あまりの騒音に目を覚ませば、そこは雑踏の中だった。
どこからかクリスマスソングが聞こえてくる。
冷たいタイルの上に転がり、眠気と酒が抜けないままぼんやりしていると、いろんな色の靴が目の前を横切っていく。
その向こうに開店準備をはじめた喫茶店が見える。ということは、ここはどこかの繁華街らしい。
また飲み過ぎたのか。何度目だろう。
友だちからは酒乱とかアル中とか言われてるけど、飲み出したら楽しくなって止まらないからしかたない。
女一人で飲んでいれば、声をかけておごってくれる男はいくらでもいるし。
で、思い出した。
パンツはいてんの、私?
コートをかきわけながら尻に手をやると、布越しにさらに布の感触。
よかった。今日のは高かったんだ。
ほっとして目を閉じると、また眠くなってきた。
それにしても、自分で脱いだパンツはちゃんと見つけられるのに、他人に脱がされるとよく無くなるのは何でだろう?
「そりゃあ、置いた場所を自分で把握できないからじゃない?」
「うわ」
上からの声に驚いて飛び起きた。
「やっと起きた?」
歩道脇のガードレールに腰かけた男の子が、私をのぞき込んでいた。
「今の、声に出してた?」
「ううん。テレパシー」
白いジャケットの男の子はにっこりした。
中学生くらいだろうか。砂糖菓子みたいに甘い顔をしている。
でも多分、変なやつだ。
小鳥が枝を渡るようにガードレールから下りると、男の子は断りもなく私の隣に座り込んだ。
やっぱり。
こういうのには下手に反応してはいけない。目を合わせてもいけない。無視が一番。
私はジーンズのポケットから潰れた煙草とライターを取り出し、火をつけた。
「ねえ、おねえさん」
無視。
「まだ気づいてないの?」
無視、無視。
「自分が死んでること」
無視、無……何だって?
指から煙草が落ちた。
隣でにんまり笑った気配がする。
いかんいかん。平常心平常心。
聞こえなかった顔で、新しい一本をくわえる。
逃げ出すのは逆効果だ。犬と一緒で、喜んで追っかけてくるだけ。
だけど、これを吸い終わったら移動しよう。
「こんなとこで目が覚めるなんて、いくらなんでもおかしいと思わなかった?」
それはちょっと思った。
飲んで目が覚めると、ホテル、だれかの部屋、どこかの店、警察、病院。そんなところで、さすがに路上は初めてのはず。
「死んでるから誰にも見えないんだよ、おねえさんは」
ふうん。死んでても煙草吸えるもんかね。
「人間っておかしなもので、死んだ後も生きてた頃の習慣に縛られるんだ」
また。
ほんとに心が読めんの?
「うん。僕、天使だから」
ちらりと隣を見た。確かに邪気はなさそうな顔はしてるけど。
「僕はね、おねえさんを天国に連れていくために来たんだ」
天国? 私が?
煙を吐き続ける私の前を、たくさんの人が通りすぎていく。けど、誰とも目は合わない。
「ほとんどの人間は死んだら天国に行けるんだ。おねえさんだってそう」
男の子が立ち上がった。
「だけどその行き方を知らなくて、彷徨っている魂は多いんだ。ほら」
自称天使が指をさす先には、何か薄黒いものがたたずんでいる。
目を凝らすと、色と表情が抜け落ちた女の姿になった。流行遅れの半袖のワンピースを着ている。冬なのに。
「死んでから時間が経ち過ぎた人だよ。ああなるともう手遅れ。天国へは連れていけない」
それは本当に悲しそうな声だった。
私はちびた煙草を落として、踵で踏みつけた。
「お願いだから……僕についてきて」
いつだったか、そんなことを言われたような気がする。
そんな悲しそうな声で。
お願いだから、と。
もう顔も思い出せない誰かと目の前の声が重なる。
差し出された手をとって、私は立ち上がった。
******
ひとけのないビルの非常階段を、私は天使に導かれて登っていく。
これがいわゆる、天国への階段ってやつ?
「そう。ここのてっぺんから飛んでいけるんだ」
いいことなんかしてないのに、むしろ人に迷惑ばっかりかけてるのに、私なんかが天国行っていいのかな?
「人は誰でも行けるんだよ、天国に」
錆びついたドアを開けて、屋上に出た。
あたたかな光に満ちたその場所には、無粋な金網もなく、縁が四十センチばかり盛り上がっているだけだった。
その上に立つと、青空が目の前いっぱいに広がる。
「さあ、行こう」
天使が隣で微笑む。
私は目を閉じて、思い切り飛んだ。
後ろへと。
******
くわえ煙草でビルの外に出ると、路上に血まみれの天使が倒れていた。
「おねえさん、何でわかったの?」
黙って通り過ぎようとしたとき、声をかけられた。
「私には影があったから。あんたにはなかったけどね」
残念そうなため息が、後ろから聞こえてきた。
「あーあ。失敗しちゃったな、今回は」
何が天使だ。死んでるのは自分だろ。
ちくしょう。
天国に行きそこねた記念だ。
今夜も飲んでやる。
〈了〉
作者黒木露火