「田中から連絡あった?」
午後一番にやってきた斎藤さんは言った。
「いえ、店長からは何も……」
僕はいつものようにカウンターに座った斎藤さんにホットココアを出す。大晦日だというのに、今日も店はそこそこ混んでいる。
「そういえば高瀬くん、目の調子はどう?」
斎藤さんは、顔は少し怖いが面倒見の良い甘党で、この喫茶ロビンのある雑居ビルの管理もやってる不動産屋の二代目だ。
「お医者さんには飛蚊症って言われたんですけどね」
その瞬間にも、視界の右端には赤い女の形の影がひっそりと佇んでいるように見えた。
大学卒業後、初めての就職先が倒産し、社員寮から追い出されて、途方にくれていた僕がこの町に落ち着いたのは二年前の三月のことだ。失業保険はすぐに出たが、支給終了になるのもその分早い。僕の就職を喜んでくれた田舎の両親には、会社が倒産したことは言えず、頼るわけにもいかなかったが、新卒が入ったばかりの時期で、仕事を探すにはタイミングが悪く、二十社以上からお断り攻撃をくらって、能天気な僕もさすがに参っていた。
とりあえずバイトだけでもと焦っていたころ、近所の雑居ビルの壁に貼ってあるロビンという喫茶店の求人ポスターに気づいた。
偵察を兼ねて店に入ってみると、黒いエプロンの中年男が一人でもたもた接客している。新人アルバイトの人かなと思った。メニューを見ると、飲み物とケーキくらいで食事やランチもなく、バイトとしては楽そうだった。
しばらくして注文を取りに来た男は、小柄で小肥りで無精髭で、エプロンの胸元から垂れ下がる赤いお守り袋が目を引いた。
「ご注文は?」という、せかせかした甲高い声。それが店長の田中さんだった。
大人の間ではダメなやつ呼ばわりされてるけど、子供とはよく遊んでくれる親戚のお兄さんみたいな気安さがあって、初対面なのに不思議と緊張せず、「求人の張り紙見たんですけど」と僕は切り出していた。
実際、田中さんはダメな人だった。年齢は思ったより若くて、三十七歳。いろいろと緩くていい加減で、たまたま宝くじに当たって勢いで始めた喫茶店が、思ったより忙しいのに音をあげての求人募集だった。
学生時代に飲食店でのバイト経験のある僕が一人でも店を切り回せると踏むや否や、店長は店を抜けて近所のパチンコ屋に入り浸るようになった。喫茶店よりパチンコのほうが向いているのか、よく勝っているようで売り上げを持ち出したりすることもなく、たまに福利厚生と称して焼肉を奢ってくれることもあった。その胸元には、彼のラッキーアイテムという、あの赤いお守り袋が下がっていた。
僕はといえば、ケーキ作りにはまり、店長の承認をとって新メニューに加えたりして、バイト生活が充実しすぎて就職先を探す余裕もなく、しばらくはこのままでもいいかな、と気楽に考えるようになっていた。しかし、安定は長く続かなかった。
大晦日の夜、一人で大掃除を終わらせて店を出てきたのを見計らったように僕のところにやってきた店長は、
「高瀬くん、これあげるよ」
とパチンコの景品らしい、お菓子の入った紙袋を押し付けた。
ありがとうございますと受け取った僕を何度も振り返りながら、妙にほっとしたような表情で足早に遠ざかっていく小太りの後ろ姿を、僕は少し痩せたかなと思いつつ見送った。
それっきりだった。店長の田中さんは、新年早々、失踪していたのである。田中さんには身寄りはなく、唯一の友人である斎藤さんが警察に届けても事件性はないと判断され、相手にされなかった。
店が忙しくてあまり気にしていなかったが、考えてみれば失踪前の二、三か月、店長の様子はおかしかった。昼間から酒臭かったり、急にはしゃいだり怒りっぽかったり、いもしない赤い和服の女が見えると言ってみたりして、薄気味悪かった。
その後は常連さんたちの要請もあり、しばらくは店長がいつ帰ってきてもいいように店長代行として店を開けていたが、失踪から半年経っても田中さんからは連絡がなかった。斎藤さんが友人としての好意で、保証人もなく店舗を貸していたということだった。斎藤さんは、その後の法的手続き関係もやってくれ、せっかく店も繁盛しているのだから続けてみてはと言ってくれ、大して資金もいらないまま、僕は居抜きで店と常連客たちを引き継いだのだった。
仕事は順調だった。そういう意味ではラッキーな一年だったのだが、視界の右端、見えるか見えないかの微妙な境界あたりに、黒いもやもやとした影が見えるようになった。眼科では飛蚊症と診断された。
飛蚊症自体は治る病気ではなく、治療法も特にあるわけでもない。問題のないタイプの飛蚊症なので、放置するしかないと医者には言われた。
飛蚊症はその後も治らず、むしろ影はクリアになってきていた。赤い色の着物を着ている女性の後ろ姿のようにさえ見え、その柄がお守り袋の生地に織り込まれた文様と一致している気がして、僕はあのお守り袋を開けてみた。
お守りの形の長方形の厚紙と、古くて目の粗い、木綿のような布切れが入っていた。元は白かったであろう布は半分ほど茶色く染みて、直感的に、血だと思った。なんの血か、それにどういう意味があるのかはわからない。ただ、気持ちが悪かった。
それ以来、店長と再会したときにすぐに渡せるようにいつも持ち歩いていたそのお守り袋は、家に置いてくるようにした。はずなのだが、気が付くとバッグの中やエプロンや服のポケットから発見された。お守りが自分で動くはずはないから、自分が無意識に入れたのだと思いたかった。
田中さんはうっかりあのお守り袋を景品の袋に入れてしまったのではなく、最初からそのつもりで僕に押し付けて、逃げたのではないだろうか。その証拠に、お菓子と一緒に入っていたお守り袋は、新聞か何かのチラシで適当な感じに包まれていた。
田中さんの失踪から一年近くが経ち、冬になると、視界の端の赤い女は徐々に振り向こうとしていた。その姿がいつもちらつく。彼女が完全にこちらを向き目があったとき、何かが起るという確信だけがあった。
根拠のない不安と恐怖だと、理性ではわかっていたけれど、どうしようもないまま一年が終わろうとしていた。
結局、普段通りに仕事をして、去年と同じに大掃除を終え、夜遅くに店の鍵を閉めた。暗く静かで、車もほとんど通らない夜だった。
その暗がりで赤い女が僕と視線を合わせようとしている、僕の顔を覗き込もうとしているという、まがまがしい強迫観念がいよいよ強くなり、意味もなく叫びだしたくなったとき、「高瀬くん」と僕の名を呼ぶ声が聞こえた。久しぶりに聞く、田中さんの声だった。
「あれを……お守りを返してくれないか」
声のほうを伺うと、垢じみた匂いが鼻をつく。ずいぶん細くなったが、見覚えのあるチョコレート色のコートを着た田中さんだった。コートは黒っぽく汚れ、髪も髭も伸び、白髪がまじってやつれて、十歳は老けて見えた。
僕はポケットの中に手を入れた。僕が入れたわけではなかったが、そこにお守り袋があることを、僕は知っていた。
無言で差し出し、地面を見つめると、視界の端の赤い気配が向きを変えたのがわかった。
「……ありがとう」
それが手から離れた感触は、確かに現実だった。だけど、目を上げたときには、誰もいなかった。田中さんも、赤い女の幻も。
あれが僕や田中さんに幸運をもたらしていたのなら、来年が良い年になるかどうかはわからないけれど、年が明けたら久しぶりに実家に帰って母におめでとうを言おうと思った。
もうすぐ除夜の鐘が鳴り始めるだろう。
僕は駅に向かって歩き始めた。
作者黒木露火
自分が飛蚊症になってしまい、こんなの見えたら嫌だなーと思いながら書きました。
こちらでは初投稿になります。
よろしくお願いします。