父がN井に問いかけた。

「え?あ、ご迷惑でなければ…。あ…でも着替えが…」

泊まりは想定外であった為、N井は何も用意していなかった。

「ヘルパーの着替え残ってるよな?」

「あ、はい。ありますよ。クリーニングして離れにそのまましまってあります」

「後で用意してあげなさい。さすがにローサと同じ部屋に泊める訳には行かないから、ヘルパーが使ってた部屋に泊まってもらおう」

「じゃあ、掃除してきますね~」

ローサ母は立ち上がるとリビングを後にした。

今いるリビングのある建物、右側の豪邸(三階建て)が母屋、左側の豪邸(二階建て)を離れと呼ぶそうだ。

玄関はそれぞれ分かれているが、一階は通路で繋がっており、玄関を出入りせずとも行き来できるようになっている。

まだN井が写真でしか見たことのないローサの祖父母が離れの一階で別々の部屋に住んでおり、二階はホームヘルパーが寝泊りする為の部屋がいくつかあるそうだ。

今はローサ母が一人でお世話をしている為、ヘルパーは雇っていないとのことだった。

「N井君、少し早いけどお風呂に入ってきなさい。まだまだ飲み足りないから、晩酌にも付き合ってもらうよ。色々聞きたいこともあるしな!」

「あ、はい…」

「ローサ、N井君をお風呂まで案内してあげなさい」

「は~い」

ローサに先導され、N井は浴室の入り口まで案内された。

「お父さん、面倒くさくてごめんね。着替えはお風呂出るまでに用意しとくから」

「ありがとう」

「ビールとおつまみ持って夜中に部屋まで行くから、もう少しだけお父さんの相手よろしくね」

その後、N井がシャワーを浴びていると、突然ローサ父が入ってきて、背中を流すことになり、

晩酌では何を聞かれるのかと構えていたが、娘であるローサの自慢話を延々と垂れ流されるだけで、N井への質問は特に無かった。

(健康第一とか言っておきながら、こんなに飲まされたら不健康まっしぐらだぞ…)

結局、ローサ父が酔い潰れたところで二人きりの晩酌はお開きとなった。

N井はローサ母に先導され、離れの二階にあるヘルパーの部屋に向かった。

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「狭くてごめんなさいね」

「いえいえ、私が住んでる部屋より広いですよ」

案内された部屋は十畳以上はあるであろう洋室。

入口から見て左手前にクローゼット、左奥にシングルサイズのベッド。

右奥にパソコンデスク、その手前、ロータイプのテレビボードの上には液晶テレビが設置されていた。

綺麗に片付けられており、窓際に置かれた柑橘系の芳香剤の良い香りが漂う。

「部屋の中のものは自由に使ってもらって構いませんからね。それじゃ、おやすみなさい」

「今日はありがとうございました。おやすみなさい」

N井は部屋の電気を消し、飲みすぎで重い頭と体をベッドに沈めると、すぐに眠りについた。

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「んっ…」

真夜中。

寝苦しさから目を覚ましたN井。

飲みすぎでまだ頭が朦朧としている。

「あんた、起きたかい?」

「あ、ごめん。寝ちゃってた」

「いいんだよ」

ローサとの部屋飲みをすっかり忘れて寝てしまったN井。

真っ暗な部屋の中、N井に抱きつき、唇が重なる。

N井も小さな身体を抱き寄せる。

(今日は随分、積極的だな)

「あんた、好きだよ」

そう聞こえたかと思うと、重なっていた唇が離れ、N井の顔中を舐め回した。

「ちょっと、やめてって」

N井はそう言いながらも更に強く身体を抱きしめた。

「あんた、また元気になったんだねぇ」

N井は着ていたパジャマを脱がされると、今度は上半身を舐め回された。

「ちょっと、くすぐったいって」

その後、再び重なり合う唇。

「ん?」

N井が頭を撫でた時、違和感を感じた。

ローサはサラサラのストレートヘアだが、今撫でている髪の毛はごわごわの癖っ毛。

N井は舐められて唾液だらけの顔中を手で拭き、においを嗅ぐと、アンモニア臭と便臭と加齢臭が混ざり合った悪臭が鼻をついた。

「ローサ?」

N井は目の前の女性を突き放し、ベッドから起き上がり、部屋の照明を付けた。

「え?!ちょっと!」

ベッドの上にはパジャマ姿の老婆。

見覚えのある顔。

ローサ祖母だ。

「あんた誰だい!助けて!助けて!知らない男がいるよ!!」

老婆が叫ぶと階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。

「どうしたの?!」

部屋のドアが開き、ローサ母が驚いた表情を浮かべている。

「知らない男が!知らない男がいるんだよぉぉ!」

「お義母さん、この人はローサの彼氏、N井さんですよ!」

「ローサって誰だい!いいから早く助けて!警察!警察呼んで!」

「N井さん、お風呂場は分かるわね?シャワー浴びて来なさい」

状況を把握したローサ母に促されるまま、N井はヘルパーの部屋を後にした。

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シャワーから戻るとベッドのシーツを交換し終えたローサ母がヘルパーの部屋から丁度出てくるところだった。

「本当にごめんなさいね。ローサから聞いてると思うけど、ここ最近、認知症が酷くてね。悪気は無いから許してあげてね」

「はい…」

「この部屋、内側から鍵掛けれるから、ちゃんと鍵掛けて安心して寝てくださいね」

「はい…。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

N井は部屋に鍵を掛けると、口に手を当てて大きな欠伸をした。

「あ…」

手の平いっぱいに広がるアンモニア臭と便臭と加齢臭の混ざり合った悪臭。

「歯磨き忘れてた…」

翌日、ローサ祖母との熱い夜はローサ母からローサに伝わり、しばらくの間、笑い話のネタにされたN井だった。

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「おじいちゃん。こんばんは~」

数か月後。

N井は借りていたワンルームマンションを解約し、Y木家の離れに引っ越していた。

あの一件以来、ローサ祖母とはなるべく距離を置くようにしており、ローサ祖父のお世話をするのが帰宅後の日課になっていた。

お世話と言うと聞こえが良いが実際は一緒にテレビを見たり、流動食をあげるくらいだ。

下の世話や身体拭きはローサ母が担当している為、N井の負担はほとんど無い。

ローサ母が毎日きちんと身体を拭いているからか、ローサ祖父からは不快な老人臭が全くしない為、一緒にいても苦にならない。

「今、起こしますね~」

N井はベッドに繋がるリモコンを操作し、背もたれと膝の部分を上げ、ローサ祖父がテレビを見やすい体勢にした。

「これで大丈夫ですか?」

N井が問いかけるとローサ祖父はゆっくり一回、瞬きした。

「今日は何を見ますか?」

N井が番組表を一つ一つ選択しながらローサ祖父の目をじっと見つめる。

一回、瞬きしたら【はい】、二回、瞬きしたら【いいえ】

N井とローサ祖父で取り決めた意思疎通。

ローサ祖父は事故の後遺症で全身動かすことが出来ないそうだ。

話すことも出来ず、唯一自由に動かせるのが両目だけだった。

ニュース番組を選択した所で、ローサ祖父は一回、瞬きした。

「ニュース番組好きですね」

ドラマの番宣だろうか、女優のS美がゲストとして出演している。

「ほんと、S美よく出ますよね。おじいちゃんも好きだったりします?」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「え?ほんとですか?」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「案外、若い子好きなんですね」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「ほんとに?適当に答えてません?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「じゃあ、今度S美が出てる映画いくつか借りてきますね」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

N井が微笑むと、気のせいかローサ祖父も微笑んだように見えた。

「あ、ちょっと拭きますね」

N井はローサ祖父の目元から流れる涙をハンカチで拭った。

N井と意思疎通をするようになって以来、ローサ祖父はたまに涙を流す。

嬉し泣きだろうか、N井はローサ祖父の境遇を不憫に思い、貰い泣きすることもしばしば。

この前もN井が借りた感動映画を一緒に見ていたのだが、スタッフロールが流れた直後、隣のローサ祖父を見ると溢れる涙、涙、涙。

嬉しければ泣き、悲しくても泣く、寝たきりでもそういった感情ははっきりしていることをN井は理解していた。

「どうしました?」

しばらくしてN井がふとローサ祖父を見ると、テレビではなくN井の方をじっと見つめていた。

「テレビのチャンネル変えます?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「何処か具合でも悪いですか?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「う~ん…」

N井が考え込んでいると、ローサ母がやってきた。

「お義父さん、そろそろ身体を拭く時間ですよ。N井さん、いつも相手してくれてありがとうね」

ローサ祖父の部屋には赤ちゃん用の見守りカメラが設置されており、母屋にあるローサ母の部屋から24時間監視状態にある。

考え込むN井に助け舟を出す為、いつもより早く身体を拭きに来てくれたようだ。

「それじゃ、おじいちゃん、また明日。おやすみなさい」

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翌日。

母屋からガレージへと続く通路をN井とローサが仲むつまじく歩いている。

「楽しみだね!」

「そうだね。でもあんな高級外車運転するの緊張するなぁ…」

「あれで運転なんてしたらお父さんに殺されるからね。ワゴン車でお願いしま~す」

「ですよねー」

「あ、忘れ物しちゃったから、エンジンかけてナビ設定よろしく!●●ショッピングモールだよ~」

「了解ー」

ローサは母屋へと踵を返した。

ガレージに辿り着いたN井は手前に停まる高級外車二台を横目に、一番奥の黒いワゴン車に乗り込んだ。

高級外車は二台とも後ろ向き駐車されていたが、黒いワゴン車だけ前向き駐車だった。

黒いワゴン車はローサ母が買い物に行く時に乗っているが、必ず、前向きのまま突っ込んで停めている。

以前、後ろ向き駐車しようとしたところ、高級外車にぶつけ、ローサ父の逆鱗に触れて以来、後ろ向き駐車恐怖症になったと笑いながら話していた。

笑い話の最中、隣にいたローサ父は笑顔だったが、目だけ笑っていなかったのを鮮明に覚えている。

「触らぬ神に何とやらだな…」

ワゴン車のエンジンをかけ、ナビ設定を済ませたN井はカーナビでテレビを見ながらローサが戻ってくるのを待った。

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「遅いな」

十五分近く経ってもローサが戻って来ない。

【バタンッ】

痺れを切らしたN井が母屋に向かおうとした時、助手席にローサが乗り込んできた。

「ごめん。ごめん。急にお腹痛くなっちゃって…」

「大丈夫?具合悪い?」

「ううん。大丈夫だよ。はい。これ忘れ物」

ローサから手渡されたのはガレージのドアを開けるリモコンキーだった。

「ありがとう」

N井は背後にあるガレージのドアを開けると、車のギアをリバースに入れた。

「それじゃ、行きますか」

「安全運転でお願いします」

N井はアクセルを踏み込んだ。

「あれ?」

何かに引っかかっているのか、ワゴン車がバックしない。

「あ、昨日お母さんが運転したから、もしかしたら前輪が車止めに乗り上げてるかも」

ローサが助手席のドアを開け、ワゴン車から降りると、その場でしゃがみ込み、再び助手席に戻ってきた。

「やっぱり、前輪が乗り上げてたよ。思いっきりアクセル踏み込んで乗り上げてもらえる?」

「おっけー」

N井が思いっきりアクセルを踏み込むと、後輪が持ち上がり、続けて前輪が持ち上がった。

そのままバックし続けるワゴン車。

「え?ちょっと!なんで…」

ガレージの手前、仰向けに横たわる人がN井の視界に入ってきた。

ブレーキをかけ、呆然とハンドルを握り続けるN井。

「嘘でしょ!どうして!」

ローサが泣き叫びながら助手席を降り、ガレージの手前に駆け寄る。

何故こんな事故が起きたのか、N井には全く理解出来なかった。

タイヤに轢かれ、漢字の凹の字のようにへこんだ腹部。

口から大量に出血し、じっとN井を見つめているのはローサ祖父だった。

我に返ったN井は運転席を降り、ローサ祖父の元に駆け寄る。

「おじいちゃん!おじいちゃん!本当にごめん!すぐに病院連れて行くから!」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「絶対死なないでよ!S美の映画、一緒に見る約束だろ!」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「本当にごめん!俺の不注意のせいで…」

ローサ祖父はゆっくりと二回、瞬きし、そのまま目を開くことはなかった。

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Y木総合病院、待合室。

ローサ祖父が運ばれてかれこれ数時間。

N井の隣には不安げな表情のローサ母。

轢かれたローサ祖父を目の当たりにしてから、N井とは一言も会話せず、目も合わせようとしない。

「はい、これ」

売店から戻ってきたローサがN井とローサ母に缶コーヒーを手渡した。

「ありがとう」

「…」

「…」

「…」

静まり返り、重々しい雰囲気の中、N井は缶コーヒーを一気に飲み干すと、頭を抱えた。

目を閉じるとローサ祖父との思い出が脳裏を過る。

ほんの数か月ではあったが、N井にとっても実りある日々だった。

それはきっとローサ祖父も同じであったに違いない。

(おじいちゃん…)

しばらくしてN井の意識は深い闇の中へと落ちていった。

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Y木総合病院、手術室。

「これで最後」

一番奥にある親知らずを抜歯鉗子で引き抜いた。

ステンレストレー上、所々に肉片の残る大小様々な歯が並べられた。

その数、32本。

隣に立つ医師がバキュームチップで口腔内の血液と唾液を絶え間なく吸い続ける。

少し前までは綺麗に歯が生えそろっていた口腔内も今やボコボコの穴だらけ。

それぞれの穴の中心には赤黒い血が固まりつつある。

「縫合しておしまいだ」

一つ一つの穴を丁寧に真っ黒な糸で縫合していく。

「…」

「…」

「…」

「よし、終わり」

まるで複雑なあやとりのように口腔内は黒い糸だらけ。

「ほら、次行くぞ、ここからが本番だ…」

二人掛かりで患者をストレッチャーに乗せると、別の手術室へと運んだ。

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Y木総合病院、特別病室。

「あ、起きた?」

N井が目を開けるとすぐ近くにローサの顔。

「良かったぁ。どうなることかと思ったよ。N井さん、突然倒れるんだもの。過労だってさ。しばらくお父さんの病人で入院だってさ」

ローサは目にうっすらと涙を浮かべている。

「そうそう、おじいちゃんも無事、元気になったよ!まだまだ長生きしてもらわなきゃだしね!何もかもN井さんのおかげ!本当にありがとう!」

ローサ祖父が助かったことを知り、N井は朦朧とする意識の中、安堵し、再び深い眠りについた。

「おやすみ。N井さん」

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「おじいちゃん、調子どう?今、起こすね~」

ローサはベッドに繋がるリモコンを操作し、背もたれと膝の部分を上げ、ローサ祖父がテレビを見やすい体勢にした。

ひっきりなしに両目をパチパチさせるローサ祖父。

「おじいちゃん?どうしたの?」

両目を見開き、ローサを凝視するローサ祖父。

「あ、ニュース番組で良いよね?おじいちゃん」

ローサはじっとローサ祖父の瞳を見つめる。

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「あれ?ニュース番組好きだったよね?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「え?嫌い?おじいちゃん、どうしたの?具合悪いの?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「酷い事故だったもんね。きっとショックが大きいよね…」

ローサは携帯を取り出すと、一枚の写真を表示させ、ローサ祖父に見せた。

「これ、誰だか分かる?」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

携帯の画面には仲むつまじく寄り添うローサとN井。

「そう。ヘルパーのN井さんだよ。じゃあ、これは?」

ローサは携帯を操作すると、ニュース映像を再生した。

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【洗車中の男性、轢かれて死亡】

〇〇市で会社員のN井××さんが洗車中の車に轢かれる事故がありました。

交際相手が発見した際、N井さんに意識はなく、近くの病院に搬送後、死亡を確認。

警察はエンジンの誤作動が原因であるとみて、捜査しています。

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「N井さん、本当に残念だったね…」

ローサ祖父は両目を見開いた。

「どうしたの?おじいちゃん?ショックだったよね…ごめんね。変なもの見せちゃって」

ローサはうっすらと涙を浮かべている。

「あ、おじいちゃんが考えてること、わかっちゃった!!」

ローサは満面の笑みを浮かべた。

「おじいちゃんは、ローサのおじいちゃんですか?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「あ~そっか、私は養子だから、血の繋がりは無いもんね。なるほど…じゃあ、戸籍上はローサのおじいちゃんですか?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「おかしいなぁ…。あ、もしかして…おじいちゃんはN井さんですか?」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「え?おじいちゃんはN井さんなの?」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「おじいちゃん、頭大丈夫?ボケてきちゃったかな?あ、ちょっと待っててね。おじいちゃん」

ローサは小走りでローサ祖父の部屋を後にした。

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「おじいちゃん。お待たせ~」

ローサが手鏡を持ってローサ祖父の部屋へ戻ってきた。

「これでどうかな?」

ローサは手鏡をローサ祖父の眼前に近づけた。

「ね?おじいちゃんでしょ?」

手鏡にはローサ祖父がはっきりと映っている。

皺だらけの肌、眼瞼下垂で垂れ下がった瞼。

ローサ祖父は鏡に映る自身の顔を確認すると、涙を溢れさせた。

「じゃあ、もう一回だけ聞くね。あなたはローサのおじいちゃんですか?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「は?違うだろ?!ここは一回、瞬きだろーが!くそじじいがよ!」

ローサは強引にローサ祖父の瞼を親指と人差し指で掴むと、ゆっくりと一回閉じた。

「はい。よくできました。お、じ、い、ちゃん♪」

【ピンポーン】

「こんなにタイミングよくピンポンだなんて、笑っちゃうわね。ちょっと待っててね。おじいちゃんに紹介したい人が来たみたい」

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数分後。

ローサ祖父の部屋にローサが男を連れて戻ってきた。

「はじめまして、株式会社●●、人事部のK田と申します」

体育会系の男前が営業スマイルを浮かべている。

「N井さんと同じ会社に勤めてるK田さん。N井さんの私物を取りに来てくれたのよ。N井さん、身寄りがいないらしくてね」

涙を流し続けるローサ祖父にK田が近づいた。

「もしかして、私のこと知ってます?」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「N井から聞いたのかな?」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

「そうなんですか?何処かで会いましたっけ?」

ローサ祖父は一回、瞬きした。

「これでも記憶力は良い方なのですが、全く覚えておりません。申し訳ない」

涙を流し続けるローサ祖父。

「あ、N井の荷物は上かな?」

「はい。全部処分しちゃってください」

「承知しました」

「それじゃ、おじいちゃん、また後でね」

ローサが先に部屋を後にした。

二人きりになったK田がローサ祖父のもとに近づき、耳元で囁いた。

「社員寮のオムハヤシ、相変わらず美味いぞ」

K田はローサ祖父の肩をポンポンと軽く叩き、ローサの後を追った。

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十数年後、敬老の日。

敬老事業の一環として、市役所職員がY木家へ表敬訪問に来ていた。

近年、死亡した家族の年金不正受給が問題視されており、生存確認も兼ねているそうだ。

「ご長寿おめでとうございます。今後もお元気でお過ごしください」

今年で百歳を迎えたローサ祖父が横たわるベッドの上に祝状と記念品が置かれた。

「それでは、記念撮影しますので、よろしければご家族もご一緒にどうぞ」

ローサ祖父を囲むようにY木家の面々が並び、職員と共にカメラへ笑顔を向ける。

「おじいちゃん、ちゃんと目開けてくださいね」

ローサ祖父が目を開けると絶え間なく涙がこぼれ続ける。

「あらあら、お義父さん…。すみません。こんなに祝ってもらうことは初めてで、嬉しいみたいです」

ローサ祖父は二回、瞬きした。

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Y木家豪邸前。

私はフリーランスの記者。

ここ最近、頻発している失踪事件を追っていた所、ここに住む老爺が有力な情報を握っているとタレコミがあった。

何故、百十を越える老爺が?と、初めは眉唾であったが、このY木家、調べれば調べるほど、面白い事実が浮き彫りとなった。

老爺には血縁関係の無い二人の孫娘がいる。

次女ローサと長女Aだ。

この長女A、二十数年前に失踪しており、当時住んでいた住宅街では近隣住民が相次いで失踪し、未だ行方不明。

長女Aの息子も高校卒業後に行方不明となっている。

だが、ここ数年、事件映像に時たま映り込む【ぼくの、おかあさん、どこ?】の文字を見つけて以来、

これは長女Aの息子が残した、母親である長女Aに向けたメッセージではないかと推測していた。

もちろん、根拠があるわけではない、長年の勘ってやつだ。

「どうぞ上がってください~」

気品の良さそうな女性が玄関ドアを開けた。

「本日はお忙しいところ、ありがとうございます」

「いえいえ、記者さんにインタビューしてもらえるなんて、おじいちゃんも嬉しいと思いますよ」

【あなたの街のご長寿さん】というフリーペーパーがあり、是非、その記事にしたいとお願いしたところ、あっさり快諾された。

もちろん、私はそのフリーペーパーとは何の関係も無い。

「おじいちゃん~。インタビューの人来たよ~」

どうやらこのハーフの女性が次女ローサのようだ。

「おじいちゃん、ペースメーカーが入ってるので、念の為、携帯電話は預からせてもらって良いですか?」

「あ、はい」

私は携帯電話の電源を切ると、ローサに手渡した。

「ご協力ありがとうございます。二階におりますので、お帰りの際はお声がけください」

ローサはベッドに繋がるリモコンを操作し、背もたれと膝の部分を上げ、ローサ祖父を起こした。

「それじゃ、おじいちゃん、がんばってね」

ローサは満面の笑みを浮かべ、部屋を後にした。

インタビューは二時間、老爺の体調が優れない場合は即中断の条件が掲示されていた。

(あまり時間はないな)

私は早速、老爺へのインタビューを始めた。

「おじいさま、本日はインタビューにご協力いただきありがとうございます。質問を初めてよろしいでしょうか」

老爺は一回、瞬きした。

一回、瞬きしたら【はい】、二回、瞬きしたら【いいえ】と事前に意思疎通の方法は教わっていた。

「それでは早速、お孫さんのAさんはご存知ですか?」

老爺は二回、瞬きした。

「知らない?」

老爺は一回、瞬きした。

「お孫さんのローサさんはご存じですか?」

老爺は一回、瞬きした。

「う~ん。本当にAさんは知らない?」

老爺は一回、瞬きした。

(おいおい、大丈夫かよ、このじいさん…タレコミはガセだったか?)

私は老爺がボケているのではないかと思い、別の手段で意思疎通を取ることにした。

バッグから一枚の紙を取り出し、老爺に見せた。

あいうえお表と数字が書かれている。

「私が一文字ずつ指さしながら、おじいさまの目を見ます。該当する文字であれば、ゆっくりと一回、瞬きしてください」

老爺は一回、瞬きした。

「該当する文字は私が声に出しますので、もし間違えていたら目を閉じ続けてください」

老爺は一回、瞬きした。

「では、まず初めにあなたのお名前を教えてください」

私は一文字ずつ指差し、老爺の目を見る行動をひたすら繰り返す。

「え?おじいさま、ちょっと待ってください」

想定と違う回答。

やはり老爺はボケているのではないかと私は疑い始めた。

「おじいさまの苗字はY木ですよね?」

老爺は二回、瞬きした。

「え?えっと…N井なんですか?」

老爺は一回、瞬きした。

(訳が分からないぞ、N井って確か十数年にこの家で事故死した…)

「本当にN井さん?」

老爺は一回、瞬きすると、涙を流し始めた。

「ちょっと待ってください、あなたはY木さんじゃないってことですか?」

老爺は一回、瞬きした。

「じゃあ、Y木さんは何処ですか?」

私は一文字ずつ指差し、老爺の目を見る行動をひたすら繰り返し、声に出した。

『死んだ?』

老爺は一回、瞬きした。

「何処でですか?」

私は一文字ずつ指差し、老爺の目を見る行動をひたすら繰り返し、声に出した。

『この家のガレージ前?』

老爺は一回、瞬きした。

「Y木さんが死んで、N井さんがY木さんに成りすましてるってことですか?」

老爺は一回、瞬きした。

「ちょっと待ってください。この部屋、若い頃から最近まで、Y木さんの写真がたくさん飾られてますが、今のあなたと同じ顔ですよ」

老爺はじっと私を見つめた。

「説明してもらえますか?」

老爺は一回、瞬きした。

私は一文字ずつ指差し、老爺の目を見る行動をひたすら繰り返し、声に出した。

『服を脱がせ?』

老爺は一回、瞬きした。

私は老爺が着ている長袖パジャマを上に捲った。

「おいおい…嘘だろ…」

老爺の身体は胸元から上は皺くちゃの皮膚、胸元から下は皴一つ無かった。

まるで、別の身体の皮膚だけを繋ぎ合わせたかのような歪な身体。

同様に腕と脚を捲ると、見えている部分は皺くちゃの皮膚、外から見えない箇所は皴一つ無い。

「ひょっとして…顔はY木さんの顔面を皮膚移植されたとか?」

老爺は大粒の涙を流しながら一回、瞬きした。

(思ってたのと違うが、これはかなりのスクープだぞ!)

「他にも、何か私に伝えたいことはありますか?」

老爺は一回、瞬きした。

私は一文字ずつ指差し、老爺の目を見る行動をひたすら繰り返し、声に出した。

『どうしてここに?』

老爺は一回、瞬きした。

「実はフリーペーパーの取材って言うのは嘘なんですよ。失踪事件を追ってたらタレコミがあって…」

私は一文字ずつ指差し、老爺の目を見る行動をひたすら繰り返し、声に出した。

『誰からのタレコミ?』

老爺は一回、瞬きした。

「まぁ、教えても差し支えないとは思いますが、K田って名乗ってました」

老爺は目を見開いた。

「え?どうしました?もしかしてご存じで?」

老爺は一回、瞬きした。

私は一文字ずつ指差し、老爺の目を見る行動をひたすら繰り返し、声に出した。

『逃げろ?あなたも骨格が似ている?』

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『続いてのニュースです。男性の国内最高齢者、〇〇市のY木××さんが本日、140歳の誕生日を迎えました。ご長寿一家として有名なY木家…』

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